お父さん3
惹かれ合う理由
父の手術は予定の倍以上の7時間もかかった。
待合室で待つその時間は、一瞬にも永遠にも感じられた。
ストレッチャーに乗って出てきた父の意識は朦朧としていたが、母と私は駆け寄り「よく頑張ったね」と涙ながらに父の手を握る。
「目に見える悪い物は全部取った。ただ、胃の切り口の所が炎症を起こしていて、上手い具合にくっつかないかもしれない。その炎症が悪化することだけ心配だ。」
再発の可能性は高いらしい、でも、これで、少しずつ訓練すれば食べ物も口にできる、先生は苦笑いしていたけれど、お酒だって飲めるはずだ(もどしてしまうことも多いらしいけど)
このあたりで、私たち家族の考え方が少し少数派なのかもしれないと思いはじめていた。
父に早く死んでほしいわけじゃない、だけど、奔放な父から自由を奪い、制限だらけの生活を送らせたいとは思えないのだ。
いつも父は言っていた「酒や煙草で寿命を縮めてもかまわない。酒を飲まないで生きているなんていやだ。」だから、私たちは、父の癌が治って長生きしてほしいという希望は当然あるけど、同じくらいに「好きなことをさせてあげたい」とも思うのだ。
「お酒を飲ませてあげたい」と言う度に医師や看護士、親戚から驚いたようにされてしまうのだ。
そして、病院が大嫌いな父の体を切ったことに、胸が潰れるほどの苦しさを覚えてしまうのだ。
治すことよりも、父の精神的肉体的苦痛をできる限り軽くすることに神経を注ぐのは、少数派のようなのだ。
それでも、「目に見える悪い物は取った」あとは食事の訓練と抜糸とで、2週間ほどで退院できるはずだ。
医師に説明されていた一通りの筋書きが、もろくも崩れていったのは術後翌日のことだった。
翌日の夜、姉から電話が来た。
「お父さんの様子がおかしいらしい。」
その日、母が一日付き添っていたから様子を聞こうと連絡を取ったら、めずらしく母がとても動揺していたのだ。
「手術の前、一週間ほど手術と検査のために食事を取っていなかった、点滴で栄養を摂っていたから問題ないのだが、口から物を取らないとナトリウム不足になって、一時的に痴呆の状態になるらしい。点滴にナトリウムを加えたからいずれ改善するらしいから、お母さんは黙っていようと思ったけど、あんまり酷いので不安になっていたところに私(姉)が電話したから、話してくれたの。お母さんらしいよね、何でも抱え込む。だから、明日昼間私が代わりに行くからりん子は明後日行って。」
暴れて車椅子に拘束されて「何か変なんだよ!!」と大騒ぎする父を一日中不安な思いでなだめていた母、心配させまいと娘に黙っていようとした母を思うと、「私たちを頼りなさい」と苦しさを通り越して、怒りに似た感情が沸き上がる。
「お母さんは、抱え込むから、私たちがちゃんと見ていないと、お母さんまで倒れちゃう。」
姉の言うとおりだ。
翌日、姉が日中は見ている番だったが、ずっと1人は大変だろうと、カンフル剤になればと私も様子を見に行く。
大変なことは、1人より2人の方が乗り越えられる。
車椅子に座って手を縛られた父に、姉が一生懸命話しかけている。
すぐうとうとしてしまうから、寝かせてはいけないと看護士に言われているらしい。(夜寝られないから?呆け回復?)
父は本当に朦朧としていた。
ここがどこで、なぜ縛られているのかもわからない状態。
ろれつが回らず、とても眠そうだ。
そして、眠そうな父を起こすことも、なんだか不憫になってしまう。
「お父さん、りん子が来たよ!!」姉が、話しかける。
「おう、りん子か~、なお(仮名)はどうした~(こんな状態でも孫命♪)」
「家にいるよ!!」
「そうか~、なんかこれが取れないんだよ~」(手の拘束のこと)
そんな切ない会話をしていると、そばを通った看護士さんが私を見て「あなたがりん子さん?」と聞いてくる。
頷くと、「お父さん、一晩中あなたの名前を呼んでたわよ。 『りん子~~』『りん子、煙草買ってこーい』って」と昨夜の父の大騒ぎ振りを教えてくれた。
ああ、もうこれで充分だ。
不謹慎だが、私は喜んでしまった。
いつも父は私を使いっ走りにしていた。
煙草を買いにいくのも、お酒のお代わりを作るのも、氷を足すのも。
呆けた状態でも父が欲した物を取りそろえるのは私の役目だったみたいだ。
そんな役回りでも、父が私の名前を大声で呼んでいた事実。
それだけで満足だ。
那智さんからたくさんもらった、だから、その事実だけでもう私は充分だ。
30数年間、埋められずにいたものを那智さんに埋めてもらって、「私の名を呼び私を頼ったという事実」でしっかりと蓋をして、きれいにならして、私の心は真っ平らになった。
わあ、まだ終わりません。
重たい話ですよね、それでも良いと思ってくださる方がいらっしゃるなら、もう少しお付き合いください。
父の手術は予定の倍以上の7時間もかかった。
