被虐の種類
りん子的独り言(生意気)
人と比べたわけじゃないから、はっきりわからないのだけど。
わたしは、もしかしたら物事に感情移入しやすいほうなのかもしれない。
でも、その感情移入は特に「ノンフィクション」でおおいに発揮してしまうみたい。
「すっごい読書家」というほどでもないけど、本を読むのは嫌いじゃない。
たったワンセンテンスだけで涙が溢れてしまったり、言葉の組み合わせでうっとりするような表現を見つけたり、そんなとき、わたしは本を読む醍醐味を味わう。
でも、なんていうのかな、その世界にどっぷりとはまって登場人物になりきってしまう、というような気持ちの入り方はしないの。
だから、フィクションには感情移入しにくいほうだと思う。
わたしが主に感情移入してしまうのは、「事実」で、さらに「負」の感情なのだ。
これってけっこう困ってしまう。
子供のころ、学校でいじめがあったりして、わたしにはまったく関係ないグループのことだったり、違うクラスのことだったりしても、なんだか知らないけど、 苦しくて胸がざわざわしてしまう、多分、普通に「それはよくない」と思う自然な感情以上に入り込んでしまっていると思う。
無意味なことで、心を消耗している気がする^^;
わたしは、自分に被虐願望があることは自覚していた。
だから、歴史の描写で「拷問」とか「奴隷」とか、ひそかに反応していた。
きっとそういう世界に惹かれるんだ。
でも、それらを目にするときに、性的に興奮すると同時にそのいじめを見たときのようなチクチクと小さな刺が胸に刺さる感覚もあった。
それは、裏表のようなものなんだろうなと思う。
嫌悪するものに感じる。
うん、わかる。
だから、その刺はありなんだと思ってた。
でも、ここ数年。
SMといわれる様々な媒体を目にする機会が増えて、わたしはその感情移入に気づいたの。
様々といっても、SM系のアダルトビデオなんてほとんどみたことないし、せいぜいブログとかHPとかですけどね。
悲しくなってしまうんだ。
「淫乱牝豚奴隷の調教日記」のようなものを見ると、悲しくてしょうがなくなってしまう。
その画像や文章からしか想像できないから、それがすべてじゃないでしょうし、見る人によって印象も違うのでしょう。
もちろん加虐嗜好と被虐嗜好が対になっているのだから、行為としては酷いことなのはいい。
でも、それらの中に、「相手を大切にしていない」印象を覚えてしまうものを見ると、どうしても悲しくなってしまうの。
不思議だった。
被虐願望があるくせに、「被虐」で悲しくなってる。
わたしって、ほんとうはマゾじゃないの?なんて思ったりした。
フィクションとしての「牝豚」にさえ悲しくなってしまう。
だから、わたしは那智さんにも大切に大切に扱ってほしいと思う。
それなのに「被虐」を望む。
どうやらわたしは「精神的被虐」ではなくて「肉体的被虐」がいいみたい。(といっても、弱虫だからすぐ痛がってしまうけど…^^;)
恥ずかしいとか怖いとか、そういう「精神」を追い詰められることはいいのだけど、なんていうのかな「自己否定」の繋がるような「精神的被虐」。
那智さんも「この牝豚め!!」的なことはまったく興味がないから、いままで「精神的被虐」はされたことがない。
常に「可愛がる方法」として酷いことをしてる。
あるとき、ふと思った。
いま、那智さんに「精神的被虐」をされたら、わたしはどう感じるだろうって。
床に転がったわたしの胸や顔を踏みつけられるとき、那智さんはほとんど口を開かない。
そんなときに、汚い言葉を投げかけられたら、わたしは感じるのだろうか。
いまなら、那智さんになら、「自己否定」も快感になるのだろうか。
否定されるわたしに、わたしが感情移入して、悲しくならないだろうか。
う〜ん、やっぱり悲しくなってしまいそうだなぁ…。
自己否定を快感にするのは難しいかも。
それは、否定されたわたしにわたしが感情移入してしまうからか、否定できるほど自己が確立されていないからか、難しそう。
それと、なにより、いりん子こでこんな話題出しちゃったから、那智さんに「牝豚〜」って言われても演技っぽくて笑ってしまうかも(笑)
あらら、ほんとは「感情移入」から「読み手の成熟」について書こうと思ったけど、違うお話になっちゃった。
続き、多分、明日書きます^^;(多分ね…)
人と比べたわけじゃないから、はっきりわからないのだけど。
