庇護
独特な幸福感
那智さんの足下にいるのが好き。
椅子に腰掛けたり、座椅子に座ったりしてる足下にいるのが好き。
腰に腕を回して髪を撫でてもらったり、上を向かされてそのままビンタされたり(ビンタはいつまでたっても怖いけど)、床に付いた掌を靴を履いた足でぎゅっと踏まれたり。
なんでもいい、そこで行われる何かがいいのではなく、那智さんの足下の世界に存在してる私でいるのが、好き。
私をそこに置いて、したいようにしてもらっているのが好き。
那智さんの護られている象徴のような足下が好き。
この護られていると感じることを定期的にしてもらわないと、私はだんだん乾いてしまう。
ほんとは毎日ほしいのだけどそれは叶わないから、時々でも定期的にほしい。
そうしないと心が寂しくなってしまう。
ビンタされてお尻をスパンキングされて幸せに朦朧としながら、那智さんの足下にうずくまる。
掌に足を載せられて、那智さんを見上げて、ああ、わたしこれがほしかったって、心が解ける。
嬉しくて涙がはらはらと流れる。
性癖と、父性を求める欲求を同時に叶えてもらっている幸せな時間だ。
ほんとにこの世界が、わたしには必要。
そう思って聞いてみる。
「わたしは、那智さんの足下にいる、そういう存在になっているというのが、すごーく好きですけど、那智さんはわたしを足下に置くような行為は好きですか?どっちかというと那智さんよりわたしの方が好きですよね。」
そうなんだ、那智さんはそれほどでもないけど、私が好き好んで那智さんの足下にいそいそと行ってる気がするの。
「そうだね、俺は『りん子、幸せそうだな〜』と思って見てる。俺はね、いつもりん子が足下にいると感じてるから、実際に足下にいるときはただの確認作業って感じかな。」
那智さんは目に見えない「存在」でかなり満足できるところがあるみたい。
だから、「りん子がもし死んでしまっても、りん子が存在していたという事実だけで充分だと思う。」なんていう。(もちろんいなくていいってわけじゃないですよ^^;)
多分普段から「りん子を庇護の元に置いてる」と感じているのだろう。
だから、わざわざ足下に置かなくても満たされてる(那智さんが庇護していることで満たされる人だとして、多分そう)
私はダメ。
まだ、那智行半ば。
目に見える、皮膚で感じる、形あるものを欲してしまう。
それがないと、悲しい。
「那智さんはいつもわたしは那智さんの足下にいる存在として感じられてるのですね。じゃあ、わたしの位置は下?わたしたちは対等じゃないのですか?」
話が違う方向にいってる。
対等でいないと苦しくなるくせに、下にいたいという私の矛盾。
お腹を見せて、尊重してという私の理不尽。
だから、つい対等でいるか、確認したくなっちゃう。
「そうくると思った(笑)対等だよ。下にいるけど目線は同じ高さ。たとえば俺が立ってて、りん子が台に乗ってしゃがんでる感じ?(笑)」(←あんまりクラッと来るような表現じゃないですよ^^;)
う〜ん、わかるような、わからないような。
私でさえ、感覚でだけ理解できてるこの関係。
これを言葉にしてみても、読んでくださる方には、まったく理解不能ですよね。
でも、書いちゃう^^
足下にいるの幸せなんだもん。
「足下」=「護られてる象徴」なんだな。
普段から、何かあるとすぐ「那智さ〜ん」と泣きついて、何にもなくても「那智さん♪」ってメールして、そりゃあ、那智さんは「いっつも庇護下」にあると感じますよね。
意外とやってるほうは、受け止めてもらってる意識が薄らいでしまう(それでも感謝は忘れないですよ!!護られているという意識ね)
何事も、加害者より被害者のほうが意識として残りますものね^^;
那智さん、ビンタしてるのに被害者!?
