お父さん3
惹かれ合う理由
父の手術は予定の倍以上の7時間もかかった。
待合室で待つその時間は、一瞬にも永遠にも感じられた。
ストレッチャーに乗って出てきた父の意識は朦朧としていたが、母と私は駆け寄り「よく頑張ったね」と涙ながらに父の手を握る。
「目に見える悪い物は全部取った。ただ、胃の切り口の所が炎症を起こしていて、上手い具合にくっつかないかもしれない。その炎症が悪化することだけ心配だ。」
再発の可能性は高いらしい、でも、これで、少しずつ訓練すれば食べ物も口にできる、先生は苦笑いしていたけれど、お酒だって飲めるはずだ(もどしてしまうことも多いらしいけど)
このあたりで、私たち家族の考え方が少し少数派なのかもしれないと思いはじめていた。
父に早く死んでほしいわけじゃない、だけど、奔放な父から自由を奪い、制限だらけの生活を送らせたいとは思えないのだ。
いつも父は言っていた「酒や煙草で寿命を縮めてもかまわない。酒を飲まないで生きているなんていやだ。」だから、私たちは、父の癌が治って長生きしてほしいという希望は当然あるけど、同じくらいに「好きなことをさせてあげたい」とも思うのだ。
「お酒を飲ませてあげたい」と言う度に医師や看護士、親戚から驚いたようにされてしまうのだ。
そして、病院が大嫌いな父の体を切ったことに、胸が潰れるほどの苦しさを覚えてしまうのだ。
治すことよりも、父の精神的肉体的苦痛をできる限り軽くすることに神経を注ぐのは、少数派のようなのだ。
それでも、「目に見える悪い物は取った」あとは食事の訓練と抜糸とで、2週間ほどで退院できるはずだ。
医師に説明されていた一通りの筋書きが、もろくも崩れていったのは術後翌日のことだった。
翌日の夜、姉から電話が来た。
「お父さんの様子がおかしいらしい。」
その日、母が一日付き添っていたから様子を聞こうと連絡を取ったら、めずらしく母がとても動揺していたのだ。
「手術の前、一週間ほど手術と検査のために食事を取っていなかった、点滴で栄養を摂っていたから問題ないのだが、口から物を取らないとナトリウム不足になって、一時的に痴呆の状態になるらしい。点滴にナトリウムを加えたからいずれ改善するらしいから、お母さんは黙っていようと思ったけど、あんまり酷いので不安になっていたところに私(姉)が電話したから、話してくれたの。お母さんらしいよね、何でも抱え込む。だから、明日昼間私が代わりに行くからりん子は明後日行って。」
暴れて車椅子に拘束されて「何か変なんだよ!!」と大騒ぎする父を一日中不安な思いでなだめていた母、心配させまいと娘に黙っていようとした母を思うと、「私たちを頼りなさい」と苦しさを通り越して、怒りに似た感情が沸き上がる。
「お母さんは、抱え込むから、私たちがちゃんと見ていないと、お母さんまで倒れちゃう。」
姉の言うとおりだ。
翌日、姉が日中は見ている番だったが、ずっと1人は大変だろうと、カンフル剤になればと私も様子を見に行く。
大変なことは、1人より2人の方が乗り越えられる。
車椅子に座って手を縛られた父に、姉が一生懸命話しかけている。
すぐうとうとしてしまうから、寝かせてはいけないと看護士に言われているらしい。(夜寝られないから?呆け回復?)
父は本当に朦朧としていた。
ここがどこで、なぜ縛られているのかもわからない状態。
ろれつが回らず、とても眠そうだ。
そして、眠そうな父を起こすことも、なんだか不憫になってしまう。
「お父さん、りん子が来たよ!!」姉が、話しかける。
「おう、りん子か~、なお(仮名)はどうした~(こんな状態でも孫命♪)」
「家にいるよ!!」
「そうか~、なんかこれが取れないんだよ~」(手の拘束のこと)
そんな切ない会話をしていると、そばを通った看護士さんが私を見て「あなたがりん子さん?」と聞いてくる。
頷くと、「お父さん、一晩中あなたの名前を呼んでたわよ。 『りん子~~』『りん子、煙草買ってこーい』って」と昨夜の父の大騒ぎ振りを教えてくれた。
ああ、もうこれで充分だ。
不謹慎だが、私は喜んでしまった。
いつも父は私を使いっ走りにしていた。
煙草を買いにいくのも、お酒のお代わりを作るのも、氷を足すのも。
呆けた状態でも父が欲した物を取りそろえるのは私の役目だったみたいだ。
そんな役回りでも、父が私の名前を大声で呼んでいた事実。
それだけで満足だ。
那智さんからたくさんもらった、だから、その事実だけでもう私は充分だ。
30数年間、埋められずにいたものを那智さんに埋めてもらって、「私の名を呼び私を頼ったという事実」でしっかりと蓋をして、きれいにならして、私の心は真っ平らになった。
わあ、まだ終わりません。
重たい話ですよね、それでも良いと思ってくださる方がいらっしゃるなら、もう少しお付き合いください。
父の手術は予定の倍以上の7時間もかかった。
待合室で待つその時間は、一瞬にも永遠にも感じられた。
ストレッチャーに乗って出てきた父の意識は朦朧としていたが、母と私は駆け寄り「よく頑張ったね」と涙ながらに父の手を握る。
「目に見える悪い物は全部取った。ただ、胃の切り口の所が炎症を起こしていて、上手い具合にくっつかないかもしれない。その炎症が悪化することだけ心配だ。」
再発の可能性は高いらしい、でも、これで、少しずつ訓練すれば食べ物も口にできる、先生は苦笑いしていたけれど、お酒だって飲めるはずだ(もどしてしまうことも多いらしいけど)
このあたりで、私たち家族の考え方が少し少数派なのかもしれないと思いはじめていた。
父に早く死んでほしいわけじゃない、だけど、奔放な父から自由を奪い、制限だらけの生活を送らせたいとは思えないのだ。
いつも父は言っていた「酒や煙草で寿命を縮めてもかまわない。酒を飲まないで生きているなんていやだ。」だから、私たちは、父の癌が治って長生きしてほしいという希望は当然あるけど、同じくらいに「好きなことをさせてあげたい」とも思うのだ。
「お酒を飲ませてあげたい」と言う度に医師や看護士、親戚から驚いたようにされてしまうのだ。
そして、病院が大嫌いな父の体を切ったことに、胸が潰れるほどの苦しさを覚えてしまうのだ。
治すことよりも、父の精神的肉体的苦痛をできる限り軽くすることに神経を注ぐのは、少数派のようなのだ。
それでも、「目に見える悪い物は取った」あとは食事の訓練と抜糸とで、2週間ほどで退院できるはずだ。
医師に説明されていた一通りの筋書きが、もろくも崩れていったのは術後翌日のことだった。
翌日の夜、姉から電話が来た。
「お父さんの様子がおかしいらしい。」
その日、母が一日付き添っていたから様子を聞こうと連絡を取ったら、めずらしく母がとても動揺していたのだ。
「手術の前、一週間ほど手術と検査のために食事を取っていなかった、点滴で栄養を摂っていたから問題ないのだが、口から物を取らないとナトリウム不足になって、一時的に痴呆の状態になるらしい。点滴にナトリウムを加えたからいずれ改善するらしいから、お母さんは黙っていようと思ったけど、あんまり酷いので不安になっていたところに私(姉)が電話したから、話してくれたの。お母さんらしいよね、何でも抱え込む。だから、明日昼間私が代わりに行くからりん子は明後日行って。」
暴れて車椅子に拘束されて「何か変なんだよ!!」と大騒ぎする父を一日中不安な思いでなだめていた母、心配させまいと娘に黙っていようとした母を思うと、「私たちを頼りなさい」と苦しさを通り越して、怒りに似た感情が沸き上がる。
「お母さんは、抱え込むから、私たちがちゃんと見ていないと、お母さんまで倒れちゃう。」
姉の言うとおりだ。
翌日、姉が日中は見ている番だったが、ずっと1人は大変だろうと、カンフル剤になればと私も様子を見に行く。
大変なことは、1人より2人の方が乗り越えられる。
車椅子に座って手を縛られた父に、姉が一生懸命話しかけている。
すぐうとうとしてしまうから、寝かせてはいけないと看護士に言われているらしい。(夜寝られないから?呆け回復?)
