感性3
独特な幸福感
前のふたつのエントリー。
那智さんの前でひさしぶりに弱いわたしの幸福を思い出したときのことと、ぬいぐるみをプレゼントしてもらって『女の子』の幸福を感じたときのこと。
(ここから読んでも通じますが、前のふたつを読んでいただいてからのほうがわかりやすいです)
どちらも幸福なときではあったけれど、このふたつは似ているけど違うのだ。
*以降、弱いとか未熟とかを『子ども的』と総称します。
『女の子』というエントリーに現段階でのわたしの『女の子』を定義している。
わたしの『女の子』は甘えたりわがままいったりメソメソして慰めてもらったりと子どものようになることを指しているのではなく、ふわふわした心の心地よさ、素直で無垢でいられる心地よさを知っている、もしくは、その状態が好きでいる、その心と状態を指している。
だから、甘えるや駄々こねるみたいなものがあるとしたら、ひとつの表現方法というだけで、本来わたしの『女の子』は那智さんに対する態度ではなく、本質はわたしの心にある。
そんな定義。
それに基づくと、ライブハウスが怖くて『びえ〜ん』と泣きついたことは『女の子』ではない。
ぬいぐるみをもらって、そのふわふわに心がときめき素直にそれを感じられたあの心が『女の子』だ。
だから、あのふたつは似て非なるものだったのです。
なぜ、そんなことを書いたかというと、いまわたしの中で『女の子』存続の危機に晒されているから(笑)←大げさな表現使ったから(笑)つけたけど、けっこう本人は真剣です!
子ども的と『女の子』はとても似ている。
弱さや未熟さを感じることは子ども的な部分を刺激し、似たような『女の子』も刺激される気になるからイコールだと思いがちだけど、これは分けて考えている。
なぜなら、子ども的=『女の子』であるとしたら、成長したら『女の子』ではいられなくなってしまうからね。
つまずいて『びえ〜ん』としたところを那智さんに手を差し伸べてもらうことは幸福だ。
だけど、那智さんはわたしが生きやすくなるように育てているわけで、いつまでも弱いままなのは不本意だし、人間の心理は無意識に可愛がられたいがためにいつまでも未熟でいようとしてしまいそうになるけど、じつはあまり後味のよいものでもない。
だから、わたしはある時期から『女の子』を見つめ直し定義付けをした。
子ども的=『女の子』ではないと意識を定着させることは、心地よい『女の子』状態をずっと保つことになり、これまで概ね成功している。
でも、人の心はきっちり線引きできるものではないので、今度は成長してしっかり者になれたときの『女の子』対応が問題になってきたわけ。
子ども的と『女の子』がイコールではないようにしっかり者になることも『女の子』とは無関係のことなのに、どうしても『女の子』状態に水を差すような感じになってしまうのだ。
忙しい時期だから那智さんにかまってほしい気持ちをそっと抑えることができる大人なわたしがふわふわなぬいぐるみを喜ぶことに抵抗感を感じてしまうことは想像できるよね。
いやいや、わたし、もういい年だし^^;
いまさらぬいぐるみできゃーきゃー言えないよね^^;
那智さんに淋しいって言わないでいられるのに、那智さんラブラブーーーって尻尾ぶんぶんするのなんか大げさじゃない?
