おかず
独特な幸福感
わたしのぐるぐるにとことん付き合ってくれる那智さんは愛情深い人だと思う。
わたしだけじゃなくて、関わると決めた人にはかなりしっかりと関わる姿を見ていると父性のようなものを感じずにはいられない。
でも、その深い愛情と愛情表現とは別のもののよう。
感情の上下がないところが魅力のひとつなんだけど、その「好き表現」にも上下がないのです。
時々、愛情表現やほめることをかっこ悪いと思ってるような人っているでしょ?
そういうことではないの、かわいいと思ってくれればそういってくれるし、ちゃんとできたときには「いい子」ってほめてくれる。
ただその表現方法、よくいえばクール、悪くいえば素っ気ない。
「那智さん、だーいすき♪」といっても「はい、はい。」(いや、僕もでちゅ〜って言われても困るけど…)
「わたしのこと好き?」と聞いても「はい、はい。」(いや、だいちゅきでちゅ〜って言われても…)
上下ない感情はありがたいし、魅力なんだけど。
それでも、たまには、抑えようと思ってもどうしようもなく溢れてこぼれ落ちてしまう、みたいな好きがあってもいいのになって思う。
でも、たまーに、溢れちゃってどうしようもない!!に近い状態になるときがある。
それは、酔っぱらいさんになったとき。
「りんっ子ちゃ〜ん♪」
明らかにいつもと違う声に、とほほと思いながらもたまーにのことなので、うふふともなるのだ。
だけど、わたしが味わいたい「溢れちゃう」のは、そんな「まっこちゃ〜ん♪」なんて冗談っぽいのじゃなくて、もっと切羽詰まったような、抑えよう抑えようとしてもどうしても抑えられない必死さが伝わるようなものなんだなぁ。
で、かつて、一度だけそういう那智さんに遭遇できたときがあるの。
それは、はじめて電話で繋がってからの数日間。
前にも書いたけど、那智さんとわたしは正式には出会う半年ほど前、同じツーショットダイヤルで会話しているらしいのだ。
そのときは、単刀直入な那智さんはまず「スカトロ」について話したようで、わたしは速攻で「ごめんなさい」をしてしまったらしいのです。
それで半年後に再会して、今度は絶対切られまいと、那智さん必死モードが発動したのです。
あのときの必死な感じ、女性に対して「上下」してしまうことを、よしとしない那智さんが、「もう好きで好きでたまらない」という精神状態。
その那智さんが、一度だけ、溢れちゃった那智さん。
それから、数年。
よくいえばクール、悪くいえば素っ気ない。
それはそれでいいのだけど、かわってほしくないのだけど、時々あの那智さんを懐かしむのです。
「あのとき那智さん必死でしたよね〜」と反芻するのが、大好き。
那智さんはそれに付き合ってくれけど、あんまりしつこかったり切り口がつまらなかったりすると、「もう、その話題おしまい」と一蹴されてしまうので、いつもいつも味わえるものじゃないんだ。
だから、うまい切り口を見つけたり、図らずもその方向に話題が進んだりすると、わたしは上機嫌。
先日も、那智さんの口説き方という話題が出て、その方法をわたしにもしましたか?と聞いてみた。
「その通りじゃないけど、それに似たことはした、電話で話した3日目くらいから。」
「んん?3日目くらいから!?ってことは?那智さん?」
「最初の2日間は、作戦練る余裕なかった。」
それっ、その話題に繋がるとは〜、すっごいラッキー♪
もっと言ってもっと言って。
わたしは、図らずも降って湧いた大好き話題に、大喜び。
「那智さん、最初の2日間は必死だったんですねぇ。」
「そうだよ、今度は切られまいとね。」
「いや〜ん、那智さん、あのときは、再会できたのが嬉しくてしょうがなかったのですよねぇ!!」
「りん子、この話題好きだよな。」
「はい〜。」
「おかずになってるよな。」
「おかず?」
「そう、何のってわけじゃないけど、確実に何かのおかずになってるよな(笑)」
ああ、そうなの。
男の人が使うエッチな意味の「おかず」じゃないけど。
その話題、わたしの「おかず」なの!!
それで、いくらでもご飯いけちゃうの。
だから、何度も何度も反芻しちゃう。
昨日の「萌えポイント」じゃなけど、わたし(女)にも、「おかず」はあるんだなぁ。
それはエッチなことじゃなくて、思い出すと「むふふ」と上機嫌になってしまうような「おかず」。
那智さんがあんなふうに溢れちゃうことって、もうないでしょう。
よくいえばクール、悪くいえば素っ気ない。
そのまま、かわらないでと思いながら、名残り惜しむように時々反芻するのでした。
わたしのぐるぐるにとことん付き合ってくれる那智さんは愛情深い人だと思う。
わたしだけじゃなくて、関わると決めた人にはかなりしっかりと関わる姿を見ていると父性のようなものを感じずにはいられない。
でも、その深い愛情と愛情表現とは別のもののよう。
感情の上下がないところが魅力のひとつなんだけど、その「好き表現」にも上下がないのです。
時々、愛情表現やほめることをかっこ悪いと思ってるような人っているでしょ?
