繋いだ手
りん子的独り言(生意気)
主従とか奴隷とかについて勝手に書いてます。
批判的なことになってるかもしれないので、苦手なかたはスルーしてください。
あと、筋も通ってないかもしれない…^^;
このところ主従とか考えてて、じゃあ、わたしたちはなんだろうと思いました。
端から見たらどうかわかりませんけど。
わたしがイメージする「わたしたち」。
「お互いの幸福のために、同じ方向を向いて手を繋いで歩いてる。」
わたしは、そんな図を想像した。(ずいぶんと那智さんに教えられた部分が大きいなぁ)
どちらのためでもなく、お互いのために手を繋ぐ。
わたしが不得意なことは那智さんに助けてもらって、逆にわたしのほうが上手なことはわたしがする。
ただそれだけ。
そう那智さんに話したら、それに那智さんの考えを付け加えられた。
「ずっと同じ方向を向いていたり手を繋いでいられるとは限らないよね。意見が食い違ったりしてお互い違う方向を向いて手が離れてしまうこともある。だから、何よりも『手を伸ばそう』と思うことが大事なんじゃないかな。」
そうですね、人間同士なんだから離れてしまうこともある、わたしたちもそういうことあったけど、また手を繋ぎたいと思えることが重要ですね。
そんな話しをしていたら、山本文緒さんの「恋愛中毒」の一節を思い出した。(原文のままじゃないかも!?)
「ただひたすら歩きながら、いつしか私は祈っていた。
どうか、神様。
いや、神様なんかにお願いするのはやめよう。
どうか、どうか、私。
これから先の人生、他人を愛しすぎないように。
愛しすぎて、相手も自分もがんじがらめにしないように。
私は好きな人の手を強く握りすぎる。相手が痛がっていることにすら気がつかない。
だからもう二度と誰の手も握らないように・・」
いま、わたしが思っていることと、この小説の内容が同じだとは思わない、最後の一行は「誰の手も握らない」と言ってるしね。
でも、この有名な一節を思い出した。
強く強く、手を握ってしまうのだ。
相手がどうかなんて気づかずに。
わたしの場合、それは不安とか焦燥感からのようだった。
手を離したらもうなくなってしまう、ひとりが不安でしかたないから、絶対に離すまいと強く握る。
でも、実は、その手の持ち主が本当に好きなのか、わからないのだ。
ただ、手がないと不安なの。
だから、強く握ることに執着してしまう。
時には、離したくないがために、不本意な方向に引きずられてしまってボロボロに傷付いても離したくない、不安だから。
でも、手が離れたら、また繋げばいいんだよね。
繋ぎたいと思う、強く思う気持ちが大事。
そのためには相手を理解するように耳を傾け、自分の気持ちを諦めず伝える。
それは、わたしのような、不安定な愛される価値のないと思ってる依存体質(メチャクチャな人だわ、わたし)にとっては、けっこう至難の業。
だって、依存したいのだもの、依存先を失うの怖いのだもの。
つい、自分の気持ちを押し殺し「あなたのよいように、あなたに従いたい」と自分に嘘を付く。
そうしないと不安だから。
負の感情を見せないほうが得意なんだものね。
でも、絶対という人には、むしろ負の感情を見せて気持ちを伝えるほうが誠実な付き合いなのだ。
手が離れたら、また繋げばいい。
それよりも、その手が自分に本当に必要かそれを見極めることが大事。
だけど、問題は、わたしのような女は、どれが自分に必要かよくわからない。
残念なことに、自分の「快不快」に鈍感なんだ。
つい、自分の快不快を人の反応で計ってしまう、それは「快」を知らないから。
(わたしの場合は「父性」ね、父親の愛情不足で、娘時代に知るはずだった快を知らないの。といってもいつも言ってますが、もっと深刻な人はいます)
だから、「主」のような、強く差し出される手がほしいと思ってしまう。
それが自分のとって快かどうかわからずに、強い吸引力に惹かれてしまうのだ。
でも、それはとても危険。
その吸引力は、不安定なわたしがほしい言葉をくれる。
「俺に従え、言う通りにしろ」
「すべてを委ねろ」
「すべてを受け止めるから、すべて晒せ」
これは、強く手を握ってしまう女には魔法のような言葉だ。
いいの?いっぱいいっぱい握ってもいいの?
