あなたの一部
独特な幸福感
那智さんが幸せだとわたしは嬉しい。
ほんの些細なことでも、気分が「ぱっ」と明るくなるような瞬間が少しでも多ければいいなといつも思ってる。
逆に、お仕事が大変だったり気がかりなことがあるようだと、一分でも一秒でも早くその状態から抜け出してほしいと気を揉んでしまう。
那智さんは、そういう気分の上下をあまり見せる人じゃないし、それでこちらに当たったり機嫌が悪くなったりする人じゃないから、那智さんがご機嫌だろうと窮地 (そんな大げさなことじゃなけど)だろうと、ほとんど被害は及ばないので、それによってわたしが一喜一憂する必要はないのだけど。
一喜一憂することなんて那智さんはわたしに頼みもしてないし、わたしが勝手に喜んだり切なくなったりしてるだけなのだけど。
那智さんが嬉しいとわたしも嬉しいし、那智さんが苦しいとわたしも苦しい。
これは、好きな人を思うというよりも、同化に近いと思う。
わたしは、わたしを「個」ではなくて、那智さんの一部と思うような、とても幼い未熟な感覚だろう。
幼いとわかっていても、そう思ってしまうのはしかたないし、好きな人の幸福を願うのはそんなに悪いことじゃないから、いいよね。
でも、たまに、那智さん以上につらくなってしまって、かえって迷惑かけてしまうこともあったりで、あまり過剰だとほめられたことでもないけれど。
たとえば、こんなこと。
いつもブラックでコーヒーを飲む那智さんに、牛乳たっぷりのカフェオレを出したことがある。
そのときは、それほどリアクションはなかったのだけど、翌日になって電話で「牛乳入れて飲むのも、おいしいね」と感想を言われた。
それで、わたしは「ふふふ」となってしまうのだ。
それは、わたしがほめられたと感じたからではなくて、那智さんが「おいしい」と思ったこととか、コーヒーの味のバリエーションが増えたこととか、そんなことで、わたしの気持ちがホクホクしてしまうの。
きっと単純に「おいしい」と思った那智さん以上に、嬉しい気持ちになってるはず。
人の良い気分をお裾分けしてもらえて、なんてお得な性質でしょう。
その分、大変そうなときは、わたしも一緒に気合い入れちゃうから大変なんだけど^^;
(あ、でも、その気合いっていうのは、「いつもよりいい子でいる!!」みたいな気合いでして、なにかアドバイスするとか、そういう生産的な気合いじゃないです…情けない)
先日も通勤電車が事故で足止めを食らい、出勤時から大変だった那智さん。
そんなこと社会人なら日常茶飯事なのは百も承知なんだけど、「電車遅れてる」と暇つぶしにくれたメールに「電車のばか!!」と無意味な文句をつけるわたし。
だって、那智さん大変だもん。
でも、実は、那智さんを大変にさせてるのは、仕事でもなんでもなくて、わたしかもしれないと思ったりもする。
そのときは、かなりのぐずりの合間だったので、そんなふうに思いながらも。
それでも、自分のことは棚に上げて「不安要素」に悪態をつく^^;
う〜ん、やっぱり「同化」とか「一部」とか、そんな感覚がわたしの喜びなんだな。
ちょっと幼くて気恥ずかしいけど。
でも、そうして一体感の安心を感じさせてもらって、ちょっとずつちょっとずつ木の上の巣から外を覗き、いつか「えいっ」てひとりで飛ぶ勇気を持てるようになるといいな。
いつか書くかな、けっこうぐずってまして、「あなたの一部」なんて可愛らしいこと言えたもんじゃないほどでした。
でも、それにもずっと付き合ってくれた那智さんに感謝の気持ちで、今夜はこれをエントリー。
那智さんが幸せだとわたしは嬉しい。
ほんの些細なことでも、気分が「ぱっ」と明るくなるような瞬間が少しでも多ければいいなといつも思ってる。
逆に、お仕事が大変だったり気がかりなことがあるようだと、一分でも一秒でも早くその状態から抜け出してほしいと気を揉んでしまう。
那智さんは、そういう気分の上下をあまり見せる人じゃないし、それでこちらに当たったり機嫌が悪くなったりする人じゃないから、那智さんがご機嫌だろうと窮地 (そんな大げさなことじゃなけど)だろうと、ほとんど被害は及ばないので、それによってわたしが一喜一憂する必要はないのだけど。
一喜一憂することなんて那智さんはわたしに頼みもしてないし、わたしが勝手に喜んだり切なくなったりしてるだけなのだけど。
那智さんが嬉しいとわたしも嬉しいし、那智さんが苦しいとわたしも苦しい。
これは、好きな人を思うというよりも、同化に近いと思う。
わたしは、わたしを「個」ではなくて、那智さんの一部と思うような、とても幼い未熟な感覚だろう。
幼いとわかっていても、そう思ってしまうのはしかたないし、好きな人の幸福を願うのはそんなに悪いことじゃないから、いいよね。
でも、たまに、那智さん以上につらくなってしまって、かえって迷惑かけてしまうこともあったりで、あまり過剰だとほめられたことでもないけれど。
たとえば、こんなこと。
いつもブラックでコーヒーを飲む那智さんに、牛乳たっぷりのカフェオレを出したことがある。
そのときは、それほどリアクションはなかったのだけど、翌日になって電話で「牛乳入れて飲むのも、おいしいね」と感想を言われた。
それで、わたしは「ふふふ」となってしまうのだ。
それは、わたしがほめられたと感じたからではなくて、那智さんが「おいしい」と思ったこととか、コーヒーの味のバリエーションが増えたこととか、そんなことで、わたしの気持ちがホクホクしてしまうの。
きっと単純に「おいしい」と思った那智さん以上に、嬉しい気持ちになってるはず。
人の良い気分をお裾分けしてもらえて、なんてお得な性質でしょう。
その分、大変そうなときは、わたしも一緒に気合い入れちゃうから大変なんだけど^^;
