知らないこと
非日常的な日常
鞭打たれる時の私は静かだ。
那智さんに背を向け、大人しく私を差し出している。
鞭には、いろんな種類がある(ようだ)。
痛さの強弱は、当たる面積(力が集中するほうが痛い)と重さによる(らしい)。
従って、一番痛いのは「一本鞭」。
材質などにも左右されるのでしょうけど。
一本に力が集中する鞭が痛いようだ。
那智さんの持っている鞭は「バラ鞭」。
何本かの鞭が束になっている。
よくホテルなどに置いてある(置いてあるかな?)のは、ペラペラの軽いものだろう。
那智さんのそれは、太いゴムが束になっている。
だから、重い。
一本鞭ほど、力は集中しないだろうが、重いゴムの塊が当たる衝撃は、やはり痛いとしか言いようがない。
その鞭を思いっきり振ったことはなかったそうだ。
「引くほど痛い」から。
飾り程度に思って購入したらしい。
そして、那智さん自身、痛みで感じさせることにそれほど興味がなかったのだろう。
はじめのうちは、私にも使うことはなかった。
でも私が、痛みによって感じるさまを目にして、興味を持ち始めたのだと思う。
ただ、私は結婚しているから、痕を残すことに慎重になってくれていて、興味を持ち始めてからも、スパンキングで様子を見ていて、すぐに鞭ということにはならなかったのだ。
幸か不幸か、私の皮膚は強いらしく、痣ができても比較的早く目立たなくなる。
痛みを与えたくなったこと、痕の残り具合、いつもより長い時間いられる(故に、痕を見られる危険性が減る)、旅行というイベント性など、様々な要素が整い、いよいよ本格的に鞭を打つときが来たのだ。
それは、はじめて二人で旅行した山の上のホテル。
エッチなホテルじゃないことが、私を困惑させるが那智さんはお構いなしだ。
大きな声を出すわけにはいかない。
でも、いつも言っているが「人間耐えられない痛みなんて、そうそうあるもんじゃない。」。
打たれて呻き声程度は上げたとしても、絶叫するのは演技だろう。
演技という言い方がひねくれているなら、声を上げることで陶酔して、高揚して痛みを紛らわす役割を果たしていると思うのは、どうだろう。
私は、痛みを紛らわしたいとも自分に酔いたいとも思っていないのだ。
できるだけ、那智さんの与えることに、正直に反応したいと心がけている。
それは、那智さんの望みでもある。
痛くなければ無反応だろう(痛くないなんてことあり得ないでしょうけど)。
ホテルの部屋に置いてあるフレームが籐でできた椅子に、向かい合うように膝をつき、ちょうど肘掛けに腕を置くように縛られる。
もう私は、椅子と共に動くしか方法はない。
裸の私は背中とお尻を那智さんに向けて、大人しく恐怖と戦っている。
今夜は、きちんと鞭を打つ。
日頃気分で、メニユーが変更されることもあるが、今夜は予告していたとおりのようだ。
以前、試しに加減して打たれたときでも、焼け付くように痛かった鞭だ。
それが、はじめて本格的に打つ。
いつくるかわからない衝撃を想像するだけでも、震える。
でも、私はこれを待っていたことも自覚しているのだ。
追い詰められること。
それを、最愛の人に施される喜びを同時に感じていた。
那智さんの動く気配を感じた瞬間、ビシッという音とともに衝撃が走る。
重たく、そして刺すような痛さだ。
でも、この時点では、まだ耐えられた。
おそらく様子を見ているのだろう。
ここで私は振り返ってしまったのだ。
「打たれる私」に浸りたくて、私の表情を見てほしくて、振り返った。
まだ耐えられるのに、振り返って哀れを誘う行為は、私が避けたいと思っていた「演技」だ。
一瞬間が空いたが、再び鞭の雨は私に降り注ぐ。
身をよじらないと我慢できないほど痛い。
でも、ここは普通のホテルだ。
声を上げるわけにはいかない。
上げずにいられる。
もう振り返ることもできない。
なぜなら、振り返れば拍車がかかることは、学んでいる。
ということは、やはりさっきの振り返りは演技だ。
鞭の痛みに耐えながら、正気が残る頭の片隅で少し後悔していた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
おそらくそんなには経過していないはずだ。
しかし、ずきずきする痛みと、無数の内出血した鞭の痕は、濃厚な時を物語っていた。
一段落して、振り返ったことを咎められた。
「鞭を打つ手がにぶる。」と。
私が、限界ではないのに振り返ったことを知ってか知らずか、那智さんもあの行為が良くないことだったらしい。
確かに、本当に哀願を込めて振り返らせたければ、それほどに打つだろう。
打たれた私の表情が見たければ、髪を引っ張ってのけぞらせてでも、見るだろう。
那智さんはそういう人だ。
そして、私はその那智さんの満足のために存在していたいのだ。
それ以来、私は打たれても振り返らない。
どんなに痛くて、呻き声を洩らし、体をよじっても、また打ちやすいように体勢を整えるだけだ。
私は、打ちたいように打ってほしいのだ。
その那智さんの欲求の渦に巻き込まれて幸せになるのだ。
そして、那智さんはそういう方法で私を幸福にしてくれる。
だから、私は鞭打たれるときは静かだ。
大人しく、私を差し出している。
鞭を打つ那智さんの表情は、どんなにか魅力的だろう。
でも、私はその魅力的な表情を知ることはない。
いまなら、どの程度打てば、どれくらいの痕が残り、どれくらいまで私が耐えられるかわかっているから、振り返ろうものなら「確実に、酷くする。」と笑顔で言われてしまいました。