父は本当に朦朧としていた。
ここがどこで、なぜ縛られているのかもわからない状態。
ろれつが回らず、とても眠そうだ。
そして、眠そうな父を起こすことも、なんだか不憫になってしまう。
「お父さん、りん子が来たよ!!」姉が、話しかける。
「おう、りん子か~、なお(仮名)はどうした~(こんな状態でも孫命♪)」
「家にいるよ!!」
「そうか~、なんかこれが取れないんだよ~」(手の拘束のこと)
そんな切ない会話をしていると、そばを通った看護士さんが私を見て「あなたがりん子さん?」と聞いてくる。
頷くと、「お父さん、一晩中あなたの名前を呼んでたわよ。 『りん子~~』『りん子、煙草買ってこーい』って」と昨夜の父の大騒ぎ振りを教えてくれた。
ああ、もうこれで充分だ。
不謹慎だが、私は喜んでしまった。
いつも父は私を使いっ走りにしていた。
煙草を買いにいくのも、お酒のお代わりを作るのも、氷を足すのも。
呆けた状態でも父が欲した物を取りそろえるのは私の役目だったみたいだ。
そんな役回りでも、父が私の名前を大声で呼んでいた事実。
それだけで満足だ。
那智さんからたくさんもらった、だから、その事実だけでもう私は充分だ。
30数年間、埋められずにいたものを那智さんに埋めてもらって、「私の名を呼び私を頼ったという事実」でしっかりと蓋をして、きれいにならして、私の心は真っ平らになった。
わあ、まだ終わりません。
重たい話ですよね、それでも良いと思ってくださる方がいらっしゃるなら、もう少しお付き合いください。
お父さん4
惹かれ合う理由
父の容態はそれから急降下、思いもよらぬことになっていく。
子供を寝かせた21時過ぎ、母から電話が掛かってきた。
「いま病院から連絡が来て、お父さん大変なことになっているらしい。いまから行くからおまえも来て。」
姉にも連絡はしているようだ。
私は、帰りの遅い主人をあてにするわけにはいかず、子供をどうしようかと逡巡する。
寝室に入ると、まだ寝入っていなかったので、率直に聞いてみる。
「おじいちゃんの病院に行くけど、なおは一緒に行く?それともお留守番できる?」
子供は一緒に行くことを望んだので、タクシーを飛ばして急いで向かう。
到着すると、顔面蒼白の母がいた、しっかりしなければ。
父はナースステーションに隣接した処置室で、ベッドに拘束されて苦しそうにもがいている。
私には気付かない、しかし、なおが側に行くと、一瞬いつもの父の表情になって、声にならない声で「おう」と言って僅かに表情を崩すのがわかった。
若い担当医の話をまとめるとこうだ(ちょっと忘れてるかも)
「やはり胃の切断面の炎症が悪化して、雑菌が肺に入って肺炎を起こしたらしい。ヘビースモカーだったことも悪影響のようだ。肺に水が溜まり、雑菌混じりの悪い水が体全体に回っている(確かに手足がむくんでいる)。方法はいくつかある。ひとつは、今から緊急手術をして体を切り悪い水を全部出す。ふたつめは、体に管を刺す。そこから水を抜く。どれをとっても生きる可能性は低い。」
「管を刺しても、水の量が多いし悪いから、残念ながら生きる可能性は低い。ただ、苦しみは軽減される。そして、もうひとつそれと共に、人工呼吸器をつけるか。」
生存の可能性が低いなら、もう父の体を切りたくはない。
そんなこと、父が大嫌いなだって、私たちは知っている。
悪いところがあっても知らないほうがいいと健康診断なんか無縁な人で、触ってわかるほど癌を放置してきた父、それが父の望みなのだ。
好きなことだけして、闘病なんかしないで、苦しまずにぽっくり逝きたい、ずっとそう言っていた父の意思表示だ。
私たちは、まず手術は拒否した。
執刀する気満々で出勤してきた年配の主治医が、驚いたような拍子抜けしたような様子だ。
本当は、もう父に注射一本だって刺したくない。
でも、苦しさが軽くなるなら、管はやむを得ない。
人工呼吸器の判断もしなければならない。
付けなければ、2、3日で苦しみながら死ぬ。
付ければ、苦しまずに1週間で死ぬ。
この選択を迫られた。
この段階で、私は子供を連れて家に戻った。
明日も学校に行く子供を、私の母が気遣って話し合いにならなくなりそうだったからだ。
判断は、任せた。
翌日、人工呼吸器を喉にねじ込まれ、ICUにいる父に会いに行った。
管や点滴やいろんなもの刺されて、機械に囲まれて眠っている。
鎮静剤で眠っている。
全身がパンパンに浮腫んでいる父を見るなり、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
かわいそなお父さん。
ごめんね、そんな思いさせちゃって、立ち上がって父の顔を覗き込む。
機械の呼吸は力強く、お父さんに無理をさせているようで、腹が立つ。
私は心の中で、父に話しかける。
「お父さん、私ね、好きな人がいるんだ。その人は私を愛してくれている、お父さんがくれなかったものをくれているよ。だから、私は幸せなんだ・・・違うね、本当は私もお父さんに愛されていたんだよね。ただ、その方法が間違っていただけなんだよね。そう思えるのもその人のお陰かな。」
基本的にICUにいられる時間は15分。
私は、後ろ髪を引かれる思いで、ICUを後にした。
それから、父は40日間ICUにいた。
その間、二度呼び出され「もう今晩が峠」と告げられる。
それなのに、医師も「ミラクル」と言ってしまうほど、その都度父は回復するのだ。
(ちょっと駆け足)
ほとんど毎日のように病院に行った。
行かれない日は、連絡を取り合い、報告をした。
その間、姉といろんな対策を検討した。
筋力が落ちて寝たきりは確実と言われていたからその対策、ホスピスや緩和ケア、今後延命治療拒否の方法。
様々な医療関係、弁護士など。
このまま今の病院に任せるしか道はないと結論付けられるまで、可能性をひとつひとつ消していった。
とにかく、いまはICUから出て退院させることが第一。
奇跡のように、父は回復した。
本人は手術の記憶もない、事故か何かで入院したと思っていた。
呼吸器と痰を吸い取るために気管切開して声が出せず、耳にも水が溜まって聞こえにくい父と、筆談で言葉を交わし、なんとか現状を伝えた。
病は気からとはよく言ったもので、重病の自覚のない父の回復はめざましく、寝たきりは必至と言われていたにもかかわらず、最終的には歩けるまでになって、3ヶ月の入院生活を終え、大好きな家に帰れることになったのだ。
退院したその日に、缶のチューハイを美味しそうに飲む父を見て、涙が止まらなかった。
大好きなお酒と夏の高校野球を観て過ごした夏だった。
それから、2ヶ月後、結局取り切れていなかった癌は物凄い勢いで増殖し、父のお腹に穴を開け、再入院になった。
父の容態はそれから急降下、思いもよらぬことになっていく。
子供を寝かせた21時過ぎ、母から電話が掛かってきた。
「いま病院から連絡が来て、お父さん大変なことになっているらしい。いまから行くからおまえも来て。」
