痛すぎます 2
非日常的な日常
靴べらの冷たい痛さに弱気になっている。
そして、この後起こる酷いことと、それがもたらす快感を期待して無駄な意識が働いてしまっている。
そんな中で感じる痛みは、邪念だらけでちっとも嬉しくない。
痛い、怖い、いつまで続くの?
そんなことを考えられなくなるくらいグチャグチャになってしまったほうが、もしかしたら楽かもしれないと思ってしまうほど、この無駄な意識は邪魔だ。
ほどなくして、那智さんの動く気配を感じる。
バラ鞭だ。
グチャグチャにしてもらったほうがいいと思いながら、やはり鞭の痛みを想像するだけで、身がすくんでしまう。
今日は泣くのだろうか。
手放しでわんわん泣くのは、気持ちよかった。
地団駄を踏んで叫び声を上げたあとの放心状態も、快感だった。
すでに、弱虫な気分の私だが、あの感覚を味わおうといろんな覚悟を決めて、お尻を差し出す。
降り下ろされた鞭は、私のお尻と太腿を容赦なく打ち付ける。
あまりの衝撃に、お尻ではなく脳みそに打撃を食らったみたいだ。
一発目からこんな強さなんだ。
呻き声を上げる間もなく、二発目が飛んでくる。
「うわああ」
今度は声を上げる。
声を上げないと耐えられそうもないほど、痛い。
「人間耐えられない痛みなんて、そうそうあるもんじゃない。」と豪語していた私に教えてあげたい。
声を上げて紛らわさなくては耐えられないほどの痛みはある。
そして、それは性的な空間ででさえ、ある、と。
間髪入れずに打たれる。
バラ鞭を捻って一本の太い鞭にして打つ。
そのよろけるほどの衝撃に、思わず体をよじるけど、体勢を整えなければもっと痛い場所に鞭が飛んでくるかもしれないから、叫びながらなんとか元の体勢に戻す。
それだけで精一杯。
目に涙が溜まってくるのはわかる。
でも、号泣までには至らない。
ここでも、あの瞬間が訪れるかもしれないと少し意識している。
この意識は邪魔だ。
しかし、そう思っている時間は、僅かだった。
強い強い鞭の嵐が、私のお尻と脳みそを打ち、身をよじり、また打たれ、声を上げ続け(那智さん曰くそんなに大騒ぎしていなかったそうですが)、多少残る意識がだんだんと遠ざかっていく。
このときの私は、前回の「壊れる」という感覚は味わえなかった。
放心状態という感じではなかった。
それでも、不思議な感覚を覚えたのだ。
「痛い」
それだれなのだ。
そのときの私には「痛い」という感覚以外、感情の入る余地がないくらい「痛い」だけだったのだ。
「痛いからやめて」
「痛いけどやめないで」
「痛いことが辛い」
「痛いことが気持ち良い」
痛いという感覚に訴えるもののあとには、何かしら感情が伴うと思うのだけど、このときはそれがなかった。
「痛すぎます」ということを感じて、それを伝えるなんて思考の入る余地のない痛みだけの感覚。
感覚と感情がひとつになって「痛い」だけ。
痛い以外なにもない世界。
放心さえもできないくらい、痛いだけなのか。
それとも、この先に「破壊」が存在するのか。
そのときの私には、どうでもいいこと、「どうでもいい」と思うことすらない。
ただ痛いだけ。
それをやめてほしいのか、続けてほしいのか、そんな感情はどこかにいってしまっている。
鞭が止まった。
私も我に帰る。
痛みは残るが、すーっと隙間が開いて、怖かったとか、終わったとか、いろんな感情が湧き上がってくる。
なんだか人間に戻ったみたいだ。
それでも、やっぱり「壊れる」とは思えていなくて、でも、一回人間に戻っていろんな感情が戻ってしまって、もう今日は(今日は!!)壊れるのは怖いと、また弱気が芽生えている。
那智さんが、手首と胴体を繋ぐ縄を「ぐいっ」引き、そのまま私を和室の畳の上になぎ倒す。
無防備に両肘を掲げ、されるがままに仰向けに横たわる。
手に持っているのは洗濯バサミだ。
しかも、ビニールのラッピングがされたままの、新品。
まだ、終わりじゃないんだ。
弱気の私が戻ってしまって、もう怖くてしかたがない。
終わりかもしれないと思ってしまったから、尚更だ。
ビニールを破り取り出した洗濯バサミを、まず両方の乳首に付ける。
この痛さは、いつもの痛さと同じだ。
痛いことには変わりないが、わかっている分怖さはない。
次に乳房に、ひとつずつ。
