新しい淵
非日常的な日常
鞭は一種類しか持っていない。
バラ鞭。
バラ鞭って、あんまり痛くないっていうけど、那智さんの持っているのは分厚いゴムの板を細く切ってそれを束ねたようなもので、それは多分かなり痛いだろうということです。
どんな痛さかというと。
体に巻き付くように打つ場合は、皮膚を裂くような刺すような、十何箇所かの鋭い痛さ。
捻って太い一本の棒状にして打つときは、どすんと重たい衝撃。
その衝撃のあとに痛さの波動が広がるよう。
捻った鞭が途中でばらけて、先端は皮膚を刺し、そのほかで衝撃を与えるようなときもある。
これはダブルの痛さかな。
時々、わざとか手元がくるってか、体の横を削ぐように打ったり、足の甲などの脂肪の少ないところに飛んできたりすると、飛び上がるほど痛い。
わたしが好きなのは、重たい衝撃。
逆に苦手なのは、巻き付き刺すような痛み。
そんなこと言っても、痛いものは痛いので、那智さんが鞭を手にするたびに、ほんの少し絶望する。
そのくせに、痛さに、それを与える那智さんにもみくしゃにされはじめると、もうずっとこのままでいいと思ってしまう。
打たれると、自分でも驚くほど濡れるのだ。
ただ、こうなるには、快感や信頼を深め、どの打ち方でわたしがどうなるか、那智さんなりに試し、長い時間をかけた結果。
調教って言葉、ふたりとも好きじゃないから使わないけど、ある意味調教だよね。
余談ですけど。
那智さんがいろんなことを楽しむときに、彼なりに「確信」が持ててからはじめて楽しむとか慈しむとか満足というモードになるそうです。
たとえば、打ち方によってわたしが「痴人」のようになりだしたころ、何度か試して、この打ち方でこうなる確率が高いと「確信」を持つまでは、あまりそのことに言及してくれなかった。
「痴人」状態のわたしにわたし自身が驚いて、那智さんに肯定してほしくて、何度か「どうでした?」と聞いてみたけど、最初のころはあまり感想を言ってくれなかった。
またりん子に同じ喜びをあげられると確信できるまでは、肯定も否定もしないといことらしいです。
肯定して「期待」させて、またそうなれなかったら、りん子が悲しむと思うからということらしい。
苦痛を喜びに、苦痛が喜びに、なることを望む那智さんの満足は、自分のコントロールに確信が持ててはじめて得られるみたいです。
あ、余談が長い!!
痛いことがずっと続いてほしいと願うようになるには、那智さんの「確信」からくる満足にも時間が必要、だから、それなりに時間がかかるし、調教といえば、調教(那智さん自身も調教!?)。
痛いことを受け入れられる。
痛いことで気持ち良くなる。
時間をかけ、それらを手に入れるのに、大事なことがもうひとつ。
それは、怖さの払拭。
あのね、時々言ってしまうけど、人間耐えられない痛みなんてそうそうないの。
「世界の拷問展」じゃないのだから、大事な人同士の「加虐と被虐」は、多分「耐えられる」ぎりぎりをいくように加虐側が判断してると思うのです。
「壊してもいい」というコンセンサスの上でSMをされている人は、もっと違う世界が広がっていると思いますけど。
えと、わたしも那智さんにならって気持ちなくはないけど、那智さんがそれを「してしまった」時点で大事にされてないと、判断して悲しくなる。
壊さずに、ギリギリの苦痛とそれによる快楽をいただきたいと思います。(はは、なんかへなちょこで高飛車!?)
