徒然に『軽蔑と大事』
独特な幸福感
テレビの報道を見ながら、未曾有の緊急事態のいま一個人のたかだか性癖の話をアップすることにすこし疑問も感じていました。
何か応援エントリーでも書こうか。
ううん、そもそも被害に遭われている方々はブログなんて読んでいる場合じゃないよね。
わたしにできることはなんだろう。
きっと変わらないことだって思った。
報道を見ていると胸が苦しくなるような感覚になるけど、直接関わることができないわたしはあまり気持ちを引きずられることなく、変わらず更新することしかできないって思った。
大変な状態からいつか『薬指』を見ることができたら、りん子ったらこんな大変なときに性癖のことなんか書いてるよと苦笑してもらえたら、それでいい。
被害に遭われた方々、簡単に言葉にしてよいのかわからないけど、心からお見舞い申し上げます。
救助や医療に携わる方々、どうかご無事に。
途方に暮れるような画面を見ながら、人の生きる力を信じ、祈る気持ちで更新します、性癖のお話^^
前エントリーからの徒然です^^
自分がバカにしていたような女になりたいなんて願望を伝えることは決して快適な行為じゃない。
その自分を直視するだけでもしんどいのに、誰よりも可愛いと思ってもらいたい人に話すのだ。
嫌われちゃうんじゃないか。
引かれちゃうんじゃないか。
那智さんの『羞恥心をなくさないで』という命題と、この願望を伝えることは別物だとわかっていても感情としてためらう。
那智さんは変態のわたしも好きだけど、変態じゃなくてもわたしが好きという人だ。
これは両方からの見方ができて、わたし自身を全面肯定してくれている反面、性癖を全面肯定してくれているわけではない(たぶん^^;)
本当はもっと『変態りん子大歓迎』というスタンスをとってくれたほうが変態性を表に出すときためらいは減るだろう。
特に最初の頃はもっとわたしの性癖を肯定して大歓迎してほしいとずいぶん望んだものだ。
でもこれはないものねだり、性癖ではなくわたしを肯定でいてくれる良さを味わうには性癖を表に出すためらいや苦しい作業の負担はある程度わたしが負うものなんだ。
文字にして伝えてと言ってくれただけで、充分。
那智さんにとってわたしの『モンスター』はペットだ。
たぶん、微々たる存在。
『77のすき』の最後に書いたけど、わたしが事細かく『すき』を並べられるのはそれを聞いても那智さんにはなんら影響ないことがわかっているから。
わたしだったら、そのひとつひとつに反応しちゃいそうだもんね。
『真剣なお遊び』というエントリーで書いたように、那智さんはわたしを幸せにできるけど、わたしは那智さんを喜ばすことしかできない。
ふたりの『幸福』を担っている那智さんだからね。
那智さんが主導しているわたしたちの上下関係では、モンスターの扱いも那智さん次第、いつか叶えてあげようって思ってくれるかもしれない、叶えてくれないかもしれない。
これからの付き合いの参考やおもしろい話題提供で終わってしまう可能性だってある。
それを決めるのは那智さん。
苦しさが伴う作業に爽快感を感じていたのは、ひとりで抱えないでいいという安堵と那智さんはモンスターの存在に善くも悪くも左右されないだろうと感じていたからなんだ。
この性癖肯定ではない、りん子肯定は『大事、大事』にも表れている。
サディスティックな感情の中に『蔑む』というものが入っているなら、那智さんがわたしを踏んだときサディスティックな感情はほとんどない。
喜ぶ姿が見たいこととこんなことで喜ぶわたしを見て那智さん自身も肯定されている感覚を味わっているのだろう。
これは、おそらくわたしたちの間で行われるSM行為の基本。
互いの存在を肯定し合う。
『蔑む』感情を抜きに可愛がる行為としてSMをすると、踏むことと『大事、大事』はさほど変わらない行為になるようだ。
だから流れの中で踏み抱擁し、次は鞭を打つようなことになるのだろう。
那智さんにスイッチやモード切り替えというのはないみたい。
