お父さん4
惹かれ合う理由
父の容態はそれから急降下、思いもよらぬことになっていく。
子供を寝かせた21時過ぎ、母から電話が掛かってきた。
「いま病院から連絡が来て、お父さん大変なことになっているらしい。いまから行くからおまえも来て。」
姉にも連絡はしているようだ。
私は、帰りの遅い主人をあてにするわけにはいかず、子供をどうしようかと逡巡する。
寝室に入ると、まだ寝入っていなかったので、率直に聞いてみる。
「おじいちゃんの病院に行くけど、なおは一緒に行く?それともお留守番できる?」
子供は一緒に行くことを望んだので、タクシーを飛ばして急いで向かう。
到着すると、顔面蒼白の母がいた、しっかりしなければ。
父はナースステーションに隣接した処置室で、ベッドに拘束されて苦しそうにもがいている。
私には気付かない、しかし、なおが側に行くと、一瞬いつもの父の表情になって、声にならない声で「おう」と言って僅かに表情を崩すのがわかった。
若い担当医の話をまとめるとこうだ(ちょっと忘れてるかも)
「やはり胃の切断面の炎症が悪化して、雑菌が肺に入って肺炎を起こしたらしい。ヘビースモカーだったことも悪影響のようだ。肺に水が溜まり、雑菌混じりの悪い水が体全体に回っている(確かに手足がむくんでいる)。方法はいくつかある。ひとつは、今から緊急手術をして体を切り悪い水を全部出す。ふたつめは、体に管を刺す。そこから水を抜く。どれをとっても生きる可能性は低い。」
「管を刺しても、水の量が多いし悪いから、残念ながら生きる可能性は低い。ただ、苦しみは軽減される。そして、もうひとつそれと共に、人工呼吸器をつけるか。」
生存の可能性が低いなら、もう父の体を切りたくはない。
そんなこと、父が大嫌いなだって、私たちは知っている。
悪いところがあっても知らないほうがいいと健康診断なんか無縁な人で、触ってわかるほど癌を放置してきた父、それが父の望みなのだ。
好きなことだけして、闘病なんかしないで、苦しまずにぽっくり逝きたい、ずっとそう言っていた父の意思表示だ。
私たちは、まず手術は拒否した。
執刀する気満々で出勤してきた年配の主治医が、驚いたような拍子抜けしたような様子だ。
本当は、もう父に注射一本だって刺したくない。
でも、苦しさが軽くなるなら、管はやむを得ない。
人工呼吸器の判断もしなければならない。
付けなければ、2、3日で苦しみながら死ぬ。
付ければ、苦しまずに1週間で死ぬ。
この選択を迫られた。
この段階で、私は子供を連れて家に戻った。
明日も学校に行く子供を、私の母が気遣って話し合いにならなくなりそうだったからだ。
判断は、任せた。
翌日、人工呼吸器を喉にねじ込まれ、ICUにいる父に会いに行った。
管や点滴やいろんなもの刺されて、機械に囲まれて眠っている。
鎮静剤で眠っている。
全身がパンパンに浮腫んでいる父を見るなり、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
かわいそなお父さん。
ごめんね、そんな思いさせちゃって、立ち上がって父の顔を覗き込む。
機械の呼吸は力強く、お父さんに無理をさせているようで、腹が立つ。
私は心の中で、父に話しかける。
「お父さん、私ね、好きな人がいるんだ。その人は私を愛してくれている、お父さんがくれなかったものをくれているよ。だから、私は幸せなんだ・・・違うね、本当は私もお父さんに愛されていたんだよね。ただ、その方法が間違っていただけなんだよね。そう思えるのもその人のお陰かな。」
基本的にICUにいられる時間は15分。
私は、後ろ髪を引かれる思いで、ICUを後にした。
それから、父は40日間ICUにいた。
その間、二度呼び出され「もう今晩が峠」と告げられる。
それなのに、医師も「ミラクル」と言ってしまうほど、その都度父は回復するのだ。
(ちょっと駆け足)
ほとんど毎日のように病院に行った。
行かれない日は、連絡を取り合い、報告をした。
その間、姉といろんな対策を検討した。
筋力が落ちて寝たきりは確実と言われていたからその対策、ホスピスや緩和ケア、今後延命治療拒否の方法。
様々な医療関係、弁護士など。
このまま今の病院に任せるしか道はないと結論付けられるまで、可能性をひとつひとつ消していった。
とにかく、いまはICUから出て退院させることが第一。
奇跡のように、父は回復した。
本人は手術の記憶もない、事故か何かで入院したと思っていた。
呼吸器と痰を吸い取るために気管切開して声が出せず、耳にも水が溜まって聞こえにくい父と、筆談で言葉を交わし、なんとか現状を伝えた。
病は気からとはよく言ったもので、重病の自覚のない父の回復はめざましく、寝たきりは必至と言われていたにもかかわらず、最終的には歩けるまでになって、3ヶ月の入院生活を終え、大好きな家に帰れることになったのだ。
退院したその日に、缶のチューハイを美味しそうに飲む父を見て、涙が止まらなかった。
大好きなお酒と夏の高校野球を観て過ごした夏だった。
それから、2ヶ月後、結局取り切れていなかった癌は物凄い勢いで増殖し、父のお腹に穴を開け、再入院になった。