そういうことではないの、かわいいと思ってくれればそういってくれるし、ちゃんとできたときには「いい子」ってほめてくれる。
ただその表現方法、よくいえばクール、悪くいえば素っ気ない。
「那智さん、だーいすき♪」といっても「はい、はい。」(いや、僕もでちゅ〜って言われても困るけど…)
「わたしのこと好き?」と聞いても「はい、はい。」(いや、だいちゅきでちゅ〜って言われても…)
上下ない感情はありがたいし、魅力なんだけど。
それでも、たまには、抑えようと思ってもどうしようもなく溢れてこぼれ落ちてしまう、みたいな好きがあってもいいのになって思う。
でも、たまーに、溢れちゃってどうしようもない!!に近い状態になるときがある。
それは、酔っぱらいさんになったとき。
「りんっ子ちゃ〜ん♪」
明らかにいつもと違う声に、とほほと思いながらもたまーにのことなので、うふふともなるのだ。
だけど、わたしが味わいたい「溢れちゃう」のは、そんな「まっこちゃ〜ん♪」なんて冗談っぽいのじゃなくて、もっと切羽詰まったような、抑えよう抑えようとしてもどうしても抑えられない必死さが伝わるようなものなんだなぁ。
で、かつて、一度だけそういう那智さんに遭遇できたときがあるの。
それは、はじめて電話で繋がってからの数日間。
前にも書いたけど、那智さんとわたしは正式には出会う半年ほど前、同じツーショットダイヤルで会話しているらしいのだ。
そのときは、単刀直入な那智さんはまず「スカトロ」について話したようで、わたしは速攻で「ごめんなさい」をしてしまったらしいのです。
それで半年後に再会して、今度は絶対切られまいと、那智さん必死モードが発動したのです。
あのときの必死な感じ、女性に対して「上下」してしまうことを、よしとしない那智さんが、「もう好きで好きでたまらない」という精神状態。
その那智さんが、一度だけ、溢れちゃった那智さん。
それから、数年。
よくいえばクール、悪くいえば素っ気ない。
それはそれでいいのだけど、かわってほしくないのだけど、時々あの那智さんを懐かしむのです。
「あのとき那智さん必死でしたよね〜」と反芻するのが、大好き。
那智さんはそれに付き合ってくれけど、あんまりしつこかったり切り口がつまらなかったりすると、「もう、その話題おしまい」と一蹴されてしまうので、いつもいつも味わえるものじゃないんだ。
だから、うまい切り口を見つけたり、図らずもその方向に話題が進んだりすると、わたしは上機嫌。
先日も、那智さんの口説き方という話題が出て、その方法をわたしにもしましたか?と聞いてみた。
「その通りじゃないけど、それに似たことはした、電話で話した3日目くらいから。」
「んん?3日目くらいから!?ってことは?那智さん?」
「最初の2日間は、作戦練る余裕なかった。」
それっ、その話題に繋がるとは〜、すっごいラッキー♪
もっと言ってもっと言って。
わたしは、図らずも降って湧いた大好き話題に、大喜び。
「那智さん、最初の2日間は必死だったんですねぇ。」
「そうだよ、今度は切られまいとね。」
「いや〜ん、那智さん、あのときは、再会できたのが嬉しくてしょうがなかったのですよねぇ!!」
「りん子、この話題好きだよな。」
「はい〜。」
「おかずになってるよな。」
「おかず?」
「そう、何のってわけじゃないけど、確実に何かのおかずになってるよな(笑)」
ああ、そうなの。
男の人が使うエッチな意味の「おかず」じゃないけど。
その話題、わたしの「おかず」なの!!
それで、いくらでもご飯いけちゃうの。
だから、何度も何度も反芻しちゃう。
昨日の「萌えポイント」じゃなけど、わたし(女)にも、「おかず」はあるんだなぁ。
それはエッチなことじゃなくて、思い出すと「むふふ」と上機嫌になってしまうような「おかず」。
那智さんがあんなふうに溢れちゃうことって、もうないでしょう。
よくいえばクール、悪くいえば素っ気ない。
そのまま、かわらないでと思いながら、名残り惜しむように時々反芻するのでした。
変態ご飯
りんりん変態ご飯
先日の「ご飯好き」では、いろんなコメントをいただきまして、どれもとてもおいしそうでおいしそうで、何度も読み返してしまうほどでした。
マロニエさんやBさんやSeineuxさんのレシピはそれぞれ食材調達と手間がかかるので、いつか食べさせていただくまでは想像して楽しもうと思ってます^^;
で、手っ取り早くできる「卵かけご飯」のいろいろ、挑戦してみようと思い、今日もほかほかの白米と生卵を用意。
…、でも、ダメ…、できない。
わたしの中では最高峰の「梅入り卵かけ」。
それ以外の食べ方で、この至福の一杯を使ってしまうのが惜しいのです。
普通のお醤油と「梅入り」しか試してないのに最高峰もなにもないのですが。
どうしても、ほかほかご飯を前にして、浮気ができない。
「めんつゆ」も「ご飯に先醤油かけ」もぜったいおいしそうなのに、毎回毎回「ああ、おいしかった〜」と言いたくて、つい慣れ親しんだ安全パイの最高峰が食べたくなってしまうのです。
ですから、みろさんカゲロウさん、いつか必ず食べますから、もうちょっと待っててね♪
葉月さんのご紹介いただいた「梅ごのみ」は、前から気になっていたので、速攻買いに行きました。
もう、とってもおいしい!!
梅干し大好きなわたしは、ご飯にオンだけじゃなくて、そのままチビチビ舐めてしまって、2日間でほぼ空にしてしまったほどです。
でも、あれはほんとに危険です、なくなるまで食べ続けてしまいそう。
マスターベーションを覚えた猿状態で、我ながら恐ろしかったです。
ということで、いろいろコメントいただいたわりには、結局自分の食べ方でしか食べてないわたしでした。
そのお詫びも兼ねて、今日は「わたしだけの変態ご飯」をお送りします。(コメントレスで「ためらう」と言いながら数日後にはアップする、変わり身の早さは…もうみなさんご存知ですよね^^;)
うう、引かれそうで怖い。
えっと、ちょっと特殊な食べ方をご紹介しますから、ありえない組み合わせとかに拒否反応を示してしまうそうな方はスルーしてくださいね。
あと、正統派の白米好きの方も、厳しいかもです。
おいしそうなの期待しちゃいけませんよ。
まず「ドレッシングかけご飯」。
いや、あの酸味とご飯、合うんですよ!!