それにね、わたし、痛いことされてるときに、できるだけ余計なこと考えたくないのです。
すごくそうなるの難しいのだけど、自分の身の危険まで委ねていたい。
だから、ほんとに壊さず(壊されもいいと妄想するくせに)、でも、苦痛による快楽をくれると信じられないと、いけないのです。
やばい、また話が逸れた^^;
大事なのは怖さの払拭。
そんなに拷問のような痛さは与えられないのだから、きっと泣いても喚いても飛び跳ねても、耐えられる痛さなんだ。
じゃあ、痛いことを、痛いということだけ感じるためには、邪魔なのは「怖さ」。
わたしの場合、これがあると、快感にならないのです。
カラオケランチのときのこと。
モニター台に両手と体を預けて、お尻を那智さんに向けるような姿勢を取らされた。
めくられたスカート、下ろされた下着。
背後で衣擦れの音が聞こえたから、そのまま抱かれるものだと思ってた。
「ビシュッ」
不意に衝撃を感じ、驚いて振り返りながら、それがベルトで、抱くのではなく打つための姿勢だったと気づいた。
ベルトでちゃんと打たれたことは、多分ない。
最初の一撃は、痛くて飛び上がるほどではなかったけど、わたしは身を固くして構えてしまった。
怖かったの。
未知の痛みに対する恐怖。
それがハードルになって、体を固くしてしまった。
そして、テーブルと壁のわずかな隙間でベルトを振るうことも恐怖を助長したの。
いつも、絶妙な加減と的確な場所で、翻弄してくれる那智さんの手元の微調整が、この狭いスペースでは難しいのではと想像してしまって、怖い。
那智さんの思いと裏腹な一撃を受けるかもしれないという怖さ。
多分、そんなに痛さは強くないはず。
でも、怖さが、わたしを自由にしてくれなかった。
適度に痛くて、とても怖い。
これに、思わず逃げ出したくなってしまって、痛いことが気持ち良いという感じには、まったくならなかったのです。
その次にホテルに行く機会があって、そのときにはバラ鞭とベルトを交互に使った。
断然バラ鞭のほうが痛かった!!
だけど、最近のわたしは那智さんが打ってくれる鞭に対して恐怖はほとんどなくなってるから、純粋に痛いことで快感を覚えることができたの。
ああ、やっぱり怖さは邪魔なんだな〜と思った。
怖さを払拭して、刺すような痛みではなく、重い衝撃を与えられるのが一番いいです。(あれ?なにを細かくリクエストしてるの、わたし)
でもね、このとき、つぎに全身拘束されたの。
両手も両足も曲げて、だるまみたいに。
ごろんとベッドに転がされても、自分で向きさえ変えられない。
そこに、バラ鞭を振り下ろされたの。
脂肪のたくさんあるお尻じゃなくて、腕やすね、肩、胸、痛いところだらけ。
様子を見て、力は加減してくれてるけど、鋭い痛みと、何より怖い。
力を変えたら、ぜっっっっっったい、痛いと想像できるから。
想像できる未知の痛みって、怖くない!?
怖くて、痛くて、きーきー、きゃーきゃーだった。
これは、気持ち良くなれません。
きっと気持ち良くなれなくてもいいのだろうな、わたしが怖がって、それでいいのだろうね。
ほんとに怖かった。
そのうち、一発、太腿というかお尻の側面というか、その辺りをこそげ落とすように力強く振り下ろされた。
不意の、一撃。
強烈に痛い。
でも、体がまったく動かず、身を捩って痛みを堪えることもできない。
思い切り叫んだ。
自分でも思い出せないほど大きな声で、絶叫。
これしか、痛みを紛らわす術がない。
逃げることもできず、手を当て堪えることもできない。
絶叫するしか選択肢がない。
その恐怖と絶望。
恐ろしくて、たまらない。
身動きができないということは、こんなにも恐ろしくてお先真っ暗な感じになるんだろう。
それは、一発だけで終わった。