(あ、でも、その気合いっていうのは、「いつもよりいい子でいる!!」みたいな気合いでして、なにかアドバイスするとか、そういう生産的な気合いじゃないです…情けない)
先日も通勤電車が事故で足止めを食らい、出勤時から大変だった那智さん。
そんなこと社会人なら日常茶飯事なのは百も承知なんだけど、「電車遅れてる」と暇つぶしにくれたメールに「電車のばか!!」と無意味な文句をつけるわたし。
だって、那智さん大変だもん。
でも、実は、那智さんを大変にさせてるのは、仕事でもなんでもなくて、わたしかもしれないと思ったりもする。
そのときは、かなりのぐずりの合間だったので、そんなふうに思いながらも。
それでも、自分のことは棚に上げて「不安要素」に悪態をつく^^;
う〜ん、やっぱり「同化」とか「一部」とか、そんな感覚がわたしの喜びなんだな。
ちょっと幼くて気恥ずかしいけど。
でも、そうして一体感の安心を感じさせてもらって、ちょっとずつちょっとずつ木の上の巣から外を覗き、いつか「えいっ」てひとりで飛ぶ勇気を持てるようになるといいな。
いつか書くかな、けっこうぐずってまして、「あなたの一部」なんて可愛らしいこと言えたもんじゃないほどでした。
でも、それにもずっと付き合ってくれた那智さんに感謝の気持ちで、今夜はこれをエントリー。
ご飯好き
りんりん変態ご飯
歌手のビヨンセだったか忘れちゃったけど、体型維持のために夜7時以降は食べ物を口にしないとか、炭水化物は摂らないとか、努力をしてるらしい。
あの林真理子さんも、「お米とお酒と甘いもの」を摂らなければ痩せると言ってた。
そう、白米はダイエットの敵らしいのだ。
でも、そうとわかってても、わたしは白いご飯が好き。
前回の「おいしいもの」を書いていて、改めてわたしの「白米ラブ」を再認識したのです。
そこで、ご飯に合うおはずってなんでしょう!?
梅干し?
海苔の佃煮?
焼き海苔?
いろいろあるよね。
昔、タモリさんの番組で「ご飯に合うおかずは何?」っていうのやってて、たくさんの人が自分のナンバー1を挙げてランキングにしてた。
それを見ながら、う〜ん、一番を決めるのはわたしには難しい…と真剣に悩んでしまいました。
それくらい、いろいろ思いついてしまって、一番なんて決められないなぁ。
王道の梅干しも、わたしはほかほかご飯に載せるよりも、おにぎりの具として食べるほうが好きだし。
漬け物みたいにおつまみ的な分野や、納豆とか塩からみたいにのっける系や、カレーとかカツ丼のように「それで完結!!」なんてのもあって、食べ方によっておいしさの種類が違うから、そこからナンバー1を決めるのは難しい。
奥さんと愛人と落としたいキャバ嬢と、どれが一番!?って言われて悩む男性のようです。
ということで、ナンバー1は決められないけど、わたしの好きな食べ方をいくつか。
えっと、まず、単品より複数のほうが好き。
味が形を変えて混ざり合っていく感じが好きらしい。
表面を炙る程度のさっと焼いた焼き肉にお塩をちょちょっとふりかけて、ご飯をパクッ、そして、ほどよく肉汁とご飯の甘みがからまってときに、さらにキムチを…酸味のきいた辛さが新しい味にしてくれる。
ほろほろに煮込んだ豚の角煮、甘辛の脂身にご飯をパクッ、じゅわっと煮汁がご飯にしみ込んだところで、キュウリのぬか漬けをぽりぽり。
ああ、この形を変えて混ざっていく感じ…たまりません。
卵かけご飯も、卵をあらかじめ混ぜるのはいや。
ほかほかご飯の真ん中にくぼみを作って、そこに卵を落とすの。
で、お醤油も垂らして、おおまかにさくっと混ぜる。
そうすると、ご飯と卵、卵の黄身や白身、それぞれ食べるごとに味が違って、徐々に混ざり一体化してくおいしさ(笑)
それを楽しむの。
それと、ご飯は白米の状態をぎりぎりまでキープしてるほうがおいしい。
たとえば、納豆ご飯も、最初からご飯に混ぜるんじゃなくて、ご飯に納豆を載せたものをお口に運び、お口の中で混ぜるとか、カレーもスプーンに載せるぎりぎりまでご飯とルーは分けておきたい。
わたしの友人で甘いものが大好きでご飯にはあまりこだわりのない子がいるのだけど、その子はお皿の上でカレーをさくさくっと混ぜてから口に運ぶのを見て、「ほんとうのおいしさを知らないな。」と密かに思ったりしたものです。
ああ、書いてて、だんだん情けなくなってきた^^;
なんだろ、SMよりも父性よりも、熱く語ってません!?
情けなくなってきたので、最後に。
こんな食べ方します?
ひとつめは、卵かけご飯梅干し入り。
普通のお醤油を垂らす卵かけご飯に、くだいた梅を入れるのです。
ときどき来る梅のしょっぱさが、たまりません。
ふたつめは、バターご飯。
熱々のご飯にパター(マーガリンじゃダメね)をひとかけ、これもお醤油を垂らしてまぜまぜして出来上がり。
バターの濃厚な油がご飯にからまって、これも大好きな食べ方。
でも、このふたつに賛同してくれた人、悲しいことにいままでいないのです。
皆さんは、どんな食べ方が好きでしょう?
わたしの食べ方、どう?
こんなこと書いてたらから、ご飯食べたくなっちゃった^^
ちなみに、那智さんは、漬け物類がきらいです。
ぬか漬け、キムチ、梅干しなどなど。
これはね、人生の半分損してる気がするのは、わたしだけ?
歌手のビヨンセだったか忘れちゃったけど、体型維持のために夜7時以降は食べ物を口にしないとか、炭水化物は摂らないとか、努力をしてるらしい。
あの林真理子さんも、「お米とお酒と甘いもの」を摂らなければ痩せると言ってた。
そう、白米はダイエットの敵らしいのだ。
でも、そうとわかってても、わたしは白いご飯が好き。
前回の「おいしいもの」を書いていて、改めてわたしの「白米ラブ」を再認識したのです。
そこで、ご飯に合うおはずってなんでしょう!?
