お父さん5
惹かれ合う理由
そんなこと信じられるだろうか。
内臓を蝕んでいた癌が増殖してお腹の肉にも付着して、更に肉をも食いあさり皮膚に穴を開けるなんて。
退院してしばらくは散歩をしたりできていた父だが、やはり日に日に元気がなくなっていく、日中は高校野球を観て、お風呂に入り、お酒を飲んで眠る。
一日のほとんどを憂鬱な表情を浮かべて、布団と座椅子で過ごすようになっていった。
表情を和らげるのは、孫を見たときくらいだ。
それでも、私たちが危惧していたような、わがままや八つ当たりなどはほとんどなく、人が変わったように静かな父になっていた。
すべてを理解して覚悟を決めたのか、わがままを言う気力もなかったのか、それはわからない。
翌日に検査を控えた夜中、母から電話が来た。
「お父さんの、お腹から何かが出ている。」
膿のような色の付いた液体が出ていると言うのだ。
「傷口が化膿して膿が出たのかもしれない、明日検査で行くのだけれど、それも先生に見てもらうから一緒に来て」ということだ。
てっきり膿だと思っていた、それは消化液だったのだ。
どおりで後から後から出てくるはずだ。
癌の奴は、文字通り父の体を蝕んだのだ。
その場で再入院になった。
もう一度、入院しないといけないことを、耳の遠くなった父の耳元で大きな声で伝える。
胸が潰れそうなほどつらい。
でも、私が悲壮感を出してはいけない、父を不安にさせてはいけない、冷静に明るめのトーンで伝える。
耳が聞こえにくくなっているから、どこまで理解できているかはわからない。
不安とも諦めとも、取れる表情だ。
おそらくもう家には帰れないだろう。
私は、無理矢理にでも父をタクシーに乗せ、一旦帰宅して冷蔵庫にある缶チューハイを飲ませたい。
もう二度と飲めないかもしれない、お酒をせめてまだ喉を通るうちに。
「即入院」になるとわかっていたら、朝から飲ませてやったのに、本当に悔やまれた。
退院してから、父に書いてもらった「延命治療拒否」の紙を医師に渡す。(これがないと本当に家族はなにも意見できない。これを書いてもらうときも苦しかった)
私と姉は、若い誠実な医師に何度となく話しをさせてもらった。
父が「痛いことも苦しいことも嫌で、それを緩和することだけしてください。」
何度も訴えた。
子供を産んだばかりの母猫のように、「誰も私の父に勝手なことをするな」と言わんばかりの訴えぶりだ。
それでも、まだ再入院の4、5日は比較的元気だった。
意識が混濁するときもあるようだけど、喫煙所に行って煙草を吸ったりもできた。
せめて、今のうちに一時外出の許可を得て、大好きだったあの公園を見せてやりたい、タクシーの中から眺めるだけでもと思い、父に聞いてみる。
「俺は体がえらいことになっているから、ここを出るのは恐い、だから、行かないでもいいよ。それよりつらくないようにだけしてくれ。早く逝ってもいいから。」
この時点で、もうモルヒネを打って意識を朦朧としてあげられないか、もう可哀想だ。
そんな相談を若い医師にすると、「それは殺人ですよ。」と言われてしまった。
まだか、まだ父を楽にはしてあげられないのか。
入院も10日を過ぎたあたりから、もう父は意識は混濁してまともな会話もできなくなっていた。
ここがどこで、自分がなにをしているのか、わからないようだ。
私たちは、可能な限り毎日通った。
無意識に点滴の針を抜いてしまう父の両手は緩やかに拘束されている。
父は寝るときはいつも、手をお腹の上に組んでいる。
拘束されているからそれができない、たかがそれだけでも父がつらいのはいやだから、私がいる数時間は拘束と解いてあげた。
そうすると、すぐに手をお腹の上に乗せて組むんだ。
そうだよね、お父さんこれが好きだよね。
私は、拘束していた包帯の先を握り、点滴を抜かないように気を付けながら、でも、いつもの寝方の父を見て何だかホッとしてベッドに突っ伏してウトウトする。
