お散歩の理由 2
非日常的な日常
おしっこがしたいと思うことと、おしっこが出てしまうことには、大きな差があるらしい。
私たちは、日常生活で「おしっこがしたい」と思ってトイレに行って、きっと「よいしょ」と無意識に意識して排尿を後押ししているのだろう。
おしっこを出すには、意識が必要のようだ。
電車の中から、かすかな尿意は感じていた。
那智さんに会ってからも、それはずっと変わらない。
多分、トイレに行って便座に座れば「よいしょ」って無意識に後押しして、いつもと変わらない状態になるはずだ。
だけど、街中で紙おむつの中におしっこをするとなると、このかすかな尿意では、常識の壁はびくともしない。
おしっこがしたい、でも、この非常識には逆らいたい。
だけど、尿意は収まらない。
かといって、もう我慢の限界にまでは至っていない。
このどっち付かずの状態に判断を下すのは、歩きながらでは難しい。
「おしっこがしたいです。」
立ち止まってみるけど、やっぱり出ない。
立ったままおしっこを出すには、どうしようもなくおしっこがしたくならなければ無理なのだ。
人間の限界は、意外と遠い。
「ごめんなさい。やっぱり出ません。」
そして、またお散歩。
そんなやり取りを何回か繰り返す。
このときは、那智さんと知り合ってそれほど月日が経っていないころで、私は、外で排泄する恥ずかしさよりも「那智さんの望み通りにできない」ことに、焦りを感じていた。
いまなら、限界まで待ってもらう、その方が那智さんの楽しみに繋がるだろうという自信のようなものがある。
だから、本当に我慢できなくて、お外でおもらしをしてしまう恥ずかしい私を見てもらえるはずだ。
それでも、ゆっくりと確実に、尿意は強まっている。
「おしっこしたいです。」
限界ではないが、もうこの宙ぶらりんな状態に我慢できずに、訴える。
きっと、少しの「よいしょ」で、出る。
そして、那智さんは、若い女性の集まる場所を選んで、そのをおもらしの場所に決めたのだ。
「出るときは『出ます』って、出ている最中に『出ています』って言うんだよ。」
手を繋ぎ、うつむいて、那智さんの意に添いたい気持ちで、小さく「よいしょ」って非常識の扉を開ける。
「出ます。」
もう顔は上げられない。
「出ています。」
握った那智さんの手に力を入れて、伝える。
いま私は、お外でおむつの中におしっこをしている。
排尿に伴う体の震え(冬とかにブルってなるのね)とは、違う震えが腰の辺りから全身に広がる。
恥ずかしい、あり得ないことをしていることに驚きながら、こんなことで体を震わし感じている自分に驚く。
那智さんは、ずっと煙草を吸っている。
私は、その横で雑踏の中でおしっこをする。
うつむいているけど、気配で感じる那智さんはずっと煙草を吸いながら、前を見ているようだ。
このとき、那智さんは何を考え、何を感じていたのだろう。
恥ずかしがる姿を見るのが好きな那智さんだ。
私の顔や様子を見たいのではないだろうか。
覗き込んだり、私の方を向く気配すらない。
手を握り、煙草を吸いながら、この人は何を楽しんでいるのだろう。
私には、わからない。
自分の連れている女性が、自分の手を握りながらおしっこをしているという事実だけで、那智さんは満足なのだろうか。
那智さんの満足は、実は私はよくわかっていないのだ。
そして、多分同じことでも、その時々で満足度が違うようだ。
だから、私は満足を予測して動くのは諦めて、仕方なく自然にしているしかないのだ。
おしっこがしたいと思うことと、おしっこが出てしまうことには、大きな差があるらしい。
私たちは、日常生活で「おしっこがしたい」と思ってトイレに行って、きっと「よいしょ」と無意識に意識して排尿を後押ししているのだろう。
おしっこを出すには、意識が必要のようだ。
電車の中から、かすかな尿意は感じていた。
那智さんに会ってからも、それはずっと変わらない。
多分、トイレに行って便座に座れば「よいしょ」って無意識に後押しして、いつもと変わらない状態になるはずだ。
だけど、街中で紙おむつの中におしっこをするとなると、このかすかな尿意では、常識の壁はびくともしない。
おしっこがしたい、でも、この非常識には逆らいたい。
だけど、尿意は収まらない。
かといって、もう我慢の限界にまでは至っていない。
このどっち付かずの状態に判断を下すのは、歩きながらでは難しい。
「おしっこがしたいです。」
立ち止まってみるけど、やっぱり出ない。
立ったままおしっこを出すには、どうしようもなくおしっこがしたくならなければ無理なのだ。
人間の限界は、意外と遠い。
「ごめんなさい。やっぱり出ません。」
そして、またお散歩。
そんなやり取りを何回か繰り返す。
このときは、那智さんと知り合ってそれほど月日が経っていないころで、私は、外で排泄する恥ずかしさよりも「那智さんの望み通りにできない」ことに、焦りを感じていた。
いまなら、限界まで待ってもらう、その方が那智さんの楽しみに繋がるだろうという自信のようなものがある。
だから、本当に我慢できなくて、お外でおもらしをしてしまう恥ずかしい私を見てもらえるはずだ。
それでも、ゆっくりと確実に、尿意は強まっている。
「おしっこしたいです。」
限界ではないが、もうこの宙ぶらりんな状態に我慢できずに、訴える。
きっと、少しの「よいしょ」で、出る。
そして、那智さんは、若い女性の集まる場所を選んで、そのをおもらしの場所に決めたのだ。
「出るときは『出ます』って、出ている最中に『出ています』って言うんだよ。」
手を繋ぎ、うつむいて、那智さんの意に添いたい気持ちで、小さく「よいしょ」って非常識の扉を開ける。
「出ます。」
もう顔は上げられない。
「出ています。」
握った那智さんの手に力を入れて、伝える。
いま私は、お外でおむつの中におしっこをしている。
排尿に伴う体の震え(冬とかにブルってなるのね)とは、違う震えが腰の辺りから全身に広がる。
恥ずかしい、あり得ないことをしていることに驚きながら、こんなことで体を震わし感じている自分に驚く。
那智さんは、ずっと煙草を吸っている。
私は、その横で雑踏の中でおしっこをする。
うつむいているけど、気配で感じる那智さんはずっと煙草を吸いながら、前を見ているようだ。
このとき、那智さんは何を考え、何を感じていたのだろう。
恥ずかしがる姿を見るのが好きな那智さんだ。
私の顔や様子を見たいのではないだろうか。
覗き込んだり、私の方を向く気配すらない。
手を握り、煙草を吸いながら、この人は何を楽しんでいるのだろう。
私には、わからない。
自分の連れている女性が、自分の手を握りながらおしっこをしているという事実だけで、那智さんは満足なのだろうか。
那智さんの満足は、実は私はよくわかっていないのだ。
そして、多分同じことでも、その時々で満足度が違うようだ。
だから、私は満足を予測して動くのは諦めて、仕方なく自然にしているしかないのだ。