姉にも連絡はしているようだ。
私は、帰りの遅い主人をあてにするわけにはいかず、子供をどうしようかと逡巡する。
寝室に入ると、まだ寝入っていなかったので、率直に聞いてみる。
「おじいちゃんの病院に行くけど、なおは一緒に行く?それともお留守番できる?」
子供は一緒に行くことを望んだので、タクシーを飛ばして急いで向かう。
到着すると、顔面蒼白の母がいた、しっかりしなければ。
父はナースステーションに隣接した処置室で、ベッドに拘束されて苦しそうにもがいている。
私には気付かない、しかし、なおが側に行くと、一瞬いつもの父の表情になって、声にならない声で「おう」と言って僅かに表情を崩すのがわかった。
若い担当医の話をまとめるとこうだ(ちょっと忘れてるかも)
「やはり胃の切断面の炎症が悪化して、雑菌が肺に入って肺炎を起こしたらしい。ヘビースモカーだったことも悪影響のようだ。肺に水が溜まり、雑菌混じりの悪い水が体全体に回っている(確かに手足がむくんでいる)。方法はいくつかある。ひとつは、今から緊急手術をして体を切り悪い水を全部出す。ふたつめは、体に管を刺す。そこから水を抜く。どれをとっても生きる可能性は低い。」
「管を刺しても、水の量が多いし悪いから、残念ながら生きる可能性は低い。ただ、苦しみは軽減される。そして、もうひとつそれと共に、人工呼吸器をつけるか。」
生存の可能性が低いなら、もう父の体を切りたくはない。
そんなこと、父が大嫌いなだって、私たちは知っている。
悪いところがあっても知らないほうがいいと健康診断なんか無縁な人で、触ってわかるほど癌を放置してきた父、それが父の望みなのだ。
好きなことだけして、闘病なんかしないで、苦しまずにぽっくり逝きたい、ずっとそう言っていた父の意思表示だ。
私たちは、まず手術は拒否した。
執刀する気満々で出勤してきた年配の主治医が、驚いたような拍子抜けしたような様子だ。
本当は、もう父に注射一本だって刺したくない。
でも、苦しさが軽くなるなら、管はやむを得ない。
人工呼吸器の判断もしなければならない。
付けなければ、2、3日で苦しみながら死ぬ。
付ければ、苦しまずに1週間で死ぬ。
この選択を迫られた。
この段階で、私は子供を連れて家に戻った。
明日も学校に行く子供を、私の母が気遣って話し合いにならなくなりそうだったからだ。
判断は、任せた。
翌日、人工呼吸器を喉にねじ込まれ、ICUにいる父に会いに行った。
管や点滴やいろんなもの刺されて、機械に囲まれて眠っている。
鎮静剤で眠っている。
全身がパンパンに浮腫んでいる父を見るなり、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
かわいそなお父さん。
ごめんね、そんな思いさせちゃって、立ち上がって父の顔を覗き込む。
機械の呼吸は力強く、お父さんに無理をさせているようで、腹が立つ。
私は心の中で、父に話しかける。
「お父さん、私ね、好きな人がいるんだ。その人は私を愛してくれている、お父さんがくれなかったものをくれているよ。だから、私は幸せなんだ・・・違うね、本当は私もお父さんに愛されていたんだよね。ただ、その方法が間違っていただけなんだよね。そう思えるのもその人のお陰かな。」
基本的にICUにいられる時間は15分。
私は、後ろ髪を引かれる思いで、ICUを後にした。
それから、父は40日間ICUにいた。
その間、二度呼び出され「もう今晩が峠」と告げられる。
それなのに、医師も「ミラクル」と言ってしまうほど、その都度父は回復するのだ。
(ちょっと駆け足)
ほとんど毎日のように病院に行った。
行かれない日は、連絡を取り合い、報告をした。
その間、姉といろんな対策を検討した。
筋力が落ちて寝たきりは確実と言われていたからその対策、ホスピスや緩和ケア、今後延命治療拒否の方法。
様々な医療関係、弁護士など。
このまま今の病院に任せるしか道はないと結論付けられるまで、可能性をひとつひとつ消していった。
とにかく、いまはICUから出て退院させることが第一。
奇跡のように、父は回復した。
本人は手術の記憶もない、事故か何かで入院したと思っていた。
呼吸器と痰を吸い取るために気管切開して声が出せず、耳にも水が溜まって聞こえにくい父と、筆談で言葉を交わし、なんとか現状を伝えた。
病は気からとはよく言ったもので、重病の自覚のない父の回復はめざましく、寝たきりは必至と言われていたにもかかわらず、最終的には歩けるまでになって、3ヶ月の入院生活を終え、大好きな家に帰れることになったのだ。
退院したその日に、缶のチューハイを美味しそうに飲む父を見て、涙が止まらなかった。
大好きなお酒と夏の高校野球を観て過ごした夏だった。
それから、2ヶ月後、結局取り切れていなかった癌は物凄い勢いで増殖し、父のお腹に穴を開け、再入院になった。
お父さん5
惹かれ合う理由
そんなこと信じられるだろうか。
内臓を蝕んでいた癌が増殖してお腹の肉にも付着して、更に肉をも食いあさり皮膚に穴を開けるなんて。
退院してしばらくは散歩をしたりできていた父だが、やはり日に日に元気がなくなっていく、日中は高校野球を観て、お風呂に入り、お酒を飲んで眠る。
一日のほとんどを憂鬱な表情を浮かべて、布団と座椅子で過ごすようになっていった。
表情を和らげるのは、孫を見たときくらいだ。
それでも、私たちが危惧していたような、わがままや八つ当たりなどはほとんどなく、人が変わったように静かな父になっていた。
すべてを理解して覚悟を決めたのか、わがままを言う気力もなかったのか、それはわからない。
翌日に検査を控えた夜中、母から電話が来た。
「お父さんの、お腹から何かが出ている。」
膿のような色の付いた液体が出ていると言うのだ。
「傷口が化膿して膿が出たのかもしれない、明日検査で行くのだけれど、それも先生に見てもらうから一緒に来て」ということだ。
てっきり膿だと思っていた、それは消化液だったのだ。
どおりで後から後から出てくるはずだ。
癌の奴は、文字通り父の体を蝕んだのだ。
その場で再入院になった。
もう一度、入院しないといけないことを、耳の遠くなった父の耳元で大きな声で伝える。
胸が潰れそうなほどつらい。
でも、私が悲壮感を出してはいけない、父を不安にさせてはいけない、冷静に明るめのトーンで伝える。
耳が聞こえにくくなっているから、どこまで理解できているかはわからない。
不安とも諦めとも、取れる表情だ。
おそらくもう家には帰れないだろう。
私は、無理矢理にでも父をタクシーに乗せ、一旦帰宅して冷蔵庫にある缶チューハイを飲ませたい。
もう二度と飲めないかもしれない、お酒をせめてまだ喉を通るうちに。
「即入院」になるとわかっていたら、朝から飲ませてやったのに、本当に悔やまれた。
退院してから、父に書いてもらった「延命治療拒否」の紙を医師に渡す。(これがないと本当に家族はなにも意見できない。これを書いてもらうときも苦しかった)