好きなのはふたつあって、ひとつは「キューピーテイスティドレッシングの和風味」。
細かく刻んだ玉ねぎとかごまとかも入ってるから、油を醤油のコクと酸味のあるしっとりふりかけみたいな感じなのです。
ふたつめは。
書くの怖いなぁ。
「シーザーサラダドレッシングかけ」。
だめ…?
やはり、あの酸味とチーズの風味がね、ご飯に合うのですけど…だめかな…。
どちらもあつあつのご飯にサーッとかけて、もちろん混ぜずにご飯にかかってる状態のままお口に^^
それと、もうひとつ。
「バターご飯」のバリエーション。
あつあつご飯にバターを一欠片お醤油を垂らして程よく混ぜて、バターご飯の出来上がり。
これを海苔で巻いて食べるとおいしいのですが。
それの変形ということで、バターご飯に「桃屋の江戸むらさき」を混ぜるのです。(ごはんですよでも、普通の岩のりでも可)
バターご飯のこってりに海苔の風味と甘み。
最近は食べてないけど、子供のころよく食べました。
バターと醤油の黄色に海苔の黒、見た目はかなりグロテスクで、幼心に「これは人に見られちゃいけない」と感じていて、こっそり食べてた記憶があります。
いかがでしょうか?
わたしの「わたしだけの変態ご飯」。
ある意味、変態行為を書くよりも勇気がいります!!
なんで、こう告白好きなのか、自分の性癖がかなしい(笑)
最後に、告白の勢いで、これは変態の芽?
ご飯の話題じゃなけど、梅つながりで。
わたしは梅干しが大好きでした。
小さなころから大好きで、母から「一日4個まで」と制限されるほどでした。(ということは、それまではそれ以上食べてたってことですね)
でも、あるとき、梅干しの違う楽しみを見つけたのです。
それは。
梅干しを手で潰して、それを指や掌になすりつけるのです。
一日4個までだから、4個分。
自分の手が赤くぐちゃぐちゃしたもので汚れていく。
その手を眺めてるのが好きでした。
あのとき、それにわたしは性的な興奮に似たものを感じていいました。
誰もいない部屋で、その手を眺める小学生のわたし。
うう、ちょっと異様な光景!?
その手についた梅は残らずきれいに舐めとって、梅味を楽しむことも、ちゃんとしてました。
この幼いわたし、あれは芽だったのかな…。
ということでご飯に話を戻しましょう。
いかがでしたか?
那智さんも知らないわたしの一面。
信じられない?
白米好きとしては邪道!?
みなさんにも「変態ご飯」ありますか?
先日の「ご飯好き」では、いろんなコメントをいただきまして、どれもとてもおいしそうでおいしそうで、何度も読み返してしまうほどでした。
マロニエさんやBさんやSeineuxさんのレシピはそれぞれ食材調達と手間がかかるので、いつか食べさせていただくまでは想像して楽しもうと思ってます^^;
で、手っ取り早くできる「卵かけご飯」のいろいろ、挑戦してみようと思い、今日もほかほかの白米と生卵を用意。
…、でも、ダメ…、できない。
わたしの中では最高峰の「梅入り卵かけ」。
それ以外の食べ方で、この至福の一杯を使ってしまうのが惜しいのです。
普通のお醤油と「梅入り」しか試してないのに最高峰もなにもないのですが。
どうしても、ほかほかご飯を前にして、浮気ができない。
「めんつゆ」も「ご飯に先醤油かけ」もぜったいおいしそうなのに、毎回毎回「ああ、おいしかった〜」と言いたくて、つい慣れ親しんだ安全パイの最高峰が食べたくなってしまうのです。
ですから、みろさんカゲロウさん、いつか必ず食べますから、もうちょっと待っててね♪
葉月さんのご紹介いただいた「梅ごのみ」は、前から気になっていたので、速攻買いに行きました。
もう、とってもおいしい!!
梅干し大好きなわたしは、ご飯にオンだけじゃなくて、そのままチビチビ舐めてしまって、2日間でほぼ空にしてしまったほどです。
でも、あれはほんとに危険です、なくなるまで食べ続けてしまいそう。
マスターベーションを覚えた猿状態で、我ながら恐ろしかったです。
ということで、いろいろコメントいただいたわりには、結局自分の食べ方でしか食べてないわたしでした。
そのお詫びも兼ねて、今日は「わたしだけの変態ご飯」をお送りします。(コメントレスで「ためらう」と言いながら数日後にはアップする、変わり身の早さは…もうみなさんご存知ですよね^^;)
うう、引かれそうで怖い。
えっと、ちょっと特殊な食べ方をご紹介しますから、ありえない組み合わせとかに拒否反応を示してしまうそうな方はスルーしてくださいね。
あと、正統派の白米好きの方も、厳しいかもです。
おいしそうなの期待しちゃいけませんよ。
まず「ドレッシングかけご飯」。
いや、あの酸味とご飯、合うんですよ!!
好きなのはふたつあって、ひとつは「キューピーテイスティドレッシングの和風味」。
細かく刻んだ玉ねぎとかごまとかも入ってるから、油を醤油のコクと酸味のあるしっとりふりかけみたいな感じなのです。
ふたつめは。
書くの怖いなぁ。
「シーザーサラダドレッシングかけ」。
だめ…?