さらに、左右に平行して胸の下からお腹にかけてみっつずつ(くらい?)。
寝転んでいるから、お腹の脂肪をつまむのに、ちょっと苦労している、当然少しだけしかつまめないから、痛い。
その痛みは刻々と増していく。
そして、おまんこにふたつずつ。
最後に、クリトリスにひとつ。
まるで、犬や猫のおっぱいみたいに、体にいくつも突起物がある異様な姿だ。
クリトリスは痛い。
刺すように痛い。
これは、怖さも相まって、無理に感じたから「これははずしてください、そうしたら耐えられる」とお願いしてしまった。
このお願いは言葉選びを間違えてしまった。
「耐えられる」ではなく「耐える努力ができる」だったのだ。
「耐えられる」だと、「じゃあ耐えられなくしてあげる♪」になってしまう。
一瞬後悔するけれど、訂正するほどの余裕は私には残っていなかった。
なぜなら、那智さんがその洗濯バサミを鞭ではたきはじめたのだ。
那智さんが用意したその洗濯バサミは、お尻(?)の部分にプラスチックの紐が輪になって付いているもの(わかります?引っ掛ける用かな)で、鞭が引っ掛かりやすいみたい。
それほど強い力ではないから、鞭自体は耐えられる。
でも、那智さんはその方法で、この洗濯バサミを弾き飛ばそうとしているのだ。
強く打てば、一度に取れる可能性は高い、でも、その痛みは想像しただけでも震えてしまう。
はたく程度なら、一度の強烈な痛みは回避できるが、じわじわと痛みが増しながら長引くのだ。
那智さんは後者を選んだ。
洗濯バサミが鞭に引っ掛かり、少しずれる。
つまむ量が少なければ少ないほど、痛くなることは避けられない。
足をばたつかせ、体を丸め、声を上げて、なんとか耐える。
更に、はたかれてひとつかふたつは弾け飛んだ。
このときの私は、感情がちゃんとある人間だ。
この14個の洗濯バサミが全部弾け飛ばなければ終わらないことも、ふたつ取るのにかかった時間から14個全部を飛ばす時間も推測できてしまう。
いっそ、感情がなくなるほど「壊れて」しまいたいと思うほど、苦痛と恐怖の持続だ。
身を捩り、腰を浮かせ、なんとか痛みと戦っている、そのとき視線を胴に向けると、ずれてしまっている洗濯バサミがつまんでいる皮膚が破けて血が滲んでいるのを見つけてしまった。
そこで、私の心は我慢できなくなってしまったのだ。
「痛すぎます」
洗濯バサミは外され、ポツポツと体に複数の乳首のような後だけが残る。
髪はぐしゃぐしゃで、お尻はヒリヒリと痛み(よく見ると、二カ所皮膚が破れて、こちらも血が滲んでいる)、洗濯バサミの痕は痛々しい。
那智さんがお風呂にお湯を張りにいってくれている間も、ぼんやりとして思い出している。
飛べていないだろう、それでも「痛すぎます」は言ってしまった。
本当に痛いのは、鞭の方だ。
だけど、あのとき私は「痛すぎます」を言うという選択肢がないほど、無感情だった。
痛すぎるときには、痛すぎますは発動しない(できない)らしい。
現実として、「痛すぎます」は、いろんな感情が混ざってできるもののようだ。
「痛い、辛い、怖い、いつまで続く?」そんなものがごちゃ混ぜになって「痛すぎます」を言ってしまうのだ。
痛すぎますは弱虫の産物、人間の証拠。
これは、「本当の痛すぎる」を那智さんに委ねることを意味するのかもしれない。
とても、怖いこと(那智さんにとってもね)だが、恐らく那智さんと私が望んでいる扉は、そういう方法で開くのではないだろうか。
それにしても、痛すぎるを伝える思考さえ停止している状態ってなんなのでしょう。
でも、飛べていないなんて、それもどうなのでしょう。
いろいろ意識してしまうけど、それもあんまり良くないように感じて、那智さんに聞いてみたら、「無理にどうすることもない、意識してしまうならすればいいよ」という答え。
自然にしていればいいのだそうだ。
こんなときも「自意識過剰」なのかな、私は。
湯船に浸かって那智さんに後ろから優しく包んでもらった。
お尻がピリピリと滲みるけど、柔らかい毛布から離れられずに滲みたままずっと抱かれていた。
靴べらの冷たい痛さに弱気になっている。
そして、この後起こる酷いことと、それがもたらす快感を期待して無駄な意識が働いてしまっている。
そんな中で感じる痛みは、邪念だらけでちっとも嬉しくない。
痛い、怖い、いつまで続くの?