そのとき、わたし、チラッとその先にある新しい淵を覗いてしまった気がするの。
怖さを払拭しなければ、痛いことでは快感を得られない。
そして、もしかしたら、那智さんの手によってなら。
怖さに「絶望感」が加われば、そこに与えられた苦痛は、苦痛だけじゃないものになるかもしれないって。
最後の数行が言いたいだけなのに、いろんな話になっちゃった^^;
鞭は一種類しか持っていない。
バラ鞭。
バラ鞭って、あんまり痛くないっていうけど、那智さんの持っているのは分厚いゴムの板を細く切ってそれを束ねたようなもので、それは多分かなり痛いだろうということです。
どんな痛さかというと。
体に巻き付くように打つ場合は、皮膚を裂くような刺すような、十何箇所かの鋭い痛さ。
捻って太い一本の棒状にして打つときは、どすんと重たい衝撃。
その衝撃のあとに痛さの波動が広がるよう。
捻った鞭が途中でばらけて、先端は皮膚を刺し、そのほかで衝撃を与えるようなときもある。
これはダブルの痛さかな。
時々、わざとか手元がくるってか、体の横を削ぐように打ったり、足の甲などの脂肪の少ないところに飛んできたりすると、飛び上がるほど痛い。
わたしが好きなのは、重たい衝撃。
逆に苦手なのは、巻き付き刺すような痛み。
そんなこと言っても、痛いものは痛いので、那智さんが鞭を手にするたびに、ほんの少し絶望する。
そのくせに、痛さに、それを与える那智さんにもみくしゃにされはじめると、もうずっとこのままでいいと思ってしまう。
打たれると、自分でも驚くほど濡れるのだ。
ただ、こうなるには、快感や信頼を深め、どの打ち方でわたしがどうなるか、那智さんなりに試し、長い時間をかけた結果。
調教って言葉、ふたりとも好きじゃないから使わないけど、ある意味調教だよね。
余談ですけど。
那智さんがいろんなことを楽しむときに、彼なりに「確信」が持ててからはじめて楽しむとか慈しむとか満足というモードになるそうです。
たとえば、打ち方によってわたしが「痴人」のようになりだしたころ、何度か試して、この打ち方でこうなる確率が高いと「確信」を持つまでは、あまりそのことに言及してくれなかった。
「痴人」状態のわたしにわたし自身が驚いて、那智さんに肯定してほしくて、何度か「どうでした?」と聞いてみたけど、最初のころはあまり感想を言ってくれなかった。
またりん子に同じ喜びをあげられると確信できるまでは、肯定も否定もしないといことらしいです。
肯定して「期待」させて、またそうなれなかったら、りん子が悲しむと思うからということらしい。
苦痛を喜びに、苦痛が喜びに、なることを望む那智さんの満足は、自分のコントロールに確信が持ててはじめて得られるみたいです。
あ、余談が長い!!
痛いことがずっと続いてほしいと願うようになるには、那智さんの「確信」からくる満足にも時間が必要、だから、それなりに時間がかかるし、調教といえば、調教(那智さん自身も調教!?)。
痛いことを受け入れられる。
痛いことで気持ち良くなる。
時間をかけ、それらを手に入れるのに、大事なことがもうひとつ。
それは、怖さの払拭。
あのね、時々言ってしまうけど、人間耐えられない痛みなんてそうそうないの。
「世界の拷問展」じゃないのだから、大事な人同士の「加虐と被虐」は、多分「耐えられる」ぎりぎりをいくように加虐側が判断してると思うのです。
「壊してもいい」というコンセンサスの上でSMをされている人は、もっと違う世界が広がっていると思いますけど。
えと、わたしも那智さんにならって気持ちなくはないけど、那智さんがそれを「してしまった」時点で大事にされてないと、判断して悲しくなる。
壊さずに、ギリギリの苦痛とそれによる快楽をいただきたいと思います。(はは、なんかへなちょこで高飛車!?)
