あなたに合う鍵
りん子的独り言(生意気)
わたしが心底幸福を感じられず、特に恋愛に於いて不幸な思いを繰り返していた理由をなんとか突き止めたくて、いくつか本を読んで、自分の心と向き合ってきた。
そこで現象を振り返り、感じたことを整理して、わたしなりの『カラクリ』のようなものを見つけて、ここでいくつか披露している。
もともと心の病に興味があってそれに関する本を読んでいて、さらに岩月謙司さんの本に出会って、パズルのピースがはまるように、『カラクリ』を見つけることができたのだ。
まあ、そんな大げさなことじゃないのだけど、『あ〜、こういうことだったんだ〜』みたいな感じね。
ただ、その手の本を読み漁ったかというと、まったくそんなことはなくて、実は心の病に興味があったといっても学術的な物はほとんど読まず『ビリーミリガン』や『症例A』などの読み物を楽しんでいた程度なのだ。
『漁った』と言えるのは、岩月謙司さんくらい。
だから、わたしがここで書いていることは、いろいろな欠片を組み合わせて、わたしの感覚で書いている。
だから、これから書くことは学術的にはもちろん、一般的な知識からも外れているかもしれないので、りん子的解釈としてお読みくださいね。
で、いくつか読んだ『その手』の本の中で、手に取ろうとして、結局読まずにいた種類の物がある。
それは『アダルトチルドレン』。
これを書くにあたってネットでざっと調べてみたけど、ちょっと認識が違ってました^^;
当時は、詳しく知る前にイメージだけで『こんな感じ?』と思って読まなかったのです。
そのイメージというのはね。
アダルトチルドレンの人は、子供の頃家族の機能不全によって、子供のはずなのに大人の役割を引き受けなくてはならなくて(このへんはあってる?)。
ずっと、良い子で頑張っていなくてはならなかった子。
それが元で『良い子でいなければ、愛されない』と植え付けられて苦しんでいる人。
そんな感じだった。
わたしが心底幸福を感じられないのはなぜだろうともがいていたとき。
そのイメージだけ捉えて、手に取ることがなかったんだ。
『それは、わたしとは違う』って。
人は、誰でも無条件で愛してほしいし、全面的に肯定してほしい。
基本は共通していると思うのだけど。
育った環境や人間関係などで、それを感じらず苦しんでいるとして。
不自由を感じているとして。
その基本を感じさせてもらう方法が、きっとわたしは『良い子でいなければ、愛されない』ではないだろうと思ったのだ。
『どーやっても、愛されない』=『愛される価値がない』だったから^^;
当時、こんなに整理できていたわけじゃないけど、『良い子でいなければ、愛されない』に違うなと漠然と思ってたんだ。
想像なんだけど。
周りの環境のために『頑張って良い子でいなければいけなかった』子、そして、実際頑張ってきた人が、『良い子でいなければ、愛されない』という呪縛を抱えているとしたら。
多分、こう感じさせてほしいんじゃないかな。
あなたは良い子じゃなくていい。
良い子で頑張らなくても、あなたを愛している。
もしとても悪いことをしたとしても、変わらずに愛してる。
勝手な想像なんだけど、こんなふうにして、『愛されている、肯定されている』と感じられ、満たされるのではないかしら。
アダルトチルドレンとは少し違うかもしれないけど。
う〜ん。
『良い子症候群』とか言うのかな。(この言葉もかなりりん子的解釈です)
わたしは、違ったんだな。
ひと言でいうと。
『正当な評価』
これが、わたしの感じさせてほしいことだったんだ。
まあ、いつものように父親からの適正な愛情不足の話になっちゃうんだけど。
わたしが、どんなに頑張っても、どんなに良い子でいても、どうしたっておねえちゃんのようには褒めてもらえなかった(いや、実際、デキのよい子ではなかったけど^^;)
父にとって、わたしは評価の対象外だったのだ。(と感じられていた)
何をやっても。
『おまえはおねえちゃんみたいな優しいおねえちゃんがいてよかったな』だし。
美容院に行けば。
『おねえちゃんみたいな髪型にしないのか』だし。
良かろうが、悪かろうが、評価の対象ではなかったのだ。
唯一、父に褒めてもらったことがある、絵が上手ということも。
大人になってから『絵が上手いのはおねえちゃんだった』と記憶がねじ曲げられていたほどだ。
だから、わたしは正当に評価してほしかった。
『おまえは優しいね』
『その髪型よりも、前のほうが良かったな』
何もかも褒めてほしいというのではないのだ。
評価とは、努力や成果に対する値打ち。
わたしを見て、評価の対象にして、正当に評価してほしい。
わたしが捕われていたのは。
『無価値感』
なんとかして、自分に愛される価値があると父親にわかってもらいたくて必死になっていたことが、結局それをもらえずに植え付けられた『無価値感』が、その後のわたしの不自由になった原因のひとつだとう思うのだ。
だから、わたしが感じさせてもらいたい方法は。
あなたはよく頑張っているね、良い子だ。
あなたをちゃんと見ているよ。
ここは良くないから直そうね。
だけど、あなたを愛しているよ。
こんな言葉。
無条件に愛してほしい、全面的に肯定してほしい。
そして、はじめて自由に生きられる。
なにか不自由を感じていたとして、それをほしいと願ったとして。
原因はひとつではないだろうし、ひとつが解決すれば全部オッケイというものでもないだろう。
でも、きっと、その人に合った解決の糸口があるんだと思う。
その一例が。
『良い子じゃなくてもいい悪い子でも、頑張らなくても、愛してる』
『良い子だね、頑張ってるね、できなくても愛してる』
こんなふうに。
無条件の愛情を感じさせてほしい方法が『良い子症候群』と『無価値感』では、違うのだろうなと思うのです。
自分を解放するために閉ざしていた扉を開く鍵が、それぞれ違う様式なんだろうな。
カードキーと南京錠みたいに?
