意固地
独特な幸福感
あれはたしか会った日の帰り。
まだアルコールが残る中で交わされた話。
何度か書いているけれど、最近の那智さんはセックスを自由に楽しみ、盛り上がっている。
いままでも飽きないためにコントロールする自由や、それ自体も『したいこと』だったので自由といえば自由だったけど。
最近は『飽きないためのコントロール』みたいな枷も取っ払ったから、自由の次元が変わったという感じ。
もう15年やってても飽きないのだから、そう簡単には飽きないのではないか(仮に飽きてきたとしても、もう随分堪能したから諦められるかも 笑)。
自分とりん子の体力やパワーも加齢とともに下降していくとすれば自由に楽しもうと思ったのかな。
で、そうすると『本当にしたいこと』が浮かび上がってくるんじゃないかなと。
那智さんにとって、わたしとの間での『したいこと』はとても広い意味で使う言葉。
『愛情表現』だったり『セックス』だったりをいかに長く、良好に継続し、お互い幸福でいるか、おそらく、こういう広い意味で『したいこと』。
そのために縛るし、撫でるし、剃毛もするし、バーベキューもする。
『これがしたい!』のではなく広い意味で『したいこと』をするための日々の行為なのだ。
だから、良好に継続できると判断したいま、那智さんがしていることは『本当にしたいこと』なんじゃないかなと思うわけです。
ピンポイントの『したいこと』をあまり見せない、自分の欲望を前面に出さない那智さんの『本当にしたいこと』のヒントみたいな最近が、わたしは嬉しくて、そんなことを話題に出した。(ここまで、前振り 笑)
那智さんが自由にやろうと思うようになってから、最近やっていることの中に那智さんの『本当にやりたいこと』があると思いませんか?
こんな問いに
「そうはいっても、いまでも考えてやっている」、したいことをしているだけではないというようはお返事だった。
特に『痛覚』に関しては前からずっとコントロールしていると。
物事は、どうしてもエスカレートしていくもの。
その中で『痛覚』がエスカレートしていくと、とても危険だと。
痛覚は最終的に、あのキティちゃんの人に行き着いちゃうんだよ
ずっと昔、SMショーを見にいったときに出演していた素人(?)の年配男性。
白髪交じりに、その男性の身体中に切り傷の痕があった。
イニシャルらしきアルファベットやキティちゃんっぽいネコのイラストまで掘られていた。
その人の性癖や背負うものを否定するつもりではないのだけど、あれは何かを諦めないと手に入らないものだろう。
那智さんはわたしが温泉を楽しめる程度の社会性を維持しておきたいと考えているので、その不自由に向かっていくような『痛覚』をエスカレートさせることは自制しているというのだ。
あのキティちゃんに行き着いちゃうんだよ
と、いまでも、ある部分は解放して、ある部分はコントロールしているという話をした。
でも、まあ、それももういいのかなぁ
えっ?
いや、あのおじさんみたいにするってことじゃないよ(笑)
でも、『痛覚』もいままでほど気にしなくてもいいかなと思った
もちろん、わたしたちのしている『痛覚』や行き着く先なんて、相対的に測るものではないのよ。
だから、すごいことになるってことじゃなくて、そういう気持ちで行うってことね。
だって、いまでも思うもん
りん子のお尻見て、これ俺がつけた痕だなとか、乳首大きくなったなとか
『痛覚』による刺激で、痕に残そうと意識してつけたものではなく、積み重ねで、ひとりの女の体に軌跡を残す。
世の中にはもっと色々している人はたくさんいる。
証としてピアスや刺青を残している人も。
だけど、那智さんの美意識や幸福としての『行き着く先』はすでに叶っているのかもしれない。
いままでの年月を振り返り、まだ見えない先の存在を感じ、なんだかめまいを起こしそう。
そして、那智さんにしかわからない軌跡を、そんなふうに思って見ていたのかと思うと恐ろしいような幸福で胸が少し苦しかった。
そんな話の後、また話は別の方向へ。
でも、りん子、痛いことダメなんだもんね(笑)
と。
ある時から事情があり痛いことをから遠ざかっていたことは何度か書いた。
その理由のひとつが鞭紛失だったのだけど、見つかって再開し始めたのだけど、わたしの反応がイマイチだった。
あんな痛いこと、長年かけてやっと到達できた境地にそう簡単に行かれるわけない。
簡単に行かれると思わないでほしい、あんな痛いこと、怖くて、どういう気持ちでいればいいかわからない。
鞭が見つかってからしばらく打ったけど、自分でもどうしていいかわからず、あまり前向きな状態にはならなかったから、反応がイマイチでここ最近はお休みしていた。
だから、痛覚の話から、こういう話になったわけ。
ダメっていうか、そんなに簡単に快感になれないと思うから、怖いし、どうしていいかわからないんですよ
そうかな
自転車みたいなもので、一度できるようになったら時間が経ってもすぐできると思っているんだけどね
これは那智さんの理論で、一回できるようになったことは体が覚えていて、最初はまごついてもすぐ感覚を取り戻してできるようになることを『痛覚』も同じだと考えているのだ。
人の快感って、そんなに簡単なものなの?
