「すべての責任は俺にある。ただし、りん子には道義的責任がある」2
モカ
『「すべての責任は俺にある。ただし、りん子には道義的責任がある」1』に書かれている認識のもとお読みください。
『基本3人』の衝撃で足元がグラグラし続ける中、これも思ってもみなかったことを知る。
モカは那智さんが想像するより、ずっと那智さんの基準から見たら『未熟』だったのだ。
これに関しては『マイ フェア レディ』をいつかアップします、たぶん^^;)
教育好きの那智さんはモカの教育に夢中になった。
『夢中』になるということにはいくつかの要素が絡まっていた。
これも、何度も何度も話し合った。
(『夢中』という言葉は那智さんは不適切だと思うとわかっているけど、渦中のわたしにはそう感じられたから、そのまま書きます)
モカの教育を優先する那智さんに、苦しいを伝え、那智さんの意見を聞き、その中からいくつかの要素があることを教えてもらう。(この優先には『りん子を焦がれさせる』と『いずれ卒業することを視野に入れて』のふたつの理由がある)
これも『基本3人』の時のように、わたしが悲鳴を上げてから『実は、こういう要素があるんだよ』と種明かしをされたりしてわかったことだ。
いまとなれば、那智さんの感情とわたしの受け取り方では違いがあることがわかる。
もちろん『未熟』というのは那智さんにとってはとても魅力だから教育に一生懸命になったことは当然なんだけど。
あとふたつ、これもとても重要度の高い感情があったそうだ。
ひとつは、責任。
モカをある程度一人前にすると誘った責任。
これは那智さんらしい感情だ。
関わると決めた人にはとことん関わる。
これも『父性』というものかもしれない。
この責任を取る行為を、義務感だけではないモチベーションでできるのが那智さんなんだよね。
そして、もうひとつは、りん子と一体感を感じる面白さ。
わたしは全然感じられなかったのだけど、那智さんはこれもすごーく満足する状況だったらしい。
那智さんの言葉の補足をし、時には那智さんがいなくても同じ考えをモカにアドバイスする、りん子が手足になっているような満足感。
『那智さんの意思はわたしの意志』という上下関係を、他者を交えたときのわたしの言動で実感する面白さ。
こんな大まかに3つの要素が絡んでいたらしい。
(う〜ん、これもいま思えばなんだけど^^;確かに、極初期の頃以外は、割りと那智さんはお題だけ出して後はわたしに任せるなんてこともよくあった。あれは共同作業を楽しんでいたのかなとも思える。ついでに、モカもその一体感は感じてくれていて、それがふたりのすごいところだと言っていたんだよね。うう、これもいま思えばなのだ;;)
たくさん話した。
そしてこんな要素があると教えてもらっても、「俺はモカを教育しているとき、モカをかまっているとき、いつもりん子と頬をくっつけてふたりしてモカを見ている気持ちだったんだよ」と教えてもらっても、それでも好きな人が自分以外の女性に『いろんな意味で』夢中になり、それを見続けることは『基本3人』で崩れた足元の不安定なわたしにはとても酷で、『頬をくっつけている感覚』を理解することは難解すぎた。
モカは那智さんにとって本当に子供のようだった。
わたしたちを姉妹と設定したけど、那智さんとしては『夫婦と子供』という位置付けのほうが適切だったようだ。
那智さんがモカをからかう。
『アイツ、ほんと面白いよな〜』と楽しそうにわたしにいう。
モカのこれからをわたしと話し合うときなんて、ホントの夫婦の会話のようだった。
これらは、那智さんにとってはふたりの子供という感覚だから後ろめたい気持ちのない自然なことだったのかもしれない。
だから、わたしが不安や悲しいを訴えると。
この頃にはすでにたくさん話し合っていて『姉妹』というより夫婦みたいだという共通認識になってたから
「りん子とモカは、立場が違うんだよ」と不思議そうにする。
「俺、モカのこと『大人の女』として見てないんだよ」(これはモカ本人にも言ってた^^;ある意味失礼か…)
立場が違うんだから、なにもそんなに悲しくなることない。
カレーと野球を比べても意味がないだろ?