これ以外だって、たくさん鍵の種類はあるはず。
更に、個々に合う鍵が必要なので、結局自分の力で見つけないといけないのだけど。
同じ『愛されたい』『解放されたい』でも、方法が違うように感じられて、なんだか興味深い。
わたしの鍵は『正当な評価』だった。
どちらが良い悪いではなくて、客観視して。
自分の鍵はなんだろうって考えるのも、悪くないかなと思うのでした。
なんか、それっぽいもの拾ってみました〜。
おヒマなときに読んでみてね^^
『私について(父性とシスターコンプレックス1、2)』
『毛布』
『暗闇の安息』
『不安定の魅力』
『答えの出ていない仮説^^;』
わたしが心底幸福を感じられず、特に恋愛に於いて不幸な思いを繰り返していた理由をなんとか突き止めたくて、いくつか本を読んで、自分の心と向き合ってきた。
そこで現象を振り返り、感じたことを整理して、わたしなりの『カラクリ』のようなものを見つけて、ここでいくつか披露している。
もともと心の病に興味があってそれに関する本を読んでいて、さらに岩月謙司さんの本に出会って、パズルのピースがはまるように、『カラクリ』を見つけることができたのだ。
まあ、そんな大げさなことじゃないのだけど、『あ〜、こういうことだったんだ〜』みたいな感じね。
ただ、その手の本を読み漁ったかというと、まったくそんなことはなくて、実は心の病に興味があったといっても学術的な物はほとんど読まず『ビリーミリガン』や『症例A』などの読み物を楽しんでいた程度なのだ。
『漁った』と言えるのは、岩月謙司さんくらい。
だから、わたしがここで書いていることは、いろいろな欠片を組み合わせて、わたしの感覚で書いている。
だから、これから書くことは学術的にはもちろん、一般的な知識からも外れているかもしれないので、りん子的解釈としてお読みくださいね。
で、いくつか読んだ『その手』の本の中で、手に取ろうとして、結局読まずにいた種類の物がある。
それは『アダルトチルドレン』。
これを書くにあたってネットでざっと調べてみたけど、ちょっと認識が違ってました^^;
当時は、詳しく知る前にイメージだけで『こんな感じ?』と思って読まなかったのです。
そのイメージというのはね。
アダルトチルドレンの人は、子供の頃家族の機能不全によって、子供のはずなのに大人の役割を引き受けなくてはならなくて(このへんはあってる?)。
ずっと、良い子で頑張っていなくてはならなかった子。
それが元で『良い子でいなければ、愛されない』と植え付けられて苦しんでいる人。
そんな感じだった。
わたしが心底幸福を感じられないのはなぜだろうともがいていたとき。
そのイメージだけ捉えて、手に取ることがなかったんだ。
『それは、わたしとは違う』って。
人は、誰でも無条件で愛してほしいし、全面的に肯定してほしい。
基本は共通していると思うのだけど。
育った環境や人間関係などで、それを感じらず苦しんでいるとして。
不自由を感じているとして。
その基本を感じさせてもらう方法が、きっとわたしは『良い子でいなければ、愛されない』ではないだろうと思ったのだ。
『どーやっても、愛されない』=『愛される価値がない』だったから^^;
当時、こんなに整理できていたわけじゃないけど、『良い子でいなければ、愛されない』に違うなと漠然と思ってたんだ。
想像なんだけど。
周りの環境のために『頑張って良い子でいなければいけなかった』子、そして、実際頑張ってきた人が、『良い子でいなければ、愛されない』という呪縛を抱えているとしたら。
多分、こう感じさせてほしいんじゃないかな。
あなたは良い子じゃなくていい。
良い子で頑張らなくても、あなたを愛している。
もしとても悪いことをしたとしても、変わらずに愛してる。
勝手な想像なんだけど、こんなふうにして、『愛されている、肯定されている』と感じられ、満たされるのではないかしら。
アダルトチルドレンとは少し違うかもしれないけど。
う〜ん。
『良い子症候群』とか言うのかな。(この言葉もかなりりん子的解釈です)
わたしは、違ったんだな。
ひと言でいうと。
『正当な評価』
これが、わたしの感じさせてほしいことだったんだ。
まあ、いつものように父親からの適正な愛情不足の話になっちゃうんだけど。
わたしが、どんなに頑張っても、どんなに良い子でいても、どうしたっておねえちゃんのようには褒めてもらえなかった(いや、実際、デキのよい子ではなかったけど^^;)
父にとって、わたしは評価の対象外だったのだ。(と感じられていた)
何をやっても。
『おまえはおねえちゃんみたいな優しいおねえちゃんがいてよかったな』だし。
美容院に行けば。
『おねえちゃんみたいな髪型にしないのか』だし。
良かろうが、悪かろうが、評価の対象ではなかったのだ。
唯一、父に褒めてもらったことがある、絵が上手ということも。
大人になってから『絵が上手いのはおねえちゃんだった』と記憶がねじ曲げられていたほどだ。
だから、わたしは正当に評価してほしかった。
『おまえは優しいね』
『その髪型よりも、前のほうが良かったな』
何もかも褒めてほしいというのではないのだ。
評価とは、努力や成果に対する値打ち。
わたしを見て、評価の対象にして、正当に評価してほしい。
わたしが捕われていたのは。
『無価値感』
なんとかして、自分に愛される価値があると父親にわかってもらいたくて必死になっていたことが、結局それをもらえずに植え付けられた『無価値感』が、その後のわたしの不自由になった原因のひとつだとう思うのだ。
だから、わたしが感じさせてもらいたい方法は。
あなたはよく頑張っているね、良い子だ。
あなたをちゃんと見ているよ。
ここは良くないから直そうね。
だけど、あなたを愛しているよ。
こんな言葉。
無条件に愛してほしい、全面的に肯定してほしい。
そして、はじめて自由に生きられる。
なにか不自由を感じていたとして、それをほしいと願ったとして。
原因はひとつではないだろうし、ひとつが解決すれば全部オッケイというものでもないだろう。
でも、きっと、その人に合った解決の糸口があるんだと思う。
その一例が。
『良い子じゃなくてもいい悪い子でも、頑張らなくても、愛してる』
『良い子だね、頑張ってるね、できなくても愛してる』
こんなふうに。
無条件の愛情を感じさせてほしい方法が『良い子症候群』と『無価値感』では、違うのだろうなと思うのです。
自分を解放するために閉ざしていた扉を開く鍵が、それぞれ違う様式なんだろうな。
カードキーと南京錠みたいに?
これ以外だって、たくさん鍵の種類はあるはず。
更に、個々に合う鍵が必要なので、結局自分の力で見つけないといけないのだけど。
同じ『愛されたい』『解放されたい』でも、方法が違うように感じられて、なんだか興味深い。
わたしの鍵は『正当な評価』だった。
どちらが良い悪いではなくて、客観視して。
自分の鍵はなんだろうって考えるのも、悪くないかなと思うのでした。
なんか、それっぽいもの拾ってみました〜。
おヒマなときに読んでみてね^^
『私について(父性とシスターコンプレックス1、2)』
『毛布』
『暗闇の安息』
『不安定の魅力』
『答えの出ていない仮説^^;』
hotに3周年御礼
独り言
ブログをはじめて今日で丸3年。
なぜはじめて、どうして続けているのだろう。
アンテナに引っかかるたくさんの出来事や感情を吐き出したいという理由ではじめて、それを表に出すことで気持ちを整理し、自己主張の体験を積んでいる。
そして、那智さんのため。
そのあたりは『『あなたのために』はしない』『暗闇にならない『あなたのため』』『社会性』で書いた。
わたしのためで、那智さんのため。
わたしの主張や感性を楽しんでくださる方々のおかげで、とても居心地の良い場所を作ることができています。
そして、もうひとつ。
とても非力ではあるけれど、願いを込めて書いている。
ここ数ヶ月で、その願いを言葉で表せることができるようになったから、今日はそれを書いてみようと思う。
それは、卵の側にいたいということなんだ。
村上春樹さんのエルサレム賞でのスピーチご存知ですか?