私と姉は、若い誠実な医師に何度となく話しをさせてもらった。
父が「痛いことも苦しいことも嫌で、それを緩和することだけしてください。」
何度も訴えた。
子供を産んだばかりの母猫のように、「誰も私の父に勝手なことをするな」と言わんばかりの訴えぶりだ。
それでも、まだ再入院の4、5日は比較的元気だった。
意識が混濁するときもあるようだけど、喫煙所に行って煙草を吸ったりもできた。
せめて、今のうちに一時外出の許可を得て、大好きだったあの公園を見せてやりたい、タクシーの中から眺めるだけでもと思い、父に聞いてみる。
「俺は体がえらいことになっているから、ここを出るのは恐い、だから、行かないでもいいよ。それよりつらくないようにだけしてくれ。早く逝ってもいいから。」
この時点で、もうモルヒネを打って意識を朦朧としてあげられないか、もう可哀想だ。
そんな相談を若い医師にすると、「それは殺人ですよ。」と言われてしまった。
まだか、まだ父を楽にはしてあげられないのか。
入院も10日を過ぎたあたりから、もう父は意識は混濁してまともな会話もできなくなっていた。
ここがどこで、自分がなにをしているのか、わからないようだ。
私たちは、可能な限り毎日通った。
無意識に点滴の針を抜いてしまう父の両手は緩やかに拘束されている。
父は寝るときはいつも、手をお腹の上に組んでいる。
拘束されているからそれができない、たかがそれだけでも父がつらいのはいやだから、私がいる数時間は拘束と解いてあげた。
そうすると、すぐに手をお腹の上に乗せて組むんだ。
そうだよね、お父さんこれが好きだよね。
私は、拘束していた包帯の先を握り、点滴を抜かないように気を付けながら、でも、いつもの寝方の父を見て何だかホッとしてベッドに突っ伏してウトウトする。
それでもやはり何とも点滴の針を抜き差しするのは避けたいと、埋め込み式(?)の点滴をすることになった。
そのとき打った鎮静剤のショックで父の心臓は止まってしまったのだ。
緊急に蘇生処置が行われて、一命を取り留めた、でも、もう意識は戻らないだろうと、この時点で病院から連絡がきた。
「延命治療拒否」は通じないのか。
なぜ父を苦痛から解放してくれないのだろう。
おかしいだろうか、私たちは心臓マッサージをした医師に食ってかかった。
なぜ生かす。
一度心臓が止まって、蘇生しても意識が戻ることがなく、癌にお腹に穴を開けられた、苦痛が大嫌いな父をなぜまだ生かすのか。
いましている点滴は「高タンパク高カロリー」のものだ。
これは意味がない、もう死を待つしかない人にそれは必要ない。
ただ、その日を数日先に延ばすだけだ。
点滴は「最低限必要な水分」に変えてもらう。
そして、モルヒネのランクを上げてもらう。
意識は戻らないと言われたのに、父は苦しそうに体をよじるのだ。
モルヒネを強くすると、確実に死期は早まる、それでいいんだ。
モルヒネのランクを上げた翌日、父は母と姉が見守るなか死んでいった。
私はその時、那智さんと一緒にいた。
その時期、那智さんの仕事の都合でランチデートしかできなくて、一年ぶりくらいにデートできたのだ。
那智さんに抱かれているときに、携帯が鳴って、あたふた(笑)していたら(だって、あんな状態で、電話取れないわ♪)、電話が切れた。
留守電の動揺した母の声が、父の死を知らせていた。
那智さんが言っていた。
お通夜や告別式に参列する意味。
「顔を見せて安心してもらう、あなたには私が付いていると励ます意味と、この先の人生も関わっていきますよという意思表明」
これに基づいて、那智さんは父のお通夜に参列してくれた。
お通夜の日、私は披露宴の仕事だった。
精一杯祝福して、仕事をやり遂げた。
那智さんは披露宴会場に迎えにきてくれた。
一緒に電車に乗って、葬儀場の最寄り駅で別れて、私は急いで葬儀場へ向かう。
不倫相手が、父の通夜に参列する。
普通は考えにくいことだろう。
ここで是非は問いたくない。
ただ、私は救われた。(のちに「○○市の○○那智って誰!?と軽い事件になってしまったけど 笑)
通夜を終え、一息付いた私と姉は静かな斎場の父の眠る棺に寄り添う。
父は穏やかな顔をしている。
この半年、ずっとつらい表情ばかり見ていたから、穏やかな父は嬉しい。
姉が父に聞く。
「お父さん、これで良かったんだよね?」
私が笑いながら答える。
「なんでもっと早く逝かせなかったって、文句言ってるんじゃない。」
姉が、また父に話しかける。
「お父さん、私たちすごく頑張ったんだよ~。」
「そうだよ、お父さんのためにすごい頑張ったんだから!」
私も同調して、2人で涙を流す。
姉一家は帰った。
誰か斎場に泊まらないといけないから、私たちが残る(最近は長いお線香があるから、起きていなくていいのだけどね)。
なんだか、父から離れがたくて、私はまだ棺を覗き込んでいる。
死んでいる人なのに、ちっとも恐いなんて思わない、むしろ愛おしい。
やるだけのことはやったから、悔いはない。
亡くなる前日も前々日の付き添っていたから、死に際に会えなくても悔いはない。
大好きなお母さんとおねえちゃんに見守られながらで、淋しくなくてよかったね、お父さん。
お父さんは、おねえちゃんが大好きだった。
ただそれだけだ。
私よりも好きだった、それだけだ。
だから、いまは「おねえちゃんよりも可愛いって言ってほしかった」なんて思わない。
だって、私には「一番可愛い」と言ってくれる人がちゃんといるんだもの。
そう思わずにすんで、穏やかな気持ちで父の死に顔を見ることができている。
風のない海のようだ。
静かで、穏やかで、とてもきれいな気持ちだ。
一点の曇りもなく、平らな気持ちが気持ち良くて、いつまでもお父さんの顔を眺めていた。
そんなこと信じられるだろうか。
内臓を蝕んでいた癌が増殖してお腹の肉にも付着して、更に肉をも食いあさり皮膚に穴を開けるなんて。
退院してしばらくは散歩をしたりできていた父だが、やはり日に日に元気がなくなっていく、日中は高校野球を観て、お風呂に入り、お酒を飲んで眠る。
一日のほとんどを憂鬱な表情を浮かべて、布団と座椅子で過ごすようになっていった。
表情を和らげるのは、孫を見たときくらいだ。
それでも、私たちが危惧していたような、わがままや八つ当たりなどはほとんどなく、人が変わったように静かな父になっていた。
すべてを理解して覚悟を決めたのか、わがままを言う気力もなかったのか、それはわからない。
翌日に検査を控えた夜中、母から電話が来た。
「お父さんの、お腹から何かが出ている。」
膿のような色の付いた液体が出ていると言うのだ。
「傷口が化膿して膿が出たのかもしれない、明日検査で行くのだけれど、それも先生に見てもらうから一緒に来て」ということだ。
てっきり膿だと思っていた、それは消化液だったのだ。
どおりで後から後から出てくるはずだ。
癌の奴は、文字通り父の体を蝕んだのだ。
