我が子
独り言
長文の『140字もどき』のようなエントリー^^;
我が子はほんのちょっと変わっている。
出産してすぐ、ひと言で『どんな人になってほしいか』とひとり言葉に表してみようと考えた。
優しい人?
明るい人?
強い人?
自分なりの価値観を持てる人。
『みんなが』とか『一般的に』とかではなく、自分がいいと思うことで判断できる人。
人と違うことを恐れない人。
そんな言葉が浮かんだ。
お母さんは、あなたの価値観を尊重して応援するよ。
人と違うことは悪いことじゃないって褒めてあげる。
わたしとしてはなかなかステキな指針だと生まれたばかりの我が子を抱きながらちょっといい気分になっていた。
しかし、そんなステキな指針を掲げたわたしを試すような我が子だった。
よちよち歩きをはじめて公園などに出かけていくと『?』と感じることに気づく。
なんていうのかな、自分のしたいことをするの。
小さな子供なんだからしたいことをするのは当たり前なんだけど、そのしたいことというのが一般的ではないのだ。
噴水の水の流れをただただじーっと眺める。
ベビーカーをひっくり返して車輪をくるくる回す、うれしそうに延々と。
砂場でミニカーをゆっくり走らせ顔をくっつけんばかりにかがみ込みタイヤの回転をうっとりするように見つめる。
そばで他の子たちが楽しそうに駆け回っても、人形でバトルをはじめても見向きもしない。
ただただ指をちゅっちゅと吸い自分の世界に浸っているのだ。
障害をお持ちだったり病気と戦っているようなお子さんからしたら贅沢な話だと承知しているけど、それでもちょっと『変わっている』のは親としては複雑な思いにもなる。
子供って普通他の子と一緒にきゃーきゃー遊ぶものなんじゃない!?
ステキな指針を掲げたはずなのに、そうやってちょっとでも普通じゃないことに不安になりそうになる。
『みんなと一緒に遊びな』と喉元まで競り上がる。
『みんなと一緒』そういうことも教育かもしれない。
でも、我慢した。
まだやっと歩き始めたばかりのうちからそのセリフを聞かせてしまったら、この先ずっと『みんなと一緒』が判断基準になってしまいそうで、わたしは言いたくなかった。
実際我が子は車輪を回すのも水の流れを眺めることも実に満足げにやっているし、他の子が気づいて一緒にやりはじめたら、多少横取りされようが楽しそうに一緒にやっている。
人に迷惑をかけない限り好きなことを存分やらせてあげようと、もしかしたちょっと変わってる?と思いながらも噴水の水を見に公園に通った。
学校に通いはじめても様子は同じだった。
けして友達がいないわけじゃない、放課後遊びにくる子も何人かいた。
(この辺りは、またちょっといろいろ事情はあったんだよね。なんていうか、この地域だけのことかもしれないけど『家で遊ばせてくれる』子のところに子供は集まるのだ。だから明らかに我が子と遊びたいから来ているとは思えない子も何人もいた。けっこう子供って『家』が好きなんだよね)
ただ自由帳がどんどん減っていくのだ。
つい数週間前に買い与えたのに『また買って』と言われる。
見ると、自由帳にはたくさんの迷路やすごろくが書かれている。
どうやら休み時間、教室から出ることもなくひとりでそれらを書いているようだった。
外で遊ばないの?
誰かと一緒に書いているの?
健全な普通の小学生は休み時間は外でクラスメートと鬼ごっこをするものじゃないの!?