わたし村上春樹さんの本はほとんど読まないのだけど、あのスピーチはとても好きなのです。
(「村上春樹 卵」とか「村上春樹 演説」とかで検索すると全文読めます)
イスラエルで行われた文学賞エルサレム賞の授賞式でのスピーチ。
ガザ侵攻の非人道性をその渦中であるイスラエルの授賞式で批判した。
えっと、世界情勢についてここではいうつもりはないです。(得意じゃないし^^;)
『常に卵の側に』というタイトルのその演説を一文を抜粋しますね。
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」
どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょう が、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょ う?」
彼は「壁」をシステム(強者)、「卵」を個(弱者)として、たとえ壁が正しくても常に卵の側に立つと言っています。
わたしは小説家でもないし、書いていることはノロケだしSMだしちっとも崇高なものではないし。
エラソーなこと言える立場じゃないのだけど。
このブログの中で。
壁=システムは。
男性が作った社会であったり(個々の男性じゃないよ^^)。
絶対的な権力を持つご主人様だったり。
いろんな意味が込められているはずなのに、『主従』や『奴隷』や名称として一括りになった時点でひとつの威力になってしまう『言葉』そのものだったり。
(いつも言ってるけど、個々の『主従』『奴隷』を責めてるんじゃないよ〜。それで苦しくなるなら、という枕詞付きです)
『○○でなければならない』といういつの間にか出来上がっている多数意見。
卵=個は。
女性やM女さん。
誰かに従属していたい不安を抱えた人。
アンテナの感度が良すぎていらぬ傷を追ってしまう人。
『○○であるべきだ』という多数派の言葉に苦しさを感じている人。
少数の押しつぶされそうな『個』の気持ち。
だと思ってる。
時に『個』はとても弱い。
弱いということは、確かに正しいことではないかもしれない。
だけど、わたしは様々な場面で弱い側に立ちたい。
例え、それが正しくないことだったとしても。
システムについて行かれず、ひとりうずくまっている人がいるならば。
それが正しいとされていることから外れていても、わたしはその人の側にいたい。
なぜかというと、わたしも『個』でいたいから。
その人ひとりのためにと、そう思って書いている。
できる限り言葉を尽くして、奴隷さんや主従を結んでいるM女さんに向けているのではないと書いているつもりで、それでも批判的な意見に取れるように書いてしまったとするならば。
それはその先にある壁に向かって吠えているのです。
また、心の暗部を書いて、その原因やカラクリを自分なりに探っているのは、誰かのせいにしたいのではなく、『個』としてとても弱いけど、それを披露することで同じ『個』の側に少しでも寄り添えるのではないかと思って書いています。
一日200件前後のブログでなーんの役にも立たないと思うけど。
それでも、たとえ正しくなくても常に卵の側に立つ女性目線のSM的ブログがあってもいいんじゃないかなと思っています。
○○批判みたいに吠えちゃってるけどけっしてそれを否定しているつもりはなくて、それぞれの方法で幸せを感じていられたらいいよね。
それには『個』であるべきで、既成のシステムは参考にしかならないはずだ。(もしかしたら、参考にさえならないかもしれない)
って、誰に頼まれたわけじゃないけど、これもアンテナで拾ってしまうのと同様書かずにはいられない性分みたいです^^;
いつも『卵』に寄り添っていたい。
うずくまっているところから、立ち上がり歩き出すのは自分の力だ。
だから、わたしができることは、せめて、似たような女がここにいて、寄り添いたいと思っているよと願いを込めて書くこと。
拾った音を整理するため。
那智さんの楽しみのため。
誰にも頼まれていないけど、卵のそばに^^;
日々、吐き出して、日々更新していますが。
何もそんなこと書かなくてもと思うことまで。
人は人だよ、とも思う。
だけど、常に卵の側にいたいと思ってしまって。
非力ではあっても寄り添う力をブログが持っていると、おこがましくも思ってしまっているんだ。
ということで、わたしは、これからも一生懸命ノロケて、一生懸命毒を吐いていこうと思ってます。
うずくまっている人に届けと願って。
ブログを始めて今日で丸3年になりました。
いつも読んでくださっている方。
コメントや拍手コメントやメールをくださる方(拍手の方、たまには出てきてね^^)。
希有な男性読者様?(笑)
リンクを貼ってくださっているサイトやブログの皆さま。
おかげさまで3周年になりました。
わたしに関わってくださったすべての人に、感謝の気持ちを込めて。
本当にありがとうございました。
3周年ということで『薬指の刺青』らしく、熱く感謝のエントリーでした^^
ここまでお付き合いくださった皆さまにささやかではありますが、感謝の気持ちで。
いままで『自己紹介』やエントリーの中に掲載した画像を一挙公開。
ひとつ下のエントリーからお入りください。
(期間限定のため終了いたしました。ご了承くださいませ)
最後に、いつも書いていますが。
那智さん。
あなたがいてくれたから、わたしはここで自由に、そしてしっかりと立っていられるようになっています。
その経験の積み重ねが、普段のわたしも強くしてくれてるはずです。
続けさせてくれてありがとうございました。
あなたは、わたしのパワーの源。
感謝の気持ちを込めて、これからもいっぱい那智さんを『白馬に乗った王子様』にしちゃいます^^
那智さん、愛してまーす♪
ということで、皆様、これからもよろしくお願いします^^
ブログをはじめて今日で丸3年。
なぜはじめて、どうして続けているのだろう。
アンテナに引っかかるたくさんの出来事や感情を吐き出したいという理由ではじめて、それを表に出すことで気持ちを整理し、自己主張の体験を積んでいる。
そして、那智さんのため。
そのあたりは『『あなたのために』はしない』『暗闇にならない『あなたのため』』『社会性』で書いた。
わたしのためで、那智さんのため。
わたしの主張や感性を楽しんでくださる方々のおかげで、とても居心地の良い場所を作ることができています。
そして、もうひとつ。
とても非力ではあるけれど、願いを込めて書いている。
ここ数ヶ月で、その願いを言葉で表せることができるようになったから、今日はそれを書いてみようと思う。
それは、卵の側にいたいということなんだ。
村上春樹さんのエルサレム賞でのスピーチご存知ですか?
わたし村上春樹さんの本はほとんど読まないのだけど、あのスピーチはとても好きなのです。
(「村上春樹 卵」とか「村上春樹 演説」とかで検索すると全文読めます)
イスラエルで行われた文学賞エルサレム賞の授賞式でのスピーチ。
ガザ侵攻の非人道性をその渦中であるイスラエルの授賞式で批判した。
えっと、世界情勢についてここではいうつもりはないです。(得意じゃないし^^;)
『常に卵の側に』というタイトルのその演説を一文を抜粋しますね。
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」
どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょう が、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょ う?」
彼は「壁」をシステム(強者)、「卵」を個(弱者)として、たとえ壁が正しくても常に卵の側に立つと言っています。
わたしは小説家でもないし、書いていることはノロケだしSMだしちっとも崇高なものではないし。
エラソーなこと言える立場じゃないのだけど。
このブログの中で。
壁=システムは。
男性が作った社会であったり(個々の男性じゃないよ^^)。
絶対的な権力を持つご主人様だったり。
いろんな意味が込められているはずなのに、『主従』や『奴隷』や名称として一括りになった時点でひとつの威力になってしまう『言葉』そのものだったり。