やはり、あの酸味とチーズの風味がね、ご飯に合うのですけど…だめかな…。
どちらもあつあつのご飯にサーッとかけて、もちろん混ぜずにご飯にかかってる状態のままお口に^^
それと、もうひとつ。
「バターご飯」のバリエーション。
あつあつご飯にバターを一欠片お醤油を垂らして程よく混ぜて、バターご飯の出来上がり。
これを海苔で巻いて食べるとおいしいのですが。
それの変形ということで、バターご飯に「桃屋の江戸むらさき」を混ぜるのです。(ごはんですよでも、普通の岩のりでも可)
バターご飯のこってりに海苔の風味と甘み。
最近は食べてないけど、子供のころよく食べました。
バターと醤油の黄色に海苔の黒、見た目はかなりグロテスクで、幼心に「これは人に見られちゃいけない」と感じていて、こっそり食べてた記憶があります。
いかがでしょうか?
わたしの「わたしだけの変態ご飯」。
ある意味、変態行為を書くよりも勇気がいります!!
なんで、こう告白好きなのか、自分の性癖がかなしい(笑)
最後に、告白の勢いで、これは変態の芽?
ご飯の話題じゃなけど、梅つながりで。
わたしは梅干しが大好きでした。
小さなころから大好きで、母から「一日4個まで」と制限されるほどでした。(ということは、それまではそれ以上食べてたってことですね)
でも、あるとき、梅干しの違う楽しみを見つけたのです。
それは。
梅干しを手で潰して、それを指や掌になすりつけるのです。
一日4個までだから、4個分。
自分の手が赤くぐちゃぐちゃしたもので汚れていく。
その手を眺めてるのが好きでした。
あのとき、それにわたしは性的な興奮に似たものを感じていいました。
誰もいない部屋で、その手を眺める小学生のわたし。
うう、ちょっと異様な光景!?
その手についた梅は残らずきれいに舐めとって、梅味を楽しむことも、ちゃんとしてました。
この幼いわたし、あれは芽だったのかな…。
ということでご飯に話を戻しましょう。
いかがでしたか?
那智さんも知らないわたしの一面。
信じられない?
白米好きとしては邪道!?
みなさんにも「変態ご飯」ありますか?
手を繋ぐには
りん子的独り言(エラそう)
「繋いだ手」と「繋いだ手の行方」の補足です。
那智さんの考え方。
手を繋いだふたりが違う方向を向いてしまったり、それによって手が離れてしまいそうになったら。
手を伸ばす。
手を伸ばして、けして繋いだ手を離さない。
それは、相手と向き合い理解し合い、歩み寄ること。
手を一瞬でも離したら、たとえ一瞬でも向き合うことを放棄したことと、心にシミを残すことになる。
えっと、これは、那智さんとわたしの付き合いかたなので、一般論ではないです。
いろんなカップルはいて、手を離してもまた元に戻れるという強い絆や手は繋がずにずっと並走することで良い関係を築けていたり、人それぞれだと思ってます。
わたしたちは、手を離したくないということです。
だから、手をびよ〜んと伸ばす。
柔軟に、理解したいという気持ちのもとに手を伸ばす。
理解したいと思う気持ちが大切。
そして、もうひとつ。
手を伸ばすということは。「自分の立ち位置は変えない」ということ。
それも大事だと那智さんはいう。
手を繋ぐことに固執するのではないということ。
自分の立ち位置はしっかりと据える。
相手に引きずられたり流されたりせず、また、相手を無理矢理こちら側に引っ張ったりはしない。
自分は自分の信じる位置にしっかりと立ち、そして、手を伸ばし、相手と向き合う。
これは、那智さん的にはポイントなんですって。
確かに、わたしがどんなにぐるぐるになっても、那智さんは折れない。
わたしの機嫌を取るために、主張や考え方を変えたりしない。
その代わり、わたしの言い分が正しかったり、上手な落としどころを見つけたら、あっさりと動いてくれる。
逆に、「俺の言うことを聞け」というふうに、那智さん側にぐいっと引っ張ることもしない。
従いたい願望のあるわたしのような女には「従え」って言えば、簡単なのに。
あくまでも、対話。
自分の立ち位置を変えず、腰を据えて手を伸ばしてくれるのだ。
だからこそ、わたしも素直になれるのね。
適当に折れてくれちゃったり、命令されたら、対等に思われてないと感じるものね。
その「立ち位置」を変えないことが、重要なのだそう。
それは、イコール「りん子も、立ち位置を動くな」ということに繋がるのだ。
わたしは弱い。
すぐ、こちらが悪くないのに「ごめんなさい」って歩み寄ってしまうし、逆に、耐えられずすぐ「もう、いい」とパーンッと手を離してしまう。
そのわたしに「立ち位置を変えず、手を伸ばせ」と言っているのだ。
那智さん自身がそうすることで、わたしにそれを見せ、長い時間かけてわたしに教えている。
多分、少しずつできているはずだ。
立ち位置を変えず、手を伸ばす。
その方法が正解なのか、それはわからない。
どんな方法で繋がるか、積み重ねるか、人それぞれ。
その人なりのオリジナルを見つけられればいいよね。
わたしの場合、まずは、自分の立ち位置確認。
これが一番難しかったりして^^;(わたしも頑張ろ〜)
「繋いだ手」と「繋いだ手の行方」の補足です。
那智さんの考え方。
手を繋いだふたりが違う方向を向いてしまったり、それによって手が離れてしまいそうになったら。
手を伸ばす。
手を伸ばして、けして繋いだ手を離さない。
それは、相手と向き合い理解し合い、歩み寄ること。
