自分のもの
りん子的独り言(生意気)
SM界のマゾ側の女性のイメージや認識に感じていた違和感を続けてエントリーしてきました。
あれで一応完結したのだけど、もうひとつ下書きにあったものを続けてアップしちゃいます。
『M女の快感』というエントリーを書いたあとに、結局『M女の快感』は『女の快感』に繋がるんじゃないかと思い至った経緯と同じで、『M女』に求めるものの違和感は、結局女性の性に求めるものの違和感に繋がるんじゃないかという結論です。
(『M女の快感』『徒然に『M女の快感』』『徒然に『女の快感』』)
先日たまたま読んだ本の一節に田島陽子さんの言葉がありました。
女はいつか嫁に貰っていただく身だから、何よりも『人に愛されること』が大切だ、という価値観の元に育てられた。
ありのままの自分で生きるのではなく、まず他人から愛される自分にならなくちゃ、と。
その想いが、幼い頃からずっと私を苦しめたんです。
人に愛されたい、という想いが、私を人間ではなく亡者にしてしまった。
『良妻賢母のススメ?』に載せた『良妻賢母の心得』はいまから60年余り前に書かれたもの(とされている。よく読むと信憑性にすこし疑問ですが)
おそらく、当時は女性の生きる選択肢が極端に少なかったのでしょう。
田島陽子さんはそれより10年ほど前に生まれていて、わたしは発行されてから15年ほどして生まれている。
いまどきの若者はピンと来ないと思うけど、わたしもこの価値観の中幼少を過ごした。
そして、それがすべてではないけど、ちょっと問題ありの父親からの影響もあって、男性から『愛される価値がない』と思い続けてきた。
おそらく、このふたつがわたしのモヤモヤとなって下記のようなエントリーを書かせたのだと思います。
このあとのエントリーはずいぶん前に酔った勢いで書いたもの。
ちょっと恥ずかしいけど、わたしのモヤモヤの原因がちょっとわかるかなと思うので、そのままアップします。
たくさんの女性が『愛されるため』じゃないセックスができることを願って。
ちょっとアルコールが入っている。
このネタはいつかちゃんと整理して書くつもりだった。
でもいまパソコンに向かって書く気満々。
酔った勢いで書いてみようと思うのだ。
明日になれば、感情的な文章に結論のない内容を読み返して、やっぱり書き直そうとかアップするの一旦やめようとか思うかもしれないけど、それもやめようと思って書き始めている。
こうやって勢いで書くことは本当は避けたほうがいいのだけど、これもわたし、今夜はそんな気分で。
『だから何?!』も『意味わからない』も、ごめんなさい、全部わたしの力不足と勢いに任せた結果です(笑)
北原みのりさんの『アンアンのセックスできれいになれた?』を読んだ。
お友達からお借りしたもので、すでにもう手元にないのでもしかしたら間違った解釈をしているかもしれないので、本編とは切り離して読んでください。
また、これは、世代か個人差か、わたしの引っかかったポイントにお友達は引っかかりませんでした、だから、きっととても個人的な感覚なのだと思います。
この本は雑誌アンアンの40年の歴史を振り返り、時代ごとの女性の性に対する世の中の流れを検証していました。
創刊当初は、レズビアンや合法の薬などを推奨していて、女のセックスは女のもの!!と刺激的に新しいことを提供していた。
中期はバブル前後、浮かれた世の中と同じように女性の性もオシャレに語られていたようだ。
バブル後、援交なんて言葉が使われはじめた頃から、女性のセックスに対して姿勢が保守的になっていく。
創刊当初より時代は進んでいるのに、どんどん逆行していくのだ。
セックスを愛されるためのツールにしていっている。
この逆行を著者は年代を追うことで浮き彫りにしていた。
感想はおいといて^^;(感想文苦手 笑)
わたしは読んでいる最中に二回泣いた。
一度目は初期の頃一般女性が裸の写真モデルになった『きれいな裸』という特集を取り上げたとき。
一般女性が『きれいな裸』と題して、誰のためでもない自分のために裸になろうというコンセプトだったのだ(と解釈しています)。
そこに寄せられた林真理子さんの寄稿文の出だしで、涙が溢れた。
細部が違っていたらごめんなさい。
『かつてこの国にはヌードという写真があった』