(いつも言ってるけど、個々の『主従』『奴隷』を責めてるんじゃないよ〜。それで苦しくなるなら、という枕詞付きです)
『○○でなければならない』といういつの間にか出来上がっている多数意見。
卵=個は。
女性やM女さん。
誰かに従属していたい不安を抱えた人。
アンテナの感度が良すぎていらぬ傷を追ってしまう人。
『○○であるべきだ』という多数派の言葉に苦しさを感じている人。
少数の押しつぶされそうな『個』の気持ち。
だと思ってる。
時に『個』はとても弱い。
弱いということは、確かに正しいことではないかもしれない。
だけど、わたしは様々な場面で弱い側に立ちたい。
例え、それが正しくないことだったとしても。
システムについて行かれず、ひとりうずくまっている人がいるならば。
それが正しいとされていることから外れていても、わたしはその人の側にいたい。
なぜかというと、わたしも『個』でいたいから。
その人ひとりのためにと、そう思って書いている。
できる限り言葉を尽くして、奴隷さんや主従を結んでいるM女さんに向けているのではないと書いているつもりで、それでも批判的な意見に取れるように書いてしまったとするならば。
それはその先にある壁に向かって吠えているのです。
また、心の暗部を書いて、その原因やカラクリを自分なりに探っているのは、誰かのせいにしたいのではなく、『個』としてとても弱いけど、それを披露することで同じ『個』の側に少しでも寄り添えるのではないかと思って書いています。
一日200件前後のブログでなーんの役にも立たないと思うけど。
それでも、たとえ正しくなくても常に卵の側に立つ女性目線のSM的ブログがあってもいいんじゃないかなと思っています。
○○批判みたいに吠えちゃってるけどけっしてそれを否定しているつもりはなくて、それぞれの方法で幸せを感じていられたらいいよね。
それには『個』であるべきで、既成のシステムは参考にしかならないはずだ。(もしかしたら、参考にさえならないかもしれない)
って、誰に頼まれたわけじゃないけど、これもアンテナで拾ってしまうのと同様書かずにはいられない性分みたいです^^;
いつも『卵』に寄り添っていたい。
うずくまっているところから、立ち上がり歩き出すのは自分の力だ。
だから、わたしができることは、せめて、似たような女がここにいて、寄り添いたいと思っているよと願いを込めて書くこと。
拾った音を整理するため。
那智さんの楽しみのため。
誰にも頼まれていないけど、卵のそばに^^;
日々、吐き出して、日々更新していますが。
何もそんなこと書かなくてもと思うことまで。
人は人だよ、とも思う。
だけど、常に卵の側にいたいと思ってしまって。
非力ではあっても寄り添う力をブログが持っていると、おこがましくも思ってしまっているんだ。
ということで、わたしは、これからも一生懸命ノロケて、一生懸命毒を吐いていこうと思ってます。
うずくまっている人に届けと願って。
ブログを始めて今日で丸3年になりました。
いつも読んでくださっている方。
コメントや拍手コメントやメールをくださる方(拍手の方、たまには出てきてね^^)。
希有な男性読者様?(笑)
リンクを貼ってくださっているサイトやブログの皆さま。
おかげさまで3周年になりました。
わたしに関わってくださったすべての人に、感謝の気持ちを込めて。
本当にありがとうございました。
3周年ということで『薬指の刺青』らしく、熱く感謝のエントリーでした^^
ここまでお付き合いくださった皆さまにささやかではありますが、感謝の気持ちで。
いままで『自己紹介』やエントリーの中に掲載した画像を一挙公開。
ひとつ下のエントリーからお入りください。
(期間限定のため終了いたしました。ご了承くださいませ)
最後に、いつも書いていますが。
那智さん。
あなたがいてくれたから、わたしはここで自由に、そしてしっかりと立っていられるようになっています。
その経験の積み重ねが、普段のわたしも強くしてくれてるはずです。
続けさせてくれてありがとうございました。
あなたは、わたしのパワーの源。
感謝の気持ちを込めて、これからもいっぱい那智さんを『白馬に乗った王子様』にしちゃいます^^
那智さん、愛してまーす♪
ということで、皆様、これからもよろしくお願いします^^
過去の私、未来の私
独特な幸福感
ソファに腰掛ける那智さんの足元に座り背筋を伸ばす。
那智さんが手にしているメジャーをわたしの首にかける。
クッと締める、少し苦しいくらいに。
「苦しい?」
「はい。」
少し緩める。
「これは?」
「まだ、少し苦しいです。」
「じゃあ、これは?」
「これなら大丈夫です。」
「ん〜、○○cmだなぁ」
KIRAさんのBODYアクセサリーの中から、チョーカーを購入しようとしてくれているのだ。
以前、首輪をオーダーメイドで用意してくれたときは、わたしが自分で計ったのだけど計り方がいけなかったのか、かなりきつく出来上がってしまったのだ。
自分の技術に自信がなかったから、今回は代わりに計ってもらうようにお願いした。
那智さん、昔取った杵柄でメジャー扱いがちょっと得意なのだ。
寸法を計るだけなのに。
クッと僅かに力をこめられ、絞まる首にドキドキしてしまう。
なんだか、甘美な想像。
アクセサリーをプレゼントしてくれるため、いまサイズを測ってくれている。
なんだか、ちょっと贅沢な気分。
少し未来のわたしのために那智さんが手を動かしてくれる、わたしは無防備に首を差し出す喜びを味わっていた。
なんだか、計ったサイズが思っていたより細かったみたいで、どうも納得いかない様子^^;
ソファに腰掛け、肘掛けのほうに上半身を傾けて、手持ちの首輪を計り出す(パンツ一丁で^^)。
寸法を比べようとしているみたい。
わたしも床からソファに移動して、正座で体ごと那智さんのほうを向く。
片手にメジャー、片手に首輪。
それを見つめる那智さん。
ちょっとかまってほしくて、正座のまま顔を近づける。
『かまって〜』オーラを放ちながら^^(ちなみに、わたしはお洋服着てます)
じーっと見つめる。
「わかったよ〜、こうすりゃあ、いいんだろ〜?」
ぐっと頭を掴んで、乱暴に胸に引き寄せる。
メジャーと首輪を持った両手に抱きかかえられるように、すっぽりと収まる。
頬が那智さんの皮膚に密着。
うわん♪そうなの、くっつきたかったの♪
しばらくじっとする。
わたしは自分を支えていた左腕を、意識して外す。
わざと那智さんに体を預けるのだ。
重ければ、だめって言うはず。
何もリアクションがない。
だから、そのままじっとしておく。
体を預け。
那智さんの右腕がわたしの肩の当たりに置かれてる。
静かな時間。
シュルシュルとメジャーを操る音が聞こえる。
時折。
「あれ?なんで?長さ違うの?」
とか
「ん、俺、頭悪い?(笑)」
なんて独り言のように言っているのが聞こえる。
わたしは黙ってじっと聞いているだけ。
だって、返事を求めているようではないのだもの。
左耳には那智さんの鼓動。
右からは、メージャーの擦れる音。
那智さんは計ることに意識が集中している。
わたしが体を預けようがお返事をしなかろうが、おかまいなし。
ああ、こんな幸せがあったんだ。
愛しい人が、少し未来のわたしのために手を動かし思考を巡らす。
そこにいることが当然のように、『いま』のわたしには無頓着。
わたしは、未来のわたしのために那智さんに放置されている、彼の温かい腕の中で。
なんて贅沢な放ったらかし。
未来のわたしのために手を動かしてくれるだけでも、とても贅沢に感じたけど。
こちらもとても贅沢だ。
わたしは遠慮することなく。
体を預け、そこにいる幸せだけを味わっていればいい。
こんな温かく無頓着にされる幸せがあったんだ。
那智さんの皮膚の感触、鼓動と『シュルシュル』という静かな音を聞いていたら。
涙が溢れてきた。
あんまり幸せで、でも、これだけで泣いてしまうことが、ちょっと照れ臭くて。
わざと、素直になる。
「あああ、那智さん、すごく幸せです。こんな幸せがあったんですね。」
「ん〜?(シュルシュル、まだ計ってる^^;)、あ〜、○○cmでいいんだ〜」