それでもやはり何とも点滴の針を抜き差しするのは避けたいと、埋め込み式(?)の点滴をすることになった。
そのとき打った鎮静剤のショックで父の心臓は止まってしまったのだ。
緊急に蘇生処置が行われて、一命を取り留めた、でも、もう意識は戻らないだろうと、この時点で病院から連絡がきた。
「延命治療拒否」は通じないのか。
なぜ父を苦痛から解放してくれないのだろう。
おかしいだろうか、私たちは心臓マッサージをした医師に食ってかかった。
なぜ生かす。
一度心臓が止まって、蘇生しても意識が戻ることがなく、癌にお腹に穴を開けられた、苦痛が大嫌いな父をなぜまだ生かすのか。
いましている点滴は「高タンパク高カロリー」のものだ。
これは意味がない、もう死を待つしかない人にそれは必要ない。
ただ、その日を数日先に延ばすだけだ。
点滴は「最低限必要な水分」に変えてもらう。
そして、モルヒネのランクを上げてもらう。
意識は戻らないと言われたのに、父は苦しそうに体をよじるのだ。
モルヒネを強くすると、確実に死期は早まる、それでいいんだ。
モルヒネのランクを上げた翌日、父は母と姉が見守るなか死んでいった。
私はその時、那智さんと一緒にいた。
その時期、那智さんの仕事の都合でランチデートしかできなくて、一年ぶりくらいにデートできたのだ。
那智さんに抱かれているときに、携帯が鳴って、あたふた(笑)していたら(だって、あんな状態で、電話取れないわ♪)、電話が切れた。
留守電の動揺した母の声が、父の死を知らせていた。
那智さんが言っていた。
お通夜や告別式に参列する意味。
「顔を見せて安心してもらう、あなたには私が付いていると励ます意味と、この先の人生も関わっていきますよという意思表明」
これに基づいて、那智さんは父のお通夜に参列してくれた。
お通夜の日、私は披露宴の仕事だった。
精一杯祝福して、仕事をやり遂げた。
那智さんは披露宴会場に迎えにきてくれた。
一緒に電車に乗って、葬儀場の最寄り駅で別れて、私は急いで葬儀場へ向かう。
不倫相手が、父の通夜に参列する。
普通は考えにくいことだろう。
ここで是非は問いたくない。
ただ、私は救われた。(のちに「○○市の○○那智って誰!?と軽い事件になってしまったけど 笑)
通夜を終え、一息付いた私と姉は静かな斎場の父の眠る棺に寄り添う。
父は穏やかな顔をしている。
この半年、ずっとつらい表情ばかり見ていたから、穏やかな父は嬉しい。
姉が父に聞く。
「お父さん、これで良かったんだよね?」
私が笑いながら答える。
「なんでもっと早く逝かせなかったって、文句言ってるんじゃない。」
姉が、また父に話しかける。
「お父さん、私たちすごく頑張ったんだよ~。」
「そうだよ、お父さんのためにすごい頑張ったんだから!」
私も同調して、2人で涙を流す。
姉一家は帰った。
誰か斎場に泊まらないといけないから、私たちが残る(最近は長いお線香があるから、起きていなくていいのだけどね)。
なんだか、父から離れがたくて、私はまだ棺を覗き込んでいる。
死んでいる人なのに、ちっとも恐いなんて思わない、むしろ愛おしい。
やるだけのことはやったから、悔いはない。
亡くなる前日も前々日の付き添っていたから、死に際に会えなくても悔いはない。
大好きなお母さんとおねえちゃんに見守られながらで、淋しくなくてよかったね、お父さん。
お父さんは、おねえちゃんが大好きだった。
ただそれだけだ。
私よりも好きだった、それだけだ。
だから、いまは「おねえちゃんよりも可愛いって言ってほしかった」なんて思わない。
だって、私には「一番可愛い」と言ってくれる人がちゃんといるんだもの。
そう思わずにすんで、穏やかな気持ちで父の死に顔を見ることができている。
風のない海のようだ。
静かで、穏やかで、とてもきれいな気持ちだ。
一点の曇りもなく、平らな気持ちが気持ち良くて、いつまでもお父さんの顔を眺めていた。