手を一瞬でも離したら、たとえ一瞬でも向き合うことを放棄したことと、心にシミを残すことになる。
えっと、これは、那智さんとわたしの付き合いかたなので、一般論ではないです。
いろんなカップルはいて、手を離してもまた元に戻れるという強い絆や手は繋がずにずっと並走することで良い関係を築けていたり、人それぞれだと思ってます。
わたしたちは、手を離したくないということです。
だから、手をびよ〜んと伸ばす。
柔軟に、理解したいという気持ちのもとに手を伸ばす。
理解したいと思う気持ちが大切。
そして、もうひとつ。
手を伸ばすということは。「自分の立ち位置は変えない」ということ。
それも大事だと那智さんはいう。
手を繋ぐことに固執するのではないということ。
自分の立ち位置はしっかりと据える。
相手に引きずられたり流されたりせず、また、相手を無理矢理こちら側に引っ張ったりはしない。
自分は自分の信じる位置にしっかりと立ち、そして、手を伸ばし、相手と向き合う。
これは、那智さん的にはポイントなんですって。
確かに、わたしがどんなにぐるぐるになっても、那智さんは折れない。
わたしの機嫌を取るために、主張や考え方を変えたりしない。
その代わり、わたしの言い分が正しかったり、上手な落としどころを見つけたら、あっさりと動いてくれる。
逆に、「俺の言うことを聞け」というふうに、那智さん側にぐいっと引っ張ることもしない。
従いたい願望のあるわたしのような女には「従え」って言えば、簡単なのに。
あくまでも、対話。
自分の立ち位置を変えず、腰を据えて手を伸ばしてくれるのだ。
だからこそ、わたしも素直になれるのね。
適当に折れてくれちゃったり、命令されたら、対等に思われてないと感じるものね。
その「立ち位置」を変えないことが、重要なのだそう。
それは、イコール「りん子も、立ち位置を動くな」ということに繋がるのだ。
わたしは弱い。
すぐ、こちらが悪くないのに「ごめんなさい」って歩み寄ってしまうし、逆に、耐えられずすぐ「もう、いい」とパーンッと手を離してしまう。
そのわたしに「立ち位置を変えず、手を伸ばせ」と言っているのだ。
那智さん自身がそうすることで、わたしにそれを見せ、長い時間かけてわたしに教えている。
多分、少しずつできているはずだ。
立ち位置を変えず、手を伸ばす。
その方法が正解なのか、それはわからない。
どんな方法で繋がるか、積み重ねるか、人それぞれ。
その人なりのオリジナルを見つけられればいいよね。
わたしの場合、まずは、自分の立ち位置確認。
これが一番難しかったりして^^;(わたしも頑張ろ〜)
不安定の魅力
りん子的独り言(生意気)
わたしの年齢とか見た目とか、そう言う外見についてはどこかに追っ払って読んでいただけると嬉しいです。
人の発する「雰囲気」の話です。
よく声をかけられる。
道を訪ねられたり「手相の見させてください」と変な勧誘だったり。
「声かけやすいオーラ」が出ているみたいなんだ。
それは、単に「人が良さそう」というだけじゃなくて(道案内とかはそれだけでしょうけど)、多分、多分なにかしらの「フェロモン」が出ているようなの。
なぜかというと。
とにかく「変な人」を引き寄せてしまうのだ。
10代のころから、よく痴漢に遭った。
友達と一緒にいてさらにジーンズを履いていても触られる。(友達はスカートです)
普通にお尻を触られたり性器を押し付けられたりは当たり前^^;
ほとんど人の乗っていない空いている電車で眠っていたら、横に腰掛けてものすごく体を密着させて寄りかかってくる人。
(席がらがらなのよ。ちなみにその人は半分浮浪者みたいな人だった。決して清潔とは言えない匂いを発してたから。その匂いで目が覚めたくらい)
同じように寝ていたときのこと、体に巻き付けるように組んでいて脇腹あたりにあるわたしの手に触れて、指を愛撫するようにいじくりだす人。
(なんか執着を感じて怖かった)
痴漢だけじゃない、酔っぱらいにも好かれる。
会社帰り付き合っていた人と待ち合わせで駅に立ってると、電車から降りて来た酔っぱらいに急に握手を求められたり。(それで握手してしまう、わたし^^;)
前から来た酔っぱらいにいきなり抱きつかれたり。
普通のナンパとは違う、なにかが起こってしまうのです。
これ、友達は「隙」だっていう。
多分、そうなのね。
その「隙」をもう少し掘り下げると。
「不安定の魅力」
岩月謙司さんの本にも書いてあったけど(そんなに傾倒してるわけじゃないけど、けっこう登場してますね、岩月さん^^:)
父親からまっとうな愛情をもらえなかった女性は「愛がほしい」という空気を発しているそうです。
愛される価値がないと思う不安と伴った「愛がほしい」という欲求は、「もろさ」や「不安定」となって、一部の男性には魅力的に映るのだそうです。
これに近いものを出してるだろう、それがわたしの「フェロモン」。
その「一部の男性」というのは、本によると「マザコン男」なのだそうです。
まあ、要するに「子供」ね。
下手に出るわたしにどんどん増長するような、わたしがよくお付き合いしていたタイプに男性(笑)
そういう男性は、愛されたいと欲するわたしの懐に首尾よく収まるのが上手いのですね。
そういう男性を引き寄せる「フェロモン」、痴漢や酔っぱらいに通ずるのは「感情を抑制できない子供のような」精神なんじゃないかなって思うのです。(かなりこじつけてるかな?)