そんなのある意味作られた固定観念だとわかっているけど、どうしても健全で普通に身を置くことで親は安心したいのかもしれない(自分がその立場だということと子供のそれだと、子供に対してより健全で普通を求めてしまうみたいです)
不安が故にいろいろ質問責めにしたいけど、ここでもそれは我慢する。
休み時間にひとり教室にいることを問題にしたくなかった。
それで我が子が満足ならいいじゃない。
そう思って、小学校6年間わたしは何冊も何十冊も自由帳を買ってあげた。
ときどきお昼どきに学校のそばを通り元気に鬼ごっこをしている子供たちを横目にひとり教室に残り黙々と迷路を書く姿を想像して、歯がゆいようなもどかしいような、なんとも言いがたい気持ちになっていた。
『ちょっと変わってる』を受け入れたい気持ちと多数派に身を置く安心の引っ張り合い、なかなかステキな指針を貫くのは根性が必要だった。
小学生の最後のほうには、その迷路やすごろくがいろいろ発展していって自作のカードゲームを作るようになり、クラスメートも仲間に加わってけっこう休み時間はそれでにぎわったりするようにもなったみたいです。
だからといって我が子が絵の才能があるとか創造力があるとか、そういうのでもないみたい^^;
他の子のカードを見せてもらったけど、ずっと絵の上手な子もいたしキャラクター設定が見事な子もいたから^^;
小学生の頃、迷路やすごろくを黙々とひとり書いていた子はひとつ上の学校に上がっても相変わらずちょっと変わっていて、異性の服装をしたがったりお面を作ってかぶってみたり、音楽番組には登場しなさそうなアーチストばかり聴きだしたり、健全で普通からはほど遠い人になっていた。
それでもわたしはずっとそのちょっと変わった部分を基本的には受け入れ続けた。
なんでもかんでも受け入れるわけではないけど、性差や多数の常識から外れた価値観を受け入れ続けた。
小説や映画では、こういう個性的な子がずば抜けてか運動能力が高いとか勉強ができるとか天性の歌声を持っているとかっていうのがありがちだけど、現実はそんなことなくて、かけっこ遅いし勉強ぜんぜんでいないから、なかなか親としてはそれで『ちょっと変わった』を受け入れるのはけっこうしんどかった^^;
でもって、そんな我が子がいとおしかった。
おそらく我が子は何か『表現したい』ようだった。
その表現方法において自分は何が好きで何が合っているか、その両方が合致いていないというか模索しているというか、そういう状態だったんだと思う。
同級生のママたちが運動部に入っている自分の子供が誰それに告白されたなんて健全で普通の学生生活を送っている話を聞きながら、うらやましいと思いつつも、このママたちは自分の子が異性の服を着たいと言い出したらなんて答えるんだろうな〜なんてちょっと不謹慎な想像したりしていた。
そんな我が子がいまの学校に入学して波長の合う友達と出会い、その子たちと動画を撮りそれを編集して公開するようになる。
それはそれは楽しそうに、なかなかのセンスで^^
きっと我が子の『表現したい』ことの好きと合うが合致したのだ。
我が子の学校で文化祭があった。
有志で映画を上映することになり我が子が編集担当になった。
夜中まで編集作業に追われ文化祭の前夜やっと完成した。
みんなの評判はどうだろうか、何かうまくいかなかったら我が子が責められやしないか、本人はどう思っているかわからないけど、わたしはひとりヒヤヒヤしていた。
もちろん観に行く^^
映画はそこそこウケてエンディングを迎えた。
本編が終わって音楽がはじまりエンディングロール。
『ロックンロールは鳴り止まないっ』が流れた。
一瞬、『?』という空気になる。
いまここで観覧している同級生や保護者がどれだけこのアーチストを知っているだろう。
いまでこそずいぶんメジャーにはなったけど、それでもメジャーとは言いがたい。
いきものが○りでも、○XILEでも、ゆ○でも、GR○eeeNでもない。