わたしの不安を消してくれるの?
でも、その言葉は危険な気がする。
「奴隷願望の矛盾」でも書いたけど、奴隷がほしい男性と従属したい女性には温度差がある場合が多いと思う。
男性の「すべてを委ねろ」と女性の「全部委ねたい」には、もともとの量が違うのではないかしら。
その量の違いがあるなかで、依存したいばかりにその言葉にすがるのは、矛盾を生むばかりではないく結果的に思考停止にさせてしまわないだろうか。
本当に、そんなに全部晒して受け止めてくれる聖徳太子のような男性がいるの?
恐らく大多数の「主」様のいうそれは、「言う通りにする女性」を作るための誘い言葉に感じる。
それを盲目的に信じて、すべて晒そうとすると思考停止に陥りそうだ。
だって、だた溢れさればいいのだもの。
だけど、それを受け入れるのは不可能だよね、聖徳太子じゃないんだもの。
その不可能を「奴隷」という言葉で、誤摩化してる?
「奴隷は主の言う通りにしてろ」って、結局縛ってる感じがする。
これって矛盾だよね、すべてを晒して、そして、従えっていうのは、それは「依存願望」の強い女にとっては、「顔色を伺う」ことに変わりないのだ。
そのくせ「すべてを晒せ」と言ってもらってるから、晒せてる気持ちになる。
でも、なんだか上手くいかない、だって、そんな聖徳太子いっぱいいないもの。
実際は全然晒せてないの、従えと言われればその時点で「顔色伺ってる」のだもの。
だから、すべてを委ねるなんて、無理だし、しちゃいけない。
那智さんはわたしに「素直に伝える」ことを課している。
わたしは、これを「すべて晒す」ことではないと思ってる。
わたしの思う「素直に伝える」は、思ってること起こったこと全部を吐き出すことだとは思っていないのです。
心を平らにして伝えることだと思ってます。
相手を、傷付けようとか、言い負かそうとか、謝らせようとか、思わず。
自分は、いじけず、ひねくれず、卑屈にならず、投げやりにならず。
基本は、相手を大切に思ってるという前提で話す。
これはけっこう大変で、すべて晒したり、自分を卑下したりするほうが楽かもしれないのだ。
いじけてすねて卑屈になって、伝わらないもどかしさを八つ当たりという形で、感情を晒す。
そのほうが、楽かもしれない。
平らな心で言葉を選び、伝わるように苦心して、素直な気持ちを伝える。
そこには「頭を使う」という作業が必要になってくる。
それに那智さんは、なんでも聞いてくれるわけじゃない。
忙しいときはもちろんだけど、同じことを、すぐ繰り返してぐずるのはダメ。
以前も、繰り返したことがあって、それは「パス」と却下されてしまった。
でも、そこで、わたしは頭を使う。
同じ内容だけど、切り口を変えたり視点を変えたりして、同じだけど違うことに仕立て上げるのだ。
そうすると、その努力は買われて、多少付き合ってくれる。
ね、全然、全部晒せじゃないでしょ!?
でも、だから、わたしは「依存」という鎖で思考停止にならずに済んでいると思ってる。
違うことかもしれないけど。
DVに苦しむ女性は、思考停止状態に陥るというのを聞いたことがある。
日々の暴力により、先のことまで考えられなくなってしまうそうだ。
「今日、ぶたれなかった」「今日は彼(夫)の機嫌がよかった」とその日その日で精一杯になり、それ以上の思考が働かなくなってしまうそうだ。
奴隷願望の矛盾に苦しんでるような物を目にすると、わたしはこのDVの構造を思い出す。
主と奴隷という特殊な関係を完成させようとして、でも、「奴隷願望の矛盾」を感じている人や、「すべてを晒せ、すべてを受け止める」と言われてるのに心底「快」を感じられない人がいるかもしれない。
全部晒せ、受け止める。
俺のすべてを受け止めろ。
人間関係に於いて「すべて」なんてあり得ないとわたしは思う。
すべて相手任せで関係は作れないよね。(ああ、わたし、かなり那智さん任せですけど、それでもすべてじゃない!!と言い張りたい 笑)
手を繋いでいたい人を見つけたら、全力で頭を使い、思考停止せず関係を作るの。
相手に伝わるように言葉を選んで、互いに手を伸ばし合えるように。
だからこそ、思考停止をしちゃいけない。
主従とか奴隷とかについて勝手に書いてます。