梅干し?
海苔の佃煮?
焼き海苔?
いろいろあるよね。
昔、タモリさんの番組で「ご飯に合うおかずは何?」っていうのやってて、たくさんの人が自分のナンバー1を挙げてランキングにしてた。
それを見ながら、う〜ん、一番を決めるのはわたしには難しい…と真剣に悩んでしまいました。
それくらい、いろいろ思いついてしまって、一番なんて決められないなぁ。
王道の梅干しも、わたしはほかほかご飯に載せるよりも、おにぎりの具として食べるほうが好きだし。
漬け物みたいにおつまみ的な分野や、納豆とか塩からみたいにのっける系や、カレーとかカツ丼のように「それで完結!!」なんてのもあって、食べ方によっておいしさの種類が違うから、そこからナンバー1を決めるのは難しい。
奥さんと愛人と落としたいキャバ嬢と、どれが一番!?って言われて悩む男性のようです。
ということで、ナンバー1は決められないけど、わたしの好きな食べ方をいくつか。
えっと、まず、単品より複数のほうが好き。
味が形を変えて混ざり合っていく感じが好きらしい。
表面を炙る程度のさっと焼いた焼き肉にお塩をちょちょっとふりかけて、ご飯をパクッ、そして、ほどよく肉汁とご飯の甘みがからまってときに、さらにキムチを…酸味のきいた辛さが新しい味にしてくれる。
ほろほろに煮込んだ豚の角煮、甘辛の脂身にご飯をパクッ、じゅわっと煮汁がご飯にしみ込んだところで、キュウリのぬか漬けをぽりぽり。
ああ、この形を変えて混ざっていく感じ…たまりません。
卵かけご飯も、卵をあらかじめ混ぜるのはいや。
ほかほかご飯の真ん中にくぼみを作って、そこに卵を落とすの。
で、お醤油も垂らして、おおまかにさくっと混ぜる。
そうすると、ご飯と卵、卵の黄身や白身、それぞれ食べるごとに味が違って、徐々に混ざり一体化してくおいしさ(笑)
それを楽しむの。
それと、ご飯は白米の状態をぎりぎりまでキープしてるほうがおいしい。
たとえば、納豆ご飯も、最初からご飯に混ぜるんじゃなくて、ご飯に納豆を載せたものをお口に運び、お口の中で混ぜるとか、カレーもスプーンに載せるぎりぎりまでご飯とルーは分けておきたい。
わたしの友人で甘いものが大好きでご飯にはあまりこだわりのない子がいるのだけど、その子はお皿の上でカレーをさくさくっと混ぜてから口に運ぶのを見て、「ほんとうのおいしさを知らないな。」と密かに思ったりしたものです。
ああ、書いてて、だんだん情けなくなってきた^^;
なんだろ、SMよりも父性よりも、熱く語ってません!?
情けなくなってきたので、最後に。
こんな食べ方します?
ひとつめは、卵かけご飯梅干し入り。
普通のお醤油を垂らす卵かけご飯に、くだいた梅を入れるのです。
ときどき来る梅のしょっぱさが、たまりません。
ふたつめは、バターご飯。
熱々のご飯にパター(マーガリンじゃダメね)をひとかけ、これもお醤油を垂らしてまぜまぜして出来上がり。
バターの濃厚な油がご飯にからまって、これも大好きな食べ方。
でも、このふたつに賛同してくれた人、悲しいことにいままでいないのです。
皆さんは、どんな食べ方が好きでしょう?
わたしの食べ方、どう?
こんなこと書いてたらから、ご飯食べたくなっちゃった^^
ちなみに、那智さんは、漬け物類がきらいです。
ぬか漬け、キムチ、梅干しなどなど。
これはね、人生の半分損してる気がするのは、わたしだけ?
繋いだ手
りん子的独り言(生意気)
主従とか奴隷とかについて勝手に書いてます。
批判的なことになってるかもしれないので、苦手なかたはスルーしてください。
あと、筋も通ってないかもしれない…^^;
このところ主従とか考えてて、じゃあ、わたしたちはなんだろうと思いました。
端から見たらどうかわかりませんけど。
わたしがイメージする「わたしたち」。
「お互いの幸福のために、同じ方向を向いて手を繋いで歩いてる。」
わたしは、そんな図を想像した。(ずいぶんと那智さんに教えられた部分が大きいなぁ)
どちらのためでもなく、お互いのために手を繋ぐ。
わたしが不得意なことは那智さんに助けてもらって、逆にわたしのほうが上手なことはわたしがする。
ただそれだけ。
そう那智さんに話したら、それに那智さんの考えを付け加えられた。
「ずっと同じ方向を向いていたり手を繋いでいられるとは限らないよね。意見が食い違ったりしてお互い違う方向を向いて手が離れてしまうこともある。だから、何よりも『手を伸ばそう』と思うことが大事なんじゃないかな。」
そうですね、人間同士なんだから離れてしまうこともある、わたしたちもそういうことあったけど、また手を繋ぎたいと思えることが重要ですね。
そんな話しをしていたら、山本文緒さんの「恋愛中毒」の一節を思い出した。(原文のままじゃないかも!?)