いいな〜、わたしが泣いても幸せ〜と訴えても、変わらず放ったらかしにしていてくれている。
遠慮しないでいいと空気や体温で教えてくれる、こんな時間を作ることができる那智さんは、とてもいい男だ。
これが幸せに感じられるのは、普段たくさん向き合ってくれているのを知っているから。
そして、ぐいっと引き寄せたのも、放置したままでいるのも、すべて『ふたりのため』だと感じさせてくれるから。
少し先の未来のわたしのために、この温かい腕の中で思う存分放置されているのだった。
那智さんと出会って、今日で丸6年。
7年目に突入しました。
6年経っても、変わることなく幸せに涙できることに感謝して、思い切り『那智さん、白馬の王子様』エントリー。
毎年、この日を迎えるたびに、思う。
去年だったら『5年前のわたし』
一昨年だったら『4年前のわたし』
過去のわたしへ呼びかける。
6年前のわたしへ。
わけもわからず彷徨って、得体の知れない不安がずっと足元を揺らしていたけれど。
あの日々、誰のせいにもせず、この不安の正体を知りたいと足掻いていたことは無駄ではなかったよ。
6月16日、那智さんに出会えるから、大丈夫。
諦めないで。
未来のあなたは、幸せだ。
『温かい放置』だなんていう、知らない種類の幸せを知ることができるよ。
だから、大丈夫。
って。
こうやって語りかけるとき、毎年必ず涙が流れる。
切なく幸せな涙。
7年目になりましたね、那智さん。
わたしのあなたを慕う気持ちは、6年前と変わらず、いいえ、もっともっと膨らんでいます。
那智さんを信じて。
互いの幸せのために。
いつも変わらず、わたしの側にいてくださってありがとうございます。
わたしも、いつまでも変わらず、あなたの『可愛い女』でいられるよう、新鮮な気持ちをなくさないでいます。
そして、未来のわたしへ。
10年後も20年後も、ずっと過去のわたしに語りかけようね、いまと同じ涙を流せるように。
もうひとつ。
とてもとても真剣に夢物語を願う、祈りを込めて。
いつか那智さんの心臓が止まるとき、わたしのそれも一緒に止まってくれるように、と。
またまた、熱いラブレターになっちゃった*^^*
皆さんには、過去エントリーも併せてお楽しみくださいませ^^
『出会い』
『尊敬』
『生きる』
『今度は5周年』
ソファに腰掛ける那智さんの足元に座り背筋を伸ばす。
那智さんが手にしているメジャーをわたしの首にかける。
クッと締める、少し苦しいくらいに。
「苦しい?」
「はい。」
少し緩める。
「これは?」
「まだ、少し苦しいです。」
「じゃあ、これは?」
「これなら大丈夫です。」
「ん〜、○○cmだなぁ」
KIRAさんのBODYアクセサリーの中から、チョーカーを購入しようとしてくれているのだ。
以前、首輪をオーダーメイドで用意してくれたときは、わたしが自分で計ったのだけど計り方がいけなかったのか、かなりきつく出来上がってしまったのだ。
自分の技術に自信がなかったから、今回は代わりに計ってもらうようにお願いした。
那智さん、昔取った杵柄でメジャー扱いがちょっと得意なのだ。
寸法を計るだけなのに。
クッと僅かに力をこめられ、絞まる首にドキドキしてしまう。
なんだか、甘美な想像。
アクセサリーをプレゼントしてくれるため、いまサイズを測ってくれている。
なんだか、ちょっと贅沢な気分。
少し未来のわたしのために那智さんが手を動かしてくれる、わたしは無防備に首を差し出す喜びを味わっていた。
なんだか、計ったサイズが思っていたより細かったみたいで、どうも納得いかない様子^^;
ソファに腰掛け、肘掛けのほうに上半身を傾けて、手持ちの首輪を計り出す(パンツ一丁で^^)。
寸法を比べようとしているみたい。
わたしも床からソファに移動して、正座で体ごと那智さんのほうを向く。
片手にメジャー、片手に首輪。
それを見つめる那智さん。
ちょっとかまってほしくて、正座のまま顔を近づける。
『かまって〜』オーラを放ちながら^^(ちなみに、わたしはお洋服着てます)
じーっと見つめる。
「わかったよ〜、こうすりゃあ、いいんだろ〜?」
ぐっと頭を掴んで、乱暴に胸に引き寄せる。
メジャーと首輪を持った両手に抱きかかえられるように、すっぽりと収まる。
頬が那智さんの皮膚に密着。
うわん♪そうなの、くっつきたかったの♪
しばらくじっとする。
わたしは自分を支えていた左腕を、意識して外す。
わざと那智さんに体を預けるのだ。
重ければ、だめって言うはず。
何もリアクションがない。
だから、そのままじっとしておく。
体を預け。
那智さんの右腕がわたしの肩の当たりに置かれてる。
静かな時間。
シュルシュルとメジャーを操る音が聞こえる。
時折。
「あれ?なんで?長さ違うの?」
とか
「ん、俺、頭悪い?(笑)」
なんて独り言のように言っているのが聞こえる。
わたしは黙ってじっと聞いているだけ。
だって、返事を求めているようではないのだもの。
左耳には那智さんの鼓動。
右からは、メージャーの擦れる音。
那智さんは計ることに意識が集中している。
わたしが体を預けようがお返事をしなかろうが、おかまいなし。
ああ、こんな幸せがあったんだ。
愛しい人が、少し未来のわたしのために手を動かし思考を巡らす。
そこにいることが当然のように、『いま』のわたしには無頓着。
わたしは、未来のわたしのために那智さんに放置されている、彼の温かい腕の中で。
なんて贅沢な放ったらかし。
未来のわたしのために手を動かしてくれるだけでも、とても贅沢に感じたけど。
こちらもとても贅沢だ。
わたしは遠慮することなく。
体を預け、そこにいる幸せだけを味わっていればいい。
こんな温かく無頓着にされる幸せがあったんだ。
那智さんの皮膚の感触、鼓動と『シュルシュル』という静かな音を聞いていたら。
涙が溢れてきた。
あんまり幸せで、でも、これだけで泣いてしまうことが、ちょっと照れ臭くて。
わざと、素直になる。
「あああ、那智さん、すごく幸せです。こんな幸せがあったんですね。」
「ん〜?(シュルシュル、まだ計ってる^^;)、あ〜、○○cmでいいんだ〜」
いいな〜、わたしが泣いても幸せ〜と訴えても、変わらず放ったらかしにしていてくれている。
遠慮しないでいいと空気や体温で教えてくれる、こんな時間を作ることができる那智さんは、とてもいい男だ。
これが幸せに感じられるのは、普段たくさん向き合ってくれているのを知っているから。
そして、ぐいっと引き寄せたのも、放置したままでいるのも、すべて『ふたりのため』だと感じさせてくれるから。
少し先の未来のわたしのために、この温かい腕の中で思う存分放置されているのだった。
那智さんと出会って、今日で丸6年。
7年目に突入しました。
6年経っても、変わることなく幸せに涙できることに感謝して、思い切り『那智さん、白馬の王子様』エントリー。
毎年、この日を迎えるたびに、思う。
去年だったら『5年前のわたし』
一昨年だったら『4年前のわたし』
過去のわたしへ呼びかける。
6年前のわたしへ。
わけもわからず彷徨って、得体の知れない不安がずっと足元を揺らしていたけれど。
あの日々、誰のせいにもせず、この不安の正体を知りたいと足掻いていたことは無駄ではなかったよ。
6月16日、那智さんに出会えるから、大丈夫。
諦めないで。
未来のあなたは、幸せだ。
『温かい放置』だなんていう、知らない種類の幸せを知ることができるよ。
だから、大丈夫。
って。
こうやって語りかけるとき、毎年必ず涙が流れる。
切なく幸せな涙。
7年目になりましたね、那智さん。
わたしのあなたを慕う気持ちは、6年前と変わらず、いいえ、もっともっと膨らんでいます。
那智さんを信じて。
互いの幸せのために。
いつも変わらず、わたしの側にいてくださってありがとうございます。
わたしも、いつまでも変わらず、あなたの『可愛い女』でいられるよう、新鮮な気持ちをなくさないでいます。
そして、未来のわたしへ。
10年後も20年後も、ずっと過去のわたしに語りかけようね、いまと同じ涙を流せるように。
もうひとつ。
とてもとても真剣に夢物語を願う、祈りを込めて。
いつか那智さんの心臓が止まるとき、わたしのそれも一緒に止まってくれるように、と。
またまた、熱いラブレターになっちゃった*^^*
