自分基準
りん子的独り言(エラそう)
公園飲みのお話には続きがありまして。
蚊がいたから虫除けと蚊取り線香を買いに行ったり、蚊取り線香をつける火がないから遠くでタバコに火をつける人を見つけて那智さんに借りに行ってもらったり、パテに合わせたラスクがガーリック味でまずくはないけどバッチリでもない状態だったり(笑)
あっという間に2時間ほど過ぎた。
まだ夕暮れにもならない明るい空だったけどお酒もなくなってきたし、そろそろお開きとなった。
さくさくっと片付けをする。
残ったおつまみとパテの容器などは持ち帰り、缶と瓶はまとめて購入したコンビニに捨てさせてもらうかな。
それぞれまとめる。
ふと、さっき片付けた誰かのゴミたちが目に入る。
うーん、これも持ち帰るべきだろうか。
誰のかわからない捨てられていたゴミたちはなんとなく気持ち悪いなぁ。
一緒にコンビニに捨てさせてもらうとしても分別するために開封してそれらを触らないといけない、手間も気分もよくない。
なんで他人の行いにそこまでしないといけないのか、ちょっと腹立たしい気持ちもある。
でも、ゴミを置いていくのは散らかして捨てているのを同じにならないか。
ちょっと迷った。
那智さん、このゴミ、どうします?
那智さんに聞いてみた。
置いていけばいいよ
公園を管理しているところが片してくれるよ
たしかに、ここはトイレもある大きな公園だ。
おそらく行政が管理していて定期的に清掃も入るだろう。
ひとまとめにして置いておけばきっと捨ててくれる。
わたしはホッとした。
今度は那智さんの正解が、わたしの正解だったのだ。
物事の良し悪しって一見統一されているようで実はひとや状況で違ってくるのだなって思う。
何事も良い行いをするほうがいいに決まっているけど、そう簡単に良い行いを連発できるものじゃない(笑)
じゃあ、なにを基準にするのかっていったら、やっぱり『自分が基準』なんだよね。
わたしにとって、散らかっている他人のゴミをまとめることは負担ではなかった。
汚いな~とか、なんでわたしがやらなきゃいけないんだろうとか思ったけど、それより快適に飲むほうが勝ったのだ。
でも、持ち帰ることは負担だった。
わたしの心が『負担』だと感じているのがわかった。
この差はとても大きいのだ。
たとえば、災害時とか目の前で助けを求めている人がいた場合なんかは負担だろうがなんだろうが良い行いをするべきなことはわかっているけど、日々の小さな、でもとてもたくさんある判断は自分が基準、わたしが快適か負担じゃないかで決めるほうが幸福感は高いと思う。
学生の頃、友人に「りん子は自分が無理してでも相手に親切にできるけど、わたしはできる範囲でしかしないから、りん子のほうが優しい」と言われたことがある。
きっと昔のわたしだったらゴミは持ち帰ろうとしたような気がする。
自分が基準じゃなくて、自分の快適や負担がイマイチわからなかったから。
友人に言われた時は、優しさってその人の中で精一杯のことを『優しさ』っていうんじゃないかな、だから、友達のできる優しさをすればいいだけだよって思ったのだけど、那智さんに出会う前のわたしは、実はそれを実践できていなかったのだよね。
もしかしたら、昔のわたしに比べたら、いまのわたしのほうが良い行の回数は減っているかもしれない。
でも、きっといまのほうが幸福だ。
残念ながら良い行の回数は減り、自分の快適のために行うのだから、利己的な『良い行い』なのかもしれない。
でも、自分を基準にすること、快適と負担を感じるとることを知ったわたしは、もうこのわたしで行くしかない。
だから、これからは利己的に自分の快適を追い求める機会を増やし、結果的に良い行いを増やすことにしよう(笑)
一般的にとか普通だったらとかじゃなくて自分の心を感じ取ってどうするか決めていきたいよね。
そのほうが幸せだし、自分が幸せを感じてはじめて良い行いもできるってものだ^^
と、いろいろ考えた出来事でした。
でも、まあ、自分の出したゴミは持ち帰ろうね~(笑)
「等式」「自分基準」感想です。
確かあの時は公園にあるトイレ前、飲料の自動販売機近くに置いてきたかな。りん子の言う「利己的な良い行い」は考えさせられる。今は見かけないけれど電車の中、空き缶が転がっているのを自分の前で立たすのは自分の快適だなと思った。
公園飲みのお話には続きがありまして。
蚊がいたから虫除けと蚊取り線香を買いに行ったり、蚊取り線香をつける火がないから遠くでタバコに火をつける人を見つけて那智さんに借りに行ってもらったり、パテに合わせたラスクがガーリック味でまずくはないけどバッチリでもない状態だったり(笑)
あっという間に2時間ほど過ぎた。
まだ夕暮れにもならない明るい空だったけどお酒もなくなってきたし、そろそろお開きとなった。
さくさくっと片付けをする。
残ったおつまみとパテの容器などは持ち帰り、缶と瓶はまとめて購入したコンビニに捨てさせてもらうかな。
それぞれまとめる。
ふと、さっき片付けた誰かのゴミたちが目に入る。
うーん、これも持ち帰るべきだろうか。
誰のかわからない捨てられていたゴミたちはなんとなく気持ち悪いなぁ。
一緒にコンビニに捨てさせてもらうとしても分別するために開封してそれらを触らないといけない、手間も気分もよくない。
なんで他人の行いにそこまでしないといけないのか、ちょっと腹立たしい気持ちもある。
でも、ゴミを置いていくのは散らかして捨てているのを同じにならないか。
ちょっと迷った。
那智さん、このゴミ、どうします?