「ただひたすら歩きながら、いつしか私は祈っていた。
どうか、神様。
いや、神様なんかにお願いするのはやめよう。
どうか、どうか、私。
これから先の人生、他人を愛しすぎないように。
愛しすぎて、相手も自分もがんじがらめにしないように。
私は好きな人の手を強く握りすぎる。相手が痛がっていることにすら気がつかない。
だからもう二度と誰の手も握らないように・・」
いま、わたしが思っていることと、この小説の内容が同じだとは思わない、最後の一行は「誰の手も握らない」と言ってるしね。
でも、この有名な一節を思い出した。
強く強く、手を握ってしまうのだ。
相手がどうかなんて気づかずに。
わたしの場合、それは不安とか焦燥感からのようだった。
手を離したらもうなくなってしまう、ひとりが不安でしかたないから、絶対に離すまいと強く握る。
でも、実は、その手の持ち主が本当に好きなのか、わからないのだ。
ただ、手がないと不安なの。
だから、強く握ることに執着してしまう。
時には、離したくないがために、不本意な方向に引きずられてしまってボロボロに傷付いても離したくない、不安だから。
でも、手が離れたら、また繋げばいいんだよね。
繋ぎたいと思う、強く思う気持ちが大事。
そのためには相手を理解するように耳を傾け、自分の気持ちを諦めず伝える。
それは、わたしのような、不安定な愛される価値のないと思ってる依存体質(メチャクチャな人だわ、わたし)にとっては、けっこう至難の業。
だって、依存したいのだもの、依存先を失うの怖いのだもの。
つい、自分の気持ちを押し殺し「あなたのよいように、あなたに従いたい」と自分に嘘を付く。
そうしないと不安だから。
負の感情を見せないほうが得意なんだものね。
でも、絶対という人には、むしろ負の感情を見せて気持ちを伝えるほうが誠実な付き合いなのだ。
手が離れたら、また繋げばいい。
それよりも、その手が自分に本当に必要かそれを見極めることが大事。
だけど、問題は、わたしのような女は、どれが自分に必要かよくわからない。
残念なことに、自分の「快不快」に鈍感なんだ。
つい、自分の快不快を人の反応で計ってしまう、それは「快」を知らないから。
(わたしの場合は「父性」ね、父親の愛情不足で、娘時代に知るはずだった快を知らないの。といってもいつも言ってますが、もっと深刻な人はいます)
だから、「主」のような、強く差し出される手がほしいと思ってしまう。
それが自分のとって快かどうかわからずに、強い吸引力に惹かれてしまうのだ。
でも、それはとても危険。
その吸引力は、不安定なわたしがほしい言葉をくれる。
「俺に従え、言う通りにしろ」
「すべてを委ねろ」
「すべてを受け止めるから、すべて晒せ」
これは、強く手を握ってしまう女には魔法のような言葉だ。
いいの?いっぱいいっぱい握ってもいいの?
わたしの不安を消してくれるの?
でも、その言葉は危険な気がする。
「奴隷願望の矛盾」でも書いたけど、奴隷がほしい男性と従属したい女性には温度差がある場合が多いと思う。
男性の「すべてを委ねろ」と女性の「全部委ねたい」には、もともとの量が違うのではないかしら。
その量の違いがあるなかで、依存したいばかりにその言葉にすがるのは、矛盾を生むばかりではないく結果的に思考停止にさせてしまわないだろうか。
本当に、そんなに全部晒して受け止めてくれる聖徳太子のような男性がいるの?
恐らく大多数の「主」様のいうそれは、「言う通りにする女性」を作るための誘い言葉に感じる。
それを盲目的に信じて、すべて晒そうとすると思考停止に陥りそうだ。
だって、だた溢れさればいいのだもの。
だけど、それを受け入れるのは不可能だよね、聖徳太子じゃないんだもの。
その不可能を「奴隷」という言葉で、誤摩化してる?
「奴隷は主の言う通りにしてろ」って、結局縛ってる感じがする。
これって矛盾だよね、すべてを晒して、そして、従えっていうのは、それは「依存願望」の強い女にとっては、「顔色を伺う」ことに変わりないのだ。
そのくせ「すべてを晒せ」と言ってもらってるから、晒せてる気持ちになる。
でも、なんだか上手くいかない、だって、そんな聖徳太子いっぱいいないもの。
実際は全然晒せてないの、従えと言われればその時点で「顔色伺ってる」のだもの。
だから、すべてを委ねるなんて、無理だし、しちゃいけない。
那智さんはわたしに「素直に伝える」ことを課している。
わたしは、これを「すべて晒す」ことではないと思ってる。
わたしの思う「素直に伝える」は、思ってること起こったこと全部を吐き出すことだとは思っていないのです。
心を平らにして伝えることだと思ってます。
相手を、傷付けようとか、言い負かそうとか、謝らせようとか、思わず。
自分は、いじけず、ひねくれず、卑屈にならず、投げやりにならず。
基本は、相手を大切に思ってるという前提で話す。
これはけっこう大変で、すべて晒したり、自分を卑下したりするほうが楽かもしれないのだ。
いじけてすねて卑屈になって、伝わらないもどかしさを八つ当たりという形で、感情を晒す。
そのほうが、楽かもしれない。
平らな心で言葉を選び、伝わるように苦心して、素直な気持ちを伝える。
そこには「頭を使う」という作業が必要になってくる。
それに那智さんは、なんでも聞いてくれるわけじゃない。
忙しいときはもちろんだけど、同じことを、すぐ繰り返してぐずるのはダメ。
以前も、繰り返したことがあって、それは「パス」と却下されてしまった。
でも、そこで、わたしは頭を使う。
同じ内容だけど、切り口を変えたり視点を変えたりして、同じだけど違うことに仕立て上げるのだ。
そうすると、その努力は買われて、多少付き合ってくれる。
ね、全然、全部晒せじゃないでしょ!?