その場で再入院になった。
もう一度、入院しないといけないことを、耳の遠くなった父の耳元で大きな声で伝える。
胸が潰れそうなほどつらい。
でも、私が悲壮感を出してはいけない、父を不安にさせてはいけない、冷静に明るめのトーンで伝える。
耳が聞こえにくくなっているから、どこまで理解できているかはわからない。
不安とも諦めとも、取れる表情だ。
おそらくもう家には帰れないだろう。
私は、無理矢理にでも父をタクシーに乗せ、一旦帰宅して冷蔵庫にある缶チューハイを飲ませたい。
もう二度と飲めないかもしれない、お酒をせめてまだ喉を通るうちに。
「即入院」になるとわかっていたら、朝から飲ませてやったのに、本当に悔やまれた。
退院してから、父に書いてもらった「延命治療拒否」の紙を医師に渡す。(これがないと本当に家族はなにも意見できない。これを書いてもらうときも苦しかった)
私と姉は、若い誠実な医師に何度となく話しをさせてもらった。
父が「痛いことも苦しいことも嫌で、それを緩和することだけしてください。」
何度も訴えた。
子供を産んだばかりの母猫のように、「誰も私の父に勝手なことをするな」と言わんばかりの訴えぶりだ。
それでも、まだ再入院の4、5日は比較的元気だった。
意識が混濁するときもあるようだけど、喫煙所に行って煙草を吸ったりもできた。
せめて、今のうちに一時外出の許可を得て、大好きだったあの公園を見せてやりたい、タクシーの中から眺めるだけでもと思い、父に聞いてみる。
「俺は体がえらいことになっているから、ここを出るのは恐い、だから、行かないでもいいよ。それよりつらくないようにだけしてくれ。早く逝ってもいいから。」
この時点で、もうモルヒネを打って意識を朦朧としてあげられないか、もう可哀想だ。
そんな相談を若い医師にすると、「それは殺人ですよ。」と言われてしまった。
まだか、まだ父を楽にはしてあげられないのか。
入院も10日を過ぎたあたりから、もう父は意識は混濁してまともな会話もできなくなっていた。
ここがどこで、自分がなにをしているのか、わからないようだ。
私たちは、可能な限り毎日通った。
無意識に点滴の針を抜いてしまう父の両手は緩やかに拘束されている。
父は寝るときはいつも、手をお腹の上に組んでいる。
拘束されているからそれができない、たかがそれだけでも父がつらいのはいやだから、私がいる数時間は拘束と解いてあげた。
そうすると、すぐに手をお腹の上に乗せて組むんだ。
そうだよね、お父さんこれが好きだよね。
私は、拘束していた包帯の先を握り、点滴を抜かないように気を付けながら、でも、いつもの寝方の父を見て何だかホッとしてベッドに突っ伏してウトウトする。
それでもやはり何とも点滴の針を抜き差しするのは避けたいと、埋め込み式(?)の点滴をすることになった。
そのとき打った鎮静剤のショックで父の心臓は止まってしまったのだ。
緊急に蘇生処置が行われて、一命を取り留めた、でも、もう意識は戻らないだろうと、この時点で病院から連絡がきた。
「延命治療拒否」は通じないのか。
なぜ父を苦痛から解放してくれないのだろう。
おかしいだろうか、私たちは心臓マッサージをした医師に食ってかかった。
なぜ生かす。
一度心臓が止まって、蘇生しても意識が戻ることがなく、癌にお腹に穴を開けられた、苦痛が大嫌いな父をなぜまだ生かすのか。
いましている点滴は「高タンパク高カロリー」のものだ。
これは意味がない、もう死を待つしかない人にそれは必要ない。
ただ、その日を数日先に延ばすだけだ。
点滴は「最低限必要な水分」に変えてもらう。
そして、モルヒネのランクを上げてもらう。
意識は戻らないと言われたのに、父は苦しそうに体をよじるのだ。
モルヒネを強くすると、確実に死期は早まる、それでいいんだ。
モルヒネのランクを上げた翌日、父は母と姉が見守るなか死んでいった。
私はその時、那智さんと一緒にいた。
その時期、那智さんの仕事の都合でランチデートしかできなくて、一年ぶりくらいにデートできたのだ。
那智さんに抱かれているときに、携帯が鳴って、あたふた(笑)していたら(だって、あんな状態で、電話取れないわ♪)、電話が切れた。
留守電の動揺した母の声が、父の死を知らせていた。
那智さんが言っていた。
お通夜や告別式に参列する意味。
「顔を見せて安心してもらう、あなたには私が付いていると励ます意味と、この先の人生も関わっていきますよという意思表明」
これに基づいて、那智さんは父のお通夜に参列してくれた。
お通夜の日、私は披露宴の仕事だった。
精一杯祝福して、仕事をやり遂げた。
那智さんは披露宴会場に迎えにきてくれた。
一緒に電車に乗って、葬儀場の最寄り駅で別れて、私は急いで葬儀場へ向かう。
不倫相手が、父の通夜に参列する。
普通は考えにくいことだろう。
ここで是非は問いたくない。
ただ、私は救われた。(のちに「○○市の○○那智って誰!?と軽い事件になってしまったけど 笑)
通夜を終え、一息付いた私と姉は静かな斎場の父の眠る棺に寄り添う。
父は穏やかな顔をしている。
この半年、ずっとつらい表情ばかり見ていたから、穏やかな父は嬉しい。
姉が父に聞く。
「お父さん、これで良かったんだよね?」
私が笑いながら答える。
「なんでもっと早く逝かせなかったって、文句言ってるんじゃない。」
姉が、また父に話しかける。
「お父さん、私たちすごく頑張ったんだよ~。」
「そうだよ、お父さんのためにすごい頑張ったんだから!」
私も同調して、2人で涙を流す。
姉一家は帰った。
誰か斎場に泊まらないといけないから、私たちが残る(最近は長いお線香があるから、起きていなくていいのだけどね)。
なんだか、父から離れがたくて、私はまだ棺を覗き込んでいる。
死んでいる人なのに、ちっとも恐いなんて思わない、むしろ愛おしい。
やるだけのことはやったから、悔いはない。
亡くなる前日も前々日の付き添っていたから、死に際に会えなくても悔いはない。
大好きなお母さんとおねえちゃんに見守られながらで、淋しくなくてよかったね、お父さん。
お父さんは、おねえちゃんが大好きだった。
ただそれだけだ。
私よりも好きだった、それだけだ。
だから、いまは「おねえちゃんよりも可愛いって言ってほしかった」なんて思わない。
だって、私には「一番可愛い」と言ってくれる人がちゃんといるんだもの。
そう思わずにすんで、穏やかな気持ちで父の死に顔を見ることができている。
風のない海のようだ。
静かで、穏やかで、とてもきれいな気持ちだ。
一点の曇りもなく、平らな気持ちが気持ち良くて、いつまでもお父さんの顔を眺めていた。
市中引き回しの刑の前のお話
非日常的な日常
人に見られるかもしれない、でも、見られないかもしれないという状況で、とんでもなく凄いことをすることと、人がたくさんいるところで凄いことではないけれど、普通じゃないことをすること。
どちらかを選べと言われたら、どちらを選ぶでしょうか?