きっと教育委員会は眉をひそめるようなアーチスト。
文化祭の映画のエンディングで流れるにはあまり相応しくない楽曲だ。
キャスト、大道具小道具、練習風景、NGカットを流し、たくさんのクラスメートのいきいきした表情を我が子が手がけたカット割りで映し出す。
周囲の『?』の空気が絶賛の嵐になるなんて美しいエンディングにはそうなるものじゃない。
だけど最初の『?』とは違う、『これ誰が作ったの?』という興味とほんの少しの羨望がまざった『?』に変わっていた(はず^^)
かけっこも早くないし勉強もぜんぜんできない、さして芸術に長けているいるわけでもない、小さな頃からずっと『ちょっと変わった』子だった我が子が選んだ楽曲と編集した映像のセンス、どうだすごいだろ〜と、複雑な『?』な空気を自慢したい気持ちで感じていた。
これからも我が子は健全で普通とは言いがたい『ちょっと変わった』人生を歩むかもしれない。(すでに『三次元に興味ない』と宣言されているし^^;)
天才肌なんてほど変わっていたらまた違う人生なんだろうけど、いかんせん『ちょっと変わってる』程度なので、これからも『自分なりの価値観』という指針と親としての臆病な気持ちの狭間でわたし自身は苦労しそうなんだけど、変なお面をかぶる我が子と一緒になって笑ってくれる友人もいる、それでいまは十分だと拍手をしながら思っていた。
あとは英語のテストの点数を二桁にしてくれたらいいのだけどね(笑)
子供のことをここまで書くことはあまりアダルトカテゴリには相応しくないこともわかっています。
また倫理的に正しいこととは思いませんが、那智さんは『俺と付き合うことでりん子を幸せにする』と宣言してから、わたしの幸せ=家族も幸せにするという気持ちで、子供のこともずいぶん相談に乗ってくれました。
そんな我が子の出来事を記録したいなと思いエントリー。
今日はうるう日、4年後までない一日だからというわけじゃないけど、大目に見てくれるとうれしいです^^
昨日の「等式」感想です。
アダルトカテゴリーにアダルトオンリー以外の事を記載してはいけないわけではないでしょう。男の思春期は大変だ~、それに付き合う母親も大変だ~。自分とは異なる性なのである部分では共感するのはあきらめた方がよいかもしれない。(笑)
長文の『140字もどき』のようなエントリー^^;
我が子はほんのちょっと変わっている。
出産してすぐ、ひと言で『どんな人になってほしいか』とひとり言葉に表してみようと考えた。
優しい人?
明るい人?
強い人?
自分なりの価値観を持てる人。
『みんなが』とか『一般的に』とかではなく、自分がいいと思うことで判断できる人。
人と違うことを恐れない人。
そんな言葉が浮かんだ。
お母さんは、あなたの価値観を尊重して応援するよ。
人と違うことは悪いことじゃないって褒めてあげる。
わたしとしてはなかなかステキな指針だと生まれたばかりの我が子を抱きながらちょっといい気分になっていた。
しかし、そんなステキな指針を掲げたわたしを試すような我が子だった。
よちよち歩きをはじめて公園などに出かけていくと『?』と感じることに気づく。
なんていうのかな、自分のしたいことをするの。
小さな子供なんだからしたいことをするのは当たり前なんだけど、そのしたいことというのが一般的ではないのだ。
噴水の水の流れをただただじーっと眺める。
ベビーカーをひっくり返して車輪をくるくる回す、うれしそうに延々と。
砂場でミニカーをゆっくり走らせ顔をくっつけんばかりにかがみ込みタイヤの回転をうっとりするように見つめる。
そばで他の子たちが楽しそうに駆け回っても、人形でバトルをはじめても見向きもしない。
ただただ指をちゅっちゅと吸い自分の世界に浸っているのだ。
障害をお持ちだったり病気と戦っているようなお子さんからしたら贅沢な話だと承知しているけど、それでもちょっと『変わっている』のは親としては複雑な思いにもなる。
子供って普通他の子と一緒にきゃーきゃー遊ぶものなんじゃない!?