こんなふうにしっかり者からはなかなか『女の子』は刺激されないのだ、むしろ妨害される。
しっかり者の壁は照れや自尊心やらでふわふわの柔らかい感性を封じ込めてしまうのです。
だからね、ここは思考を整理してきちんと線引きをしようと思ったのです。
子ども的=『女の子』ではない。
これは、ずいぶん区分けできている。
あらたに、しっかり者であることと『女の子』は両立できるということを認識させたいと思っている。
子ども的はわかりやすく『女の子』を感じられる。
でも、子ども的でなくなってしっかり者が登場しても『女の子』がなくなるわけじゃない。
子ども的と『女の子』が同じではないように、しっかり者と『女の子』は別物、両立してわたしという器に同居できると意識したい。
ここをちゃんと意識しないと『女の子』の幸福がどんどん遠ざかってしまいそうだし、『女の子』を感じたいがために成長を止めてしまいそうだものね。
この意識変換を那智さんにお話しした。
どこまで理解してくれたかわからない(笑)
わたしの『女の子』絶滅の危機感は、おそらくあまり那智さんに伝わっていないからだ。
その危機感もひそかに上手に蓋をして可愛いりん子を抽出してお届けしているから、たぶん那智さんにはいつものわたしでいるはずなんだ^^
『女の子』の幸福を感じ、いつまでも那智さんの好きな感性を持ち続けるために協力をお願いします。
那智さんにはわたしの素直さや無垢さに対するアンテナの感度をちょっと上げていただいて、それを拾ったらいつもよりちょっと意識して、その存在を認め肯定してください。
しっかりしてきて手がかからなくなったかもしれないけど、それを『女の子』は別物だと意識してください。
そんなお願いをした。
もちろん協力するけど、これはかなり大変なことだ(笑)
きっと、日頃、とくに最近、わたしに対してほとんど自然でいる那智さんの意識をすこし変えてもらうことはいまの那智さんにはちょっと気合いが必要なことなのだと思う。
自然でいられることがありがたいし、安請け合いしないところが那智さんらしいなと思いつつ、でも、ご協力をお願いした。
今年のわたしの目標は、しっかり者と『女の子』は同居できるという意識改革。
これはきっと可能。
なぜならしっかり者はスキルであって、『女の子』は感性だからだ。
目指せ、大人で無垢!!
同時期に起きたふたつの出来事から今後のわたしの意識の向け方と目標を考えたお話。
(いい年して『無垢』と言ってしまう勇気も意識改革には必要なのだ^^;)
これ二ヶ月後の更新ですけど、那智さん、憶えてくれているかなぁ(笑)
<関連エントリー>
わたしの『女の子』
「等式」感想です。その1、感覚的にアンテナを2本にすれば両立出来るのでは?ここは都合良く インプットとアウトプットを分けましょう。その2、この会話は忘れていたけれど、私がりん子の「女の子」 を褒めたときに喜ぶりん子の感度が良く、もっと誉めてあげられると良いなと思った事は確かです。
だから、りん子の私にたいするお願いは忘れていたけれど、誉めた時の私の快感は残っている。結果的にはりん子は欲しいものを手に入れています!(笑)
前のふたつのエントリー。
那智さんの前でひさしぶりに弱いわたしの幸福を思い出したときのことと、ぬいぐるみをプレゼントしてもらって『女の子』の幸福を感じたときのこと。
(ここから読んでも通じますが、前のふたつを読んでいただいてからのほうがわかりやすいです)
どちらも幸福なときではあったけれど、このふたつは似ているけど違うのだ。
*以降、弱いとか未熟とかを『子ども的』と総称します。
『女の子』というエントリーに現段階でのわたしの『女の子』を定義している。
わたしの『女の子』は甘えたりわがままいったりメソメソして慰めてもらったりと子どものようになることを指しているのではなく、ふわふわした心の心地よさ、素直で無垢でいられる心地よさを知っている、もしくは、その状態が好きでいる、その心と状態を指している。
だから、甘えるや駄々こねるみたいなものがあるとしたら、ひとつの表現方法というだけで、本来わたしの『女の子』は那智さんに対する態度ではなく、本質はわたしの心にある。
そんな定義。
それに基づくと、ライブハウスが怖くて『びえ〜ん』と泣きついたことは『女の子』ではない。
ぬいぐるみをもらって、そのふわふわに心がときめき素直にそれを感じられたあの心が『女の子』だ。
だから、あのふたつは似て非なるものだったのです。
なぜ、そんなことを書いたかというと、いまわたしの中で『女の子』存続の危機に晒されているから(笑)←大げさな表現使ったから(笑)つけたけど、けっこう本人は真剣です!