それにね、わたし、痛いことされてるときに、できるだけ余計なこと考えたくないのです。
すごくそうなるの難しいのだけど、自分の身の危険まで委ねていたい。
だから、ほんとに壊さず(壊されもいいと妄想するくせに)、でも、苦痛による快楽をくれると信じられないと、いけないのです。
やばい、また話が逸れた^^;
大事なのは怖さの払拭。
そんなに拷問のような痛さは与えられないのだから、きっと泣いても喚いても飛び跳ねても、耐えられる痛さなんだ。
じゃあ、痛いことを、痛いということだけ感じるためには、邪魔なのは「怖さ」。
わたしの場合、これがあると、快感にならないのです。
カラオケランチのときのこと。
モニター台に両手と体を預けて、お尻を那智さんに向けるような姿勢を取らされた。
めくられたスカート、下ろされた下着。
背後で衣擦れの音が聞こえたから、そのまま抱かれるものだと思ってた。
「ビシュッ」
不意に衝撃を感じ、驚いて振り返りながら、それがベルトで、抱くのではなく打つための姿勢だったと気づいた。
ベルトでちゃんと打たれたことは、多分ない。
最初の一撃は、痛くて飛び上がるほどではなかったけど、わたしは身を固くして構えてしまった。
怖かったの。
未知の痛みに対する恐怖。
それがハードルになって、体を固くしてしまった。
そして、テーブルと壁のわずかな隙間でベルトを振るうことも恐怖を助長したの。
いつも、絶妙な加減と的確な場所で、翻弄してくれる那智さんの手元の微調整が、この狭いスペースでは難しいのではと想像してしまって、怖い。
那智さんの思いと裏腹な一撃を受けるかもしれないという怖さ。
多分、そんなに痛さは強くないはず。
でも、怖さが、わたしを自由にしてくれなかった。
適度に痛くて、とても怖い。
これに、思わず逃げ出したくなってしまって、痛いことが気持ち良いという感じには、まったくならなかったのです。
その次にホテルに行く機会があって、そのときにはバラ鞭とベルトを交互に使った。
断然バラ鞭のほうが痛かった!!
だけど、最近のわたしは那智さんが打ってくれる鞭に対して恐怖はほとんどなくなってるから、純粋に痛いことで快感を覚えることができたの。
ああ、やっぱり怖さは邪魔なんだな〜と思った。
怖さを払拭して、刺すような痛みではなく、重い衝撃を与えられるのが一番いいです。(あれ?なにを細かくリクエストしてるの、わたし)
でもね、このとき、つぎに全身拘束されたの。
両手も両足も曲げて、だるまみたいに。
ごろんとベッドに転がされても、自分で向きさえ変えられない。
そこに、バラ鞭を振り下ろされたの。
脂肪のたくさんあるお尻じゃなくて、腕やすね、肩、胸、痛いところだらけ。
様子を見て、力は加減してくれてるけど、鋭い痛みと、何より怖い。
力を変えたら、ぜっっっっっったい、痛いと想像できるから。
想像できる未知の痛みって、怖くない!?
怖くて、痛くて、きーきー、きゃーきゃーだった。
これは、気持ち良くなれません。
きっと気持ち良くなれなくてもいいのだろうな、わたしが怖がって、それでいいのだろうね。
ほんとに怖かった。
そのうち、一発、太腿というかお尻の側面というか、その辺りをこそげ落とすように力強く振り下ろされた。
不意の、一撃。
強烈に痛い。
でも、体がまったく動かず、身を捩って痛みを堪えることもできない。
思い切り叫んだ。
自分でも思い出せないほど大きな声で、絶叫。
これしか、痛みを紛らわす術がない。
逃げることもできず、手を当て堪えることもできない。
絶叫するしか選択肢がない。
その恐怖と絶望。
恐ろしくて、たまらない。
身動きができないということは、こんなにも恐ろしくてお先真っ暗な感じになるんだろう。
それは、一発だけで終わった。
そのとき、わたし、チラッとその先にある新しい淵を覗いてしまった気がするの。
怖さを払拭しなければ、痛いことでは快感を得られない。
そして、もしかしたら、那智さんの手によってなら。
怖さに「絶望感」が加われば、そこに与えられた苦痛は、苦痛だけじゃないものになるかもしれないって。
最後の数行が言いたいだけなのに、いろんな話になっちゃった^^;
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