とか、そんな感じの出だしだった。
要は、男のために裸になるのは過去の話。
いまは、自分のために脱いで自分の体を愛して、それを写真に残そうと女性たちが集まった。
新しい時代の幕開けというような内容だった。
この出だしを読んだときにずしーんときて涙があふれてしまった。
そうだ、わたしの裸や性やセックスはずっとずっとわたしものじゃなかったな。
もちろん、わたしの体はわたしのものだったし、ちゃんと合意の上でセックスしていたのだから見た目ではわたしのものだったけど。
自分には愛される価値がないと思っていたから、わたしの性に関するものは男に愛されるための商品価値を持つことではじめて成り立っていたんだ。
『やったら愛される』
男が気に入るような体型を維持し、男が気に入るような恥じらいを持ち、男が気に入るような仕草をして、男が気に入るような感じ方をする
だから、わたしにはずっと『わたしのセックスはわたしのものじゃない』という感覚があったのだろう。
わたしが気持ちよくなるため、楽しむためではなくて、愛されるため可愛いと思ってもらうため男の満足のための性だったんだよね。
北原みのりさんの文章と林真理子さんの寄稿文を読んで、とてもとても実感した。
セックスに付加価値をつけないほうがいい。
その付加価値は、愛されることや絆を深めることや女性には目がくらむような魅力に見えるものだけど、何かのためにする性は自由じゃない。
自分の体やセックスは自分のためにある。
自分が主体。
それを揺るぎない自分の感覚にして、はじめて付加価値をつけたければ付ければいいにすればいい。
ああ、長いこと、わたしの体や性やセックスは、わたし自身のものではなくて、愛されるため、相手にためのものだったなぁと思う。
自分の体も性もセックスも、誰かのものじゃなくて、わたしのもの。
いま、わたしのセックスは那智さんのものだ。
那智さんに『価値がある』と教え続けてもらって、自分が主体で自分の性や体を愛することができている、そこでわたしは自分の性をお預けすることが好きだと理解して、あらためて、那智さんに主体をお任せしている。
価値を感じられないからなんとか価値を得ようとして『誰か、何かのためのもの』にするのではなく。
自分のものだと強烈に主張できて、はじめて、那智さんに委ねて『あなたのもの』だと言えるほうが、ずっとずっとしあわせだ。
わたしはわたしの体や性を抱きしめる。
大事に抱きしめているわたしごと那智さんに持ってもらっているのだ。
だから、わたしの性は那智さんのもの。
わたしが『りん子的独り言』などで、性的な場面で女性が尊重されることを願うのは、奴隷さんの『ご主人様のため』の性行為を心配するのは、不本意な複数を否定するのは、きっと、この『女性が主体になって選ぶ性』を求める気持ちからだ。
かつて、わたしがそうじゃなかったから。
自分が主体じゃない性の感覚、男性はもちろん女性でもわかる人はもしかしたら、そんなに多くないかもしれない。
それでも、何度でもいおう。
自分の体や性やセックスは自分のもの。
愛されるためのものでも、男のためのものでもない。
自分主体で選ぶのだ。
二度目に涙が流れたのは飯島愛さんに触れていたところだった。
世間の奔放なイメージとは裏腹に彼女の性も彼女のものではなかったのかなと想像させる内容の文章に、自分を重ねてしまって泣いた。
(ちょっぴり彼女はシンクロするところあるんだよね、著書とか読んでないけど)
ダメ押しの『りん子的独り言』にお付き合いくださってありがとうございます。
5月はもう一回分あるよね^^
だから、もうひとつ違った意味の濃いエントリーを載せて、濃い5月は終了します〜。
ツイートを受け。はいはい、感想です。私も酔っているので勢いで、りん子ゴメンナサイ。(笑)りん子は自分の快楽の為にオナニーしたことは無いと言う。欲求が出てはき出すようなそれしかしたことがない、今回のエントリーに関係するのではないかと思う。
自分の性やセックスを大事にするならば、オナニーを楽しんでもいいだろう。せかされるような欲求ではなく、今日は、美味しいおかずを用意したから・・と考えても問題ないよね、りん子。(笑)高校の頃、エロ映画3本立てを見て、走って帰り3杯おかわりするような、楽しみが女性にあっても良いよね?