ステキな指針を掲げたはずなのに、そうやってちょっとでも普通じゃないことに不安になりそうになる。
『みんなと一緒に遊びな』と喉元まで競り上がる。
『みんなと一緒』そういうことも教育かもしれない。
でも、我慢した。
まだやっと歩き始めたばかりのうちからそのセリフを聞かせてしまったら、この先ずっと『みんなと一緒』が判断基準になってしまいそうで、わたしは言いたくなかった。
実際我が子は車輪を回すのも水の流れを眺めることも実に満足げにやっているし、他の子が気づいて一緒にやりはじめたら、多少横取りされようが楽しそうに一緒にやっている。
人に迷惑をかけない限り好きなことを存分やらせてあげようと、もしかしたちょっと変わってる?と思いながらも噴水の水を見に公園に通った。
学校に通いはじめても様子は同じだった。
けして友達がいないわけじゃない、放課後遊びにくる子も何人かいた。
(この辺りは、またちょっといろいろ事情はあったんだよね。なんていうか、この地域だけのことかもしれないけど『家で遊ばせてくれる』子のところに子供は集まるのだ。だから明らかに我が子と遊びたいから来ているとは思えない子も何人もいた。けっこう子供って『家』が好きなんだよね)
ただ自由帳がどんどん減っていくのだ。
つい数週間前に買い与えたのに『また買って』と言われる。
見ると、自由帳にはたくさんの迷路やすごろくが書かれている。
どうやら休み時間、教室から出ることもなくひとりでそれらを書いているようだった。
外で遊ばないの?
誰かと一緒に書いているの?
健全な普通の小学生は休み時間は外でクラスメートと鬼ごっこをするものじゃないの!?
そんなのある意味作られた固定観念だとわかっているけど、どうしても健全で普通に身を置くことで親は安心したいのかもしれない(自分がその立場だということと子供のそれだと、子供に対してより健全で普通を求めてしまうみたいです)
不安が故にいろいろ質問責めにしたいけど、ここでもそれは我慢する。
休み時間にひとり教室にいることを問題にしたくなかった。
それで我が子が満足ならいいじゃない。
そう思って、小学校6年間わたしは何冊も何十冊も自由帳を買ってあげた。
ときどきお昼どきに学校のそばを通り元気に鬼ごっこをしている子供たちを横目にひとり教室に残り黙々と迷路を書く姿を想像して、歯がゆいようなもどかしいような、なんとも言いがたい気持ちになっていた。
『ちょっと変わってる』を受け入れたい気持ちと多数派に身を置く安心の引っ張り合い、なかなかステキな指針を貫くのは根性が必要だった。
小学生の最後のほうには、その迷路やすごろくがいろいろ発展していって自作のカードゲームを作るようになり、クラスメートも仲間に加わってけっこう休み時間はそれでにぎわったりするようにもなったみたいです。
だからといって我が子が絵の才能があるとか創造力があるとか、そういうのでもないみたい^^;
他の子のカードを見せてもらったけど、ずっと絵の上手な子もいたしキャラクター設定が見事な子もいたから^^;
小学生の頃、迷路やすごろくを黙々とひとり書いていた子はひとつ上の学校に上がっても相変わらずちょっと変わっていて、異性の服装をしたがったりお面を作ってかぶってみたり、音楽番組には登場しなさそうなアーチストばかり聴きだしたり、健全で普通からはほど遠い人になっていた。
それでもわたしはずっとそのちょっと変わった部分を基本的には受け入れ続けた。
なんでもかんでも受け入れるわけではないけど、性差や多数の常識から外れた価値観を受け入れ続けた。
小説や映画では、こういう個性的な子がずば抜けてか運動能力が高いとか勉強ができるとか天性の歌声を持っているとかっていうのがありがちだけど、現実はそんなことなくて、かけっこ遅いし勉強ぜんぜんでいないから、なかなか親としてはそれで『ちょっと変わった』を受け入れるのはけっこうしんどかった^^;
でもって、そんな我が子がいとおしかった。
おそらく我が子は何か『表現したい』ようだった。
その表現方法において自分は何が好きで何が合っているか、その両方が合致いていないというか模索しているというか、そういう状態だったんだと思う。