でも、だから、わたしは「依存」という鎖で思考停止にならずに済んでいると思ってる。
違うことかもしれないけど。
DVに苦しむ女性は、思考停止状態に陥るというのを聞いたことがある。
日々の暴力により、先のことまで考えられなくなってしまうそうだ。
「今日、ぶたれなかった」「今日は彼(夫)の機嫌がよかった」とその日その日で精一杯になり、それ以上の思考が働かなくなってしまうそうだ。
奴隷願望の矛盾に苦しんでるような物を目にすると、わたしはこのDVの構造を思い出す。
主と奴隷という特殊な関係を完成させようとして、でも、「奴隷願望の矛盾」を感じている人や、「すべてを晒せ、すべてを受け止める」と言われてるのに心底「快」を感じられない人がいるかもしれない。
全部晒せ、受け止める。
俺のすべてを受け止めろ。
人間関係に於いて「すべて」なんてあり得ないとわたしは思う。
すべて相手任せで関係は作れないよね。(ああ、わたし、かなり那智さん任せですけど、それでもすべてじゃない!!と言い張りたい 笑)
手を繋いでいたい人を見つけたら、全力で頭を使い、思考停止せず関係を作るの。
相手に伝わるように言葉を選んで、互いに手を伸ばし合えるように。
だからこそ、思考停止をしちゃいけない。
主従とか奴隷とかについて勝手に書いてます。
批判的なことになってるかもしれないので、苦手なかたはスルーしてください。
あと、筋も通ってないかもしれない…^^;
このところ主従とか考えてて、じゃあ、わたしたちはなんだろうと思いました。
端から見たらどうかわかりませんけど。
わたしがイメージする「わたしたち」。
「お互いの幸福のために、同じ方向を向いて手を繋いで歩いてる。」
わたしは、そんな図を想像した。(ずいぶんと那智さんに教えられた部分が大きいなぁ)
どちらのためでもなく、お互いのために手を繋ぐ。
わたしが不得意なことは那智さんに助けてもらって、逆にわたしのほうが上手なことはわたしがする。
ただそれだけ。
そう那智さんに話したら、それに那智さんの考えを付け加えられた。
「ずっと同じ方向を向いていたり手を繋いでいられるとは限らないよね。意見が食い違ったりしてお互い違う方向を向いて手が離れてしまうこともある。だから、何よりも『手を伸ばそう』と思うことが大事なんじゃないかな。」
そうですね、人間同士なんだから離れてしまうこともある、わたしたちもそういうことあったけど、また手を繋ぎたいと思えることが重要ですね。
そんな話しをしていたら、山本文緒さんの「恋愛中毒」の一節を思い出した。(原文のままじゃないかも!?)
「ただひたすら歩きながら、いつしか私は祈っていた。
どうか、神様。
いや、神様なんかにお願いするのはやめよう。
どうか、どうか、私。
これから先の人生、他人を愛しすぎないように。
愛しすぎて、相手も自分もがんじがらめにしないように。
私は好きな人の手を強く握りすぎる。相手が痛がっていることにすら気がつかない。
だからもう二度と誰の手も握らないように・・」
いま、わたしが思っていることと、この小説の内容が同じだとは思わない、最後の一行は「誰の手も握らない」と言ってるしね。
でも、この有名な一節を思い出した。
強く強く、手を握ってしまうのだ。
相手がどうかなんて気づかずに。
わたしの場合、それは不安とか焦燥感からのようだった。
手を離したらもうなくなってしまう、ひとりが不安でしかたないから、絶対に離すまいと強く握る。
でも、実は、その手の持ち主が本当に好きなのか、わからないのだ。
ただ、手がないと不安なの。
だから、強く握ることに執着してしまう。
時には、離したくないがために、不本意な方向に引きずられてしまってボロボロに傷付いても離したくない、不安だから。
でも、手が離れたら、また繋げばいいんだよね。
繋ぎたいと思う、強く思う気持ちが大事。
そのためには相手を理解するように耳を傾け、自分の気持ちを諦めず伝える。
それは、わたしのような、不安定な愛される価値のないと思ってる依存体質(メチャクチャな人だわ、わたし)にとっては、けっこう至難の業。
だって、依存したいのだもの、依存先を失うの怖いのだもの。
つい、自分の気持ちを押し殺し「あなたのよいように、あなたに従いたい」と自分に嘘を付く。
そうしないと不安だから。
負の感情を見せないほうが得意なんだものね。
でも、絶対という人には、むしろ負の感情を見せて気持ちを伝えるほうが誠実な付き合いなのだ。
手が離れたら、また繋げばいい。
それよりも、その手が自分に本当に必要かそれを見極めることが大事。
だけど、問題は、わたしのような女は、どれが自分に必要かよくわからない。
残念なことに、自分の「快不快」に鈍感なんだ。
つい、自分の快不快を人の反応で計ってしまう、それは「快」を知らないから。
(わたしの場合は「父性」ね、父親の愛情不足で、娘時代に知るはずだった快を知らないの。といってもいつも言ってますが、もっと深刻な人はいます)
だから、「主」のような、強く差し出される手がほしいと思ってしまう。
それが自分のとって快かどうかわからずに、強い吸引力に惹かれてしまうのだ。
でも、それはとても危険。
その吸引力は、不安定なわたしがほしい言葉をくれる。
「俺に従え、言う通りにしろ」
「すべてを委ねろ」
「すべてを受け止めるから、すべて晒せ」
これは、強く手を握ってしまう女には魔法のような言葉だ。
いいの?いっぱいいっぱい握ってもいいの?
わたしの不安を消してくれるの?
でも、その言葉は危険な気がする。
「奴隷願望の矛盾」でも書いたけど、奴隷がほしい男性と従属したい女性には温度差がある場合が多いと思う。
男性の「すべてを委ねろ」と女性の「全部委ねたい」には、もともとの量が違うのではないかしら。
その量の違いがあるなかで、依存したいばかりにその言葉にすがるのは、矛盾を生むばかりではないく結果的に思考停止にさせてしまわないだろうか。
本当に、そんなに全部晒して受け止めてくれる聖徳太子のような男性がいるの?
恐らく大多数の「主」様のいうそれは、「言う通りにする女性」を作るための誘い言葉に感じる。
それを盲目的に信じて、すべて晒そうとすると思考停止に陥りそうだ。
だって、だた溢れさればいいのだもの。
だけど、それを受け入れるのは不可能だよね、聖徳太子じゃないんだもの。
その不可能を「奴隷」という言葉で、誤摩化してる?