わたし、ビンタされてるのに、加害者^^
那智さんの足下にいるのが好き。
椅子に腰掛けたり、座椅子に座ったりしてる足下にいるのが好き。
腰に腕を回して髪を撫でてもらったり、上を向かされてそのままビンタされたり(ビンタはいつまでたっても怖いけど)、床に付いた掌を靴を履いた足でぎゅっと踏まれたり。
なんでもいい、そこで行われる何かがいいのではなく、那智さんの足下の世界に存在してる私でいるのが、好き。
私をそこに置いて、したいようにしてもらっているのが好き。
那智さんの護られている象徴のような足下が好き。
この護られていると感じることを定期的にしてもらわないと、私はだんだん乾いてしまう。
ほんとは毎日ほしいのだけどそれは叶わないから、時々でも定期的にほしい。
そうしないと心が寂しくなってしまう。
ビンタされてお尻をスパンキングされて幸せに朦朧としながら、那智さんの足下にうずくまる。
掌に足を載せられて、那智さんを見上げて、ああ、わたしこれがほしかったって、心が解ける。
嬉しくて涙がはらはらと流れる。
性癖と、父性を求める欲求を同時に叶えてもらっている幸せな時間だ。
ほんとにこの世界が、わたしには必要。
そう思って聞いてみる。
「わたしは、那智さんの足下にいる、そういう存在になっているというのが、すごーく好きですけど、那智さんはわたしを足下に置くような行為は好きですか?どっちかというと那智さんよりわたしの方が好きですよね。」
そうなんだ、那智さんはそれほどでもないけど、私が好き好んで那智さんの足下にいそいそと行ってる気がするの。
「そうだね、俺は『りん子、幸せそうだな〜』と思って見てる。俺はね、いつもりん子が足下にいると感じてるから、実際に足下にいるときはただの確認作業って感じかな。」
那智さんは目に見えない「存在」でかなり満足できるところがあるみたい。
だから、「りん子がもし死んでしまっても、りん子が存在していたという事実だけで充分だと思う。」なんていう。(もちろんいなくていいってわけじゃないですよ^^;)
多分普段から「りん子を庇護の元に置いてる」と感じているのだろう。
だから、わざわざ足下に置かなくても満たされてる(那智さんが庇護していることで満たされる人だとして、多分そう)
私はダメ。
まだ、那智行半ば。
目に見える、皮膚で感じる、形あるものを欲してしまう。
それがないと、悲しい。
「那智さんはいつもわたしは那智さんの足下にいる存在として感じられてるのですね。じゃあ、わたしの位置は下?わたしたちは対等じゃないのですか?」
話が違う方向にいってる。
対等でいないと苦しくなるくせに、下にいたいという私の矛盾。
お腹を見せて、尊重してという私の理不尽。
だから、つい対等でいるか、確認したくなっちゃう。
「そうくると思った(笑)対等だよ。下にいるけど目線は同じ高さ。たとえば俺が立ってて、りん子が台に乗ってしゃがんでる感じ?(笑)」(←あんまりクラッと来るような表現じゃないですよ^^;)
う〜ん、わかるような、わからないような。
私でさえ、感覚でだけ理解できてるこの関係。
これを言葉にしてみても、読んでくださる方には、まったく理解不能ですよね。
でも、書いちゃう^^
足下にいるの幸せなんだもん。
「足下」=「護られてる象徴」なんだな。
普段から、何かあるとすぐ「那智さ〜ん」と泣きついて、何にもなくても「那智さん♪」ってメールして、そりゃあ、那智さんは「いっつも庇護下」にあると感じますよね。
意外とやってるほうは、受け止めてもらってる意識が薄らいでしまう(それでも感謝は忘れないですよ!!護られているという意識ね)
何事も、加害者より被害者のほうが意識として残りますものね^^;
那智さん、ビンタしてるのに被害者!?
わたし、ビンタされてるのに、加害者^^
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