同級生のママたちが運動部に入っている自分の子供が誰それに告白されたなんて健全で普通の学生生活を送っている話を聞きながら、うらやましいと思いつつも、このママたちは自分の子が異性の服を着たいと言い出したらなんて答えるんだろうな〜なんてちょっと不謹慎な想像したりしていた。
そんな我が子がいまの学校に入学して波長の合う友達と出会い、その子たちと動画を撮りそれを編集して公開するようになる。
それはそれは楽しそうに、なかなかのセンスで^^
きっと我が子の『表現したい』ことの好きと合うが合致したのだ。
我が子の学校で文化祭があった。
有志で映画を上映することになり我が子が編集担当になった。
夜中まで編集作業に追われ文化祭の前夜やっと完成した。
みんなの評判はどうだろうか、何かうまくいかなかったら我が子が責められやしないか、本人はどう思っているかわからないけど、わたしはひとりヒヤヒヤしていた。
もちろん観に行く^^
映画はそこそこウケてエンディングを迎えた。
本編が終わって音楽がはじまりエンディングロール。
『ロックンロールは鳴り止まないっ』が流れた。
一瞬、『?』という空気になる。
いまここで観覧している同級生や保護者がどれだけこのアーチストを知っているだろう。
いまでこそずいぶんメジャーにはなったけど、それでもメジャーとは言いがたい。
いきものが○りでも、○XILEでも、ゆ○でも、GR○eeeNでもない。
きっと教育委員会は眉をひそめるようなアーチスト。
文化祭の映画のエンディングで流れるにはあまり相応しくない楽曲だ。
キャスト、大道具小道具、練習風景、NGカットを流し、たくさんのクラスメートのいきいきした表情を我が子が手がけたカット割りで映し出す。
周囲の『?』の空気が絶賛の嵐になるなんて美しいエンディングにはそうなるものじゃない。
だけど最初の『?』とは違う、『これ誰が作ったの?』という興味とほんの少しの羨望がまざった『?』に変わっていた(はず^^)
かけっこも早くないし勉強もぜんぜんできない、さして芸術に長けているいるわけでもない、小さな頃からずっと『ちょっと変わった』子だった我が子が選んだ楽曲と編集した映像のセンス、どうだすごいだろ〜と、複雑な『?』な空気を自慢したい気持ちで感じていた。
これからも我が子は健全で普通とは言いがたい『ちょっと変わった』人生を歩むかもしれない。(すでに『三次元に興味ない』と宣言されているし^^;)
天才肌なんてほど変わっていたらまた違う人生なんだろうけど、いかんせん『ちょっと変わってる』程度なので、これからも『自分なりの価値観』という指針と親としての臆病な気持ちの狭間でわたし自身は苦労しそうなんだけど、変なお面をかぶる我が子と一緒になって笑ってくれる友人もいる、それでいまは十分だと拍手をしながら思っていた。
あとは英語のテストの点数を二桁にしてくれたらいいのだけどね(笑)
子供のことをここまで書くことはあまりアダルトカテゴリには相応しくないこともわかっています。
また倫理的に正しいこととは思いませんが、那智さんは『俺と付き合うことでりん子を幸せにする』と宣言してから、わたしの幸せ=家族も幸せにするという気持ちで、子供のこともずいぶん相談に乗ってくれました。
そんな我が子の出来事を記録したいなと思いエントリー。
今日はうるう日、4年後までない一日だからというわけじゃないけど、大目に見てくれるとうれしいです^^
昨日の「等式」感想です。
アダルトカテゴリーにアダルトオンリー以外の事を記載してはいけないわけではないでしょう。男の思春期は大変だ~、それに付き合う母親も大変だ~。自分とは異なる性なのである部分では共感するのはあきらめた方がよいかもしれない。(笑)
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- 感度 2016/04/15
- リアルぐずりん子 2007/12/22
- 徒然に『正しくないもの』 2011/01/07
COMMENT
このコメントは管理人のみ閲覧できます
りん子さん、こんばんは。
今日のエントリは、男として打ちのめされます(笑)
そう、海を望むお寺のお話同様に・・・
男と女、一人の人間と相対する人間。
気持ちの奥底でのつながりに、行為などいかほどの意味があるものか、と。
人を羨むことがあまりなくなって、それを自分では成長と思ったりしていましたが、気のせいだったようです。
那智さんだけは、羨ましい。本当に。
