依存(12:45補足ありです)
りん子的独り言(エラそう)
今日のりん子的独り言は『依存体質』全面肯定です。
自傷行為についてもチラッとだけ触れます。
当事者ではないわたしの暴論も含まれていますので、ご了承ください。
ちょっとだけ補足しました。
那智さんからも『その先が書かれていない』と指摘されたので^^;
暴論にちょっぴり親切を足してみました。(太字部分が補足です)
これでも何書いてるんだかわからなかったら、ごめんなさい!!
えっと、『自分を好きになろう』というのがずっと根底に流れている〜と思って読み直してみてください。
(コメントをくださった皆様、親切不足のエントリーからいろいろ読み取ってくださってありがとうございます。わたしの伝えたいことはコメントをくださったときと何も変わっていないので、同じ気持ちでレスいたしますね^^)
『依存体質』『依存願望』と薬指の刺青には『依存』という言葉がたくさん出てきていますけど、実は、わたし、この『依存』という言葉のちゃんとした意味を知りません(ごめんなさい!!)
言葉の意味を知らないくらいだから、例えば医学的?心理学的?な『依存』についてもかなり漠然としたイメージで捉えているだけです。
いまさらながら無責任な感じで申し訳ないですけど、それでもいいかなと思っています。
なぜかというと依存という言葉をあまり悪い意味で使っていないから。
ほら、ネガティブなことをいうときには少し慎重に言葉を選んだほうがいいけど、そうでないなら、漠然としたイメージでもいいかなと。
そんなふうに、若干好意的な感じで使ってます。
国語的にも医学的にも知らないくせに依存という言葉を好意的に使うことには、ひとつの指針がありまして。
何年か前にリストカットやオーバードーズをくり返してしまう人のことを書いたルポを読んだことがある。
そこから抜け出せない人々を取材しているのだ。
著者は明るく彼らを語り、悲惨な話しのはずなのになんだか温かい空気さえ漂う本だったと記憶している。
その著者が作中で語っていた『依存症』の定義。
その本の中では、本人がこの状態は良くないと思っていて抜け出したいと思っているけど、どうしても抜け出さず苦しんでいる状態を『依存症』と定義しているのだ。
『本人が抜け出したいと思っているけど抜け出せない』ことがポイントで、例えば本人が自傷せずにはいられなくて、それをすることで落ち着くなら、それは単にその人の特徴ってことでいいんじゃないか。
まずその状態を全面的に受け入れませんか。
もし抜け出したくて抜け出せず苦しんでいるなら、そこではじめて『依存症』として治療なりアドバイスなりしませんか、ということなのです。
本当はやめたほうがいいことはわかっていてもやめられないことって、家族も友達も社会も本人さえもよってたかってそれを『悪』とする。
これは当人にとっては、行為以外の別の何重もの苦しみになるのだ。
『やめなきゃいけない』『みんなに迷惑かけてる』『みんなを悲しませている』と自責する何重もの苦しみがさらに自傷行為に拍車をかけてしまう。
それならばいっそのこと、依存していても本人がいいならいいじゃない。
やめられないと自責することで余計に苦しくなるなら、ひとまず、一旦、丸ごと受け止めちゃって『抜け出さなくていいじゃん』としてみないかという提案だった。
自分も周囲もリストカットしちゃっうのが、この人の特徴だ。
また傷増えちゃったねって笑い合えたら、何重もの苦しみが一重の苦しみで済むんじゃないか。
全面的に受け入れることからスタートしたらどうだろう。
医者でも学者でもないルポライターが取材して肌で感じたものをそんな内容で書いてあった(記憶曖昧です^^;)