「奴隷は主の言う通りにしてろ」って、結局縛ってる感じがする。
これって矛盾だよね、すべてを晒して、そして、従えっていうのは、それは「依存願望」の強い女にとっては、「顔色を伺う」ことに変わりないのだ。
そのくせ「すべてを晒せ」と言ってもらってるから、晒せてる気持ちになる。
でも、なんだか上手くいかない、だって、そんな聖徳太子いっぱいいないもの。
実際は全然晒せてないの、従えと言われればその時点で「顔色伺ってる」のだもの。
だから、すべてを委ねるなんて、無理だし、しちゃいけない。
那智さんはわたしに「素直に伝える」ことを課している。
わたしは、これを「すべて晒す」ことではないと思ってる。
わたしの思う「素直に伝える」は、思ってること起こったこと全部を吐き出すことだとは思っていないのです。
心を平らにして伝えることだと思ってます。
相手を、傷付けようとか、言い負かそうとか、謝らせようとか、思わず。
自分は、いじけず、ひねくれず、卑屈にならず、投げやりにならず。
基本は、相手を大切に思ってるという前提で話す。
これはけっこう大変で、すべて晒したり、自分を卑下したりするほうが楽かもしれないのだ。
いじけてすねて卑屈になって、伝わらないもどかしさを八つ当たりという形で、感情を晒す。
そのほうが、楽かもしれない。
平らな心で言葉を選び、伝わるように苦心して、素直な気持ちを伝える。
そこには「頭を使う」という作業が必要になってくる。
それに那智さんは、なんでも聞いてくれるわけじゃない。
忙しいときはもちろんだけど、同じことを、すぐ繰り返してぐずるのはダメ。
以前も、繰り返したことがあって、それは「パス」と却下されてしまった。
でも、そこで、わたしは頭を使う。
同じ内容だけど、切り口を変えたり視点を変えたりして、同じだけど違うことに仕立て上げるのだ。
そうすると、その努力は買われて、多少付き合ってくれる。
ね、全然、全部晒せじゃないでしょ!?
でも、だから、わたしは「依存」という鎖で思考停止にならずに済んでいると思ってる。
違うことかもしれないけど。
DVに苦しむ女性は、思考停止状態に陥るというのを聞いたことがある。
日々の暴力により、先のことまで考えられなくなってしまうそうだ。
「今日、ぶたれなかった」「今日は彼(夫)の機嫌がよかった」とその日その日で精一杯になり、それ以上の思考が働かなくなってしまうそうだ。
奴隷願望の矛盾に苦しんでるような物を目にすると、わたしはこのDVの構造を思い出す。
主と奴隷という特殊な関係を完成させようとして、でも、「奴隷願望の矛盾」を感じている人や、「すべてを晒せ、すべてを受け止める」と言われてるのに心底「快」を感じられない人がいるかもしれない。
全部晒せ、受け止める。
俺のすべてを受け止めろ。
人間関係に於いて「すべて」なんてあり得ないとわたしは思う。
すべて相手任せで関係は作れないよね。(ああ、わたし、かなり那智さん任せですけど、それでもすべてじゃない!!と言い張りたい 笑)
手を繋いでいたい人を見つけたら、全力で頭を使い、思考停止せず関係を作るの。
相手に伝わるように言葉を選んで、互いに手を伸ばし合えるように。
だからこそ、思考停止をしちゃいけない。
繋いだ手の行方
独特な幸福感
昨日の「繋いだ手」の続きです。
今度は、那智さんの考え方を。
「ずっと同じ方向を向いていたり手を繋いでいられるとは限らないよね。意見が食い違ったりしてお互い違う方向を向いて手が離れてしまうこともある。だから、何よりも『手を伸ばそう』と思うことが大事なんじゃないかな。」
ブログ上の那智さんの言葉って、いつもそうなんだけど、そんなような感じのこと言ってたという、わたしの記憶や解釈で書いてます。
だから、一言一句間違いなく那智さんから発せられたものというものでもないのです。
まあ、当たり前よね、録音してるわけじゃなし。
でも、かなり近いニュアンスで、時にはまったく同じということもあります。
わたしにとって大事な忘れたくない瞬間は、多分覚えてる。
那智さんに比べたら、わたしはずいぶんと記憶力がいいらしいのです。
で、上の言葉。
これも、昨日のエントリーで出しましたけど、これもかなり近いはずです。
でも、ちょっと違うんだ。
下書きで書いてたときには(ちょっと前)、手が離れてもまた繋げばいいということかと思って、そう書いておいたのだけど、そのあと会話して、ちょっとニュアンスが違うことがわかったの。
でも、直さなかった。
続き書こうと思ったから、直さなくてもいいやって^^;(単に面倒だった!?)
手が離れたら、また手を伸ばして繋げばいい。
そうじゃないのですって。
那智さんは。
手を離さないのですって。
「手を伸ばす」とは、びよ〜んって文字通り伸ばすこと。
妖怪みたいで美しい例えじゃないと本人も照れ笑いしてますけど。
言葉の上の感覚的なことなのだけど、那智さんにとって「手を離す」ということは、一瞬でも相手と向き合うことを「放棄」とか「諦め」たとかそういうことになるらしい。
誤解や問題が起きたとき。
ふっと違う方向に行ってしまいそうになったとき。
手にくっと力を入れて離さないのだ。
どんなに意見が食い違っても、手は離さない。
でも、決して無理に手を繋ぎ続けてるのでもなく手を伸ばす。
向き合い、お互い柔軟に発想を広げて、歩み寄れる場所を見つける。
もちろん、いつもいつもすぐ向き合う体勢が取れるわけじゃないから、「待ってて」ということで手を伸ばしたり、こちらも「待つ」とか「いい子でいる」とかで手を伸ばすのだ。
多分、那智さんにとって(わたしにとっても)、手を離した記憶は、一瞬でも向き合うことを放棄したという記憶になり心にシミを残すことになるのでしょう。
どんなに意見が食い違っても、手は離さない。
そういう意味で「手を伸ばす」だったのでした。
以前、別な例えをしたことがある。
互いの価値観が違ったらどうする?