皆さんには、過去エントリーも併せてお楽しみくださいませ^^
『出会い』
『尊敬』
『生きる』
『今度は5周年』
気持ちを乗っける
独り言
言葉は悪いんだけど、久しぶりに胸くそ悪いものを見てしまった。
辻井伸行さんというピアニストが国際ピアノコンクールで優勝したニュース。
日本人として初の優勝だそうで、それだけでも素晴らしいことなのでしょうけど、全盲だということでより脚光を浴びている。
まったく関係のない私まで、祝福の気持ちとなんだか『どうだ〜』というわけのわからない誇らしさをお裾分けさせてもらった感じだった。
優勝した日からニュースや情報番組で様々な報道をされ、ご家族のご苦労や愛情に心を動かされた。
中でもお父さんの語ったエピソードに、胸を打たれて、朝からウルウルしてしまった。
生まれたときから目が見えない辻井さんが、10代(だったかな?)の頃、一度だけお父さんにこう言ったそうだ。
『一日だけ目が見えるなら、その後また見えなくなってもいいから、一日だけ見ることができるならお母さんの顔を見てみたい』
と。
幼い頃から常に支えてきてくれたであろうお母さんの顔を一度でいいから見てみたい。
お父さんは、それを聞いた時はさすがに不憫になったと、声をつまらせながらインタビューに応えていた。
そうだよな〜、愛する人の顔見たいよね。
それを一度だけ口に出して願う息子の姿を見たお父さんは、胸がつぶれそうなほど切なかっただろう。
いち視聴者のわたしが『切なかった』なんて想像するのも申し訳ないくらい、辻井さんの言葉とそれを振り返るお父さんの言葉は心からの、ううん、かっこいい言い方だけど『魂の言葉』だった。
そのエピソードをたまたま見て、しばらくして辻井さんが帰国して凱旋記者会見がテレビで流れていたのをたまたま目にした時のことだった。
チャンネルザッピングをしていたので、前後の関係がわからずその一場面だけを取って言う失礼をお許しいただきたいのですが。
テレビ画面には辻井さんが写っていて、たくさんのマイクの前で質問に答えている様子だった。
女性の声が聞こえてきた。
多分、どこかの記者かレポーターだろう。
ものすごく感情を込めたような声でこう質問してきた。
『もしも、一日だけ目が見えるとしたら…』
ここで私はテレビのスイッチを消した。
恐らく、『一日だけ見えるとしたら、何が見たいですか?』と聞いたのだろう。
そのインタビュアーが前に書いたお父さんのエピソードを知っているのか、知らないのか、それはわからない。
だけど、もし知らなかったとしたら、なんて失礼な質問だろう。
そして、もし知っていたのなら、『お母さん』という答えを誘導しているはずで、それはなんて無神経な能のない質問だろう。
あの言葉は、それを共有できる父と息子の間でひっそりと交わされた言葉だから『魂の言葉』として、私には感じられたんだ。
それを、誰とも知らない人に、無理矢理『美談』として引っ張り出されたくないんじゃないかと、勝手に思ってしまった。
その言葉に魂が宿るかどうかは、それを発する人の心で決まると思う。
テレビに載せる美談にしようと、いくら女性レポーターが感情を込めていっても、何も心を揺さぶらない。
もちろんね、会話には『誘導』はあるかもしれない、でも、『裏側の意図』がわかってしまうのは、よくないよね。
あまりの無神経さに腹が立った。
その後辻井さんがどう答えたか見ていないのだけど、なんだか不憫になってしまったよ。
言葉には魂が宿るなんて、日頃考えないし、そんな立派な人生を歩んでいるわけじゃなけど。
言葉には、その人の気持ちが乗っかるな〜というのを感じることが時々ある。
前エントリーで『未来の自分のために放置される幸せ』を書いたけど、それに拍手コメントで『羨ましくて、憎らしくて…』という始まりでコメントをくれた方がいた。
その方とは初対面(ネット上でですが)ではないので多少のアドバンテージはあるにしても、『憎らしい』と書くにはちょっと勇気がいるはずだ。
だけど、その人はその人の幸せを持っているなかで、『憎らしい』で互いの幸せの共感を表してくれたのだ。
普通ちょっと身構える言葉だけど、そこに悪意がないのがわかるから、私は喜んでその言葉を受け取った。
気持ちは言葉に乗っかるのだ。
逆に、字面としては良い言葉を使っていてもそこに悪意や別な意図を含んでしまうと、やはり伝わる。
例のレポーターのような言葉の裏側の『別な意図』は、伝わってしまうものだ。
ただ、こればかりは、好みや感性の相性があると思う。
もしかしたら、あの記者会見だけしか見ていない人や感性がレポーター寄りな人には、感動のインタビューに感じられているかもしれないので、どれが良い悪いじゃないと思うのだけど。
私は、誰も傷つけたくないと思いながらも、自分の感性を信じて言葉に気持ちを乗っけていこうと思う。
胸くそ悪くなったけど、そう思い返せたから良しとするか。
ちなみに、那智さんは字面より『気持ちを乗っける』人。
いや、もっと字面も気にしたほうがいいんじゃない?とは思うけど、とにかく那智さん的言葉の選び方があるのだ。
那智さんのことよくわかっている人には『気持ちが乗っかってる』こと伝わると思うのだけど、あんまり字面を気にしないから、時々ヒヤヒヤする^^;
先日もKIRAさんのブログに『頑張ってくださいは嫌い』とコメントしていた。
あれは、那智さんとしては最高の応援なんだけど、またまたKIRAさんとうちを両方見ている方が、拍手コメントで『KIRAさんのところのコメントを見て、びっくりした』とコメントをくれたのです。
その方は良い解釈で取ってくれたから、問題ないのだけど。
そこで、『あ〜、これって気持ち乗っかってるの伝わりにくいかも?』と改めて思ったのだ。
私は慣れているのだけどね^^
面白い人でしょ?^^
『頑張って』というのは、とても無責任な励まし言葉だと思ってるの。
頑張ってるのは本人が一番よくわかってるんだから、周りが言うと突き放しているイメージがある。
自分と無関係の人に言っているみたいで、好きじゃない、そうなんだ。
私が仕事に出かける最中にたまたまお話できるとき。
「じゃあ、そろそろ会場入りしますね〜」と言うと。
「うん、頑張って…ああ、頑張ってじゃないな、じゃあ、りん子祝福ね〜」と言って送り出してくれる。
つい言ってしまいそうになるようで、こうやって訂正までしてくれる。
こういうとき、ああ、気持ち乗っかってるな〜と感じるのだ。
確かに、ちょっと特殊な感性で『頑張っては嫌い』という字面には驚かされるけど、那智さんらしい。
もし、どこかで那智さんとやり取りをされる機会がある方がいたら、字面じゃなくて乗っかってる気持ちを見てね〜と思う^^
あ、でも、それと、発注の滞りは関係ないので…。
KIRAさ〜ん、ちょっと滞っているみたいですけど、もう少し待っててね〜^^(って、お名前いっぱい出しちゃってごめんなさい^^;)
言葉は悪いんだけど、久しぶりに胸くそ悪いものを見てしまった。
辻井伸行さんというピアニストが国際ピアノコンクールで優勝したニュース。
日本人として初の優勝だそうで、それだけでも素晴らしいことなのでしょうけど、全盲だということでより脚光を浴びている。
まったく関係のない私まで、祝福の気持ちとなんだか『どうだ〜』というわけのわからない誇らしさをお裾分けさせてもらった感じだった。
優勝した日からニュースや情報番組で様々な報道をされ、ご家族のご苦労や愛情に心を動かされた。
中でもお父さんの語ったエピソードに、胸を打たれて、朝からウルウルしてしまった。
生まれたときから目が見えない辻井さんが、10代(だったかな?)の頃、一度だけお父さんにこう言ったそうだ。
『一日だけ目が見えるなら、その後また見えなくなってもいいから、一日だけ見ることができるならお母さんの顔を見てみたい』
と。
幼い頃から常に支えてきてくれたであろうお母さんの顔を一度でいいから見てみたい。
お父さんは、それを聞いた時はさすがに不憫になったと、声をつまらせながらインタビューに応えていた。
そうだよな〜、愛する人の顔見たいよね。
それを一度だけ口に出して願う息子の姿を見たお父さんは、胸がつぶれそうなほど切なかっただろう。