父の容態はそれから急降下、思いもよらぬことになっていく。
子供を寝かせた21時過ぎ、母から電話が掛かってきた。
「いま病院から連絡が来て、お父さん大変なことになっているらしい。いまから行くからおまえも来て。」
姉にも連絡はしているようだ。
私は、帰りの遅い主人をあてにするわけにはいかず、子供をどうしようかと逡巡する。
寝室に入ると、まだ寝入っていなかったので、率直に聞いてみる。
「おじいちゃんの病院に行くけど、なおは一緒に行く?それともお留守番できる?」
子供は一緒に行くことを望んだので、タクシーを飛ばして急いで向かう。
到着すると、顔面蒼白の母がいた、しっかりしなければ。
父はナースステーションに隣接した処置室で、ベッドに拘束されて苦しそうにもがいている。
私には気付かない、しかし、なおが側に行くと、一瞬いつもの父の表情になって、声にならない声で「おう」と言って僅かに表情を崩すのがわかった。
若い担当医の話をまとめるとこうだ(ちょっと忘れてるかも)
「やはり胃の切断面の炎症が悪化して、雑菌が肺に入って肺炎を起こしたらしい。ヘビースモカーだったことも悪影響のようだ。肺に水が溜まり、雑菌混じりの悪い水が体全体に回っている(確かに手足がむくんでいる)。方法はいくつかある。ひとつは、今から緊急手術をして体を切り悪い水を全部出す。ふたつめは、体に管を刺す。そこから水を抜く。どれをとっても生きる可能性は低い。」
「管を刺しても、水の量が多いし悪いから、残念ながら生きる可能性は低い。ただ、苦しみは軽減される。そして、もうひとつそれと共に、人工呼吸器をつけるか。」
生存の可能性が低いなら、もう父の体を切りたくはない。
そんなこと、父が大嫌いなだって、私たちは知っている。
悪いところがあっても知らないほうがいいと健康診断なんか無縁な人で、触ってわかるほど癌を放置してきた父、それが父の望みなのだ。
好きなことだけして、闘病なんかしないで、苦しまずにぽっくり逝きたい、ずっとそう言っていた父の意思表示だ。
私たちは、まず手術は拒否した。
執刀する気満々で出勤してきた年配の主治医が、驚いたような拍子抜けしたような様子だ。
本当は、もう父に注射一本だって刺したくない。
でも、苦しさが軽くなるなら、管はやむを得ない。
人工呼吸器の判断もしなければならない。
付けなければ、2、3日で苦しみながら死ぬ。
付ければ、苦しまずに1週間で死ぬ。
この選択を迫られた。
この段階で、私は子供を連れて家に戻った。
明日も学校に行く子供を、私の母が気遣って話し合いにならなくなりそうだったからだ。
判断は、任せた。
翌日、人工呼吸器を喉にねじ込まれ、ICUにいる父に会いに行った。
管や点滴やいろんなもの刺されて、機械に囲まれて眠っている。
鎮静剤で眠っている。
全身がパンパンに浮腫んでいる父を見るなり、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
かわいそなお父さん。
ごめんね、そんな思いさせちゃって、立ち上がって父の顔を覗き込む。
機械の呼吸は力強く、お父さんに無理をさせているようで、腹が立つ。
私は心の中で、父に話しかける。
「お父さん、私ね、好きな人がいるんだ。その人は私を愛してくれている、お父さんがくれなかったものをくれているよ。だから、私は幸せなんだ・・・違うね、本当は私もお父さんに愛されていたんだよね。ただ、その方法が間違っていただけなんだよね。そう思えるのもその人のお陰かな。」
基本的にICUにいられる時間は15分。
私は、後ろ髪を引かれる思いで、ICUを後にした。
それから、父は40日間ICUにいた。
その間、二度呼び出され「もう今晩が峠」と告げられる。
それなのに、医師も「ミラクル」と言ってしまうほど、その都度父は回復するのだ。
(ちょっと駆け足)
ほとんど毎日のように病院に行った。
行かれない日は、連絡を取り合い、報告をした。
その間、姉といろんな対策を検討した。
筋力が落ちて寝たきりは確実と言われていたからその対策、ホスピスや緩和ケア、今後延命治療拒否の方法。
様々な医療関係、弁護士など。
このまま今の病院に任せるしか道はないと結論付けられるまで、可能性をひとつひとつ消していった。
とにかく、いまはICUから出て退院させることが第一。
奇跡のように、父は回復した。
本人は手術の記憶もない、事故か何かで入院したと思っていた。
呼吸器と痰を吸い取るために気管切開して声が出せず、耳にも水が溜まって聞こえにくい父と、筆談で言葉を交わし、なんとか現状を伝えた。
病は気からとはよく言ったもので、重病の自覚のない父の回復はめざましく、寝たきりは必至と言われていたにもかかわらず、最終的には歩けるまでになって、3ヶ月の入院生活を終え、大好きな家に帰れることになったのだ。
退院したその日に、缶のチューハイを美味しそうに飲む父を見て、涙が止まらなかった。
大好きなお酒と夏の高校野球を観て過ごした夏だった。
それから、2ヶ月後、結局取り切れていなかった癌は物凄い勢いで増殖し、父のお腹に穴を開け、再入院になった。