子ども的と『女の子』はとても似ている。
弱さや未熟さを感じることは子ども的な部分を刺激し、似たような『女の子』も刺激される気になるからイコールだと思いがちだけど、これは分けて考えている。
なぜなら、子ども的=『女の子』であるとしたら、成長したら『女の子』ではいられなくなってしまうからね。
つまずいて『びえ〜ん』としたところを那智さんに手を差し伸べてもらうことは幸福だ。
だけど、那智さんはわたしが生きやすくなるように育てているわけで、いつまでも弱いままなのは不本意だし、人間の心理は無意識に可愛がられたいがためにいつまでも未熟でいようとしてしまいそうになるけど、じつはあまり後味のよいものでもない。
だから、わたしはある時期から『女の子』を見つめ直し定義付けをした。
子ども的=『女の子』ではないと意識を定着させることは、心地よい『女の子』状態をずっと保つことになり、これまで概ね成功している。
でも、人の心はきっちり線引きできるものではないので、今度は成長してしっかり者になれたときの『女の子』対応が問題になってきたわけ。
子ども的と『女の子』がイコールではないようにしっかり者になることも『女の子』とは無関係のことなのに、どうしても『女の子』状態に水を差すような感じになってしまうのだ。
忙しい時期だから那智さんにかまってほしい気持ちをそっと抑えることができる大人なわたしがふわふわなぬいぐるみを喜ぶことに抵抗感を感じてしまうことは想像できるよね。
いやいや、わたし、もういい年だし^^;
いまさらぬいぐるみできゃーきゃー言えないよね^^;
那智さんに淋しいって言わないでいられるのに、那智さんラブラブーーーって尻尾ぶんぶんするのなんか大げさじゃない?
こんなふうにしっかり者からはなかなか『女の子』は刺激されないのだ、むしろ妨害される。
しっかり者の壁は照れや自尊心やらでふわふわの柔らかい感性を封じ込めてしまうのです。
だからね、ここは思考を整理してきちんと線引きをしようと思ったのです。
子ども的=『女の子』ではない。
これは、ずいぶん区分けできている。
あらたに、しっかり者であることと『女の子』は両立できるということを認識させたいと思っている。
子ども的はわかりやすく『女の子』を感じられる。
でも、子ども的でなくなってしっかり者が登場しても『女の子』がなくなるわけじゃない。
子ども的と『女の子』が同じではないように、しっかり者と『女の子』は別物、両立してわたしという器に同居できると意識したい。
ここをちゃんと意識しないと『女の子』の幸福がどんどん遠ざかってしまいそうだし、『女の子』を感じたいがために成長を止めてしまいそうだものね。
この意識変換を那智さんにお話しした。
どこまで理解してくれたかわからない(笑)
わたしの『女の子』絶滅の危機感は、おそらくあまり那智さんに伝わっていないからだ。
その危機感もひそかに上手に蓋をして可愛いりん子を抽出してお届けしているから、たぶん那智さんにはいつものわたしでいるはずなんだ^^
『女の子』の幸福を感じ、いつまでも那智さんの好きな感性を持ち続けるために協力をお願いします。
那智さんにはわたしの素直さや無垢さに対するアンテナの感度をちょっと上げていただいて、それを拾ったらいつもよりちょっと意識して、その存在を認め肯定してください。
しっかりしてきて手がかからなくなったかもしれないけど、それを『女の子』は別物だと意識してください。
そんなお願いをした。
もちろん協力するけど、これはかなり大変なことだ(笑)
きっと、日頃、とくに最近、わたしに対してほとんど自然でいる那智さんの意識をすこし変えてもらうことはいまの那智さんにはちょっと気合いが必要なことなのだと思う。
自然でいられることがありがたいし、安請け合いしないところが那智さんらしいなと思いつつ、でも、ご協力をお願いした。
今年のわたしの目標は、しっかり者と『女の子』は同居できるという意識改革。
これはきっと可能。
なぜならしっかり者はスキルであって、『女の子』は感性だからだ。
目指せ、大人で無垢!!