批判的なことになってるかもしれないので、苦手なかたはスルーしてください。
あと、筋も通ってないかもしれない…^^;
このところ主従とか考えてて、じゃあ、わたしたちはなんだろうと思いました。
端から見たらどうかわかりませんけど。
わたしがイメージする「わたしたち」。
「お互いの幸福のために、同じ方向を向いて手を繋いで歩いてる。」
わたしは、そんな図を想像した。(ずいぶんと那智さんに教えられた部分が大きいなぁ)
どちらのためでもなく、お互いのために手を繋ぐ。
わたしが不得意なことは那智さんに助けてもらって、逆にわたしのほうが上手なことはわたしがする。
ただそれだけ。
そう那智さんに話したら、それに那智さんの考えを付け加えられた。
「ずっと同じ方向を向いていたり手を繋いでいられるとは限らないよね。意見が食い違ったりしてお互い違う方向を向いて手が離れてしまうこともある。だから、何よりも『手を伸ばそう』と思うことが大事なんじゃないかな。」
そうですね、人間同士なんだから離れてしまうこともある、わたしたちもそういうことあったけど、また手を繋ぎたいと思えることが重要ですね。
そんな話しをしていたら、山本文緒さんの「恋愛中毒」の一節を思い出した。(原文のままじゃないかも!?)
「ただひたすら歩きながら、いつしか私は祈っていた。
どうか、神様。
いや、神様なんかにお願いするのはやめよう。
どうか、どうか、私。
これから先の人生、他人を愛しすぎないように。
愛しすぎて、相手も自分もがんじがらめにしないように。
私は好きな人の手を強く握りすぎる。相手が痛がっていることにすら気がつかない。
だからもう二度と誰の手も握らないように・・」
いま、わたしが思っていることと、この小説の内容が同じだとは思わない、最後の一行は「誰の手も握らない」と言ってるしね。
でも、この有名な一節を思い出した。
強く強く、手を握ってしまうのだ。
相手がどうかなんて気づかずに。
わたしの場合、それは不安とか焦燥感からのようだった。
手を離したらもうなくなってしまう、ひとりが不安でしかたないから、絶対に離すまいと強く握る。
でも、実は、その手の持ち主が本当に好きなのか、わからないのだ。
ただ、手がないと不安なの。
だから、強く握ることに執着してしまう。
時には、離したくないがために、不本意な方向に引きずられてしまってボロボロに傷付いても離したくない、不安だから。
でも、手が離れたら、また繋げばいいんだよね。
繋ぎたいと思う、強く思う気持ちが大事。
そのためには相手を理解するように耳を傾け、自分の気持ちを諦めず伝える。
それは、わたしのような、不安定な愛される価値のないと思ってる依存体質(メチャクチャな人だわ、わたし)にとっては、けっこう至難の業。
だって、依存したいのだもの、依存先を失うの怖いのだもの。
つい、自分の気持ちを押し殺し「あなたのよいように、あなたに従いたい」と自分に嘘を付く。
そうしないと不安だから。
負の感情を見せないほうが得意なんだものね。
でも、絶対という人には、むしろ負の感情を見せて気持ちを伝えるほうが誠実な付き合いなのだ。
手が離れたら、また繋げばいい。
それよりも、その手が自分に本当に必要かそれを見極めることが大事。
だけど、問題は、わたしのような女は、どれが自分に必要かよくわからない。
残念なことに、自分の「快不快」に鈍感なんだ。
つい、自分の快不快を人の反応で計ってしまう、それは「快」を知らないから。
(わたしの場合は「父性」ね、父親の愛情不足で、娘時代に知るはずだった快を知らないの。といってもいつも言ってますが、もっと深刻な人はいます)
だから、「主」のような、強く差し出される手がほしいと思ってしまう。
それが自分のとって快かどうかわからずに、強い吸引力に惹かれてしまうのだ。
でも、それはとても危険。
その吸引力は、不安定なわたしがほしい言葉をくれる。
「俺に従え、言う通りにしろ」
「すべてを委ねろ」
「すべてを受け止めるから、すべて晒せ」
これは、強く手を握ってしまう女には魔法のような言葉だ。
いいの?いっぱいいっぱい握ってもいいの?
わたしの不安を消してくれるの?