実は踏むのをやめて『大事、大事』とされたとき、わたしのモンスターはほんのすこしがっかりした。
モンスターとマゾがイコールかは置いといて、被虐の行為が終わってしまったことにモンスターが残念に思ったんだね。
那智さんと付き合う限り、蔑まれたいという性癖は叶うことはないだろう。
性癖を肯定しないでりん子を肯定するという愛し方はそういうことだ。
もっと変態大歓迎してということは、那智さんとの関係で数少ない叶わないことのひとつだと思っている。
だけどわたしは自分が傷つくことを知っている。
そしてわたしのとって、モンスターよりちょっぴり大事な『女の子』を叶えてもらうほうが、実は根幹に触れているのだろうと理解している。
『女の子』とモンスターを同じ分量で両立させることは、わたしは難しいような気がしているので、いまのスタンスが一番いいのだと思う。
こんなイメージだろうか。
わたしの核は『女の子』だ。
そしてその『女の子』が暴れん坊のペットモンスターを抱いている。
わたし(女の子)がモンスターを抱いているということ。
『お父さん、モンスターひっかくの、とっても重いの、お腹すいてるって鳴いてるよ』
大変なときは困ったときはお父さんにいう。
お父さんはわたし(女の子)を膝に抱き、わたし(女の子)がモンスターを抱いている。
那智さんに直接抱いてもらっているのはわたし(女の子)、モンスターはわたしと一緒に飼くれている。
だから軽蔑の目で見られないモンスターはちょっと残念と思うかもしれないけど、女の子は大満足。
もしかしたら、その人の核?根幹?を司るものがマゾや被虐の人もいるかもしれない。
そういう人にとっては性癖を肯定されることは全肯定になるのかな。
『女の子』が核でモンスターをペットに持つわたしの幸福な在りようは、この姿なんだろうなといまは思っている。
だからね、最近の想像は、人から軽蔑の目で見られながら那智さんに『大事、大事』って撫でてもらうことなのですね^^
<関連エントリー>
羞恥心をなくさないでの命題
『矛盾は嫌い』
『羞恥心って?』
『真剣なお遊び』
テレビの報道を見ながら、未曾有の緊急事態のいま一個人のたかだか性癖の話をアップすることにすこし疑問も感じていました。
何か応援エントリーでも書こうか。
ううん、そもそも被害に遭われている方々はブログなんて読んでいる場合じゃないよね。
わたしにできることはなんだろう。
きっと変わらないことだって思った。
報道を見ていると胸が苦しくなるような感覚になるけど、直接関わることができないわたしはあまり気持ちを引きずられることなく、変わらず更新することしかできないって思った。
大変な状態からいつか『薬指』を見ることができたら、りん子ったらこんな大変なときに性癖のことなんか書いてるよと苦笑してもらえたら、それでいい。
被害に遭われた方々、簡単に言葉にしてよいのかわからないけど、心からお見舞い申し上げます。
救助や医療に携わる方々、どうかご無事に。
途方に暮れるような画面を見ながら、人の生きる力を信じ、祈る気持ちで更新します、性癖のお話^^
前エントリーからの徒然です^^
自分がバカにしていたような女になりたいなんて願望を伝えることは決して快適な行為じゃない。
その自分を直視するだけでもしんどいのに、誰よりも可愛いと思ってもらいたい人に話すのだ。
嫌われちゃうんじゃないか。
引かれちゃうんじゃないか。
那智さんの『羞恥心をなくさないで』という命題と、この願望を伝えることは別物だとわかっていても感情としてためらう。
那智さんは変態のわたしも好きだけど、変態じゃなくてもわたしが好きという人だ。
これは両方からの見方ができて、わたし自身を全面肯定してくれている反面、性癖を全面肯定してくれているわけではない(たぶん^^;)
本当はもっと『変態りん子大歓迎』というスタンスをとってくれたほうが変態性を表に出すときためらいは減るだろう。
特に最初の頃はもっとわたしの性癖を肯定して大歓迎してほしいとずいぶん望んだものだ。