ええっと、私は両方したんですけどね。
まずは、ひとつめの「凄いことを人目のなさそうなところでする」
その公園はとても広い。
いくつもある池には大きな鯉がたくさんいて、芝生はきれいに整備されている。
木の生い茂ったところは、ひんやりと涼しい。
さっきまで雨が降っていたから、人の出足も遅く、人気は少ない。
今日の私のお洋服は、旅行の時に買った、前が全部ボタンのワンピース。
黒いロングブーツを履いている。
ワンピースの下は、すぐに下着ではなくて、もう一枚纏っているのだ。
全身網タイツ。
つま先から私の足を包んだそのタイツは、ウエストよりもっと上に伸び、私の胸や肩、腕まで覆い手首で切れている。
私の首から上と手首から先以外は全部網タイツ。
もうひとつだけ肌が露出しているところがある。
排泄ができるようにか、いつでも遊べるようにか、わからないが下腹部が丸くくり抜いてある。
その下にブラ、パンツはタイツの上、だって、トイレに行って下着を下ろすのに全身脱がないといけなくなってしまうもの。
そんな、とても恥ずかしい姿でお散歩をする。
ポツリポツリと人に出会うけど、場所によっては、視界に誰もいない空間がけっこうある。
那智さんが、トイレに立ち寄って、様子を伺っている。
辺りに人気はまったくない。
車椅子用のトイレのドアをスライドさせながら、手招きをして私を呼ぶ。
恐いけど、呼ばれるという事実だけでも嬉しくて、私は一緒にトイレに入る。
いいえ、それだけじゃない、那智さんがかまってくれることが想像できて嬉しいのだ。
トイレの中で、ワンピースのボタンを外される。
広げられて全身網タイツと黒い下着を着けた姿を露わにする。
この全身網タイツは、とてもとても恥ずかしい、異質な感じが居心地を悪くさせる。
下着だけとどちらが恥ずかしくないだろう。
きっと、下着だけだと、恥ずかしいのはもちろんだけど、肌を晒す心許ない不安感をもっと感じるのではないだろうか。
居心地悪いのと不安、どちらも困るけど、どちらも遠回りして快感になるはずだ。
那智さんが、トイレのドアを開けて先に出て、また手招き。
ワンピースの前を手で押さえながら、付いて出る。
更に、那智さんは道路に出て、私を呼ぶ。
よちよち歩きの赤ちゃんにおいでおいでをして、少しずつ歩く練習をしているようだ。
手招きは嬉しい、でも、さすがに表に出るのは恐い。
足がすくんで立ち止まり、いやいやと首を振る。
それでも、手招きはやめてくれない。
ためらいながらも前に進むけど、その時の私は恐怖だけじゃないこともほんの少しわかっていた。
恐いけど恐いけど、私はこれを心のどこかで望んでいたんだ。
「SM」を知ったとき、はじめて沸き上がった願望は「縛られたい」と「人目に晒されたい」だったのだ。
そして、「非日常的な日常」の「取るに足らないこと」で工場で味わった露出の気持ちよさ。
私の心の中に100人の私がいたとしたら、98人は「恐い」とか「ダメ」とか反対意見を唱えているけど、残りの2人くらいが、強烈に賛成しているような状態だ。
その強烈な2人と那智さんの手招きで、私は野外に出る。
不安で見渡すとまわりに人気はない。
ただ、遠くから見えるかもしれない、それはわからない。
「前を開けて」
98人が「無理」と言って、押しとどめる。
「やらないと、もっと酷いことするよ。」
もっと酷いことが恐くてしたのか、私の中の2人が押し切ったのか、わからない。
私は、震える手で、ワンピースの前を開く。
もっと大きくと言われるままに、大きく広げる。
私はお外で、全身網タイツの下着姿を晒している。
恐くて、何が何だかわからない。
那智さんと向かい合って立っている。
那智さんはカメラを構えている。
那智さん越しにトイレがあるから、私の広げた中身は人には見えない可能性が高い。
私の背後が広い敷地だ。
木が生い茂っているから一見何をしているのかわからないだろう。
それでも、よくみるとワンピースを広げていて不自然だ、どうか誰も気付かないでください。
外のひんやりした空気が私の肌を撫でて気持ち良い。
でも、いつも那智さんのしてくれることは快感に変わるけど、この「恐さ」は「何もかも捨て去ってしまうほどの快感」にはならなかった。
ただ、98%恐がっている中で、感じる2%の快感は強烈だった。
そこで全裸になったら、凄いと思うけど、この程度は「ちょっと凄いくらい」なんだそうです。
ああ、恐い。
「人に見られるかもしれない、でも、見られないかもしれないという状況で、とんでもなく凄いことをすること」
これって、とんでもなく凄いことだと思うのですが、いかがでしょう。
すみません、二回に分けさせてね。
次回は、続きの「人がたくさんいるところで凄いことではないけれど、普通じゃないことする」です。
人に見られるかもしれない、でも、見られないかもしれないという状況で、とんでもなく凄いことをすることと、人がたくさんいるところで凄いことではないけれど、普通じゃないことをすること。
どちらかを選べと言われたら、どちらを選ぶでしょうか?
ええっと、私は両方したんですけどね。
まずは、ひとつめの「凄いことを人目のなさそうなところでする」
その公園はとても広い。
いくつもある池には大きな鯉がたくさんいて、芝生はきれいに整備されている。
木の生い茂ったところは、ひんやりと涼しい。
さっきまで雨が降っていたから、人の出足も遅く、人気は少ない。
今日の私のお洋服は、旅行の時に買った、前が全部ボタンのワンピース。
黒いロングブーツを履いている。
ワンピースの下は、すぐに下着ではなくて、もう一枚纏っているのだ。
全身網タイツ。
つま先から私の足を包んだそのタイツは、ウエストよりもっと上に伸び、私の胸や肩、腕まで覆い手首で切れている。
私の首から上と手首から先以外は全部網タイツ。
もうひとつだけ肌が露出しているところがある。
排泄ができるようにか、いつでも遊べるようにか、わからないが下腹部が丸くくり抜いてある。
その下にブラ、パンツはタイツの上、だって、トイレに行って下着を下ろすのに全身脱がないといけなくなってしまうもの。
そんな、とても恥ずかしい姿でお散歩をする。
ポツリポツリと人に出会うけど、場所によっては、視界に誰もいない空間がけっこうある。
那智さんが、トイレに立ち寄って、様子を伺っている。
辺りに人気はまったくない。
車椅子用のトイレのドアをスライドさせながら、手招きをして私を呼ぶ。
恐いけど、呼ばれるという事実だけでも嬉しくて、私は一緒にトイレに入る。
いいえ、それだけじゃない、那智さんがかまってくれることが想像できて嬉しいのだ。
トイレの中で、ワンピースのボタンを外される。
広げられて全身網タイツと黒い下着を着けた姿を露わにする。
この全身網タイツは、とてもとても恥ずかしい、異質な感じが居心地を悪くさせる。
下着だけとどちらが恥ずかしくないだろう。
きっと、下着だけだと、恥ずかしいのはもちろんだけど、肌を晒す心許ない不安感をもっと感じるのではないだろうか。
居心地悪いのと不安、どちらも困るけど、どちらも遠回りして快感になるはずだ。
那智さんが、トイレのドアを開けて先に出て、また手招き。
ワンピースの前を手で押さえながら、付いて出る。
更に、那智さんは道路に出て、私を呼ぶ。
よちよち歩きの赤ちゃんにおいでおいでをして、少しずつ歩く練習をしているようだ。
手招きは嬉しい、でも、さすがに表に出るのは恐い。
足がすくんで立ち止まり、いやいやと首を振る。
それでも、手招きはやめてくれない。
ためらいながらも前に進むけど、その時の私は恐怖だけじゃないこともほんの少しわかっていた。
恐いけど恐いけど、私はこれを心のどこかで望んでいたんだ。
「SM」を知ったとき、はじめて沸き上がった願望は「縛られたい」と「人目に晒されたい」だったのだ。
そして、「非日常的な日常」の「取るに足らないこと」で工場で味わった露出の気持ちよさ。
私の心の中に100人の私がいたとしたら、98人は「恐い」とか「ダメ」とか反対意見を唱えているけど、残りの2人くらいが、強烈に賛成しているような状態だ。
その強烈な2人と那智さんの手招きで、私は野外に出る。
不安で見渡すとまわりに人気はない。
ただ、遠くから見えるかもしれない、それはわからない。
「前を開けて」
98人が「無理」と言って、押しとどめる。
「やらないと、もっと酷いことするよ。」
もっと酷いことが恐くてしたのか、私の中の2人が押し切ったのか、わからない。
私は、震える手で、ワンピースの前を開く。
もっと大きくと言われるままに、大きく広げる。
私はお外で、全身網タイツの下着姿を晒している。
恐くて、何が何だかわからない。
那智さんと向かい合って立っている。
那智さんはカメラを構えている。
那智さん越しにトイレがあるから、私の広げた中身は人には見えない可能性が高い。
私の背後が広い敷地だ。
木が生い茂っているから一見何をしているのかわからないだろう。
それでも、よくみるとワンピースを広げていて不自然だ、どうか誰も気付かないでください。
外のひんやりした空気が私の肌を撫でて気持ち良い。
でも、いつも那智さんのしてくれることは快感に変わるけど、この「恐さ」は「何もかも捨て去ってしまうほどの快感」にはならなかった。
ただ、98%恐がっている中で、感じる2%の快感は強烈だった。
そこで全裸になったら、凄いと思うけど、この程度は「ちょっと凄いくらい」なんだそうです。
ああ、恐い。
「人に見られるかもしれない、でも、見られないかもしれないという状況で、とんでもなく凄いことをすること」
これって、とんでもなく凄いことだと思うのですが、いかがでしょう。
すみません、二回に分けさせてね。
次回は、続きの「人がたくさんいるところで凄いことではないけれど、普通じゃないことする」です。
市中引き回しの刑!!