なんとなく反発したい気持ちが湧く、と同時に、わたしはもうあきらめようと思った。
痛いことは痛い。
痛いことは怖い。
そんなことを快感にするなんて、そう簡単なことじゃない。
遊ばなくなったおもちゃを気まぐれで引っ張りだしても、電池を入れ替え油を差し汚れを磨かないと、以前のようには遊べない。
だから、ずっと『そんな簡単じゃない』と、本気で怖がっているし、本気で困惑しているのだ。
だけど、わかってる。
いま言わないとずっと言えない。
反発する気持ちを諦めよう。
那智さん、わたし、意固地になっているんです
わかってた。
ずっと。
痛いことは痛いし、怖い。
あんな痛いこと、そんな簡単に快感にできない。
どれも本当にそう思う。
でも、ずっと思っていた。
焦がれていた痛いこと、あの時感じた安堵と快感をもう一度味わわせて。
痛くて怖くて尻込みするわたしをあの時のような情熱と根気で連れて行って。
自転車みたいに簡単に取り戻せるなんて思わないで。
するつもりないなら、思い出させないで。
諸事情は理解しているし、自分の年齢などでパフォーマンスが落ちるのも理解しているけど、諦めたい気持ちがどんどんこじれて『意固地』になっているの、薄々わかっていた。
那智さん、わたし、意固地になっているんです
やっと言えた。
そうだね
でも、本当に怖いし、あんなふうになれるか自信ありません
これも本当の気持ち。
なれるよ
いま、この話したから
そうだろうか。
そんなに簡単なことだろうかわからない。
いまでも怖いし、あんなふうになれる自信はない。
このエントリーで那智さんがプレッシャーを感じるのはイヤだ。
やりたいことだけをしてほしい、少しでもやりたくないならしないでほしい。
そんな気持ちは当然ある。
でも、少なくともここ数年、諦めとともに凝り固まっていたものが軽くなったのはたしかだ。
意固地になっていた。
これを認めて言葉にすることは、ひとつ何かを解放してくれるおまじないのような時間だった。
<関連エントリー>
キティちゃん
少数派?多数派?3
意固地になっていたからこんなの書いていたのですよ(笑)
遠い日の花火
年老いたバレリーナ
「等式」「意固地」感想です。鞭を打つ私の心の体力も必要。打つ私が圧倒的な自信と確信がないと出来ない。でも、先日少し予行練習が出来た、とんでもなく痛いことを何気なくした。あれは今までやったことが無いくらい長い時間だったことを。その時のエントリーが次の「自転車理論」でした。(笑)
あれはたしか会った日の帰り。
まだアルコールが残る中で交わされた話。
何度か書いているけれど、最近の那智さんはセックスを自由に楽しみ、盛り上がっている。
いままでも飽きないためにコントロールする自由や、それ自体も『したいこと』だったので自由といえば自由だったけど。
最近は『飽きないためのコントロール』みたいな枷も取っ払ったから、自由の次元が変わったという感じ。
もう15年やってても飽きないのだから、そう簡単には飽きないのではないか(仮に飽きてきたとしても、もう随分堪能したから諦められるかも 笑)。
自分とりん子の体力やパワーも加齢とともに下降していくとすれば自由に楽しもうと思ったのかな。
で、そうすると『本当にしたいこと』が浮かび上がってくるんじゃないかなと。
那智さんにとって、わたしとの間での『したいこと』はとても広い意味で使う言葉。
『愛情表現』だったり『セックス』だったりをいかに長く、良好に継続し、お互い幸福でいるか、おそらく、こういう広い意味で『したいこと』。
そのために縛るし、撫でるし、剃毛もするし、バーベキューもする。
『これがしたい!』のではなく広い意味で『したいこと』をするための日々の行為なのだ。
だから、良好に継続できると判断したいま、那智さんがしていることは『本当にしたいこと』なんじゃないかなと思うわけです。
ピンポイントの『したいこと』をあまり見せない、自分の欲望を前面に出さない那智さんの『本当にしたいこと』のヒントみたいな最近が、わたしは嬉しくて、そんなことを話題に出した。(ここまで、前振り 笑)
那智さんが自由にやろうと思うようになってから、最近やっていることの中に那智さんの『本当にやりたいこと』があると思いませんか?
こんな問いに
「そうはいっても、いまでも考えてやっている」、したいことをしているだけではないというようはお返事だった。
特に『痛覚』に関しては前からずっとコントロールしていると。
物事は、どうしてもエスカレートしていくもの。
その中で『痛覚』がエスカレートしていくと、とても危険だと。
痛覚は最終的に、あのキティちゃんの人に行き着いちゃうんだよ
ずっと昔、SMショーを見にいったときに出演していた素人(?)の年配男性。
白髪交じりに、その男性の身体中に切り傷の痕があった。
イニシャルらしきアルファベットやキティちゃんっぽいネコのイラストまで掘られていた。
その人の性癖や背負うものを否定するつもりではないのだけど、あれは何かを諦めないと手に入らないものだろう。
那智さんはわたしが温泉を楽しめる程度の社会性を維持しておきたいと考えているので、その不自由に向かっていくような『痛覚』をエスカレートさせることは自制しているというのだ。
あのキティちゃんに行き着いちゃうんだよ
と、いまでも、ある部分は解放して、ある部分はコントロールしているという話をした。
でも、まあ、それももういいのかなぁ
えっ?
