日々のお食事
独特な幸福感
日々届く「おはよう」のメール。
姿を見つけるたびに湧き上がる照れ臭いような喜び。
幾度となく肌を合わせる。
慣れ親しんだ毛布のように安心して、おもちゃ箱のようにわくわくして、苦しいほどにわたしを拘束する。
数年間、繰り返し、変わらない。
むしろ、安心も快感も増している。
なぜ?
飽きないの?
「どんなに高級なフランス料理でも毎日食べたら飽きる」と、よく例え話で出るよね。
なぜ、飽きないのだろう。
きっと、わたしにとって那智さんは「フランス料理」じゃないんだ。
「食事」そのものなの。
特別な贅沢な「フランス料理」じゃなくて、生きていくために必要な「お食事」。
そして、普通のご飯だったり、贅沢なフランス料理だったり、ときどきクセのあるスパイスを利かせたりしてくれる。
だから、飽きることもない。
那智さんはわたしにとって、ときどき味わう贅沢品ではなくて、もっと大事な生きていくために必要なもの。
だから、逆にときどきじゃダメなの^^;
でも、人は「贅沢品」には喜びを見いだすのは簡単なのだけど、日々の「必要」なものには慣れてしまうもの。
そこは受け取る側の力がいるのだ。
こちらが慣れない。
日々のメールを喜び。
会うたびに湧き上がる喜びを自覚して。
肌を合わせるときの感動を伝える。
那智さん曰く、「りん子はそれが上手」のだそうだ。
わたしは、わたししかわからないから、わたしの感じるとおりにしてるだけなんだけど。
もしかしたら、少しのことでも「喜びやすい」女なのかもしれない^^
安上がりな女?
なんでも、いいわ。
でも、こちらがちゃんと「おいしい」と伝え続けると、日々「お食事」は届けられるものなのです。
そして、それは「必要」なものだから、こちらは飽きることはない。
与える側も、その都度、笑ったり鳴いたり狂喜したり理解したり赤面したりで、きっと飽きることないのでしょうね。
これが、一緒に暮らしていたりすると、また話は違ってくるのかな。
この部分は、ちょっとわからない。
だから、「一緒に暮らさずに、一緒に暮らしているくらいのコミュニケーションを取っていても」飽きないとしか言えないんだけどね。
さて、さて、わたしたちは付き合いはじめて数年。
これが二桁になるころには、また違った感覚になっているものなのかしら。
これも、ちょっとわからない。
もしかしたら、なにか表層は形を変えてるかもしれないけど、「お食事」は変わっていないと思う。
だって、生きていくために「必要」なものなんだものね。
今朝も「おはよう」メールをもらって、「感謝の気持ちとともに、これからもずっと「お食事」をいただきたいな〜と思うのでした。
日々届く「おはよう」のメール。
姿を見つけるたびに湧き上がる照れ臭いような喜び。
幾度となく肌を合わせる。
慣れ親しんだ毛布のように安心して、おもちゃ箱のようにわくわくして、苦しいほどにわたしを拘束する。
数年間、繰り返し、変わらない。
むしろ、安心も快感も増している。
なぜ?
飽きないの?
「どんなに高級なフランス料理でも毎日食べたら飽きる」と、よく例え話で出るよね。
なぜ、飽きないのだろう。
きっと、わたしにとって那智さんは「フランス料理」じゃないんだ。
「食事」そのものなの。
特別な贅沢な「フランス料理」じゃなくて、生きていくために必要な「お食事」。
そして、普通のご飯だったり、贅沢なフランス料理だったり、ときどきクセのあるスパイスを利かせたりしてくれる。
だから、飽きることもない。
那智さんはわたしにとって、ときどき味わう贅沢品ではなくて、もっと大事な生きていくために必要なもの。
だから、逆にときどきじゃダメなの^^;
でも、人は「贅沢品」には喜びを見いだすのは簡単なのだけど、日々の「必要」なものには慣れてしまうもの。
そこは受け取る側の力がいるのだ。
こちらが慣れない。
日々のメールを喜び。
会うたびに湧き上がる喜びを自覚して。
肌を合わせるときの感動を伝える。
那智さん曰く、「りん子はそれが上手」のだそうだ。
わたしは、わたししかわからないから、わたしの感じるとおりにしてるだけなんだけど。
もしかしたら、少しのことでも「喜びやすい」女なのかもしれない^^
安上がりな女?
なんでも、いいわ。
でも、こちらがちゃんと「おいしい」と伝え続けると、日々「お食事」は届けられるものなのです。
そして、それは「必要」なものだから、こちらは飽きることはない。
与える側も、その都度、笑ったり鳴いたり狂喜したり理解したり赤面したりで、きっと飽きることないのでしょうね。
これが、一緒に暮らしていたりすると、また話は違ってくるのかな。
この部分は、ちょっとわからない。
だから、「一緒に暮らさずに、一緒に暮らしているくらいのコミュニケーションを取っていても」飽きないとしか言えないんだけどね。
さて、さて、わたしたちは付き合いはじめて数年。
これが二桁になるころには、また違った感覚になっているものなのかしら。
これも、ちょっとわからない。
もしかしたら、なにか表層は形を変えてるかもしれないけど、「お食事」は変わっていないと思う。
だって、生きていくために「必要」なものなんだものね。
今朝も「おはよう」メールをもらって、「感謝の気持ちとともに、これからもずっと「お食事」をいただきたいな〜と思うのでした。