そんなことを考えられなくなるくらいグチャグチャになってしまったほうが、もしかしたら楽かもしれないと思ってしまうほど、この無駄な意識は邪魔だ。
ほどなくして、那智さんの動く気配を感じる。
バラ鞭だ。
グチャグチャにしてもらったほうがいいと思いながら、やはり鞭の痛みを想像するだけで、身がすくんでしまう。
今日は泣くのだろうか。
手放しでわんわん泣くのは、気持ちよかった。
地団駄を踏んで叫び声を上げたあとの放心状態も、快感だった。
すでに、弱虫な気分の私だが、あの感覚を味わおうといろんな覚悟を決めて、お尻を差し出す。
降り下ろされた鞭は、私のお尻と太腿を容赦なく打ち付ける。
あまりの衝撃に、お尻ではなく脳みそに打撃を食らったみたいだ。
一発目からこんな強さなんだ。
呻き声を上げる間もなく、二発目が飛んでくる。
「うわああ」
今度は声を上げる。
声を上げないと耐えられそうもないほど、痛い。
「人間耐えられない痛みなんて、そうそうあるもんじゃない。」と豪語していた私に教えてあげたい。
声を上げて紛らわさなくては耐えられないほどの痛みはある。
そして、それは性的な空間ででさえ、ある、と。
間髪入れずに打たれる。
バラ鞭を捻って一本の太い鞭にして打つ。
そのよろけるほどの衝撃に、思わず体をよじるけど、体勢を整えなければもっと痛い場所に鞭が飛んでくるかもしれないから、叫びながらなんとか元の体勢に戻す。
それだけで精一杯。
目に涙が溜まってくるのはわかる。
でも、号泣までには至らない。
ここでも、あの瞬間が訪れるかもしれないと少し意識している。
この意識は邪魔だ。
しかし、そう思っている時間は、僅かだった。
強い強い鞭の嵐が、私のお尻と脳みそを打ち、身をよじり、また打たれ、声を上げ続け(那智さん曰くそんなに大騒ぎしていなかったそうですが)、多少残る意識がだんだんと遠ざかっていく。
このときの私は、前回の「壊れる」という感覚は味わえなかった。
放心状態という感じではなかった。
それでも、不思議な感覚を覚えたのだ。
「痛い」
それだれなのだ。
そのときの私には「痛い」という感覚以外、感情の入る余地がないくらい「痛い」だけだったのだ。
「痛いからやめて」
「痛いけどやめないで」
「痛いことが辛い」
「痛いことが気持ち良い」
痛いという感覚に訴えるもののあとには、何かしら感情が伴うと思うのだけど、このときはそれがなかった。
「痛すぎます」ということを感じて、それを伝えるなんて思考の入る余地のない痛みだけの感覚。
感覚と感情がひとつになって「痛い」だけ。
痛い以外なにもない世界。
放心さえもできないくらい、痛いだけなのか。
それとも、この先に「破壊」が存在するのか。
そのときの私には、どうでもいいこと、「どうでもいい」と思うことすらない。
ただ痛いだけ。
それをやめてほしいのか、続けてほしいのか、そんな感情はどこかにいってしまっている。
鞭が止まった。
私も我に帰る。
痛みは残るが、すーっと隙間が開いて、怖かったとか、終わったとか、いろんな感情が湧き上がってくる。
なんだか人間に戻ったみたいだ。
それでも、やっぱり「壊れる」とは思えていなくて、でも、一回人間に戻っていろんな感情が戻ってしまって、もう今日は(今日は!!)壊れるのは怖いと、また弱気が芽生えている。
那智さんが、手首と胴体を繋ぐ縄を「ぐいっ」引き、そのまま私を和室の畳の上になぎ倒す。
無防備に両肘を掲げ、されるがままに仰向けに横たわる。
手に持っているのは洗濯バサミだ。
しかも、ビニールのラッピングがされたままの、新品。
まだ、終わりじゃないんだ。
弱気の私が戻ってしまって、もう怖くてしかたがない。
終わりかもしれないと思ってしまったから、尚更だ。
ビニールを破り取り出した洗濯バサミを、まず両方の乳首に付ける。
この痛さは、いつもの痛さと同じだ。
痛いことには変わりないが、わかっている分怖さはない。
次に乳房に、ひとつずつ。
さらに、左右に平行して胸の下からお腹にかけてみっつずつ(くらい?)。