今日のエントリは、男として打ちのめされます(笑)
そう、海を望むお寺のお話同様に・・・
男と女、一人の人間と相対する人間。
気持ちの奥底でのつながりに、行為などいかほどの意味があるものか、と。
人を羨むことがあまりなくなって、それを自分では成長と思ったりしていましたが、気のせいだったようです。
那智さんだけは、羨ましい。本当に。
うまく言葉にできないのが歯痒いですが何度も読み返して「うんうん」頷いていました。何だかわからないけど少し明るい気持ちです。ありがとう。
lepinさんへのレスの前に、不倫相手の家族の話を聞かされての複雑な感情を想像しての『打ちのめされる』とはまったく違うのですよ、とこの場を不特定に向けて補足します^^(ですよね♪)
で、lepinさんは逆に、こういう関係にも関わらずこういう話ができて、なおかつ那智さんがずいぶん関わっている、そういうつながりに対して『打ちのめされて』くれたのですよね。
でもって、男性の立場でこのお話からそれを感じ取ってくださるlepinさんこそステキだと思うし、わたしたちのとってはありがたい存在です。
ありがとうございます^^
ほら、わたしがノロケ役だから、那智さんが羨ましがられることってあんまりないので(笑)
で、lepinさんは逆に、こういう関係にも関わらずこういう話ができて、なおかつ那智さんがずいぶん関わっている、そういうつながりに対して『打ちのめされて』くれたのですよね。
でもって、男性の立場でこのお話からそれを感じ取ってくださるlepinさんこそステキだと思うし、わたしたちのとってはありがたい存在です。
ありがとうございます^^
ほら、わたしがノロケ役だから、那智さんが羨ましがられることってあんまりないので(笑)
かなさんが少し明るい気持ちになれてよかった^^
普通に生活していると、ものすごいハッピーエンドや大事件なんてそうないですよね。
小さな出来事に、ちょっと切なくなったり微笑んだり。
そういう感情も大事だと思うんです。
だからうまく言葉にできなくても、それもいいのかなって思いますよ^^
普通に生活していると、ものすごいハッピーエンドや大事件なんてそうないですよね。
小さな出来事に、ちょっと切なくなったり微笑んだり。
そういう感情も大事だと思うんです。
だからうまく言葉にできなくても、それもいいのかなって思いますよ^^
神聖かまってちゃんのあの曲、わたしも好きですよ。
ひりひりする感じの歌詞と、
不安定な年代を感じさせるボーカル。
青春だなあって思います。
私も家族の話を聞いてもらったりします。
御主人様は
お前が幸せだとオレも幸せ
といってくれるので
それをよすがに。
離れている間も、いつでも
わたしは幸せでいる権利と必然性があるのです。
ひりひりする感じの歌詞と、
不安定な年代を感じさせるボーカル。
青春だなあって思います。
私も家族の話を聞いてもらったりします。
御主人様は
お前が幸せだとオレも幸せ
といってくれるので
それをよすがに。
離れている間も、いつでも
わたしは幸せでいる権利と必然性があるのです。
みゅーさんの御主人様は『俺のために幸せでいなさい』っておっしゃっていますよね。
わたし、これがステキだなって思うんです。
最終的には御主人様の快適のためになったとしても、過程のひとつにみゅーさんの幸せがあるわけで、それも御主人様が手綱を握っているというカンジですよね。
この最終的には御主人様の快適というゴールが、また、わたしたちのような立場の人間は嬉しかったりして^^(あ、勝手にひとくくりにしました 笑)
あ、かまってちゃんご存知でしたか?
うれしい^^
これが我が子の編集したエンドロールと一緒に聴くとまたたまらないのですよ(親バカ^^;)
わたし、これがステキだなって思うんです。
最終的には御主人様の快適のためになったとしても、過程のひとつにみゅーさんの幸せがあるわけで、それも御主人様が手綱を握っているというカンジですよね。
この最終的には御主人様の快適というゴールが、また、わたしたちのような立場の人間は嬉しかったりして^^(あ、勝手にひとくくりにしました 笑)
あ、かまってちゃんご存知でしたか?
うれしい^^
これが我が子の編集したエンドロールと一緒に聴くとまたたまらないのですよ(親バカ^^;)