那智さんに聞いてみた。
置いていけばいいよ
公園を管理しているところが片してくれるよ
たしかに、ここはトイレもある大きな公園だ。
おそらく行政が管理していて定期的に清掃も入るだろう。
ひとまとめにして置いておけばきっと捨ててくれる。
わたしはホッとした。
今度は那智さんの正解が、わたしの正解だったのだ。
物事の良し悪しって一見統一されているようで実はひとや状況で違ってくるのだなって思う。
何事も良い行いをするほうがいいに決まっているけど、そう簡単に良い行いを連発できるものじゃない(笑)
じゃあ、なにを基準にするのかっていったら、やっぱり『自分が基準』なんだよね。
わたしにとって、散らかっている他人のゴミをまとめることは負担ではなかった。
汚いな~とか、なんでわたしがやらなきゃいけないんだろうとか思ったけど、それより快適に飲むほうが勝ったのだ。
でも、持ち帰ることは負担だった。
わたしの心が『負担』だと感じているのがわかった。
この差はとても大きいのだ。
たとえば、災害時とか目の前で助けを求めている人がいた場合なんかは負担だろうがなんだろうが良い行いをするべきなことはわかっているけど、日々の小さな、でもとてもたくさんある判断は自分が基準、わたしが快適か負担じゃないかで決めるほうが幸福感は高いと思う。
学生の頃、友人に「りん子は自分が無理してでも相手に親切にできるけど、わたしはできる範囲でしかしないから、りん子のほうが優しい」と言われたことがある。
きっと昔のわたしだったらゴミは持ち帰ろうとしたような気がする。
自分が基準じゃなくて、自分の快適や負担がイマイチわからなかったから。
友人に言われた時は、優しさってその人の中で精一杯のことを『優しさ』っていうんじゃないかな、だから、友達のできる優しさをすればいいだけだよって思ったのだけど、那智さんに出会う前のわたしは、実はそれを実践できていなかったのだよね。
もしかしたら、昔のわたしに比べたら、いまのわたしのほうが良い行の回数は減っているかもしれない。
でも、きっといまのほうが幸福だ。
残念ながら良い行の回数は減り、自分の快適のために行うのだから、利己的な『良い行い』なのかもしれない。
でも、自分を基準にすること、快適と負担を感じるとることを知ったわたしは、もうこのわたしで行くしかない。
だから、これからは利己的に自分の快適を追い求める機会を増やし、結果的に良い行いを増やすことにしよう(笑)
一般的にとか普通だったらとかじゃなくて自分の心を感じ取ってどうするか決めていきたいよね。
そのほうが幸せだし、自分が幸せを感じてはじめて良い行いもできるってものだ^^
と、いろいろ考えた出来事でした。
でも、まあ、自分の出したゴミは持ち帰ろうね~(笑)
「等式」「自分基準」感想です。
確かあの時は公園にあるトイレ前、飲料の自動販売機近くに置いてきたかな。りん子の言う「利己的な良い行い」は考えさせられる。今は見かけないけれど電車の中、空き缶が転がっているのを自分の前で立たすのは自分の快適だなと思った。
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