SM界のマゾ側の女性のイメージや認識に感じていた違和感を続けてエントリーしてきました。
あれで一応完結したのだけど、もうひとつ下書きにあったものを続けてアップしちゃいます。
『M女の快感』というエントリーを書いたあとに、結局『M女の快感』は『女の快感』に繋がるんじゃないかと思い至った経緯と同じで、『M女』に求めるものの違和感は、結局女性の性に求めるものの違和感に繋がるんじゃないかという結論です。
(『M女の快感』『徒然に『M女の快感』』『徒然に『女の快感』』)
先日たまたま読んだ本の一節に田島陽子さんの言葉がありました。
女はいつか嫁に貰っていただく身だから、何よりも『人に愛されること』が大切だ、という価値観の元に育てられた。
ありのままの自分で生きるのではなく、まず他人から愛される自分にならなくちゃ、と。
その想いが、幼い頃からずっと私を苦しめたんです。
人に愛されたい、という想いが、私を人間ではなく亡者にしてしまった。
『良妻賢母のススメ?』に載せた『良妻賢母の心得』はいまから60年余り前に書かれたもの(とされている。よく読むと信憑性にすこし疑問ですが)
おそらく、当時は女性の生きる選択肢が極端に少なかったのでしょう。
田島陽子さんはそれより10年ほど前に生まれていて、わたしは発行されてから15年ほどして生まれている。
いまどきの若者はピンと来ないと思うけど、わたしもこの価値観の中幼少を過ごした。
そして、それがすべてではないけど、ちょっと問題ありの父親からの影響もあって、男性から『愛される価値がない』と思い続けてきた。
おそらく、このふたつがわたしのモヤモヤとなって下記のようなエントリーを書かせたのだと思います。
このあとのエントリーはずいぶん前に酔った勢いで書いたもの。
ちょっと恥ずかしいけど、わたしのモヤモヤの原因がちょっとわかるかなと思うので、そのままアップします。
たくさんの女性が『愛されるため』じゃないセックスができることを願って。
ちょっとアルコールが入っている。
このネタはいつかちゃんと整理して書くつもりだった。
でもいまパソコンに向かって書く気満々。
酔った勢いで書いてみようと思うのだ。
明日になれば、感情的な文章に結論のない内容を読み返して、やっぱり書き直そうとかアップするの一旦やめようとか思うかもしれないけど、それもやめようと思って書き始めている。
こうやって勢いで書くことは本当は避けたほうがいいのだけど、これもわたし、今夜はそんな気分で。
『だから何?!』も『意味わからない』も、ごめんなさい、全部わたしの力不足と勢いに任せた結果です(笑)
北原みのりさんの『アンアンのセックスできれいになれた?』を読んだ。
お友達からお借りしたもので、すでにもう手元にないのでもしかしたら間違った解釈をしているかもしれないので、本編とは切り離して読んでください。
また、これは、世代か個人差か、わたしの引っかかったポイントにお友達は引っかかりませんでした、だから、きっととても個人的な感覚なのだと思います。
この本は雑誌アンアンの40年の歴史を振り返り、時代ごとの女性の性に対する世の中の流れを検証していました。
創刊当初は、レズビアンや合法の薬などを推奨していて、女のセックスは女のもの!!と刺激的に新しいことを提供していた。
中期はバブル前後、浮かれた世の中と同じように女性の性もオシャレに語られていたようだ。
バブル後、援交なんて言葉が使われはじめた頃から、女性のセックスに対して姿勢が保守的になっていく。
創刊当初より時代は進んでいるのに、どんどん逆行していくのだ。
セックスを愛されるためのツールにしていっている。
この逆行を著者は年代を追うことで浮き彫りにしていた。
感想はおいといて^^;(感想文苦手 笑)
わたしは読んでいる最中に二回泣いた。
一度目は初期の頃一般女性が裸の写真モデルになった『きれいな裸』という特集を取り上げたとき。
一般女性が『きれいな裸』と題して、誰のためでもない自分のために裸になろうというコンセプトだったのだ(と解釈しています)。
そこに寄せられた林真理子さんの寄稿文の出だしで、涙が溢れた。
細部が違っていたらごめんなさい。
『かつてこの国にはヌードという写真があった』
とか、そんな感じの出だしだった。
要は、男のために裸になるのは過去の話。
いまは、自分のために脱いで自分の体を愛して、それを写真に残そうと女性たちが集まった。
新しい時代の幕開けというような内容だった。
この出だしを読んだときにずしーんときて涙があふれてしまった。
そうだ、わたしの裸や性やセックスはずっとずっとわたしものじゃなかったな。