非日常的な日常
予告はこんなメールだった。
「○○(地名)を手首を縛って歩こう」
少し前のデートの前日、私はこんなメールを受け取った。
このとき那智さんと私の想像に違いができた。
那智さんは、私の両手首を縛って、ジャケットか何かで覆って歩こうと 考えていたらしい。
時々、ジャケットを外そうとしたりして、慌てる私を楽しもうとしていた。
私は違ったのだ。
「独特な幸福感」の「一般常識(お散歩編)」でした、「キーチェーンをジーンズに付けて、チェーンの先を那智さんが持って私を引く」ことが印象に残っていたから、今回は片手首を縛って、紐の先を那智さんが持つお散歩と思ってしまったのだ。
これは、隠しようがなく、人目に晒すには、異常ではないけど、普通じゃない。
だから、電話やメールで、慌てふためいてしまった。
那智さんからしてみたら、ジャケットで隠すのだから、なぜそんな慌てるのか疑問に思ったけど、よくよく話してみたら、私の想像の方が酷さを上回っていたということで合点がいったそうだ。
「ごめんね~。そんなに酷いことしてほしかったのに、気が付いてあげられなくって(笑)」
「違うんです~。キーチェーンのことがあったから~。」
何を言っても無駄。
結局、そのときのデートではしなかったのです(気分やその時の条件でしなかったりもある、でも、言ったことはいつか必ず実行するけど)が、「手首を縛ってお散歩」は私の脳みそにインプットされていた。
だから、ワンピースの前を全開にした露出が終わって一息ついたのも束の間、那智さんがスーツのポケットからロープを取り出したとき、私は次に何が起こるのか想像が付いてしまって、目を閉じる。
以前から那智さんが持っていたそのオレンジ色の綿ロープ、最近私を縛るときはもっぱら麻縄だから、久しぶりの登場だ。
私と知り合う前から使っていた憎々しい(笑)それは、可哀想に1メートルほどに切断されて、もう女性の体を覆うことはできない、一瞬溜飲が下がる。
でも、そんなことを考えている余裕はない。
両手首を差し出し、オレンジ色の綿ロープでひとつにまとめられる。
その瞬間、那智さんがさっと身を引き、2、3歩私から離れた。
ぽつんと両手を縛られた私が取り残されて、慌てて那智さんに駆け寄る。
ああ、もう恥ずかしい、両手を縛った状態で駆け寄る姿はみじめだ。
駆け寄って腕を取る。
ちょっと重なるように背後に回って、両手で那智さんの肘の辺りを掴めば、甘えて寄り添う恋人同士に見えなくもないはずだ。
上手にカモフラージュできてホッとすると、今度はこの異質な状態と従属感で、うっとりしはじめてしまう。
感じるとまではいかないこのうっとりとした私は、那智さんには退屈なことのようで、ただのお散歩ですましてはくれないのだ。
ベンチに腰掛けさせられ、那智さんは前に立ちカメラを構える。
足を大きく開くように言われる。
両手を縛られ、足を大きく広げ下着を露わにする。
さっき、公園清掃の男性がいたではないか、その人からこのベンチが死角になっていることを祈る。
たくさん広げないとおしまいにはしてくれない、誰も来ないように祈りながら、大きく股を広げる。
そして、手首は解放された。
今度はその紐を、ささっと器用に輪っかに結ぶ、「首つり結びって言うんだよね、確か」なんて言いながら、その輪を私の頭から首に通す。
もうされるがままだ。
朝の雨は上がって久しい、お昼近くになってきて、はじめより人が増えてきている。
そんな中、首を紐で縛られた女性が、その紐の先を男性に持たれ引かれて歩いているのだ。
いまは、まだ、周囲に人はいない。
「腕を放さなきゃ。」
組んだいる腕を解くように言われるから、恐る恐る放す。
まだ、人の気配はない。
私は数十センチ離れて紐を引かれて歩く。
もう、ドキドキして、でも、嬉しくて、なんだか誇らしい。
この勲章を胸に堂々と歩ける・・・・気がしたのは人が来るまでだった!!
正面から女性2人組の姿が見えた、慌てて那智さんの腕にしがみつき下を向く、もう本当に下を向く。
那智さんは、ずっと紐を引いている。
すれ違う気配はわかるけど、その人たちが私たちのどんな視線を送っているのかまではわからない。
顔を上げる勇気はないから、地面と足元しか見ない。
ずっと、小声で那智さんに聞いている「こっち見ていましたか?気付いていますか?」もう必死だ。
「今度は、後ろから若い子が来てるよ。」
絶対におかしいと思うだろう、髪でロープは見えなくても不自然なくらいにうつむいて歩いているんだもの。
時折引かれてよろめく、首吊り結びというくらいだから引くたびに首を締め付けていく。
恥ずかしくて、苦しくて、困って、この場をやり過ごすことしか頭になくて、でも、那智さんの好きなようにされるのは嬉しくて、これでも私は感じている。
体が震えるほど感じている。
立ち止まって、いく。
多分、若い女性はその間に私たちを追い抜いた。
そのまま出口へ向かって外に出るのだ。
そこは、この都市で一番大きな繁華街。
移動中のサラリーマンやランチを楽しみに来た奥様方、お使い物のOLさん、学校も近くにあるのだろう若い人もいる。
そこを首に紐を付けた私は那智さんに引かれてすり抜けていく。
もう、何人の人とすれ違っているのかわからない。
雑踏とすれ違う人々の足元が、私を混乱させる。
私は、ただ時間が過ぎるのを、腕にしがみつき、うつむいて待つだけだ。
どのくらい歩いただろう、随分街中まできて紐は解かれた。
その紐を私のバッグにリボンのように結ぶけど、もうそれは誇らしいアクセサリーだ。
興奮冷めやらぬ中、少し安堵して聞いてみる。
「那智さんは、あんな女性を引っ張って歩いて恥ずかしくないのですか?」
少し考えて「まこが、恥ずかしがっていたら、俺は恥ずかしくない。もしりん子が堂々としていたら、逆に恥ずかしいかもしれないな。」と、答えた。
そういうものなのか。
自分が施すことにより、横にいる女性が翻弄されている様は、那智さんにとっては恥ずかしいことではなく、もしかしたら気分がいいのかもしれない。
そうなのだ。
那智さんは、私の感情が大きく揺れ動くことが大好きなのだ。
だから、恥ずかしかったり、痛かったり、快感で、大きく揺さぶるのだ。
世の中にはもっと奇抜な格好で街を歩いている人もいる、まして裸でもない、一見普通の服装で、ほんの少し普通じゃないこと、首に紐を結んでいてそれを引かれる。
これを、恥ずかしいと思う私の感覚は、普通なのだろうか。
そして、それを嬉しいと思うことは、異常なのだろうか。
人目に付かないかもしれない状態で、下着姿を晒すことと、人の往来の激しいところで、紐を引かれるという異常ではないけど普通ではないことをすることと、どちらが大変なことなのでしょう。
「そうですか。私が堂々としていたら、那智さんは恥ずかしいのですね(笑)」
「じゃあ、やってみる?意地の張り合いで勝負する?」
とんでもない、私は「負けず嫌い」ならぬ「勝つの嫌い」なのですから、意地の張り合いなんてするわけがない♪