待合室で待つその時間は、一瞬にも永遠にも感じられた。
ストレッチャーに乗って出てきた父の意識は朦朧としていたが、母と私は駆け寄り「よく頑張ったね」と涙ながらに父の手を握る。
「目に見える悪い物は全部取った。ただ、胃の切り口の所が炎症を起こしていて、上手い具合にくっつかないかもしれない。その炎症が悪化することだけ心配だ。」
再発の可能性は高いらしい、でも、これで、少しずつ訓練すれば食べ物も口にできる、先生は苦笑いしていたけれど、お酒だって飲めるはずだ(もどしてしまうことも多いらしいけど)
このあたりで、私たち家族の考え方が少し少数派なのかもしれないと思いはじめていた。
父に早く死んでほしいわけじゃない、だけど、奔放な父から自由を奪い、制限だらけの生活を送らせたいとは思えないのだ。
いつも父は言っていた「酒や煙草で寿命を縮めてもかまわない。酒を飲まないで生きているなんていやだ。」だから、私たちは、父の癌が治って長生きしてほしいという希望は当然あるけど、同じくらいに「好きなことをさせてあげたい」とも思うのだ。
「お酒を飲ませてあげたい」と言う度に医師や看護士、親戚から驚いたようにされてしまうのだ。
そして、病院が大嫌いな父の体を切ったことに、胸が潰れるほどの苦しさを覚えてしまうのだ。
治すことよりも、父の精神的肉体的苦痛をできる限り軽くすることに神経を注ぐのは、少数派のようなのだ。
それでも、「目に見える悪い物は取った」あとは食事の訓練と抜糸とで、2週間ほどで退院できるはずだ。
医師に説明されていた一通りの筋書きが、もろくも崩れていったのは術後翌日のことだった。
翌日の夜、姉から電話が来た。
「お父さんの様子がおかしいらしい。」
その日、母が一日付き添っていたから様子を聞こうと連絡を取ったら、めずらしく母がとても動揺していたのだ。
「手術の前、一週間ほど手術と検査のために食事を取っていなかった、点滴で栄養を摂っていたから問題ないのだが、口から物を取らないとナトリウム不足になって、一時的に痴呆の状態になるらしい。点滴にナトリウムを加えたからいずれ改善するらしいから、お母さんは黙っていようと思ったけど、あんまり酷いので不安になっていたところに私(姉)が電話したから、話してくれたの。お母さんらしいよね、何でも抱え込む。だから、明日昼間私が代わりに行くからりん子は明後日行って。」
暴れて車椅子に拘束されて「何か変なんだよ!!」と大騒ぎする父を一日中不安な思いでなだめていた母、心配させまいと娘に黙っていようとした母を思うと、「私たちを頼りなさい」と苦しさを通り越して、怒りに似た感情が沸き上がる。
「お母さんは、抱え込むから、私たちがちゃんと見ていないと、お母さんまで倒れちゃう。」
姉の言うとおりだ。
翌日、姉が日中は見ている番だったが、ずっと1人は大変だろうと、カンフル剤になればと私も様子を見に行く。
大変なことは、1人より2人の方が乗り越えられる。
車椅子に座って手を縛られた父に、姉が一生懸命話しかけている。
すぐうとうとしてしまうから、寝かせてはいけないと看護士に言われているらしい。(夜寝られないから?呆け回復?)
父は本当に朦朧としていた。
ここがどこで、なぜ縛られているのかもわからない状態。
ろれつが回らず、とても眠そうだ。
そして、眠そうな父を起こすことも、なんだか不憫になってしまう。
「お父さん、りん子が来たよ!!」姉が、話しかける。
「おう、りん子か~、なお(仮名)はどうした~(こんな状態でも孫命♪)」
「家にいるよ!!」
「そうか~、なんかこれが取れないんだよ~」(手の拘束のこと)
そんな切ない会話をしていると、そばを通った看護士さんが私を見て「あなたがりん子さん?」と聞いてくる。
頷くと、「お父さん、一晩中あなたの名前を呼んでたわよ。 『りん子~~』『りん子、煙草買ってこーい』って」と昨夜の父の大騒ぎ振りを教えてくれた。
ああ、もうこれで充分だ。
不謹慎だが、私は喜んでしまった。
いつも父は私を使いっ走りにしていた。
煙草を買いにいくのも、お酒のお代わりを作るのも、氷を足すのも。
呆けた状態でも父が欲した物を取りそろえるのは私の役目だったみたいだ。
そんな役回りでも、父が私の名前を大声で呼んでいた事実。
それだけで満足だ。
那智さんからたくさんもらった、だから、その事実だけでもう私は充分だ。
30数年間、埋められずにいたものを那智さんに埋めてもらって、「私の名を呼び私を頼ったという事実」でしっかりと蓋をして、きれいにならして、私の心は真っ平らになった。
わあ、まだ終わりません。
重たい話ですよね、それでも良いと思ってくださる方がいらっしゃるなら、もう少しお付き合いください。
- 関連記事
-
- はじめての旅2 2006/06/28
- 心の変化1 2006/07/26
- 私について(父性とシスターコンプレックス1) 2006/06/20