いち視聴者のわたしが『切なかった』なんて想像するのも申し訳ないくらい、辻井さんの言葉とそれを振り返るお父さんの言葉は心からの、ううん、かっこいい言い方だけど『魂の言葉』だった。
そのエピソードをたまたま見て、しばらくして辻井さんが帰国して凱旋記者会見がテレビで流れていたのをたまたま目にした時のことだった。
チャンネルザッピングをしていたので、前後の関係がわからずその一場面だけを取って言う失礼をお許しいただきたいのですが。
テレビ画面には辻井さんが写っていて、たくさんのマイクの前で質問に答えている様子だった。
女性の声が聞こえてきた。
多分、どこかの記者かレポーターだろう。
ものすごく感情を込めたような声でこう質問してきた。
『もしも、一日だけ目が見えるとしたら…』
ここで私はテレビのスイッチを消した。
恐らく、『一日だけ見えるとしたら、何が見たいですか?』と聞いたのだろう。
そのインタビュアーが前に書いたお父さんのエピソードを知っているのか、知らないのか、それはわからない。
だけど、もし知らなかったとしたら、なんて失礼な質問だろう。
そして、もし知っていたのなら、『お母さん』という答えを誘導しているはずで、それはなんて無神経な能のない質問だろう。
あの言葉は、それを共有できる父と息子の間でひっそりと交わされた言葉だから『魂の言葉』として、私には感じられたんだ。
それを、誰とも知らない人に、無理矢理『美談』として引っ張り出されたくないんじゃないかと、勝手に思ってしまった。
その言葉に魂が宿るかどうかは、それを発する人の心で決まると思う。
テレビに載せる美談にしようと、いくら女性レポーターが感情を込めていっても、何も心を揺さぶらない。
もちろんね、会話には『誘導』はあるかもしれない、でも、『裏側の意図』がわかってしまうのは、よくないよね。
あまりの無神経さに腹が立った。
その後辻井さんがどう答えたか見ていないのだけど、なんだか不憫になってしまったよ。
言葉には魂が宿るなんて、日頃考えないし、そんな立派な人生を歩んでいるわけじゃなけど。
言葉には、その人の気持ちが乗っかるな〜というのを感じることが時々ある。
前エントリーで『未来の自分のために放置される幸せ』を書いたけど、それに拍手コメントで『羨ましくて、憎らしくて…』という始まりでコメントをくれた方がいた。
その方とは初対面(ネット上でですが)ではないので多少のアドバンテージはあるにしても、『憎らしい』と書くにはちょっと勇気がいるはずだ。
だけど、その人はその人の幸せを持っているなかで、『憎らしい』で互いの幸せの共感を表してくれたのだ。
普通ちょっと身構える言葉だけど、そこに悪意がないのがわかるから、私は喜んでその言葉を受け取った。
気持ちは言葉に乗っかるのだ。
逆に、字面としては良い言葉を使っていてもそこに悪意や別な意図を含んでしまうと、やはり伝わる。
例のレポーターのような言葉の裏側の『別な意図』は、伝わってしまうものだ。
ただ、こればかりは、好みや感性の相性があると思う。
もしかしたら、あの記者会見だけしか見ていない人や感性がレポーター寄りな人には、感動のインタビューに感じられているかもしれないので、どれが良い悪いじゃないと思うのだけど。
私は、誰も傷つけたくないと思いながらも、自分の感性を信じて言葉に気持ちを乗っけていこうと思う。
胸くそ悪くなったけど、そう思い返せたから良しとするか。
ちなみに、那智さんは字面より『気持ちを乗っける』人。
いや、もっと字面も気にしたほうがいいんじゃない?とは思うけど、とにかく那智さん的言葉の選び方があるのだ。
那智さんのことよくわかっている人には『気持ちが乗っかってる』こと伝わると思うのだけど、あんまり字面を気にしないから、時々ヒヤヒヤする^^;
先日もKIRAさんのブログに『頑張ってくださいは嫌い』とコメントしていた。
あれは、那智さんとしては最高の応援なんだけど、またまたKIRAさんとうちを両方見ている方が、拍手コメントで『KIRAさんのところのコメントを見て、びっくりした』とコメントをくれたのです。
その方は良い解釈で取ってくれたから、問題ないのだけど。
そこで、『あ〜、これって気持ち乗っかってるの伝わりにくいかも?』と改めて思ったのだ。
私は慣れているのだけどね^^
面白い人でしょ?^^
『頑張って』というのは、とても無責任な励まし言葉だと思ってるの。
頑張ってるのは本人が一番よくわかってるんだから、周りが言うと突き放しているイメージがある。
自分と無関係の人に言っているみたいで、好きじゃない、そうなんだ。
私が仕事に出かける最中にたまたまお話できるとき。
「じゃあ、そろそろ会場入りしますね〜」と言うと。
「うん、頑張って…ああ、頑張ってじゃないな、じゃあ、りん子祝福ね〜」と言って送り出してくれる。
つい言ってしまいそうになるようで、こうやって訂正までしてくれる。
こういうとき、ああ、気持ち乗っかってるな〜と感じるのだ。
確かに、ちょっと特殊な感性で『頑張っては嫌い』という字面には驚かされるけど、那智さんらしい。
もし、どこかで那智さんとやり取りをされる機会がある方がいたら、字面じゃなくて乗っかってる気持ちを見てね〜と思う^^
あ、でも、それと、発注の滞りは関係ないので…。
KIRAさ〜ん、ちょっと滞っているみたいですけど、もう少し待っててね〜^^(って、お名前いっぱい出しちゃってごめんなさい^^;)
おしっこおいしい
非日常的な日常
急転直下
晴天の霹靂
信じられない
いきなり、こんな感覚になるなんて
あれほど『あり得ない』と思っていたのに
信じられない
那智さんの
おしっこが
おいしい…
那智さんがずっと前に付き合っていた女性は那智さんの精液を「おいしい」と言っていたそうだ。
それを聞いて、わたしはかなり毒を吐いた。
おいしいはずないじゃない。
おいしいなんて言えるのは自己陶酔以外の何ものでもない。
おいしくないけど、嬉しいならわかる。
って。(『味覚障害』)
できるだけ心に正直でいたいと思ってる、特に那智さんとのことに関しては。
だから、おしっこも『おいしいわけじゃないけど、嬉しいもの』と伝えている。
うんこ同様、那智さんから排泄されるものを喜んで摂取するりん子というのは那智さんの目指すところなので、本当は多少歪曲させて『嬉しい=おいしい』と表現してしまってもいいのかとも思うけど、やはりウソはつきたくない。
那智さんだって、心から『おいしい』と言わせたいはずだから。
『おいしいわけじゃないけど、嬉しいもの』
一度、わんこになって陶酔している最中に『おいしい』と感じたことはあるけれど、その時は味覚として記憶に残っていないんだ。(『とうとう味覚障害!?』)
どちらにしても、あれ以来『おいしい』はない。
何年も何回も飲んできた。
「いる〜?」と聞かれ。
「おしっこ〜」と呼ばれ。
ベッドの上で、お風呂場で。
裸でも着衣でも。
薄いもの濃いのも。
私に『あげるね』という感覚で飲ませているのだから、飲める量のときだけ。
だから、毎回ではないのだけど、それでもいろんな場所でいろんなおしっこを。
でも、どうしたっておいしい味じゃない。
だから、那智さんがくれる『愛情』をホクホクと、でも、粛々ともらっているという感じだった。
せっかくですから、おしっこを飲むでいくつか。
そういう内容ですから、ご注意くださいね、いちおう^^
『なんの味?』
『矛盾は嫌い』
『親指姫』
少し前のデートのとき。
いろいろし終わって、ちょっとヘロヘロの私にいつものように『おしっこ〜』。
快感の余韻に浸っていた私は、その言葉に更に深い快感の海に引きずり込まれたよう。
ぐわんと体が気持ちよくなってしまった。
腕枕から足元に移動するわずかな時間。
おしっこに欲情している。
いつもこぼさないようにとか全部飲めるかなとか、頭を働かせ舌で勢いを調整しながら飲むのだけど。
このときは違った。
もう、欲しくて欲しくてしょうがなくて気持ちよくて、グビグビとひたすら飲んだ。
この時に『おいしい』と思ったのだ。
「那智さん、おいしかったです。」
「うん、おいしそうだった。」
「感じていたからでしょうか。」
「それと慣れじゃない?」
信じられない。
自分の感覚を疑う。
ドーパミンが出てて、そう感じただけじゃない!?