同時期に起きたふたつの出来事から今後のわたしの意識の向け方と目標を考えたお話。
(いい年して『無垢』と言ってしまう勇気も意識改革には必要なのだ^^;)
これ二ヶ月後の更新ですけど、那智さん、憶えてくれているかなぁ(笑)
<関連エントリー>
わたしの『女の子』
「等式」感想です。その1、感覚的にアンテナを2本にすれば両立出来るのでは?ここは都合良く インプットとアウトプットを分けましょう。その2、この会話は忘れていたけれど、私がりん子の「女の子」 を褒めたときに喜ぶりん子の感度が良く、もっと誉めてあげられると良いなと思った事は確かです。
だから、りん子の私にたいするお願いは忘れていたけれど、誉めた時の私の快感は残っている。結果的にはりん子は欲しいものを手に入れています!(笑)
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COMMENT
「子ども的」、「女の子」、「しっかり者」の線引き、とても参考になりました。
今はまだ「しっかり者」にはほど遠い私が、
いつかりん子さんと同じような課題に向き合う日も来るのかなぁと、
少し先の未来を見せていただいているような、
そんな気持ちにもなりました。
>目指せ、大人で無垢!!
の、その後の経過報告も、楽しみにしています♪
今はまだ「しっかり者」にはほど遠い私が、
いつかりん子さんと同じような課題に向き合う日も来るのかなぁと、
少し先の未来を見せていただいているような、
そんな気持ちにもなりました。
>目指せ、大人で無垢!!
の、その後の経過報告も、楽しみにしています♪
雪さん
残念ながら(?)良好な関係を築いていると自然と人は成長してしまうみたいで^^;
まして、わたしたちのような関係だとより顕著にそれは現れます。
弱い部分を守ってもらうことはとても幸せではあるけれど、そこに留まりたいがために自分の成長をないがしろにしてしまうのは、きっと本当の幸せではないはずです。
だから、ちょっと考えました^^
同じ人生なんてひとつもないから雪さんはわたしの歩いた道を参考にするだけね^^
たぶん、成功のモデルケースにするのではなくて、迷ったときの参考書くらいがちょうどいい。
成功(幸せ)はオリジナルでね^^
これからも、わたしはわたしの道を歩いていきます♪
それにしても、成長はうれしくも、ちょっと切ないな。
残念ながら(?)良好な関係を築いていると自然と人は成長してしまうみたいで^^;
まして、わたしたちのような関係だとより顕著にそれは現れます。
弱い部分を守ってもらうことはとても幸せではあるけれど、そこに留まりたいがために自分の成長をないがしろにしてしまうのは、きっと本当の幸せではないはずです。
だから、ちょっと考えました^^
同じ人生なんてひとつもないから雪さんはわたしの歩いた道を参考にするだけね^^
たぶん、成功のモデルケースにするのではなくて、迷ったときの参考書くらいがちょうどいい。
成功(幸せ)はオリジナルでね^^
これからも、わたしはわたしの道を歩いていきます♪
それにしても、成長はうれしくも、ちょっと切ないな。
この記事が掲載された時に読ませて頂き、その時はよく判らず、、
その後コメントされた方の所やコメントへの返信を読ませて頂き・・、
私は全く別のことを思い出しました、それは交流分析とアダルトチルドレン。
思い出したので、、家にあるその種の本を取りだし読み返してみたいと思います、、
そんなキッカケを頂きありがとうございます。
記事とは関係ないコメントで御免なさい、<m(__)m>
その後コメントされた方の所やコメントへの返信を読ませて頂き・・、
私は全く別のことを思い出しました、それは交流分析とアダルトチルドレン。
思い出したので、、家にあるその種の本を取りだし読み返してみたいと思います、、
そんなキッカケを頂きありがとうございます。
記事とは関係ないコメントで御免なさい、<m(__)m>
パイパン大好きさん
いえいえ、わたしの書いたものがなにかきっかけになるならうれしいことですし、こうやって教えていただくこともうれしいです^^
自分が『なに』かを知るために本を読むことはとっても有効ですよね^^
知識はたくさんのほうがいい。
コメントをいただいて、また書きたいことができました。
ありがとうございます^^
いえいえ、わたしの書いたものがなにかきっかけになるならうれしいことですし、こうやって教えていただくこともうれしいです^^
自分が『なに』かを知るために本を読むことはとっても有効ですよね^^
知識はたくさんのほうがいい。
コメントをいただいて、また書きたいことができました。
ありがとうございます^^