もちろん現実問題としては暴論なことは承知の上で(承知の上ですよ〜)、わたしはこの『それで落ち着くならひとまず全面的に受け入れよう』という考え方が好きなんだ。
社会や自分に責められて『やめられない自分』と自ら負のレッテルを貼ってしまうより。
ひとまず、それを受け入れて、その自分をキライにならなければ(もっというと、好きになれば)、もしかしたら、それは逆に何かにすがらずに生きていかれる第一歩になるのではないかしら。
ちょっと急がば回れ的な暴論で、そう思うのです。
この考え方が根底にあってここでたくさん『依存』という言葉を使っている。(辞書さえ引かず。ごめんなさい)
わたしは依存体質だ。
多分人よりちょっとかまってほしい度合いが高くて、人よりちょっと自分以外の何かに寄りかかってしまう。
表向きは普通に生活できていたから、そんなの『依存体質』と呼ばないと思われる人もいるかもしれないけど、わたし自身はこれにずいぶん苦しまされたので、依存体質と言っちゃいます。
漫然と横たわる飢餓感のようなものが『わたしを』とせき立てる。
まるで何かに取り憑かれているかのようにテレクラに電話をして、飢餓感という泥沼に足を持っていかれまいと友人に電話をする。
テレクラなんて自分を消耗するだけだ。
友人に付き合わせることも申し訳ない。
いけないことだ、申し訳ないという思いが余計にわたしを責める。
わかっているのにやめられない。
気が急いて焦ってハツカネズミがぐるぐると走り続けるような気持ちになる。
那智さんと出会って。
思い切りよりかかっていいと言い続けてくれた。
ダメなときはダメというし、りん子が寄りかかっていると自覚していればいくらでも、と。
(まあ、この自覚がけっこう大変なんだけどね)
依存が悪ではないと教えてくれた。
不思議なもので、悪ではないと思えてそれにどっぷりと浸かり続けると、いつのまにか足元が安定してくる。
自分を責めてしまうようなものに依存しなくても焦燥感は減ってくる。
依存体質はおそらくわたしの特性。
ならばそれと上手に付き合っていこうと思えるようになる。
いまでも、たまーに、那智さん以外のものにずぶずぶとはまりそうになることがある。
そういうときは自分を責めないでいられる安心の依存先さんに頼るのだ。
一年ほど前、携帯をスマートフォンに変えた。
ネットにも繋がりやすいからどんどん携帯を眺める時間が増えてしまった。
特に夜中。
わたしは元々眠りの浅いほうなんだけど、携帯を変えてから浅い眠りのときに携帯をチェックする回数が増えてしまった。
タッチするだけでいいから操作は簡単だし、ネットにも繋がりやすい。
一日置きの深夜0時に更新した後、最初は眠りの浅い時間にコメント来てるかな〜と軽くチェックするだけだったのだけど、だんだん眠りを浅くしてチェックするようになってしまう。
だんだんコメントやメールチェックだけではなく、こんな深夜にそうそう更新されているわけではないのにリンク先や気になるブログをチェックしにいってしまう、何度も何度も。
次第に更新していない夜にも同じように眠りを浅くして携帯を触ってしまう。
いつの間にかコメントやメールが来ているとか来ていないとか関係なく、とにかく携帯を見ることが目的で意味のない行為を夜中に繰り返すようになってしまっていた。
ああ、携帯に依存している。
眠りの浅い夜を過ごすようになり、いよいよまずいなと思った。
見ないほうがいい。
そんな簡単なこと自分で判断すればいいのだけど、依存体質のわたしは依存先さんにお話する。
「那智さん、携帯チェックばかりしてしまって夜眠れなくなっています」
答えは当然。
「夜中に携帯を見なければいい。俺が決めたことを守ればいいでしょ?」
そう、那智さんに決めてもらうことがわたしは幸せだし安心するし、守れる。
