濃い1
非日常的な日常
紙おむつを付けてくるようにと、朝の電話で指示された。
こういうとき、那智さんはあっけないほど常識人。
「今日、決めていた服装だと不自然になるなら付けなくていい。大丈夫なら家から付けてきて。」
おむつを付けさせることは、すでに充分一般常識から外れているけど(笑)
不自然になる危険性(自分が一緒なら、どんなに不自然でもいいけど)。
わたしのコーディネイトを気遣って。
絶対の命令なんてのではなく、可能ならという譲歩してくれる姿勢が常識人。
でも、それは、不自然だったとわたしが判断すれば、付けなくていいということになる。
たとえ、無理のないシルエットだとしても、わたしは「不自然」に見えると思えば、従う必要はないのだ。
ということは、結果的に「それをわたしが選び、受け入れた」とわたし自身が困惑する種を残してしまうことになる。
だから、ここは非常識に「付けて来い」と命令してほしいな、と思ったりもする。
しかし、この日はロングコートの予定だったので、必然的に「不自然じゃいない」と判断できるので、ちょっと安心して、安心してっていうのかな、自分の「羞恥心」とか「喜ぶ困惑」とかと闘うことなく、決められておむつを付ける指示に従った。
那智さんの指示に従うとき。
それが、「どちらでもいいよ」というテンションでの指示のとき。
羞恥心。
喜ぶ困惑。
那智さんは、どうしたら喜ぶか。
その判断を下す、自分に嫌悪しないか。
などなど、いろんな感情を秤にかけて、闘って、決めるのだ。
寒い朝。
駅まで早足で向かうわたしが紙おむつを付けているなんて、誰も想像していないだろうな。
電車の時間があるから、ちゃかちゃか歩く。
ふふ、紙おむつあったかい*^^*
寒がりのわたしは、このホカホカが嬉しくて、ちょっと照れ臭い。
じゃあ、逆に夏は暑いのだろうな。
寝たきりの人とか、蒸し暑くていやだろうな。
なんて、いまの自分の状況をまったく無視したこと考えたり。
電車に乗って、しばらくしたらトイレに行きたくなってきた。
まだ全然切羽詰まってる感じじゃないのだけど、このままいけば、那智さんと待ち合わせる手前くらいでピークに達しそう。(わたしね、トイレ我慢するの苦手なのです)
どうしよう。
紙おむつを付けさせたということは、そこに排泄させたいのよね。
それをしないで、トイレに行ってしまっていいものか。
とりあえずメールで指示を仰いでみよう。
「那智さん、トイレに行きたくなったら、どうしたらよいですか?」
送信。
なんてお返事がくるかしら。
ほんとは、ほんとは、怖いけど、「中にしなさい」って言ってもらえることを、ほんの少し望んでるわたしがいる。
それは、いつものこと、すごーく困って、少量だけど濃く望む。
でも、この日は、99%困っていた。
なぜかというと、非常に赤裸々なのだけど、大きいほうが、ちょっとだけ出そうだったのです。(ああ、もうわたし何書いてるの〜!!ほんとにちょっとだけなの^^;)
もしかして、おしっこだったら困りながらも甘美なものになったかもしれない。
でも、でも、少量でも、大きいほうだったら、もう大変なだけだ。
一駅、二駅。
もしかしたら、もよおすかもしれないと思っていたものが、かなり確実な感じになっている。
那智さんからの返信はない。
どうしよう。
待ち合わせ場所について、直接「トイレに行きたい」なんて言えば、ぜーーーったい「ここで」と言われる。
だから、万が一の可能性を求めて、確認メールをしたのだ。
待ち合わせ場所に着くまえに、済ませてしまいたい。
それなのに、待てど暮らせどお返事はない。
もしかして、送信ミス?メールに気づいてない?
いやいや、那智さんのことだ、わざとじらして音沙汰なしにしてるのかもしれない。
ああ、困った、下車駅も「トイレ行きたい」も迫ってきてる。
何度携帯をチェックしても、ない。
気づいてなくても、わざとでも、「指示」がないならしょうがない。
いろんなことを、秤にかけて、闘って、自分で決めなければ。
普通、おむつに出す選択はないよね。
でも、履いてくるという指示は、そこにするという指示と取れなくもない。
じゃあ、その意志に従う?