たとえ、そうでも『おいしい』と感じたことは確かだ。
信じられない。
欲しとか嬉しいじゃなくて、おいしい。
ちょっと感慨深くもある。
嬉しいを『おいしい』と言ってしまえば、那智さんは喜ぶし褒めてくれるだろう。
でも、心に正直でいたいと思って『おいしい』を否定してきた。
その私がおいしいと思うなんて。
那智さんのほうこそ感慨深いはず、だって、スカトロは彼の幼い頃からのファンタジーだもの。
これは、それの一歩前進を表す。
ただ、ここは那智さんらしく冷静。
今回そう思えたとしても、次も同じように感じるかはわからないよ。
だから、りん子は次そう思えなくても悲しくならないように。
俺は、りん子が正直に反応してくれるのがいいのだから。
私のことよくわかってる。
つい、相手の期待に応えたいばっかりに自分の本当の気持ちが見なくなってしまう、それとか思うような反応になれない自分を責めてしまう、そんな私に釘を刺してくれる。
そして『慣れだ』と言うことで、それによって愛情を計るような馬鹿げた意識を持たないでいさせてくれるのだ。
いつも私が自由でいられるようにしてくれることに感謝しながら。
次もおいしいと思えるだろうか、思えるといいなと願うわたしと、まだ疑っているわたし。
でも、静かに『次』を待っていた。
あれ!?
おしっこおいしいで、2話目に突入^^;
最近、ちょっとハートフルだったので、読んでくださる方を裏切る変態話(笑)
那智さんが私におしっこを飲ませるスタンスについて
『飲尿』
『お昼からこんな内容^^;』
『お昼からこんな内容』に登場する『幸せな便器』は後日那智さんより訂正されています。
『訂正します!>』
急転直下
晴天の霹靂
信じられない
いきなり、こんな感覚になるなんて
あれほど『あり得ない』と思っていたのに
信じられない
那智さんの
おしっこが
おいしい…
那智さんがずっと前に付き合っていた女性は那智さんの精液を「おいしい」と言っていたそうだ。
それを聞いて、わたしはかなり毒を吐いた。
おいしいはずないじゃない。
おいしいなんて言えるのは自己陶酔以外の何ものでもない。
おいしくないけど、嬉しいならわかる。
って。(『味覚障害』)
できるだけ心に正直でいたいと思ってる、特に那智さんとのことに関しては。
だから、おしっこも『おいしいわけじゃないけど、嬉しいもの』と伝えている。
うんこ同様、那智さんから排泄されるものを喜んで摂取するりん子というのは那智さんの目指すところなので、本当は多少歪曲させて『嬉しい=おいしい』と表現してしまってもいいのかとも思うけど、やはりウソはつきたくない。
那智さんだって、心から『おいしい』と言わせたいはずだから。
『おいしいわけじゃないけど、嬉しいもの』
一度、わんこになって陶酔している最中に『おいしい』と感じたことはあるけれど、その時は味覚として記憶に残っていないんだ。(『とうとう味覚障害!?』)
どちらにしても、あれ以来『おいしい』はない。
何年も何回も飲んできた。
「いる〜?」と聞かれ。
「おしっこ〜」と呼ばれ。
ベッドの上で、お風呂場で。
裸でも着衣でも。
薄いもの濃いのも。
私に『あげるね』という感覚で飲ませているのだから、飲める量のときだけ。
だから、毎回ではないのだけど、それでもいろんな場所でいろんなおしっこを。
でも、どうしたっておいしい味じゃない。
だから、那智さんがくれる『愛情』をホクホクと、でも、粛々ともらっているという感じだった。
せっかくですから、おしっこを飲むでいくつか。
そういう内容ですから、ご注意くださいね、いちおう^^
『なんの味?』
『矛盾は嫌い』
『親指姫』
少し前のデートのとき。
いろいろし終わって、ちょっとヘロヘロの私にいつものように『おしっこ〜』。
快感の余韻に浸っていた私は、その言葉に更に深い快感の海に引きずり込まれたよう。
ぐわんと体が気持ちよくなってしまった。
腕枕から足元に移動するわずかな時間。
おしっこに欲情している。
いつもこぼさないようにとか全部飲めるかなとか、頭を働かせ舌で勢いを調整しながら飲むのだけど。
このときは違った。
もう、欲しくて欲しくてしょうがなくて気持ちよくて、グビグビとひたすら飲んだ。
この時に『おいしい』と思ったのだ。
「那智さん、おいしかったです。」
「うん、おいしそうだった。」
「感じていたからでしょうか。」
「それと慣れじゃない?」
信じられない。
自分の感覚を疑う。
ドーパミンが出てて、そう感じただけじゃない!?
たとえ、そうでも『おいしい』と感じたことは確かだ。
信じられない。
欲しとか嬉しいじゃなくて、おいしい。
ちょっと感慨深くもある。
嬉しいを『おいしい』と言ってしまえば、那智さんは喜ぶし褒めてくれるだろう。
でも、心に正直でいたいと思って『おいしい』を否定してきた。
その私がおいしいと思うなんて。
那智さんのほうこそ感慨深いはず、だって、スカトロは彼の幼い頃からのファンタジーだもの。
これは、それの一歩前進を表す。
ただ、ここは那智さんらしく冷静。
今回そう思えたとしても、次も同じように感じるかはわからないよ。
だから、りん子は次そう思えなくても悲しくならないように。
俺は、りん子が正直に反応してくれるのがいいのだから。
私のことよくわかってる。
つい、相手の期待に応えたいばっかりに自分の本当の気持ちが見なくなってしまう、それとか思うような反応になれない自分を責めてしまう、そんな私に釘を刺してくれる。
そして『慣れだ』と言うことで、それによって愛情を計るような馬鹿げた意識を持たないでいさせてくれるのだ。
いつも私が自由でいられるようにしてくれることに感謝しながら。
次もおいしいと思えるだろうか、思えるといいなと願うわたしと、まだ疑っているわたし。
でも、静かに『次』を待っていた。
あれ!?
おしっこおいしいで、2話目に突入^^;
最近、ちょっとハートフルだったので、読んでくださる方を裏切る変態話(笑)
那智さんが私におしっこを飲ませるスタンスについて
『飲尿』
『お昼からこんな内容^^;』
『お昼からこんな内容』に登場する『幸せな便器』は後日那智さんより訂正されています。
『訂正します!>』