ということなのだろう。
言わんとしていることは、わかる。
でも、那智さんは肝心なことに気付いていなかった。
那智さんにとって『未熟』であるということが、実は『大人の女』と同じくらい魅力的なことだということ。
グラマラスな不二子ちゃんよりも、痛いことも汚いこともなんでも感じちゃうマゾヒストよりも、『未熟』は那智さんにとって食指が動くのだということ。
それを那智さん以上に、わたしが知っているということ。
そして、わたしは、那智さんの『女』でありたいとのと同じように、『女の子』や『わんこ』として庇護される未完成のわたしでいることを愛しているということ。
その状態で、どんなに3つの要素が絡んでいるんだよと言われても、どんなに立場が違うんだよと言われても、どうしてもわたしは心穏やかでいることができなかった。
那智さんがモカに注ぐ視線はお父さんだった。
似たような視線を注がれたことはたくさんある。
だけど、それは『女』のわたしを『娘扱い』している視線だ。
『娘扱い』と子供を見る視線の違いは、両方を体験すると歴然とある。
那智さんが子供に注ぐ視線や笑顔は、こんなふうに温かく優しいんだ。
ああ、わたしはこれを味わってみたかった。
そして、それはどんなに足掻いても手にすることのできないものだ。
どんなに立場が違うんだよと教えてもらっても、イヤだ。
同じ土俵で戦うのだってイヤだけど、わたしが上がることのできない土俵は、実はとても欲しいものだったのだ。
そして、その部門でのベストを見てしまったのだ。
わかってる。
女として愛されることがふたりにとって重要で、『娘扱い』はオプションにひとつに過ぎないことは。
同じ『女』として競わないからこそ、良い点もたくさんあったこともわかっている。
だけど目の前でわたしがこの先ずっと味わいたくても味わうことのないものを注がれている姿を見続けることは、身を切られるような辛さだった。
『未熟』故の予想外の夢中。
それが、たとえ様々な要素が絡んだとしても。
ああ、わたし、那智さんの前で『娘』のように無邪気でいられないかもしれない。
那智さんのお父さんの視線は、わたしに『娘』でいることを諦めさせるようなものだった。
これがふたつめの『苦しい』。
『「すべての責任は俺にある。ただし、りん子には道義的責任がある」1』に書かれている認識のもとお読みください。
『基本3人』の衝撃で足元がグラグラし続ける中、これも思ってもみなかったことを知る。
モカは那智さんが想像するより、ずっと那智さんの基準から見たら『未熟』だったのだ。
これに関しては『マイ フェア レディ』をいつかアップします、たぶん^^;)
教育好きの那智さんはモカの教育に夢中になった。
『夢中』になるということにはいくつかの要素が絡まっていた。
これも、何度も何度も話し合った。
(『夢中』という言葉は那智さんは不適切だと思うとわかっているけど、渦中のわたしにはそう感じられたから、そのまま書きます)
モカの教育を優先する那智さんに、苦しいを伝え、那智さんの意見を聞き、その中からいくつかの要素があることを教えてもらう。(この優先には『りん子を焦がれさせる』と『いずれ卒業することを視野に入れて』のふたつの理由がある)
これも『基本3人』の時のように、わたしが悲鳴を上げてから『実は、こういう要素があるんだよ』と種明かしをされたりしてわかったことだ。
いまとなれば、那智さんの感情とわたしの受け取り方では違いがあることがわかる。
もちろん『未熟』というのは那智さんにとってはとても魅力だから教育に一生懸命になったことは当然なんだけど。
あとふたつ、これもとても重要度の高い感情があったそうだ。
ひとつは、責任。
モカをある程度一人前にすると誘った責任。
これは那智さんらしい感情だ。
関わると決めた人にはとことん関わる。
これも『父性』というものかもしれない。
この責任を取る行為を、義務感だけではないモチベーションでできるのが那智さんなんだよね。
そして、もうひとつは、りん子と一体感を感じる面白さ。
わたしは全然感じられなかったのだけど、那智さんはこれもすごーく満足する状況だったらしい。
那智さんの言葉の補足をし、時には那智さんがいなくても同じ考えをモカにアドバイスする、りん子が手足になっているような満足感。
『那智さんの意思はわたしの意志』という上下関係を、他者を交えたときのわたしの言動で実感する面白さ。