寝転んでいるから、お腹の脂肪をつまむのに、ちょっと苦労している、当然少しだけしかつまめないから、痛い。
その痛みは刻々と増していく。
そして、おまんこにふたつずつ。
最後に、クリトリスにひとつ。
まるで、犬や猫のおっぱいみたいに、体にいくつも突起物がある異様な姿だ。
クリトリスは痛い。
刺すように痛い。
これは、怖さも相まって、無理に感じたから「これははずしてください、そうしたら耐えられる」とお願いしてしまった。
このお願いは言葉選びを間違えてしまった。
「耐えられる」ではなく「耐える努力ができる」だったのだ。
「耐えられる」だと、「じゃあ耐えられなくしてあげる♪」になってしまう。
一瞬後悔するけれど、訂正するほどの余裕は私には残っていなかった。
なぜなら、那智さんがその洗濯バサミを鞭ではたきはじめたのだ。
那智さんが用意したその洗濯バサミは、お尻(?)の部分にプラスチックの紐が輪になって付いているもの(わかります?引っ掛ける用かな)で、鞭が引っ掛かりやすいみたい。
それほど強い力ではないから、鞭自体は耐えられる。
でも、那智さんはその方法で、この洗濯バサミを弾き飛ばそうとしているのだ。
強く打てば、一度に取れる可能性は高い、でも、その痛みは想像しただけでも震えてしまう。
はたく程度なら、一度の強烈な痛みは回避できるが、じわじわと痛みが増しながら長引くのだ。
那智さんは後者を選んだ。
洗濯バサミが鞭に引っ掛かり、少しずれる。
つまむ量が少なければ少ないほど、痛くなることは避けられない。
足をばたつかせ、体を丸め、声を上げて、なんとか耐える。
更に、はたかれてひとつかふたつは弾け飛んだ。
このときの私は、感情がちゃんとある人間だ。
この14個の洗濯バサミが全部弾け飛ばなければ終わらないことも、ふたつ取るのにかかった時間から14個全部を飛ばす時間も推測できてしまう。
いっそ、感情がなくなるほど「壊れて」しまいたいと思うほど、苦痛と恐怖の持続だ。
身を捩り、腰を浮かせ、なんとか痛みと戦っている、そのとき視線を胴に向けると、ずれてしまっている洗濯バサミがつまんでいる皮膚が破けて血が滲んでいるのを見つけてしまった。
そこで、私の心は我慢できなくなってしまったのだ。
「痛すぎます」
洗濯バサミは外され、ポツポツと体に複数の乳首のような後だけが残る。
髪はぐしゃぐしゃで、お尻はヒリヒリと痛み(よく見ると、二カ所皮膚が破れて、こちらも血が滲んでいる)、洗濯バサミの痕は痛々しい。
那智さんがお風呂にお湯を張りにいってくれている間も、ぼんやりとして思い出している。
飛べていないだろう、それでも「痛すぎます」は言ってしまった。
本当に痛いのは、鞭の方だ。
だけど、あのとき私は「痛すぎます」を言うという選択肢がないほど、無感情だった。
痛すぎるときには、痛すぎますは発動しない(できない)らしい。
現実として、「痛すぎます」は、いろんな感情が混ざってできるもののようだ。
「痛い、辛い、怖い、いつまで続く?」そんなものがごちゃ混ぜになって「痛すぎます」を言ってしまうのだ。
痛すぎますは弱虫の産物、人間の証拠。
これは、「本当の痛すぎる」を那智さんに委ねることを意味するのかもしれない。
とても、怖いこと(那智さんにとってもね)だが、恐らく那智さんと私が望んでいる扉は、そういう方法で開くのではないだろうか。
それにしても、痛すぎるを伝える思考さえ停止している状態ってなんなのでしょう。
でも、飛べていないなんて、それもどうなのでしょう。
いろいろ意識してしまうけど、それもあんまり良くないように感じて、那智さんに聞いてみたら、「無理にどうすることもない、意識してしまうならすればいいよ」という答え。
自然にしていればいいのだそうだ。
こんなときも「自意識過剰」なのかな、私は。
湯船に浸かって那智さんに後ろから優しく包んでもらった。
お尻がピリピリと滲みるけど、柔らかい毛布から離れられずに滲みたままずっと抱かれていた。
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