そしたら、新しい価値観を作ればいい。
世界平和でもなんでもいいから、メチャクチャな観点からでもいいから、新しい価値観を作ればいい。
そんなふうに言われたこともあった。
「SMを意識するな」と、那智さんに言われ続けた。
それは、とても那智さんらしい。
恐らく、手を伸ばし新しい価値観を作ろうと考える那智さんらしい考え方のひとつ。(もともと既存のSMっぽいことが好きじゃないというのが一番の理由でしょうけど)
拘らないということのようです。
何かに拘ると、それ以外の価値観が生まれないから柔軟に形を変えていく、そういうことのよう。
多分、那智さんが唯一(唯一もちょっと大げさかな)最大に拘るのは、手を離さないことなのでしょう。
なにに拘るか。
なにを大事にするか。
多分、いまはずいぶんたくましくなれてると思うけど、わたしのような心にシミができちゃうとすぐシャッター閉めちゃうような情けない女には、手を離さずにいてくれることは、とてもありがたいことなのだ。
那智さんの拘りとわたしのウィークポイントが、きっとうまくはまってる。
相性なんて言ってしまえば、簡単なことだけど、那智さんのその考え方に、わたしはとても感謝しているのです。
昨日の「繋いだ手」の続きです。
今度は、那智さんの考え方を。
「ずっと同じ方向を向いていたり手を繋いでいられるとは限らないよね。意見が食い違ったりしてお互い違う方向を向いて手が離れてしまうこともある。だから、何よりも『手を伸ばそう』と思うことが大事なんじゃないかな。」
ブログ上の那智さんの言葉って、いつもそうなんだけど、そんなような感じのこと言ってたという、わたしの記憶や解釈で書いてます。
だから、一言一句間違いなく那智さんから発せられたものというものでもないのです。
まあ、当たり前よね、録音してるわけじゃなし。
でも、かなり近いニュアンスで、時にはまったく同じということもあります。
わたしにとって大事な忘れたくない瞬間は、多分覚えてる。
那智さんに比べたら、わたしはずいぶんと記憶力がいいらしいのです。
で、上の言葉。
これも、昨日のエントリーで出しましたけど、これもかなり近いはずです。
でも、ちょっと違うんだ。
下書きで書いてたときには(ちょっと前)、手が離れてもまた繋げばいいということかと思って、そう書いておいたのだけど、そのあと会話して、ちょっとニュアンスが違うことがわかったの。
でも、直さなかった。
続き書こうと思ったから、直さなくてもいいやって^^;(単に面倒だった!?)
手が離れたら、また手を伸ばして繋げばいい。
そうじゃないのですって。
那智さんは。
手を離さないのですって。
「手を伸ばす」とは、びよ〜んって文字通り伸ばすこと。
妖怪みたいで美しい例えじゃないと本人も照れ笑いしてますけど。
言葉の上の感覚的なことなのだけど、那智さんにとって「手を離す」ということは、一瞬でも相手と向き合うことを「放棄」とか「諦め」たとかそういうことになるらしい。
誤解や問題が起きたとき。
ふっと違う方向に行ってしまいそうになったとき。
手にくっと力を入れて離さないのだ。
どんなに意見が食い違っても、手は離さない。
でも、決して無理に手を繋ぎ続けてるのでもなく手を伸ばす。
向き合い、お互い柔軟に発想を広げて、歩み寄れる場所を見つける。
もちろん、いつもいつもすぐ向き合う体勢が取れるわけじゃないから、「待ってて」ということで手を伸ばしたり、こちらも「待つ」とか「いい子でいる」とかで手を伸ばすのだ。
多分、那智さんにとって(わたしにとっても)、手を離した記憶は、一瞬でも向き合うことを放棄したという記憶になり心にシミを残すことになるのでしょう。
どんなに意見が食い違っても、手は離さない。
そういう意味で「手を伸ばす」だったのでした。
以前、別な例えをしたことがある。
互いの価値観が違ったらどうする?
そしたら、新しい価値観を作ればいい。
世界平和でもなんでもいいから、メチャクチャな観点からでもいいから、新しい価値観を作ればいい。
そんなふうに言われたこともあった。
「SMを意識するな」と、那智さんに言われ続けた。
それは、とても那智さんらしい。
恐らく、手を伸ばし新しい価値観を作ろうと考える那智さんらしい考え方のひとつ。(もともと既存のSMっぽいことが好きじゃないというのが一番の理由でしょうけど)
拘らないということのようです。
何かに拘ると、それ以外の価値観が生まれないから柔軟に形を変えていく、そういうことのよう。
多分、那智さんが唯一(唯一もちょっと大げさかな)最大に拘るのは、手を離さないことなのでしょう。
なにに拘るか。
なにを大事にするか。
多分、いまはずいぶんたくましくなれてると思うけど、わたしのような心にシミができちゃうとすぐシャッター閉めちゃうような情けない女には、手を離さずにいてくれることは、とてもありがたいことなのだ。
那智さんの拘りとわたしのウィークポイントが、きっとうまくはまってる。
相性なんて言ってしまえば、簡単なことだけど、那智さんのその考え方に、わたしはとても感謝しているのです。
感謝記念のあと
独り言
はじめまして、私は28才のOLです。いつも楽しく拝見してます。
日々それなりに楽しく過ごしておりますが、なにか心の片隅にぽっかりと穴があいているような満たされない思いを抱えていました。恋愛経験も少なくはないのですが、なにか足りない、そんな焦りのようなものを感じていたとき、たまたま「薬指」に出会いました。
まったくSMの世界を知らない私がそこに書かれていることを読んだとき、驚き、それでもどうしても目を逸らすことができず、いつしか私が求めていたものはこれなんじゃないかと思うようになりました。
実は、私はこの秋結婚を予定しています。
私を大切にしてくれるとても優しい人でその結婚自体は喜びでいっぱいなのですが、このまま、その世界を見ずに嫁いでしまったら後悔しそうで、今回の「感謝記念」に思い切って応募いたしました。
いつもセックスのときにどこか冷めてしまっています。
痛いことや汚いことには抵抗がありますが、追い詰められ無我夢中になってみたい、婚約者も知らないような私になってみたい、そんなふうに感じています。
よろしくお願いいたします。
7万件の感謝記念「那智があなたの願望叶えます」をアップした、数日後。
こんなメールが…。
来るはずなーい(笑)
那智さんと付き合って数年。
那智さんの「好み」は多少わかってるつもりです。
それを、集めてひとつのメールにしてみました。
冗談で、これを那智さんのアドレスに送ろうかと思いましたが、あとで10倍返しにされそうなので、やめました。
ここで披露するほうが、悪趣味?