いや、あのおじさんみたいにするってことじゃないよ(笑)
でも、『痛覚』もいままでほど気にしなくてもいいかなと思った
もちろん、わたしたちのしている『痛覚』や行き着く先なんて、相対的に測るものではないのよ。
だから、すごいことになるってことじゃなくて、そういう気持ちで行うってことね。
だって、いまでも思うもん
りん子のお尻見て、これ俺がつけた痕だなとか、乳首大きくなったなとか
『痛覚』による刺激で、痕に残そうと意識してつけたものではなく、積み重ねで、ひとりの女の体に軌跡を残す。
世の中にはもっと色々している人はたくさんいる。
証としてピアスや刺青を残している人も。
だけど、那智さんの美意識や幸福としての『行き着く先』はすでに叶っているのかもしれない。
いままでの年月を振り返り、まだ見えない先の存在を感じ、なんだかめまいを起こしそう。
そして、那智さんにしかわからない軌跡を、そんなふうに思って見ていたのかと思うと恐ろしいような幸福で胸が少し苦しかった。
そんな話の後、また話は別の方向へ。
でも、りん子、痛いことダメなんだもんね(笑)
と。
ある時から事情があり痛いことをから遠ざかっていたことは何度か書いた。
その理由のひとつが鞭紛失だったのだけど、見つかって再開し始めたのだけど、わたしの反応がイマイチだった。
あんな痛いこと、長年かけてやっと到達できた境地にそう簡単に行かれるわけない。
簡単に行かれると思わないでほしい、あんな痛いこと、怖くて、どういう気持ちでいればいいかわからない。
鞭が見つかってからしばらく打ったけど、自分でもどうしていいかわからず、あまり前向きな状態にはならなかったから、反応がイマイチでここ最近はお休みしていた。
だから、痛覚の話から、こういう話になったわけ。
ダメっていうか、そんなに簡単に快感になれないと思うから、怖いし、どうしていいかわからないんですよ
そうかな
自転車みたいなもので、一度できるようになったら時間が経ってもすぐできると思っているんだけどね
これは那智さんの理論で、一回できるようになったことは体が覚えていて、最初はまごついてもすぐ感覚を取り戻してできるようになることを『痛覚』も同じだと考えているのだ。
人の快感って、そんなに簡単なものなの?
なんとなく反発したい気持ちが湧く、と同時に、わたしはもうあきらめようと思った。
痛いことは痛い。
痛いことは怖い。
そんなことを快感にするなんて、そう簡単なことじゃない。
遊ばなくなったおもちゃを気まぐれで引っ張りだしても、電池を入れ替え油を差し汚れを磨かないと、以前のようには遊べない。
だから、ずっと『そんな簡単じゃない』と、本気で怖がっているし、本気で困惑しているのだ。
だけど、わかってる。
いま言わないとずっと言えない。
反発する気持ちを諦めよう。
那智さん、わたし、意固地になっているんです
わかってた。
ずっと。
痛いことは痛いし、怖い。
あんな痛いこと、そんな簡単に快感にできない。
どれも本当にそう思う。
でも、ずっと思っていた。
焦がれていた痛いこと、あの時感じた安堵と快感をもう一度味わわせて。
痛くて怖くて尻込みするわたしをあの時のような情熱と根気で連れて行って。
自転車みたいに簡単に取り戻せるなんて思わないで。
するつもりないなら、思い出させないで。
諸事情は理解しているし、自分の年齢などでパフォーマンスが落ちるのも理解しているけど、諦めたい気持ちがどんどんこじれて『意固地』になっているの、薄々わかっていた。
那智さん、わたし、意固地になっているんです
やっと言えた。
そうだね
でも、本当に怖いし、あんなふうになれるか自信ありません
これも本当の気持ち。
なれるよ
いま、この話したから
そうだろうか。
そんなに簡単なことだろうかわからない。
いまでも怖いし、あんなふうになれる自信はない。
このエントリーで那智さんがプレッシャーを感じるのはイヤだ。
やりたいことだけをしてほしい、少しでもやりたくないならしないでほしい。
そんな気持ちは当然ある。
でも、少なくともここ数年、諦めとともに凝り固まっていたものが軽くなったのはたしかだ。
意固地になっていた。
これを認めて言葉にすることは、ひとつ何かを解放してくれるおまじないのような時間だった。
<関連エントリー>
キティちゃん
少数派?多数派?3
意固地になっていたからこんなの書いていたのですよ(笑)
遠い日の花火
年老いたバレリーナ
「等式」「意固地」感想です。鞭を打つ私の心の体力も必要。打つ私が圧倒的な自信と確信がないと出来ない。でも、先日少し予行練習が出来た、とんでもなく痛いことを何気なくした。あれは今までやったことが無いくらい長い時間だったことを。その時のエントリーが次の「自転車理論」でした。(笑)
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