わたしは、もしかしたら物事に感情移入しやすいほうなのかもしれない。
でも、その感情移入は特に「ノンフィクション」でおおいに発揮してしまうみたい。
「すっごい読書家」というほどでもないけど、本を読むのは嫌いじゃない。
たったワンセンテンスだけで涙が溢れてしまったり、言葉の組み合わせでうっとりするような表現を見つけたり、そんなとき、わたしは本を読む醍醐味を味わう。
でも、なんていうのかな、その世界にどっぷりとはまって登場人物になりきってしまう、というような気持ちの入り方はしないの。
だから、フィクションには感情移入しにくいほうだと思う。
わたしが主に感情移入してしまうのは、「事実」で、さらに「負」の感情なのだ。
これってけっこう困ってしまう。
子供のころ、学校でいじめがあったりして、わたしにはまったく関係ないグループのことだったり、違うクラスのことだったりしても、なんだか知らないけど、 苦しくて胸がざわざわしてしまう、多分、普通に「それはよくない」と思う自然な感情以上に入り込んでしまっていると思う。
無意味なことで、心を消耗している気がする^^;
わたしは、自分に被虐願望があることは自覚していた。
だから、歴史の描写で「拷問」とか「奴隷」とか、ひそかに反応していた。
きっとそういう世界に惹かれるんだ。
でも、それらを目にするときに、性的に興奮すると同時にそのいじめを見たときのようなチクチクと小さな刺が胸に刺さる感覚もあった。
それは、裏表のようなものなんだろうなと思う。
嫌悪するものに感じる。
うん、わかる。
だから、その刺はありなんだと思ってた。
でも、ここ数年。
SMといわれる様々な媒体を目にする機会が増えて、わたしはその感情移入に気づいたの。
様々といっても、SM系のアダルトビデオなんてほとんどみたことないし、せいぜいブログとかHPとかですけどね。
悲しくなってしまうんだ。
「淫乱牝豚奴隷の調教日記」のようなものを見ると、悲しくてしょうがなくなってしまう。
その画像や文章からしか想像できないから、それがすべてじゃないでしょうし、見る人によって印象も違うのでしょう。
もちろん加虐嗜好と被虐嗜好が対になっているのだから、行為としては酷いことなのはいい。
でも、それらの中に、「相手を大切にしていない」印象を覚えてしまうものを見ると、どうしても悲しくなってしまうの。
不思議だった。
被虐願望があるくせに、「被虐」で悲しくなってる。
わたしって、ほんとうはマゾじゃないの?なんて思ったりした。
フィクションとしての「牝豚」にさえ悲しくなってしまう。
だから、わたしは那智さんにも大切に大切に扱ってほしいと思う。
それなのに「被虐」を望む。
どうやらわたしは「精神的被虐」ではなくて「肉体的被虐」がいいみたい。(といっても、弱虫だからすぐ痛がってしまうけど…^^;)
恥ずかしいとか怖いとか、そういう「精神」を追い詰められることはいいのだけど、なんていうのかな「自己否定」の繋がるような「精神的被虐」。
那智さんも「この牝豚め!!」的なことはまったく興味がないから、いままで「精神的被虐」はされたことがない。
常に「可愛がる方法」として酷いことをしてる。
あるとき、ふと思った。
いま、那智さんに「精神的被虐」をされたら、わたしはどう感じるだろうって。
床に転がったわたしの胸や顔を踏みつけられるとき、那智さんはほとんど口を開かない。
そんなときに、汚い言葉を投げかけられたら、わたしは感じるのだろうか。
いまなら、那智さんになら、「自己否定」も快感になるのだろうか。
否定されるわたしに、わたしが感情移入して、悲しくならないだろうか。
う〜ん、やっぱり悲しくなってしまいそうだなぁ…。
自己否定を快感にするのは難しいかも。
それは、否定されたわたしにわたしが感情移入してしまうからか、否定できるほど自己が確立されていないからか、難しそう。
それと、なにより、いりん子こでこんな話題出しちゃったから、那智さんに「牝豚〜」って言われても演技っぽくて笑ってしまうかも(笑)
あらら、ほんとは「感情移入」から「読み手の成熟」について書こうと思ったけど、違うお話になっちゃった。
続き、多分、明日書きます^^;(多分ね…)
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