こんな大まかに3つの要素が絡んでいたらしい。
(う〜ん、これもいま思えばなんだけど^^;確かに、極初期の頃以外は、割りと那智さんはお題だけ出して後はわたしに任せるなんてこともよくあった。あれは共同作業を楽しんでいたのかなとも思える。ついでに、モカもその一体感は感じてくれていて、それがふたりのすごいところだと言っていたんだよね。うう、これもいま思えばなのだ;;)
たくさん話した。
そしてこんな要素があると教えてもらっても、「俺はモカを教育しているとき、モカをかまっているとき、いつもりん子と頬をくっつけてふたりしてモカを見ている気持ちだったんだよ」と教えてもらっても、それでも好きな人が自分以外の女性に『いろんな意味で』夢中になり、それを見続けることは『基本3人』で崩れた足元の不安定なわたしにはとても酷で、『頬をくっつけている感覚』を理解することは難解すぎた。
モカは那智さんにとって本当に子供のようだった。
わたしたちを姉妹と設定したけど、那智さんとしては『夫婦と子供』という位置付けのほうが適切だったようだ。
那智さんがモカをからかう。
『アイツ、ほんと面白いよな〜』と楽しそうにわたしにいう。
モカのこれからをわたしと話し合うときなんて、ホントの夫婦の会話のようだった。
これらは、那智さんにとってはふたりの子供という感覚だから後ろめたい気持ちのない自然なことだったのかもしれない。
だから、わたしが不安や悲しいを訴えると。
この頃にはすでにたくさん話し合っていて『姉妹』というより夫婦みたいだという共通認識になってたから
「りん子とモカは、立場が違うんだよ」と不思議そうにする。
「俺、モカのこと『大人の女』として見てないんだよ」(これはモカ本人にも言ってた^^;ある意味失礼か…)
立場が違うんだから、なにもそんなに悲しくなることない。
カレーと野球を比べても意味がないだろ?
ということなのだろう。
言わんとしていることは、わかる。
でも、那智さんは肝心なことに気付いていなかった。
那智さんにとって『未熟』であるということが、実は『大人の女』と同じくらい魅力的なことだということ。
グラマラスな不二子ちゃんよりも、痛いことも汚いこともなんでも感じちゃうマゾヒストよりも、『未熟』は那智さんにとって食指が動くのだということ。
それを那智さん以上に、わたしが知っているということ。
そして、わたしは、那智さんの『女』でありたいとのと同じように、『女の子』や『わんこ』として庇護される未完成のわたしでいることを愛しているということ。
その状態で、どんなに3つの要素が絡んでいるんだよと言われても、どんなに立場が違うんだよと言われても、どうしてもわたしは心穏やかでいることができなかった。
那智さんがモカに注ぐ視線はお父さんだった。
似たような視線を注がれたことはたくさんある。
だけど、それは『女』のわたしを『娘扱い』している視線だ。
『娘扱い』と子供を見る視線の違いは、両方を体験すると歴然とある。
那智さんが子供に注ぐ視線や笑顔は、こんなふうに温かく優しいんだ。
ああ、わたしはこれを味わってみたかった。
そして、それはどんなに足掻いても手にすることのできないものだ。
どんなに立場が違うんだよと教えてもらっても、イヤだ。
同じ土俵で戦うのだってイヤだけど、わたしが上がることのできない土俵は、実はとても欲しいものだったのだ。
そして、その部門でのベストを見てしまったのだ。
わかってる。
女として愛されることがふたりにとって重要で、『娘扱い』はオプションにひとつに過ぎないことは。
同じ『女』として競わないからこそ、良い点もたくさんあったこともわかっている。
だけど目の前でわたしがこの先ずっと味わいたくても味わうことのないものを注がれている姿を見続けることは、身を切られるような辛さだった。
『未熟』故の予想外の夢中。
それが、たとえ様々な要素が絡んだとしても。
ああ、わたし、那智さんの前で『娘』のように無邪気でいられないかもしれない。
那智さんのお父さんの視線は、わたしに『娘』でいることを諦めさせるようなものだった。
これがふたつめの『苦しい』。
- 関連記事
-
- モカ6 2010/03/08
- モカ8 2010/03/12
- マイフェアレディ『心を開く1』 2010/07/11