やっぱり、私は振り返れない。
鞭打たれる時の私は静かだ。
那智さんに背を向け、大人しく私を差し出している。
鞭には、いろんな種類がある(ようだ)。
痛さの強弱は、当たる面積(力が集中するほうが痛い)と重さによる(らしい)。
従って、一番痛いのは「一本鞭」。
材質などにも左右されるのでしょうけど。
一本に力が集中する鞭が痛いようだ。
那智さんの持っている鞭は「バラ鞭」。
何本かの鞭が束になっている。
よくホテルなどに置いてある(置いてあるかな?)のは、ペラペラの軽いものだろう。
那智さんのそれは、太いゴムが束になっている。
だから、重い。
一本鞭ほど、力は集中しないだろうが、重いゴムの塊が当たる衝撃は、やはり痛いとしか言いようがない。
その鞭を思いっきり振ったことはなかったそうだ。
「引くほど痛い」から。
飾り程度に思って購入したらしい。
そして、那智さん自身、痛みで感じさせることにそれほど興味がなかったのだろう。
はじめのうちは、私にも使うことはなかった。
でも私が、痛みによって感じるさまを目にして、興味を持ち始めたのだと思う。
ただ、私は結婚しているから、痕を残すことに慎重になってくれていて、興味を持ち始めてからも、スパンキングで様子を見ていて、すぐに鞭ということにはならなかったのだ。
幸か不幸か、私の皮膚は強いらしく、痣ができても比較的早く目立たなくなる。
痛みを与えたくなったこと、痕の残り具合、いつもより長い時間いられる(故に、痕を見られる危険性が減る)、旅行というイベント性など、様々な要素が整い、いよいよ本格的に鞭を打つときが来たのだ。
それは、はじめて二人で旅行した山の上のホテル。
エッチなホテルじゃないことが、私を困惑させるが那智さんはお構いなしだ。
大きな声を出すわけにはいかない。
でも、いつも言っているが「人間耐えられない痛みなんて、そうそうあるもんじゃない。」。
打たれて呻き声程度は上げたとしても、絶叫するのは演技だろう。
演技という言い方がひねくれているなら、声を上げることで陶酔して、高揚して痛みを紛らわす役割を果たしていると思うのは、どうだろう。
私は、痛みを紛らわしたいとも自分に酔いたいとも思っていないのだ。
できるだけ、那智さんの与えることに、正直に反応したいと心がけている。
それは、那智さんの望みでもある。
痛くなければ無反応だろう(痛くないなんてことあり得ないでしょうけど)。
ホテルの部屋に置いてあるフレームが籐でできた椅子に、向かい合うように膝をつき、ちょうど肘掛けに腕を置くように縛られる。
もう私は、椅子と共に動くしか方法はない。
裸の私は背中とお尻を那智さんに向けて、大人しく恐怖と戦っている。
今夜は、きちんと鞭を打つ。
日頃気分で、メニユーが変更されることもあるが、今夜は予告していたとおりのようだ。
以前、試しに加減して打たれたときでも、焼け付くように痛かった鞭だ。
それが、はじめて本格的に打つ。
いつくるかわからない衝撃を想像するだけでも、震える。
でも、私はこれを待っていたことも自覚しているのだ。
追い詰められること。
それを、最愛の人に施される喜びを同時に感じていた。
那智さんの動く気配を感じた瞬間、ビシッという音とともに衝撃が走る。
重たく、そして刺すような痛さだ。
でも、この時点では、まだ耐えられた。
おそらく様子を見ているのだろう。
ここで私は振り返ってしまったのだ。
「打たれる私」に浸りたくて、私の表情を見てほしくて、振り返った。
まだ耐えられるのに、振り返って哀れを誘う行為は、私が避けたいと思っていた「演技」だ。
一瞬間が空いたが、再び鞭の雨は私に降り注ぐ。
身をよじらないと我慢できないほど痛い。
でも、ここは普通のホテルだ。
声を上げるわけにはいかない。
上げずにいられる。
もう振り返ることもできない。
なぜなら、振り返れば拍車がかかることは、学んでいる。
ということは、やはりさっきの振り返りは演技だ。
鞭の痛みに耐えながら、正気が残る頭の片隅で少し後悔していた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
おそらくそんなには経過していないはずだ。
しかし、ずきずきする痛みと、無数の内出血した鞭の痕は、濃厚な時を物語っていた。
一段落して、振り返ったことを咎められた。
「鞭を打つ手がにぶる。」と。
私が、限界ではないのに振り返ったことを知ってか知らずか、那智さんもあの行為が良くないことだったらしい。
確かに、本当に哀願を込めて振り返らせたければ、それほどに打つだろう。
打たれた私の表情が見たければ、髪を引っ張ってのけぞらせてでも、見るだろう。
那智さんはそういう人だ。
そして、私はその那智さんの満足のために存在していたいのだ。
それ以来、私は打たれても振り返らない。
どんなに痛くて、呻き声を洩らし、体をよじっても、また打ちやすいように体勢を整えるだけだ。
私は、打ちたいように打ってほしいのだ。
その那智さんの欲求の渦に巻き込まれて幸せになるのだ。
そして、那智さんはそういう方法で私を幸福にしてくれる。
だから、私は鞭打たれるときは静かだ。
大人しく、私を差し出している。
鞭を打つ那智さんの表情は、どんなにか魅力的だろう。
でも、私はその魅力的な表情を知ることはない。
いまなら、どの程度打てば、どれくらいの痕が残り、どれくらいまで私が耐えられるかわかっているから、振り返ろうものなら「確実に、酷くする。」と笑顔で言われてしまいました。
やっぱり、私は振り返れない。