那智さんの意思をわたしの意志にさせてもらうのだ。
夜中に眠りが浅くなっても那智さんの決めたことを守ればいいのだから見ない。
安心の毛布をかけてもらって、その日から夜ぐっすり眠れるようになった。
そして、わたしはわたしを好きでいられる。
依存はそんなに『悪』だろうか。
歌うことで気分が晴れる人もいるし本を読みあさる人もいるだろう、活字中毒なんていうしね。
これも見方を変えれば依存ではないだろうか。
でも、なんとなく健全で責められないよね。
それがたまたま一般的に不健全とされているもので落ち着くという人もいるだけのことなんじゃないだろうか。
それに頼ることでその人が穏やかに暮らせるなら、そして依存先(人でも物でも行為でも)が居場所を提供してくれるなら『悪』だけじゃないと思うのだ。
何かに寄りかかることで穏やかでいられる人もいてもいいよね。
誰かにすがらないといられなかったとき。
すがる相手に申し訳ないと思いそんな自分を『ダメな人間』と責めるより、わたしはそういう人^^依存させてくれてありがとう^^って思えたら、どんなに気持ちが軽くなるだろう。
そしてそんな自分を好きになれる。
『やめなきゃ』と自責するより、一旦軽くした心と自分が好きだという心になれるほうが、自分で立つ有効な手だてだと思うのです。
わたしは心穏やかに暮らすための依存を肯定したい。
そんな気持ちで辞書も引かずに『依存』という言葉をたーくさん使っている。
わたし自身
自分を好きでいるために
ちゃんと自分の足で立つために、
那智さんにどっぷり依存していることを肯定したいと思っている。
ちなみに、これを書くにあたってはじめて辞書を引いてみた。
『ほかのものごとにたよること ほかのものごとしだいであること』
ですって。
ふむふむ、なるほど〜。
これでもうひとつ書けそうなので、次回に^^
ちなみに、もうひとつ^^
最近更新時間が変わっていることにお気づきの人はいるかな。
いままで一日置きの深夜0時更新をしたていたのだけど、最近は早朝になっています。
これも深く眠れるように。
早朝にしてもいいか那智さんに聞いて『いいよ』と言ってもらったのだ。
別に、更新時間は自分で決めていたから勝手に変更しても問題ないのだけど『いいよ』でわたしが安心できるから聞いたの。
そんな経緯もあって更新時間が変わっています。
で、最近は4:45というなんとも半端な時間になっていますが、これにした理由はまたぜんぜん違う別のお話なのでどうか気になさいませんように^^
<関連エントリー>
ハツカネズミさんとかテレクラ依存とか
『わたしのこと2「自傷行為」』
自我が溢れそうになるとなにかにすがりたくなる
『「わたし」とお知らせ』
依存体質^^
『徒然に「M女の快感」』
今日のりん子的独り言は『依存体質』全面肯定です。
自傷行為についてもチラッとだけ触れます。
当事者ではないわたしの暴論も含まれていますので、ご了承ください。
ちょっとだけ補足しました。
那智さんからも『その先が書かれていない』と指摘されたので^^;
暴論にちょっぴり親切を足してみました。(太字部分が補足です)
これでも何書いてるんだかわからなかったら、ごめんなさい!!
えっと、『自分を好きになろう』というのがずっと根底に流れている〜と思って読み直してみてください。
(コメントをくださった皆様、親切不足のエントリーからいろいろ読み取ってくださってありがとうございます。わたしの伝えたいことはコメントをくださったときと何も変わっていないので、同じ気持ちでレスいたしますね^^)
『依存体質』『依存願望』と薬指の刺青には『依存』という言葉がたくさん出てきていますけど、実は、わたし、この『依存』という言葉のちゃんとした意味を知りません(ごめんなさい!!)
