心からのお願い
非日常的な日常
腰掛けた那智さんの足の間に座る。
お口を使って良い時間だ。
フェラチオが好き。
「ご奉仕」、SMの世界ではこういう表現をするみたいだけど、私の中で「奉仕」している感覚はほとんどない。
だって、私がしたいのだもの。
もっと言うと、気持ちよくなってもらいたいという気持ちもおまけくらいにしか存在していない。
私がしたい、私が気持ちいい。
それによって、那智さんが気持ちよくなってくれたら嬉しいし、私はもっと気持ちよくなる。
何かの本に書いてあった。
人の口の中にも、気持ち良いと判断する感覚があるそうだ。
赤ん坊のはじめの好き嫌いは「味」ではなく「食感」が決めるそうだ。
口の中の心地よい感触は、快感なのだ。
だから、フェラチオをしている女性(男性も!?)は、感触としても快感を味わっているそうだ。
不潔な人の握ったおにぎりより、信頼している人が握ったおにぎりを食べたいと思うことと同じように、誰のでもいいわけないということは、分かり切ったことですけど。
(だから、女はフェラチオが好き、なんて誤解しないでくださいね)
大好きな那智さんにフェラチオをしているんだもの、口の感触としての快感も相まって、それだけでいくことだってできる。
だから、大好き。
那智さんが、ズボンから出すのをうつむいて待つ。
私の頭に手を置き「ほら」と合図をくれる。
うつむいたまま、口を開いて顔を近づける。
触れる軽れないかのところで、頭に置かれた手に僅かな力が入る。
ストップをかけられ、そこから動けない。
ほんの僅かな力だ。
私が力を入れれば、かわせてお口に含むことができてしまう程度の僅かな力。
犬の「待て」だ。
半開きにして顔を近づけた自分が恥ずかしくて、うつむたまま動けずにいる。
那智さんの手の力が緩む、かすかに顔を動かす、また、僅かな力で止められる。
2、3度繰り返されたのち、手に力が入らなくなるのを恐る恐る確認しながら、お口に含み願いは叶う。
「ご主人様~おちんちんください~。」
なんて、口が裂けても言えない。
そんなに恥も外聞もなく、懇願するほどの願いなんてそんなにあるもんじゃない。
(痛みと同じです。過剰な反応は演出にしか思えないの)
だから、静かに繰り返すだけだ。
顔を上げて、哀願の眼差しで訴えることすら、できない。
心からのお願いを口にするには、たくさんの切望が必要だ。
何もかもかなぐり捨てて、お願いするようなことは、そうそうない。
那智さんは、嘘はつかないとか素直でいるというような基本的なこと以外に、決まり事はつくらない。
常に下着は着けないとか、調教前に正座して三つ指ついてご挨拶なんてこともない。(そもそも調教なんてされていないもの、導かれてはいますけど、そう言った意味なら24時間調教だわ♪)
ただ、ひとつ課せられていることは「オナニーをするときは、(メールで)宣言と報告をすること」だ。
必然的に、那智さんにメールをしても良いときにしかオナニーはできない。
恥ずかしいけど、救われる。
もともとオナニーに罪悪感が伴っていたから、報告は罪悪から救われる思いがする。
たとえ「恥ずかしい私」を晒すことになろうとも、からかわれることになろうとも、虚しい1人だけの作業にならずに、結果的に幸福に繋がるのだ。
しかし、もっと幸せなのは、聞いてもらうことだ。
恥ずかしさは倍増するが、興奮も幸福も倍増する。
だから、最近は1人ですることが減った・・と思う。
自分から言うこともなかなかないから、那智さんの要望が主なきっかけだ。
「りん子、オナニーの声聞かせて。」
さっきまで普通にブログの話なんかしていたのに、急にそんなことを言う。
「いまですか?」
「そう、したくない?」
「那智さんがさせたいなら・・・。」
「俺がさせたかったら、したい?」
「那智さんがさせたいと思っているなら・・。」