でもこれはないものねだり、性癖ではなくわたしを肯定でいてくれる良さを味わうには性癖を表に出すためらいや苦しい作業の負担はある程度わたしが負うものなんだ。
文字にして伝えてと言ってくれただけで、充分。
那智さんにとってわたしの『モンスター』はペットだ。
たぶん、微々たる存在。
『77のすき』の最後に書いたけど、わたしが事細かく『すき』を並べられるのはそれを聞いても那智さんにはなんら影響ないことがわかっているから。
わたしだったら、そのひとつひとつに反応しちゃいそうだもんね。
『真剣なお遊び』というエントリーで書いたように、那智さんはわたしを幸せにできるけど、わたしは那智さんを喜ばすことしかできない。
ふたりの『幸福』を担っている那智さんだからね。
那智さんが主導しているわたしたちの上下関係では、モンスターの扱いも那智さん次第、いつか叶えてあげようって思ってくれるかもしれない、叶えてくれないかもしれない。
これからの付き合いの参考やおもしろい話題提供で終わってしまう可能性だってある。
それを決めるのは那智さん。
苦しさが伴う作業に爽快感を感じていたのは、ひとりで抱えないでいいという安堵と那智さんはモンスターの存在に善くも悪くも左右されないだろうと感じていたからなんだ。
この性癖肯定ではない、りん子肯定は『大事、大事』にも表れている。
サディスティックな感情の中に『蔑む』というものが入っているなら、那智さんがわたしを踏んだときサディスティックな感情はほとんどない。
喜ぶ姿が見たいこととこんなことで喜ぶわたしを見て那智さん自身も肯定されている感覚を味わっているのだろう。
これは、おそらくわたしたちの間で行われるSM行為の基本。
互いの存在を肯定し合う。
『蔑む』感情を抜きに可愛がる行為としてSMをすると、踏むことと『大事、大事』はさほど変わらない行為になるようだ。
だから流れの中で踏み抱擁し、次は鞭を打つようなことになるのだろう。
那智さんにスイッチやモード切り替えというのはないみたい。
実は踏むのをやめて『大事、大事』とされたとき、わたしのモンスターはほんのすこしがっかりした。
モンスターとマゾがイコールかは置いといて、被虐の行為が終わってしまったことにモンスターが残念に思ったんだね。
那智さんと付き合う限り、蔑まれたいという性癖は叶うことはないだろう。
性癖を肯定しないでりん子を肯定するという愛し方はそういうことだ。
もっと変態大歓迎してということは、那智さんとの関係で数少ない叶わないことのひとつだと思っている。
だけどわたしは自分が傷つくことを知っている。
そしてわたしのとって、モンスターよりちょっぴり大事な『女の子』を叶えてもらうほうが、実は根幹に触れているのだろうと理解している。
『女の子』とモンスターを同じ分量で両立させることは、わたしは難しいような気がしているので、いまのスタンスが一番いいのだと思う。
こんなイメージだろうか。
わたしの核は『女の子』だ。
そしてその『女の子』が暴れん坊のペットモンスターを抱いている。
わたし(女の子)がモンスターを抱いているということ。
『お父さん、モンスターひっかくの、とっても重いの、お腹すいてるって鳴いてるよ』
大変なときは困ったときはお父さんにいう。
お父さんはわたし(女の子)を膝に抱き、わたし(女の子)がモンスターを抱いている。
那智さんに直接抱いてもらっているのはわたし(女の子)、モンスターはわたしと一緒に飼くれている。
だから軽蔑の目で見られないモンスターはちょっと残念と思うかもしれないけど、女の子は大満足。
もしかしたら、その人の核?根幹?を司るものがマゾや被虐の人もいるかもしれない。
そういう人にとっては性癖を肯定されることは全肯定になるのかな。
『女の子』が核でモンスターをペットに持つわたしの幸福な在りようは、この姿なんだろうなといまは思っている。
だからね、最近の想像は、人から軽蔑の目で見られながら那智さんに『大事、大事』って撫でてもらうことなのですね^^
<関連エントリー>
羞恥心をなくさないでの命題
『矛盾は嫌い』
『羞恥心って?』
『真剣なお遊び』