那智さんも、付き合いはじめのころ、そのフェロモンは感じていて、それがある意味色っぽく映り魅力に見えると評していた。
それに加えて、那智さんと付き合うことで、一時期自分でも驚くほど体が変わっていったときがあって(雰囲気とかだけじゃなくて、体も変わったの、不思議な体験だった)、その頃わたしは絶好調に声かけまくられた。
痴漢には遭うし、下着売ってと言われるし、30万円でヌード写真のモデルになってとか「お仕事」しないとか「2万でどう?」とか。
ほんっとにいっぱい。
コンタクトの調子が悪くてメガネだったり、髪をきゅっと束ねてたり、ジーンズだったりで、それでも「性的な」声かけをされるの。
だから、見た目が「良い」からというよりも、なにかを発しているのだと思う。
もともとの「不安定な魅力」と、那智さんと付き合うことで新しく生まれた「変化」がこれも「エロ」目的の人には引っ掛かったのだと思うのです。
それが、最近めっきり減ったのです。
那智さんと付き合いはじめて現在までのちょうど折り返しの時期あたりを境に、その「性的なお声かけ」が減ったのです。(ああ、あの…、ちょっと言わせてね、普通のナンパはたまにあります^^;主にエロ関係が減ったのね…。なんか言い訳^^;)
年齢などなどもあると思うのですが、これってね、「不安定の魅力」が減ったことと比例するんじゃないかなって思うのです。
それに、那智さんと付き合うことによる「開花の勢い」みたいなものも治まって、全体的にエロ目的男性に対する「フェロモン」が減ったのでしょう。
痴漢や酔っぱらいは怖い、増長する男性はいや。
だから、それらに遭わなくなるほうが嬉しい。
でも、人って清廉潔白純真無垢だけじゃ、なんだかつまらないとも思ってしまうのです。
危なっかしい不安定な魅力はとっても厄介だったけど、ほんの少しもったいない…なんて感じてるのも本心。
先日、カラオケランチデートで、たった一時間弱の間に感情と欲情がジェットコースターのように旋回した。
詳しくは後日^^
最後に「きわめつけ」のビンタで、カラオケを後にした。
もう、ふわふわしててお酒に酔ってるみたいだった。
カラオケ内でのわたしの表情を「あんな表情することだけでも恥ずかしい」と那智さんに言わせてしまうほど、ヘロヘロだった、そのまま外に出たんだ。
よろよろふわふわなわたし。
多分、このときには「フェロモン」が出ていたのではないかしら。
そこがオフィス街じゃなくていつも遊ぶ繁華街だったら、「エロ需要」に引っ掛かってたかな、なんて、供給していたころをちょっと懐かしむ。
ううう、もしかしたら、ただのひとりで昼間っから酔っぱらってる変な人ってだけだったかもしれないな…。
以前に比べたら、声はかけられなくなった。
微妙に寂しい気がしないでもないけど。
もしかしたら、いまわたしは、自信を持って堂々と凛として街を歩いているのかもしれない。
不安定につけ込もうとしてる視線を背筋を伸ばしてはねのけてるのかも。
もったいないと思う気持ちも嘘じゃないけど、やっぱり堂々とできてるほうが、絶対いいよね。
それが、わたしの新しい魅力になって、エロじゃない需要を生めたらいいな。
わたしの年齢とか見た目とか、そう言う外見についてはどこかに追っ払って読んでいただけると嬉しいです。
人の発する「雰囲気」の話です。
よく声をかけられる。
道を訪ねられたり「手相の見させてください」と変な勧誘だったり。
「声かけやすいオーラ」が出ているみたいなんだ。
それは、単に「人が良さそう」というだけじゃなくて(道案内とかはそれだけでしょうけど)、多分、多分なにかしらの「フェロモン」が出ているようなの。
なぜかというと。
とにかく「変な人」を引き寄せてしまうのだ。
10代のころから、よく痴漢に遭った。
友達と一緒にいてさらにジーンズを履いていても触られる。(友達はスカートです)
普通にお尻を触られたり性器を押し付けられたりは当たり前^^;
ほとんど人の乗っていない空いている電車で眠っていたら、横に腰掛けてものすごく体を密着させて寄りかかってくる人。
(席がらがらなのよ。ちなみにその人は半分浮浪者みたいな人だった。決して清潔とは言えない匂いを発してたから。その匂いで目が覚めたくらい)
同じように寝ていたときのこと、体に巻き付けるように組んでいて脇腹あたりにあるわたしの手に触れて、指を愛撫するようにいじくりだす人。
(なんか執着を感じて怖かった)
痴漢だけじゃない、酔っぱらいにも好かれる。
会社帰り付き合っていた人と待ち合わせで駅に立ってると、電車から降りて来た酔っぱらいに急に握手を求められたり。(それで握手してしまう、わたし^^;)
前から来た酔っぱらいにいきなり抱きつかれたり。
普通のナンパとは違う、なにかが起こってしまうのです。
これ、友達は「隙」だっていう。
多分、そうなのね。
その「隙」をもう少し掘り下げると。
「不安定の魅力」
岩月謙司さんの本にも書いてあったけど(そんなに傾倒してるわけじゃないけど、けっこう登場してますね、岩月さん^^:)
父親からまっとうな愛情をもらえなかった女性は「愛がほしい」という空気を発しているそうです。
愛される価値がないと思う不安と伴った「愛がほしい」という欲求は、「もろさ」や「不安定」となって、一部の男性には魅力的に映るのだそうです。
これに近いものを出してるだろう、それがわたしの「フェロモン」。
その「一部の男性」というのは、本によると「マザコン男」なのだそうです。
まあ、要するに「子供」ね。
下手に出るわたしにどんどん増長するような、わたしがよくお付き合いしていたタイプに男性(笑)
そういう男性は、愛されたいと欲するわたしの懐に首尾よく収まるのが上手いのですね。
そういう男性を引き寄せる「フェロモン」、痴漢や酔っぱらいに通ずるのは「感情を抑制できない子供のような」精神なんじゃないかなって思うのです。(かなりこじつけてるかな?)