そんなこと信じられるだろうか。
内臓を蝕んでいた癌が増殖してお腹の肉にも付着して、更に肉をも食いあさり皮膚に穴を開けるなんて。
退院してしばらくは散歩をしたりできていた父だが、やはり日に日に元気がなくなっていく、日中は高校野球を観て、お風呂に入り、お酒を飲んで眠る。
一日のほとんどを憂鬱な表情を浮かべて、布団と座椅子で過ごすようになっていった。
表情を和らげるのは、孫を見たときくらいだ。
それでも、私たちが危惧していたような、わがままや八つ当たりなどはほとんどなく、人が変わったように静かな父になっていた。
すべてを理解して覚悟を決めたのか、わがままを言う気力もなかったのか、それはわからない。
翌日に検査を控えた夜中、母から電話が来た。
「お父さんの、お腹から何かが出ている。」
膿のような色の付いた液体が出ていると言うのだ。
「傷口が化膿して膿が出たのかもしれない、明日検査で行くのだけれど、それも先生に見てもらうから一緒に来て」ということだ。
てっきり膿だと思っていた、それは消化液だったのだ。
どおりで後から後から出てくるはずだ。
癌の奴は、文字通り父の体を蝕んだのだ。
その場で再入院になった。
もう一度、入院しないといけないことを、耳の遠くなった父の耳元で大きな声で伝える。
胸が潰れそうなほどつらい。
でも、私が悲壮感を出してはいけない、父を不安にさせてはいけない、冷静に明るめのトーンで伝える。
耳が聞こえにくくなっているから、どこまで理解できているかはわからない。
不安とも諦めとも、取れる表情だ。
おそらくもう家には帰れないだろう。
私は、無理矢理にでも父をタクシーに乗せ、一旦帰宅して冷蔵庫にある缶チューハイを飲ませたい。
もう二度と飲めないかもしれない、お酒をせめてまだ喉を通るうちに。
「即入院」になるとわかっていたら、朝から飲ませてやったのに、本当に悔やまれた。
退院してから、父に書いてもらった「延命治療拒否」の紙を医師に渡す。(これがないと本当に家族はなにも意見できない。これを書いてもらうときも苦しかった)
私と姉は、若い誠実な医師に何度となく話しをさせてもらった。
父が「痛いことも苦しいことも嫌で、それを緩和することだけしてください。」
何度も訴えた。
子供を産んだばかりの母猫のように、「誰も私の父に勝手なことをするな」と言わんばかりの訴えぶりだ。
それでも、まだ再入院の4、5日は比較的元気だった。
意識が混濁するときもあるようだけど、喫煙所に行って煙草を吸ったりもできた。
せめて、今のうちに一時外出の許可を得て、大好きだったあの公園を見せてやりたい、タクシーの中から眺めるだけでもと思い、父に聞いてみる。
「俺は体がえらいことになっているから、ここを出るのは恐い、だから、行かないでもいいよ。それよりつらくないようにだけしてくれ。早く逝ってもいいから。」
この時点で、もうモルヒネを打って意識を朦朧としてあげられないか、もう可哀想だ。
そんな相談を若い医師にすると、「それは殺人ですよ。」と言われてしまった。
まだか、まだ父を楽にはしてあげられないのか。
入院も10日を過ぎたあたりから、もう父は意識は混濁してまともな会話もできなくなっていた。
ここがどこで、自分がなにをしているのか、わからないようだ。
私たちは、可能な限り毎日通った。
無意識に点滴の針を抜いてしまう父の両手は緩やかに拘束されている。
父は寝るときはいつも、手をお腹の上に組んでいる。
拘束されているからそれができない、たかがそれだけでも父がつらいのはいやだから、私がいる数時間は拘束と解いてあげた。
そうすると、すぐに手をお腹の上に乗せて組むんだ。
そうだよね、お父さんこれが好きだよね。
私は、拘束していた包帯の先を握り、点滴を抜かないように気を付けながら、でも、いつもの寝方の父を見て何だかホッとしてベッドに突っ伏してウトウトする。