言葉の意味を知らないくらいだから、例えば医学的?心理学的?な『依存』についてもかなり漠然としたイメージで捉えているだけです。
いまさらながら無責任な感じで申し訳ないですけど、それでもいいかなと思っています。
なぜかというと依存という言葉をあまり悪い意味で使っていないから。
ほら、ネガティブなことをいうときには少し慎重に言葉を選んだほうがいいけど、そうでないなら、漠然としたイメージでもいいかなと。
そんなふうに、若干好意的な感じで使ってます。
国語的にも医学的にも知らないくせに依存という言葉を好意的に使うことには、ひとつの指針がありまして。
何年か前にリストカットやオーバードーズをくり返してしまう人のことを書いたルポを読んだことがある。
そこから抜け出せない人々を取材しているのだ。
著者は明るく彼らを語り、悲惨な話しのはずなのになんだか温かい空気さえ漂う本だったと記憶している。
その著者が作中で語っていた『依存症』の定義。
その本の中では、本人がこの状態は良くないと思っていて抜け出したいと思っているけど、どうしても抜け出さず苦しんでいる状態を『依存症』と定義しているのだ。
『本人が抜け出したいと思っているけど抜け出せない』ことがポイントで、例えば本人が自傷せずにはいられなくて、それをすることで落ち着くなら、それは単にその人の特徴ってことでいいんじゃないか。
まずその状態を全面的に受け入れませんか。
もし抜け出したくて抜け出せず苦しんでいるなら、そこではじめて『依存症』として治療なりアドバイスなりしませんか、ということなのです。
本当はやめたほうがいいことはわかっていてもやめられないことって、家族も友達も社会も本人さえもよってたかってそれを『悪』とする。
これは当人にとっては、行為以外の別の何重もの苦しみになるのだ。
『やめなきゃいけない』『みんなに迷惑かけてる』『みんなを悲しませている』と自責する何重もの苦しみがさらに自傷行為に拍車をかけてしまう。
それならばいっそのこと、依存していても本人がいいならいいじゃない。
やめられないと自責することで余計に苦しくなるなら、ひとまず、一旦、丸ごと受け止めちゃって『抜け出さなくていいじゃん』としてみないかという提案だった。
自分も周囲もリストカットしちゃっうのが、この人の特徴だ。
また傷増えちゃったねって笑い合えたら、何重もの苦しみが一重の苦しみで済むんじゃないか。
全面的に受け入れることからスタートしたらどうだろう。
医者でも学者でもないルポライターが取材して肌で感じたものをそんな内容で書いてあった(記憶曖昧です^^;)
もちろん現実問題としては暴論なことは承知の上で(承知の上ですよ〜)、わたしはこの『それで落ち着くならひとまず全面的に受け入れよう』という考え方が好きなんだ。
社会や自分に責められて『やめられない自分』と自ら負のレッテルを貼ってしまうより。
ひとまず、それを受け入れて、その自分をキライにならなければ(もっというと、好きになれば)、もしかしたら、それは逆に何かにすがらずに生きていかれる第一歩になるのではないかしら。
ちょっと急がば回れ的な暴論で、そう思うのです。
この考え方が根底にあってここでたくさん『依存』という言葉を使っている。(辞書さえ引かず。ごめんなさい)
わたしは依存体質だ。
多分人よりちょっとかまってほしい度合いが高くて、人よりちょっと自分以外の何かに寄りかかってしまう。
表向きは普通に生活できていたから、そんなの『依存体質』と呼ばないと思われる人もいるかもしれないけど、わたし自身はこれにずいぶん苦しまされたので、依存体質と言っちゃいます。
漫然と横たわる飢餓感のようなものが『わたしを』とせき立てる。
まるで何かに取り憑かれているかのようにテレクラに電話をして、飢餓感という泥沼に足を持っていかれまいと友人に電話をする。
テレクラなんて自分を消耗するだけだ。
友人に付き合わせることも申し訳ない。
いけないことだ、申し訳ないという思いが余計にわたしを責める。
わかっているのにやめられない。
気が急いて焦ってハツカネズミがぐるぐると走り続けるような気持ちになる。
那智さんと出会って。
思い切りよりかかっていいと言い続けてくれた。
ダメなときはダメというし、りん子が寄りかかっていると自覚していればいくらでも、と。
(まあ、この自覚がけっこう大変なんだけどね)
依存が悪ではないと教えてくれた。
不思議なもので、悪ではないと思えてそれにどっぷりと浸かり続けると、いつのまにか足元が安定してくる。
自分を責めてしまうようなものに依存しなくても焦燥感は減ってくる。
依存体質はおそらくわたしの特性。