那智さんも、付き合いはじめのころ、そのフェロモンは感じていて、それがある意味色っぽく映り魅力に見えると評していた。
それに加えて、那智さんと付き合うことで、一時期自分でも驚くほど体が変わっていったときがあって(雰囲気とかだけじゃなくて、体も変わったの、不思議な体験だった)、その頃わたしは絶好調に声かけまくられた。
痴漢には遭うし、下着売ってと言われるし、30万円でヌード写真のモデルになってとか「お仕事」しないとか「2万でどう?」とか。
ほんっとにいっぱい。
コンタクトの調子が悪くてメガネだったり、髪をきゅっと束ねてたり、ジーンズだったりで、それでも「性的な」声かけをされるの。
だから、見た目が「良い」からというよりも、なにかを発しているのだと思う。
もともとの「不安定な魅力」と、那智さんと付き合うことで新しく生まれた「変化」がこれも「エロ」目的の人には引っ掛かったのだと思うのです。
それが、最近めっきり減ったのです。
那智さんと付き合いはじめて現在までのちょうど折り返しの時期あたりを境に、その「性的なお声かけ」が減ったのです。(ああ、あの…、ちょっと言わせてね、普通のナンパはたまにあります^^;主にエロ関係が減ったのね…。なんか言い訳^^;)
年齢などなどもあると思うのですが、これってね、「不安定の魅力」が減ったことと比例するんじゃないかなって思うのです。
それに、那智さんと付き合うことによる「開花の勢い」みたいなものも治まって、全体的にエロ目的男性に対する「フェロモン」が減ったのでしょう。
痴漢や酔っぱらいは怖い、増長する男性はいや。
だから、それらに遭わなくなるほうが嬉しい。
でも、人って清廉潔白純真無垢だけじゃ、なんだかつまらないとも思ってしまうのです。
危なっかしい不安定な魅力はとっても厄介だったけど、ほんの少しもったいない…なんて感じてるのも本心。
先日、カラオケランチデートで、たった一時間弱の間に感情と欲情がジェットコースターのように旋回した。
詳しくは後日^^
最後に「きわめつけ」のビンタで、カラオケを後にした。
もう、ふわふわしててお酒に酔ってるみたいだった。
カラオケ内でのわたしの表情を「あんな表情することだけでも恥ずかしい」と那智さんに言わせてしまうほど、ヘロヘロだった、そのまま外に出たんだ。
よろよろふわふわなわたし。
多分、このときには「フェロモン」が出ていたのではないかしら。
そこがオフィス街じゃなくていつも遊ぶ繁華街だったら、「エロ需要」に引っ掛かってたかな、なんて、供給していたころをちょっと懐かしむ。
ううう、もしかしたら、ただのひとりで昼間っから酔っぱらってる変な人ってだけだったかもしれないな…。
以前に比べたら、声はかけられなくなった。
微妙に寂しい気がしないでもないけど。
もしかしたら、いまわたしは、自信を持って堂々と凛として街を歩いているのかもしれない。
不安定につけ込もうとしてる視線を背筋を伸ばしてはねのけてるのかも。
もったいないと思う気持ちも嘘じゃないけど、やっぱり堂々とできてるほうが、絶対いいよね。
それが、わたしの新しい魅力になって、エロじゃない需要を生めたらいいな。
被虐の種類
りん子的独り言(生意気)
人と比べたわけじゃないから、はっきりわからないのだけど。
わたしは、もしかしたら物事に感情移入しやすいほうなのかもしれない。
でも、その感情移入は特に「ノンフィクション」でおおいに発揮してしまうみたい。
「すっごい読書家」というほどでもないけど、本を読むのは嫌いじゃない。
たったワンセンテンスだけで涙が溢れてしまったり、言葉の組み合わせでうっとりするような表現を見つけたり、そんなとき、わたしは本を読む醍醐味を味わう。
でも、なんていうのかな、その世界にどっぷりとはまって登場人物になりきってしまう、というような気持ちの入り方はしないの。
だから、フィクションには感情移入しにくいほうだと思う。
わたしが主に感情移入してしまうのは、「事実」で、さらに「負」の感情なのだ。
これってけっこう困ってしまう。
子供のころ、学校でいじめがあったりして、わたしにはまったく関係ないグループのことだったり、違うクラスのことだったりしても、なんだか知らないけど、 苦しくて胸がざわざわしてしまう、多分、普通に「それはよくない」と思う自然な感情以上に入り込んでしまっていると思う。
無意味なことで、心を消耗している気がする^^;
わたしは、自分に被虐願望があることは自覚していた。
だから、歴史の描写で「拷問」とか「奴隷」とか、ひそかに反応していた。
きっとそういう世界に惹かれるんだ。
でも、それらを目にするときに、性的に興奮すると同時にそのいじめを見たときのようなチクチクと小さな刺が胸に刺さる感覚もあった。
それは、裏表のようなものなんだろうなと思う。
嫌悪するものに感じる。
うん、わかる。
だから、その刺はありなんだと思ってた。
でも、ここ数年。
SMといわれる様々な媒体を目にする機会が増えて、わたしはその感情移入に気づいたの。
様々といっても、SM系のアダルトビデオなんてほとんどみたことないし、せいぜいブログとかHPとかですけどね。
悲しくなってしまうんだ。
「淫乱牝豚奴隷の調教日記」のようなものを見ると、悲しくてしょうがなくなってしまう。
その画像や文章からしか想像できないから、それがすべてじゃないでしょうし、見る人によって印象も違うのでしょう。
もちろん加虐嗜好と被虐嗜好が対になっているのだから、行為としては酷いことなのはいい。
でも、それらの中に、「相手を大切にしていない」印象を覚えてしまうものを見ると、どうしても悲しくなってしまうの。
不思議だった。
被虐願望があるくせに、「被虐」で悲しくなってる。
わたしって、ほんとうはマゾじゃないの?なんて思ったりした。
フィクションとしての「牝豚」にさえ悲しくなってしまう。