予告はこんなメールだった。
「○○(地名)を手首を縛って歩こう」
少し前のデートの前日、私はこんなメールを受け取った。
このとき那智さんと私の想像に違いができた。
那智さんは、私の両手首を縛って、ジャケットか何かで覆って歩こうと 考えていたらしい。
時々、ジャケットを外そうとしたりして、慌てる私を楽しもうとしていた。
私は違ったのだ。
「独特な幸福感」の「一般常識(お散歩編)」でした、「キーチェーンをジーンズに付けて、チェーンの先を那智さんが持って私を引く」ことが印象に残っていたから、今回は片手首を縛って、紐の先を那智さんが持つお散歩と思ってしまったのだ。
これは、隠しようがなく、人目に晒すには、異常ではないけど、普通じゃない。
だから、電話やメールで、慌てふためいてしまった。
那智さんからしてみたら、ジャケットで隠すのだから、なぜそんな慌てるのか疑問に思ったけど、よくよく話してみたら、私の想像の方が酷さを上回っていたということで合点がいったそうだ。
「ごめんね~。そんなに酷いことしてほしかったのに、気が付いてあげられなくって(笑)」
「違うんです~。キーチェーンのことがあったから~。」
何を言っても無駄。
結局、そのときのデートではしなかったのです(気分やその時の条件でしなかったりもある、でも、言ったことはいつか必ず実行するけど)が、「手首を縛ってお散歩」は私の脳みそにインプットされていた。
だから、ワンピースの前を全開にした露出が終わって一息ついたのも束の間、那智さんがスーツのポケットからロープを取り出したとき、私は次に何が起こるのか想像が付いてしまって、目を閉じる。
以前から那智さんが持っていたそのオレンジ色の綿ロープ、最近私を縛るときはもっぱら麻縄だから、久しぶりの登場だ。
私と知り合う前から使っていた憎々しい(笑)それは、可哀想に1メートルほどに切断されて、もう女性の体を覆うことはできない、一瞬溜飲が下がる。
でも、そんなことを考えている余裕はない。
両手首を差し出し、オレンジ色の綿ロープでひとつにまとめられる。
その瞬間、那智さんがさっと身を引き、2、3歩私から離れた。
ぽつんと両手を縛られた私が取り残されて、慌てて那智さんに駆け寄る。
ああ、もう恥ずかしい、両手を縛った状態で駆け寄る姿はみじめだ。
駆け寄って腕を取る。
ちょっと重なるように背後に回って、両手で那智さんの肘の辺りを掴めば、甘えて寄り添う恋人同士に見えなくもないはずだ。
上手にカモフラージュできてホッとすると、今度はこの異質な状態と従属感で、うっとりしはじめてしまう。
感じるとまではいかないこのうっとりとした私は、那智さんには退屈なことのようで、ただのお散歩ですましてはくれないのだ。
ベンチに腰掛けさせられ、那智さんは前に立ちカメラを構える。
足を大きく開くように言われる。
両手を縛られ、足を大きく広げ下着を露わにする。
さっき、公園清掃の男性がいたではないか、その人からこのベンチが死角になっていることを祈る。
たくさん広げないとおしまいにはしてくれない、誰も来ないように祈りながら、大きく股を広げる。
そして、手首は解放された。
今度はその紐を、ささっと器用に輪っかに結ぶ、「首つり結びって言うんだよね、確か」なんて言いながら、その輪を私の頭から首に通す。
もうされるがままだ。
朝の雨は上がって久しい、お昼近くになってきて、はじめより人が増えてきている。
そんな中、首を紐で縛られた女性が、その紐の先を男性に持たれ引かれて歩いているのだ。
いまは、まだ、周囲に人はいない。
「腕を放さなきゃ。」
組んだいる腕を解くように言われるから、恐る恐る放す。
まだ、人の気配はない。
私は数十センチ離れて紐を引かれて歩く。
もう、ドキドキして、でも、嬉しくて、なんだか誇らしい。
この勲章を胸に堂々と歩ける・・・・気がしたのは人が来るまでだった!!
正面から女性2人組の姿が見えた、慌てて那智さんの腕にしがみつき下を向く、もう本当に下を向く。
那智さんは、ずっと紐を引いている。
すれ違う気配はわかるけど、その人たちが私たちのどんな視線を送っているのかまではわからない。
顔を上げる勇気はないから、地面と足元しか見ない。
ずっと、小声で那智さんに聞いている「こっち見ていましたか?気付いていますか?」もう必死だ。
「今度は、後ろから若い子が来てるよ。」
絶対におかしいと思うだろう、髪でロープは見えなくても不自然なくらいにうつむいて歩いているんだもの。
時折引かれてよろめく、首吊り結びというくらいだから引くたびに首を締め付けていく。
恥ずかしくて、苦しくて、困って、この場をやり過ごすことしか頭になくて、でも、那智さんの好きなようにされるのは嬉しくて、これでも私は感じている。
体が震えるほど感じている。
立ち止まって、いく。
多分、若い女性はその間に私たちを追い抜いた。
そのまま出口へ向かって外に出るのだ。
そこは、この都市で一番大きな繁華街。
移動中のサラリーマンやランチを楽しみに来た奥様方、お使い物のOLさん、学校も近くにあるのだろう若い人もいる。
そこを首に紐を付けた私は那智さんに引かれてすり抜けていく。
もう、何人の人とすれ違っているのかわからない。
雑踏とすれ違う人々の足元が、私を混乱させる。
私は、ただ時間が過ぎるのを、腕にしがみつき、うつむいて待つだけだ。
どのくらい歩いただろう、随分街中まできて紐は解かれた。
その紐を私のバッグにリボンのように結ぶけど、もうそれは誇らしいアクセサリーだ。
興奮冷めやらぬ中、少し安堵して聞いてみる。
「那智さんは、あんな女性を引っ張って歩いて恥ずかしくないのですか?」
少し考えて「まこが、恥ずかしがっていたら、俺は恥ずかしくない。もしりん子が堂々としていたら、逆に恥ずかしいかもしれないな。」と、答えた。
そういうものなのか。
自分が施すことにより、横にいる女性が翻弄されている様は、那智さんにとっては恥ずかしいことではなく、もしかしたら気分がいいのかもしれない。
そうなのだ。
那智さんは、私の感情が大きく揺れ動くことが大好きなのだ。
だから、恥ずかしかったり、痛かったり、快感で、大きく揺さぶるのだ。
世の中にはもっと奇抜な格好で街を歩いている人もいる、まして裸でもない、一見普通の服装で、ほんの少し普通じゃないこと、首に紐を結んでいてそれを引かれる。
これを、恥ずかしいと思う私の感覚は、普通なのだろうか。
そして、それを嬉しいと思うことは、異常なのだろうか。
人目に付かないかもしれない状態で、下着姿を晒すことと、人の往来の激しいところで、紐を引かれるという異常ではないけど普通ではないことをすることと、どちらが大変なことなのでしょう。
「そうですか。私が堂々としていたら、那智さんは恥ずかしいのですね(笑)」
「じゃあ、やってみる?意地の張り合いで勝負する?」
とんでもない、私は「負けず嫌い」ならぬ「勝つの嫌い」なのですから、意地の張り合いなんてするわけがない♪