「俺はさせたい。りん子はしたい?」
「・・・はい、したいです。」
今日は、命令ではない、あくまでも私の「したい」がお好みのようだ。
「したい」と口にするのは、ためらうことだ。
はじめは控えめの反応だけど、感じてくるとはしたない声がいっぱい出てしまう。
そのうち、いきたくなるから問いかける。
「那智さん、いってもいいですか?」
「まだ。」
案の定、一回目の問いかけではOKはでない。
大きく息を吐き、なんとか一回目の快感はやり過ごす。
よくあることだ。
いつも2、3度繰り返すから、今日もそうだろう。
また、快感の波が来て問いかける。
「いってもいいですか?」
「だめ」
そろそろ波の感覚が狭まってきて、我慢も辛くなるころだ。
多少の計算が働いて「いってもいいですか?」と問いかけは、「いかせてください。」のお願いに変わる。
そうすると、限界を察してくれたであろう那智さんは「いいよ。」合図をくれる。
いつもはそうだ。
でも、今日はなかなか、いいって言ってくれない。
もう一回、この次は、いつになったらOKしてくれるのか、不安と我慢の限界。
「お願いします、いかせてください。お願いします、お願いします。いかせてください、いきたいです。お願いです、いかせてください。」
指も腰も動かすことを止められない、止めてしまえばいかずにすむのに。
言葉と理性と本能が全部バラバラになって、自分のものではないようになる、すべては那智さんの手中にある。
我慢も快感も懇願も、すべて那智さんのお望み通りだ。
これが私の幸福だ。
願いは届き、やっと許しを得る。
我慢の分、快感もはしたなさも否応なく押し寄せる。
私にとっての、懇願はこういうときに発生する。
恥も外聞もなくなる瞬間は、たまにしか訪れないから、希少な珠玉の瞬間だ。
ごめんなさい。
「職業選択 本題」まだです。
腰掛けた那智さんの足の間に座る。
お口を使って良い時間だ。
フェラチオが好き。
「ご奉仕」、SMの世界ではこういう表現をするみたいだけど、私の中で「奉仕」している感覚はほとんどない。
だって、私がしたいのだもの。
もっと言うと、気持ちよくなってもらいたいという気持ちもおまけくらいにしか存在していない。
私がしたい、私が気持ちいい。
それによって、那智さんが気持ちよくなってくれたら嬉しいし、私はもっと気持ちよくなる。
何かの本に書いてあった。
人の口の中にも、気持ち良いと判断する感覚があるそうだ。
赤ん坊のはじめの好き嫌いは「味」ではなく「食感」が決めるそうだ。
口の中の心地よい感触は、快感なのだ。
だから、フェラチオをしている女性(男性も!?)は、感触としても快感を味わっているそうだ。
不潔な人の握ったおにぎりより、信頼している人が握ったおにぎりを食べたいと思うことと同じように、誰のでもいいわけないということは、分かり切ったことですけど。
(だから、女はフェラチオが好き、なんて誤解しないでくださいね)
大好きな那智さんにフェラチオをしているんだもの、口の感触としての快感も相まって、それだけでいくことだってできる。
だから、大好き。
那智さんが、ズボンから出すのをうつむいて待つ。
私の頭に手を置き「ほら」と合図をくれる。
うつむいたまま、口を開いて顔を近づける。
触れる軽れないかのところで、頭に置かれた手に僅かな力が入る。
ストップをかけられ、そこから動けない。
ほんの僅かな力だ。
私が力を入れれば、かわせてお口に含むことができてしまう程度の僅かな力。
犬の「待て」だ。
半開きにして顔を近づけた自分が恥ずかしくて、うつむたまま動けずにいる。
那智さんの手の力が緩む、かすかに顔を動かす、また、僅かな力で止められる。
2、3度繰り返されたのち、手に力が入らなくなるのを恐る恐る確認しながら、お口に含み願いは叶う。