でも、その言葉は危険な気がする。
「奴隷願望の矛盾」でも書いたけど、奴隷がほしい男性と従属したい女性には温度差がある場合が多いと思う。
男性の「すべてを委ねろ」と女性の「全部委ねたい」には、もともとの量が違うのではないかしら。
その量の違いがあるなかで、依存したいばかりにその言葉にすがるのは、矛盾を生むばかりではないく結果的に思考停止にさせてしまわないだろうか。
本当に、そんなに全部晒して受け止めてくれる聖徳太子のような男性がいるの?
恐らく大多数の「主」様のいうそれは、「言う通りにする女性」を作るための誘い言葉に感じる。
それを盲目的に信じて、すべて晒そうとすると思考停止に陥りそうだ。
だって、だた溢れさればいいのだもの。
だけど、それを受け入れるのは不可能だよね、聖徳太子じゃないんだもの。
その不可能を「奴隷」という言葉で、誤摩化してる?
「奴隷は主の言う通りにしてろ」って、結局縛ってる感じがする。
これって矛盾だよね、すべてを晒して、そして、従えっていうのは、それは「依存願望」の強い女にとっては、「顔色を伺う」ことに変わりないのだ。
そのくせ「すべてを晒せ」と言ってもらってるから、晒せてる気持ちになる。
でも、なんだか上手くいかない、だって、そんな聖徳太子いっぱいいないもの。
実際は全然晒せてないの、従えと言われればその時点で「顔色伺ってる」のだもの。
だから、すべてを委ねるなんて、無理だし、しちゃいけない。
那智さんはわたしに「素直に伝える」ことを課している。
わたしは、これを「すべて晒す」ことではないと思ってる。
わたしの思う「素直に伝える」は、思ってること起こったこと全部を吐き出すことだとは思っていないのです。
心を平らにして伝えることだと思ってます。
相手を、傷付けようとか、言い負かそうとか、謝らせようとか、思わず。
自分は、いじけず、ひねくれず、卑屈にならず、投げやりにならず。
基本は、相手を大切に思ってるという前提で話す。
これはけっこう大変で、すべて晒したり、自分を卑下したりするほうが楽かもしれないのだ。
いじけてすねて卑屈になって、伝わらないもどかしさを八つ当たりという形で、感情を晒す。
そのほうが、楽かもしれない。
平らな心で言葉を選び、伝わるように苦心して、素直な気持ちを伝える。
そこには「頭を使う」という作業が必要になってくる。
それに那智さんは、なんでも聞いてくれるわけじゃない。
忙しいときはもちろんだけど、同じことを、すぐ繰り返してぐずるのはダメ。
以前も、繰り返したことがあって、それは「パス」と却下されてしまった。
でも、そこで、わたしは頭を使う。
同じ内容だけど、切り口を変えたり視点を変えたりして、同じだけど違うことに仕立て上げるのだ。
そうすると、その努力は買われて、多少付き合ってくれる。
ね、全然、全部晒せじゃないでしょ!?
でも、だから、わたしは「依存」という鎖で思考停止にならずに済んでいると思ってる。
違うことかもしれないけど。
DVに苦しむ女性は、思考停止状態に陥るというのを聞いたことがある。
日々の暴力により、先のことまで考えられなくなってしまうそうだ。
「今日、ぶたれなかった」「今日は彼(夫)の機嫌がよかった」とその日その日で精一杯になり、それ以上の思考が働かなくなってしまうそうだ。
奴隷願望の矛盾に苦しんでるような物を目にすると、わたしはこのDVの構造を思い出す。
主と奴隷という特殊な関係を完成させようとして、でも、「奴隷願望の矛盾」を感じている人や、「すべてを晒せ、すべてを受け止める」と言われてるのに心底「快」を感じられない人がいるかもしれない。
全部晒せ、受け止める。
俺のすべてを受け止めろ。
人間関係に於いて「すべて」なんてあり得ないとわたしは思う。
すべて相手任せで関係は作れないよね。(ああ、わたし、かなり那智さん任せですけど、それでもすべてじゃない!!と言い張りたい 笑)
手を繋いでいたい人を見つけたら、全力で頭を使い、思考停止せず関係を作るの。
相手に伝わるように言葉を選んで、互いに手を伸ばし合えるように。
だからこそ、思考停止をしちゃいけない。