ならばそれと上手に付き合っていこうと思えるようになる。
いまでも、たまーに、那智さん以外のものにずぶずぶとはまりそうになることがある。
そういうときは自分を責めないでいられる安心の依存先さんに頼るのだ。
一年ほど前、携帯をスマートフォンに変えた。
ネットにも繋がりやすいからどんどん携帯を眺める時間が増えてしまった。
特に夜中。
わたしは元々眠りの浅いほうなんだけど、携帯を変えてから浅い眠りのときに携帯をチェックする回数が増えてしまった。
タッチするだけでいいから操作は簡単だし、ネットにも繋がりやすい。
一日置きの深夜0時に更新した後、最初は眠りの浅い時間にコメント来てるかな〜と軽くチェックするだけだったのだけど、だんだん眠りを浅くしてチェックするようになってしまう。
だんだんコメントやメールチェックだけではなく、こんな深夜にそうそう更新されているわけではないのにリンク先や気になるブログをチェックしにいってしまう、何度も何度も。
次第に更新していない夜にも同じように眠りを浅くして携帯を触ってしまう。
いつの間にかコメントやメールが来ているとか来ていないとか関係なく、とにかく携帯を見ることが目的で意味のない行為を夜中に繰り返すようになってしまっていた。
ああ、携帯に依存している。
眠りの浅い夜を過ごすようになり、いよいよまずいなと思った。
見ないほうがいい。
そんな簡単なこと自分で判断すればいいのだけど、依存体質のわたしは依存先さんにお話する。
「那智さん、携帯チェックばかりしてしまって夜眠れなくなっています」
答えは当然。
「夜中に携帯を見なければいい。俺が決めたことを守ればいいでしょ?」
そう、那智さんに決めてもらうことがわたしは幸せだし安心するし、守れる。
那智さんの意思をわたしの意志にさせてもらうのだ。
夜中に眠りが浅くなっても那智さんの決めたことを守ればいいのだから見ない。
安心の毛布をかけてもらって、その日から夜ぐっすり眠れるようになった。
そして、わたしはわたしを好きでいられる。
依存はそんなに『悪』だろうか。
歌うことで気分が晴れる人もいるし本を読みあさる人もいるだろう、活字中毒なんていうしね。
これも見方を変えれば依存ではないだろうか。
でも、なんとなく健全で責められないよね。
それがたまたま一般的に不健全とされているもので落ち着くという人もいるだけのことなんじゃないだろうか。
それに頼ることでその人が穏やかに暮らせるなら、そして依存先(人でも物でも行為でも)が居場所を提供してくれるなら『悪』だけじゃないと思うのだ。
何かに寄りかかることで穏やかでいられる人もいてもいいよね。
誰かにすがらないといられなかったとき。
すがる相手に申し訳ないと思いそんな自分を『ダメな人間』と責めるより、わたしはそういう人^^依存させてくれてありがとう^^って思えたら、どんなに気持ちが軽くなるだろう。
そしてそんな自分を好きになれる。
『やめなきゃ』と自責するより、一旦軽くした心と自分が好きだという心になれるほうが、自分で立つ有効な手だてだと思うのです。
わたしは心穏やかに暮らすための依存を肯定したい。
そんな気持ちで辞書も引かずに『依存』という言葉をたーくさん使っている。
わたし自身
自分を好きでいるために
ちゃんと自分の足で立つために、
那智さんにどっぷり依存していることを肯定したいと思っている。
ちなみに、これを書くにあたってはじめて辞書を引いてみた。
『ほかのものごとにたよること ほかのものごとしだいであること』
ですって。
ふむふむ、なるほど〜。
これでもうひとつ書けそうなので、次回に^^
ちなみに、もうひとつ^^
最近更新時間が変わっていることにお気づきの人はいるかな。
いままで一日置きの深夜0時更新をしたていたのだけど、最近は早朝になっています。
これも深く眠れるように。
早朝にしてもいいか那智さんに聞いて『いいよ』と言ってもらったのだ。
別に、更新時間は自分で決めていたから勝手に変更しても問題ないのだけど『いいよ』でわたしが安心できるから聞いたの。
そんな経緯もあって更新時間が変わっています。
で、最近は4:45というなんとも半端な時間になっていますが、これにした理由はまたぜんぜん違う別のお話なのでどうか気になさいませんように^^
<関連エントリー>
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自我が溢れそうになるとなにかにすがりたくなる
『「わたし」とお知らせ』
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