「ご主人様~おちんちんください~。」
なんて、口が裂けても言えない。
そんなに恥も外聞もなく、懇願するほどの願いなんてそんなにあるもんじゃない。
(痛みと同じです。過剰な反応は演出にしか思えないの)
だから、静かに繰り返すだけだ。
顔を上げて、哀願の眼差しで訴えることすら、できない。
心からのお願いを口にするには、たくさんの切望が必要だ。
何もかもかなぐり捨てて、お願いするようなことは、そうそうない。
那智さんは、嘘はつかないとか素直でいるというような基本的なこと以外に、決まり事はつくらない。
常に下着は着けないとか、調教前に正座して三つ指ついてご挨拶なんてこともない。(そもそも調教なんてされていないもの、導かれてはいますけど、そう言った意味なら24時間調教だわ♪)
ただ、ひとつ課せられていることは「オナニーをするときは、(メールで)宣言と報告をすること」だ。
必然的に、那智さんにメールをしても良いときにしかオナニーはできない。
恥ずかしいけど、救われる。
もともとオナニーに罪悪感が伴っていたから、報告は罪悪から救われる思いがする。
たとえ「恥ずかしい私」を晒すことになろうとも、からかわれることになろうとも、虚しい1人だけの作業にならずに、結果的に幸福に繋がるのだ。
しかし、もっと幸せなのは、聞いてもらうことだ。
恥ずかしさは倍増するが、興奮も幸福も倍増する。
だから、最近は1人ですることが減った・・と思う。
自分から言うこともなかなかないから、那智さんの要望が主なきっかけだ。
「りん子、オナニーの声聞かせて。」
さっきまで普通にブログの話なんかしていたのに、急にそんなことを言う。
「いまですか?」
「そう、したくない?」
「那智さんがさせたいなら・・・。」
「俺がさせたかったら、したい?」
「那智さんがさせたいと思っているなら・・。」
「俺はさせたい。りん子はしたい?」
「・・・はい、したいです。」
今日は、命令ではない、あくまでも私の「したい」がお好みのようだ。
「したい」と口にするのは、ためらうことだ。
はじめは控えめの反応だけど、感じてくるとはしたない声がいっぱい出てしまう。
そのうち、いきたくなるから問いかける。
「那智さん、いってもいいですか?」
「まだ。」
案の定、一回目の問いかけではOKはでない。
大きく息を吐き、なんとか一回目の快感はやり過ごす。
よくあることだ。
いつも2、3度繰り返すから、今日もそうだろう。
また、快感の波が来て問いかける。
「いってもいいですか?」
「だめ」
そろそろ波の感覚が狭まってきて、我慢も辛くなるころだ。
多少の計算が働いて「いってもいいですか?」と問いかけは、「いかせてください。」のお願いに変わる。
そうすると、限界を察してくれたであろう那智さんは「いいよ。」合図をくれる。
いつもはそうだ。
でも、今日はなかなか、いいって言ってくれない。
もう一回、この次は、いつになったらOKしてくれるのか、不安と我慢の限界。
「お願いします、いかせてください。お願いします、お願いします。いかせてください、いきたいです。お願いです、いかせてください。」
指も腰も動かすことを止められない、止めてしまえばいかずにすむのに。
言葉と理性と本能が全部バラバラになって、自分のものではないようになる、すべては那智さんの手中にある。
我慢も快感も懇願も、すべて那智さんのお望み通りだ。
これが私の幸福だ。
願いは届き、やっと許しを得る。
我慢の分、快感もはしたなさも否応なく押し寄せる。
私にとっての、懇願はこういうときに発生する。
恥も外聞もなくなる瞬間は、たまにしか訪れないから、希少な珠玉の瞬間だ。
ごめんなさい。
「職業選択 本題」まだです。
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