それでもやはり何とも点滴の針を抜き差しするのは避けたいと、埋め込み式(?)の点滴をすることになった。
そのとき打った鎮静剤のショックで父の心臓は止まってしまったのだ。
緊急に蘇生処置が行われて、一命を取り留めた、でも、もう意識は戻らないだろうと、この時点で病院から連絡がきた。
「延命治療拒否」は通じないのか。
なぜ父を苦痛から解放してくれないのだろう。
おかしいだろうか、私たちは心臓マッサージをした医師に食ってかかった。
なぜ生かす。
一度心臓が止まって、蘇生しても意識が戻ることがなく、癌にお腹に穴を開けられた、苦痛が大嫌いな父をなぜまだ生かすのか。
いましている点滴は「高タンパク高カロリー」のものだ。
これは意味がない、もう死を待つしかない人にそれは必要ない。
ただ、その日を数日先に延ばすだけだ。
点滴は「最低限必要な水分」に変えてもらう。
そして、モルヒネのランクを上げてもらう。
意識は戻らないと言われたのに、父は苦しそうに体をよじるのだ。
モルヒネを強くすると、確実に死期は早まる、それでいいんだ。
モルヒネのランクを上げた翌日、父は母と姉が見守るなか死んでいった。
私はその時、那智さんと一緒にいた。
その時期、那智さんの仕事の都合でランチデートしかできなくて、一年ぶりくらいにデートできたのだ。
那智さんに抱かれているときに、携帯が鳴って、あたふた(笑)していたら(だって、あんな状態で、電話取れないわ♪)、電話が切れた。
留守電の動揺した母の声が、父の死を知らせていた。
那智さんが言っていた。
お通夜や告別式に参列する意味。
「顔を見せて安心してもらう、あなたには私が付いていると励ます意味と、この先の人生も関わっていきますよという意思表明」
これに基づいて、那智さんは父のお通夜に参列してくれた。
お通夜の日、私は披露宴の仕事だった。
精一杯祝福して、仕事をやり遂げた。
那智さんは披露宴会場に迎えにきてくれた。
一緒に電車に乗って、葬儀場の最寄り駅で別れて、私は急いで葬儀場へ向かう。
不倫相手が、父の通夜に参列する。
普通は考えにくいことだろう。
ここで是非は問いたくない。
ただ、私は救われた。(のちに「○○市の○○那智って誰!?と軽い事件になってしまったけど 笑)
通夜を終え、一息付いた私と姉は静かな斎場の父の眠る棺に寄り添う。
父は穏やかな顔をしている。
この半年、ずっとつらい表情ばかり見ていたから、穏やかな父は嬉しい。
姉が父に聞く。
「お父さん、これで良かったんだよね?」
私が笑いながら答える。
「なんでもっと早く逝かせなかったって、文句言ってるんじゃない。」
姉が、また父に話しかける。
「お父さん、私たちすごく頑張ったんだよ~。」
「そうだよ、お父さんのためにすごい頑張ったんだから!」
私も同調して、2人で涙を流す。
姉一家は帰った。
誰か斎場に泊まらないといけないから、私たちが残る(最近は長いお線香があるから、起きていなくていいのだけどね)。
なんだか、父から離れがたくて、私はまだ棺を覗き込んでいる。
死んでいる人なのに、ちっとも恐いなんて思わない、むしろ愛おしい。
やるだけのことはやったから、悔いはない。
亡くなる前日も前々日の付き添っていたから、死に際に会えなくても悔いはない。
大好きなお母さんとおねえちゃんに見守られながらで、淋しくなくてよかったね、お父さん。
お父さんは、おねえちゃんが大好きだった。
ただそれだけだ。
私よりも好きだった、それだけだ。
だから、いまは「おねえちゃんよりも可愛いって言ってほしかった」なんて思わない。
だって、私には「一番可愛い」と言ってくれる人がちゃんといるんだもの。
そう思わずにすんで、穏やかな気持ちで父の死に顔を見ることができている。
風のない海のようだ。
静かで、穏やかで、とてもきれいな気持ちだ。
一点の曇りもなく、平らな気持ちが気持ち良くて、いつまでもお父さんの顔を眺めていた。