もちろん、わたしの体はわたしのものだったし、ちゃんと合意の上でセックスしていたのだから見た目ではわたしのものだったけど。
自分には愛される価値がないと思っていたから、わたしの性に関するものは男に愛されるための商品価値を持つことではじめて成り立っていたんだ。
『やったら愛される』
男が気に入るような体型を維持し、男が気に入るような恥じらいを持ち、男が気に入るような仕草をして、男が気に入るような感じ方をする
だから、わたしにはずっと『わたしのセックスはわたしのものじゃない』という感覚があったのだろう。
わたしが気持ちよくなるため、楽しむためではなくて、愛されるため可愛いと思ってもらうため男の満足のための性だったんだよね。
北原みのりさんの文章と林真理子さんの寄稿文を読んで、とてもとても実感した。
セックスに付加価値をつけないほうがいい。
その付加価値は、愛されることや絆を深めることや女性には目がくらむような魅力に見えるものだけど、何かのためにする性は自由じゃない。
自分の体やセックスは自分のためにある。
自分が主体。
それを揺るぎない自分の感覚にして、はじめて付加価値をつけたければ付ければいいにすればいい。
ああ、長いこと、わたしの体や性やセックスは、わたし自身のものではなくて、愛されるため、相手にためのものだったなぁと思う。
自分の体も性もセックスも、誰かのものじゃなくて、わたしのもの。
いま、わたしのセックスは那智さんのものだ。
那智さんに『価値がある』と教え続けてもらって、自分が主体で自分の性や体を愛することができている、そこでわたしは自分の性をお預けすることが好きだと理解して、あらためて、那智さんに主体をお任せしている。
価値を感じられないからなんとか価値を得ようとして『誰か、何かのためのもの』にするのではなく。
自分のものだと強烈に主張できて、はじめて、那智さんに委ねて『あなたのもの』だと言えるほうが、ずっとずっとしあわせだ。
わたしはわたしの体や性を抱きしめる。
大事に抱きしめているわたしごと那智さんに持ってもらっているのだ。
だから、わたしの性は那智さんのもの。
わたしが『りん子的独り言』などで、性的な場面で女性が尊重されることを願うのは、奴隷さんの『ご主人様のため』の性行為を心配するのは、不本意な複数を否定するのは、きっと、この『女性が主体になって選ぶ性』を求める気持ちからだ。
かつて、わたしがそうじゃなかったから。
自分が主体じゃない性の感覚、男性はもちろん女性でもわかる人はもしかしたら、そんなに多くないかもしれない。
それでも、何度でもいおう。
自分の体や性やセックスは自分のもの。
愛されるためのものでも、男のためのものでもない。
自分主体で選ぶのだ。
二度目に涙が流れたのは飯島愛さんに触れていたところだった。
世間の奔放なイメージとは裏腹に彼女の性も彼女のものではなかったのかなと想像させる内容の文章に、自分を重ねてしまって泣いた。
(ちょっぴり彼女はシンクロするところあるんだよね、著書とか読んでないけど)
ダメ押しの『りん子的独り言』にお付き合いくださってありがとうございます。
5月はもう一回分あるよね^^
だから、もうひとつ違った意味の濃いエントリーを載せて、濃い5月は終了します〜。
ツイートを受け。はいはい、感想です。私も酔っているので勢いで、りん子ゴメンナサイ。(笑)りん子は自分の快楽の為にオナニーしたことは無いと言う。欲求が出てはき出すようなそれしかしたことがない、今回のエントリーに関係するのではないかと思う。
自分の性やセックスを大事にするならば、オナニーを楽しんでもいいだろう。せかされるような欲求ではなく、今日は、美味しいおかずを用意したから・・と考えても問題ないよね、りん子。(笑)高校の頃、エロ映画3本立てを見て、走って帰り3杯おかわりするような、楽しみが女性にあっても良いよね?
COMMENT
とても共感しました。
りん子さんは、私の中で霞や霧のようにやわやわと曖昧なままのものを、キュッと形にして示してくれます。
それがとても心地いいです^^
りん子さんは、私の中で霞や霧のようにやわやわと曖昧なままのものを、キュッと形にして示してくれます。
それがとても心地いいです^^
わたしこそ、この感覚を共感してくれる人がいることにすこし驚き、とっても喜んでます。
ありがとうございます。
もっとわかりやすく整然と書けたらカッコいいんだけど^^;
つい感傷的になっちゃうのでちょっと恥ずかしいのだけど、これからも楽しんでくれたらうれしいです^^
ありがとうございます。
もっとわかりやすく整然と書けたらカッコいいんだけど^^;
つい感傷的になっちゃうのでちょっと恥ずかしいのだけど、これからも楽しんでくれたらうれしいです^^