だから、わたしは那智さんにも大切に大切に扱ってほしいと思う。
それなのに「被虐」を望む。
どうやらわたしは「精神的被虐」ではなくて「肉体的被虐」がいいみたい。(といっても、弱虫だからすぐ痛がってしまうけど…^^;)
恥ずかしいとか怖いとか、そういう「精神」を追い詰められることはいいのだけど、なんていうのかな「自己否定」の繋がるような「精神的被虐」。
那智さんも「この牝豚め!!」的なことはまったく興味がないから、いままで「精神的被虐」はされたことがない。
常に「可愛がる方法」として酷いことをしてる。
あるとき、ふと思った。
いま、那智さんに「精神的被虐」をされたら、わたしはどう感じるだろうって。
床に転がったわたしの胸や顔を踏みつけられるとき、那智さんはほとんど口を開かない。
そんなときに、汚い言葉を投げかけられたら、わたしは感じるのだろうか。
いまなら、那智さんになら、「自己否定」も快感になるのだろうか。
否定されるわたしに、わたしが感情移入して、悲しくならないだろうか。
う〜ん、やっぱり悲しくなってしまいそうだなぁ…。
自己否定を快感にするのは難しいかも。
それは、否定されたわたしにわたしが感情移入してしまうからか、否定できるほど自己が確立されていないからか、難しそう。
それと、なにより、いりん子こでこんな話題出しちゃったから、那智さんに「牝豚〜」って言われても演技っぽくて笑ってしまうかも(笑)
あらら、ほんとは「感情移入」から「読み手の成熟」について書こうと思ったけど、違うお話になっちゃった。
続き、多分、明日書きます^^;(多分ね…)
人と比べたわけじゃないから、はっきりわからないのだけど。
わたしは、もしかしたら物事に感情移入しやすいほうなのかもしれない。
でも、その感情移入は特に「ノンフィクション」でおおいに発揮してしまうみたい。
「すっごい読書家」というほどでもないけど、本を読むのは嫌いじゃない。
たったワンセンテンスだけで涙が溢れてしまったり、言葉の組み合わせでうっとりするような表現を見つけたり、そんなとき、わたしは本を読む醍醐味を味わう。
でも、なんていうのかな、その世界にどっぷりとはまって登場人物になりきってしまう、というような気持ちの入り方はしないの。
だから、フィクションには感情移入しにくいほうだと思う。
わたしが主に感情移入してしまうのは、「事実」で、さらに「負」の感情なのだ。
これってけっこう困ってしまう。
子供のころ、学校でいじめがあったりして、わたしにはまったく関係ないグループのことだったり、違うクラスのことだったりしても、なんだか知らないけど、 苦しくて胸がざわざわしてしまう、多分、普通に「それはよくない」と思う自然な感情以上に入り込んでしまっていると思う。
無意味なことで、心を消耗している気がする^^;
わたしは、自分に被虐願望があることは自覚していた。
だから、歴史の描写で「拷問」とか「奴隷」とか、ひそかに反応していた。
きっとそういう世界に惹かれるんだ。
でも、それらを目にするときに、性的に興奮すると同時にそのいじめを見たときのようなチクチクと小さな刺が胸に刺さる感覚もあった。
それは、裏表のようなものなんだろうなと思う。
嫌悪するものに感じる。
うん、わかる。
だから、その刺はありなんだと思ってた。
でも、ここ数年。
SMといわれる様々な媒体を目にする機会が増えて、わたしはその感情移入に気づいたの。
様々といっても、SM系のアダルトビデオなんてほとんどみたことないし、せいぜいブログとかHPとかですけどね。
悲しくなってしまうんだ。
「淫乱牝豚奴隷の調教日記」のようなものを見ると、悲しくてしょうがなくなってしまう。
その画像や文章からしか想像できないから、それがすべてじゃないでしょうし、見る人によって印象も違うのでしょう。
もちろん加虐嗜好と被虐嗜好が対になっているのだから、行為としては酷いことなのはいい。
でも、それらの中に、「相手を大切にしていない」印象を覚えてしまうものを見ると、どうしても悲しくなってしまうの。
不思議だった。
被虐願望があるくせに、「被虐」で悲しくなってる。
わたしって、ほんとうはマゾじゃないの?なんて思ったりした。
フィクションとしての「牝豚」にさえ悲しくなってしまう。
だから、わたしは那智さんにも大切に大切に扱ってほしいと思う。
それなのに「被虐」を望む。
どうやらわたしは「精神的被虐」ではなくて「肉体的被虐」がいいみたい。(といっても、弱虫だからすぐ痛がってしまうけど…^^;)
恥ずかしいとか怖いとか、そういう「精神」を追い詰められることはいいのだけど、なんていうのかな「自己否定」の繋がるような「精神的被虐」。
那智さんも「この牝豚め!!」的なことはまったく興味がないから、いままで「精神的被虐」はされたことがない。
常に「可愛がる方法」として酷いことをしてる。
あるとき、ふと思った。
いま、那智さんに「精神的被虐」をされたら、わたしはどう感じるだろうって。
床に転がったわたしの胸や顔を踏みつけられるとき、那智さんはほとんど口を開かない。
そんなときに、汚い言葉を投げかけられたら、わたしは感じるのだろうか。
いまなら、那智さんになら、「自己否定」も快感になるのだろうか。
否定されるわたしに、わたしが感情移入して、悲しくならないだろうか。
う〜ん、やっぱり悲しくなってしまいそうだなぁ…。
自己否定を快感にするのは難しいかも。
それは、否定されたわたしにわたしが感情移入してしまうからか、否定できるほど自己が確立されていないからか、難しそう。
それと、なにより、いりん子こでこんな話題出しちゃったから、那智さんに「牝豚〜」って言われても演技っぽくて笑ってしまうかも(笑)
あらら、ほんとは「感情移入」から「読み手の成熟」について書こうと思ったけど、違うお話になっちゃった。
続き、多分、明日書きます^^;(多分ね…)