さてさて、この空想メールは那智さんの好みと申しましたが、まあ、28才OLとかSMは経験ないけどとか夢中になってみたいとか、その辺りは「一般男子」のありがちな設定だとは思います。
実は、ここで一番重要な「那智さん萌えポイント」は、28才でも初心者でもないのです。(もちろん、それだって好みのひとつでしょうけどね)
結婚を控えた女性、なのです。
わたしが披露宴の司会をはじめて、すぐ。
「誰か、いない?」と聞いてくるくらいの、那智さんファンタジーなのです。
いるわけないじゃないですか!?
そう?Mっぽい子いるでしょ!?
いたとしても、わたしにどうしろと?お仕事キャンセルされちゃいますよ!!
そう?喜ばれないかな(笑)
こんな会話をなんどしたことか。
確かに「結婚を控えた女性」に出会う確率は、わたし、ものすごい高いけど、それは無理な話でしょ^^;
で、どうですか?
結婚を控え、幸せいっぱいのはずのわたしの心の隙間を埋めて、そして、その思い出を心に秘めて、わたしは嫁いでゆきます。
みたいな?
みなさんいろいろ好きな設定ってあると思いますけど。
「結婚前の女性」って、男性的には妄想ポイントなのでしょうか?
こんなこと書くと、あたしを含め既婚女性や、いまのところ結婚の予定がない女性から大ブーイングでしょうけど。
いえ、ほとんどの女性を敵に回すことになりますね、それくらいピンポイントの那智さん超ファンタジーということでお許しくださいませ。
なにせ、4○才結婚前でも可だというくらい、結婚前萌えらしいので^^;
あくまでも「萌えポイント」のお話なので、感謝記念の募集とはまったく関係ないこともお伝えしておきますね。
あ、それと、このステレオタイプのエロ小説的な感じにしか書けないわたしの技術のなさもお許しください^^;
で、わたしとしては、わかるようなわからないようななんですが。
結婚前の女性って、妄想ポイントになるのでしょうか?
はじめまして、私は28才のOLです。いつも楽しく拝見してます。
日々それなりに楽しく過ごしておりますが、なにか心の片隅にぽっかりと穴があいているような満たされない思いを抱えていました。恋愛経験も少なくはないのですが、なにか足りない、そんな焦りのようなものを感じていたとき、たまたま「薬指」に出会いました。
まったくSMの世界を知らない私がそこに書かれていることを読んだとき、驚き、それでもどうしても目を逸らすことができず、いつしか私が求めていたものはこれなんじゃないかと思うようになりました。
実は、私はこの秋結婚を予定しています。
私を大切にしてくれるとても優しい人でその結婚自体は喜びでいっぱいなのですが、このまま、その世界を見ずに嫁いでしまったら後悔しそうで、今回の「感謝記念」に思い切って応募いたしました。
いつもセックスのときにどこか冷めてしまっています。
痛いことや汚いことには抵抗がありますが、追い詰められ無我夢中になってみたい、婚約者も知らないような私になってみたい、そんなふうに感じています。
よろしくお願いいたします。
7万件の感謝記念「那智があなたの願望叶えます」をアップした、数日後。
こんなメールが…。
来るはずなーい(笑)
那智さんと付き合って数年。
那智さんの「好み」は多少わかってるつもりです。
それを、集めてひとつのメールにしてみました。
冗談で、これを那智さんのアドレスに送ろうかと思いましたが、あとで10倍返しにされそうなので、やめました。
ここで披露するほうが、悪趣味?
さてさて、この空想メールは那智さんの好みと申しましたが、まあ、28才OLとかSMは経験ないけどとか夢中になってみたいとか、その辺りは「一般男子」のありがちな設定だとは思います。
実は、ここで一番重要な「那智さん萌えポイント」は、28才でも初心者でもないのです。(もちろん、それだって好みのひとつでしょうけどね)
結婚を控えた女性、なのです。
わたしが披露宴の司会をはじめて、すぐ。
「誰か、いない?」と聞いてくるくらいの、那智さんファンタジーなのです。
いるわけないじゃないですか!?
そう?Mっぽい子いるでしょ!?
いたとしても、わたしにどうしろと?お仕事キャンセルされちゃいますよ!!
そう?喜ばれないかな(笑)
こんな会話をなんどしたことか。
確かに「結婚を控えた女性」に出会う確率は、わたし、ものすごい高いけど、それは無理な話でしょ^^;
で、どうですか?
結婚を控え、幸せいっぱいのはずのわたしの心の隙間を埋めて、そして、その思い出を心に秘めて、わたしは嫁いでゆきます。
みたいな?
みなさんいろいろ好きな設定ってあると思いますけど。
「結婚前の女性」って、男性的には妄想ポイントなのでしょうか?
こんなこと書くと、あたしを含め既婚女性や、いまのところ結婚の予定がない女性から大ブーイングでしょうけど。
いえ、ほとんどの女性を敵に回すことになりますね、それくらいピンポイントの那智さん超ファンタジーということでお許しくださいませ。
なにせ、4○才結婚前でも可だというくらい、結婚前萌えらしいので^^;
あくまでも「萌えポイント」のお話なので、感謝記念の募集とはまったく関係ないこともお伝えしておきますね。
あ、それと、このステレオタイプのエロ小説的な感じにしか書けないわたしの技術のなさもお許しください^^;
で、わたしとしては、わかるようなわからないようななんですが。
結婚前の女性って、妄想ポイントになるのでしょうか?