無理無理!!電車の中でおむつにうんこ出すなんて、ぜっっっっっったい無理!!!
じゃあ、おむつ=そこに出すということを、無視してトイレに行く?
常識的に考えれば、それしかないのだけど、迷う。
それは、那智さんの意志に反してる気がして。
トイレに行ったことを責められることはないけど、ちょっとがっかりさせちゃうかもしれない。
怒ったりもしないでしょうけど、「お仕置き」というお遊びに発展するかもしれない。(最近、お外流行なので、おむつしてお仕置きは、想像するだけで恐ろしい^^;)
だから、トイレに行かないほうが、いいのか。
それに、もうひとつ。
わたしが、恥ずかしがりながらもおむつを汚していったら、那智さんは喜んでくれるかもしれないと思ってしまうのだ。
「よくできたね」って頭を撫でてくれて、「こんなに汚れちゃったね」ってきれいにしてくれるかもしれない。
それを想像すると、それもいいかもと思ってしまってるの。
だから、行かないほうがいい?
常識。
羞恥心。
それを喜んでしまう、困惑。
那智さんの喜び。
それをする自分自身への嫌悪。
もうすぐ、駅に着く。
ああ、どうしたら、いいのだろう。
那智さんの指示が欲しい。
でも、「しなさい」って言われても、困る、困るけど、嬉しいかもしれない。
秤にかけて、いろんなわたし同士が闘う。
あああ、だめ、やっぱりトイレに行く!!
汚くても喜んでくれるだろう。
きれいだったらがっかりさせてしまうかもしれない。
でも、トイレに行く。
それは、常識とか道徳とか羞恥心とか、それも全部あるけど。
わたしは、那智さんが喜ぶからと自分の甘美な時間のために、それをしてしまう自分を許せないのです。
那智さんが望むだろうと想像して、それをしてしまうわたしを許せない。
変態のわたしを、大好きになれないのだ。
那智さんの「それでいい」がないと、そのわたしを許せず、軽く自己嫌悪してしまう。
だから、那智さんの意に反するほうを選ぼう。
那智さんはわざとお返事しなくて、遊んでるかもしれない、汚いわたしを楽しもうとしてるのかもしれない。
それでがっかりさせてもしかたがない。
ごめんなさい那智さんと思いつつ、駅のトイレでおむつを下ろす。
待ち合わせ場所に着いて、トイレに行ったことを伝える。
そこではじめて「あ、メール気づかなかった」ということがわかった。
わたしは、拍子抜けするような、ホッとするような、朝いちからもうすでにヘロヘロしてしまった。
那智さんの反応は「別にしてもしなくても、かまわない」。
そう、那智さんって、絶対こうしなさいということがほとんどないの。
わたしが、それによって、ぐるぐるなっていることで楽しいという感じ。
那智さんが好き。
わたしは、わたしを好きでいたい。
そのぐるぐるで出した結果は、基本的に喜んでくれるのだ。
こうしてはじまったこの日のデートは、わたしにとってとても「濃い」デートになった。
そのお話をしますね。
紙おむつを付けてくるようにと、朝の電話で指示された。
こういうとき、那智さんはあっけないほど常識人。
「今日、決めていた服装だと不自然になるなら付けなくていい。大丈夫なら家から付けてきて。」
おむつを付けさせることは、すでに充分一般常識から外れているけど(笑)
不自然になる危険性(自分が一緒なら、どんなに不自然でもいいけど)。
わたしのコーディネイトを気遣って。
絶対の命令なんてのではなく、可能ならという譲歩してくれる姿勢が常識人。
でも、それは、不自然だったとわたしが判断すれば、付けなくていいということになる。
たとえ、無理のないシルエットだとしても、わたしは「不自然」に見えると思えば、従う必要はないのだ。
ということは、結果的に「それをわたしが選び、受け入れた」とわたし自身が困惑する種を残してしまうことになる。
だから、ここは非常識に「付けて来い」と命令してほしいな、と思ったりもする。
しかし、この日はロングコートの予定だったので、必然的に「不自然じゃいない」と判断できるので、ちょっと安心して、安心してっていうのかな、自分の「羞恥心」とか「喜ぶ困惑」とかと闘うことなく、決められておむつを付ける指示に従った。
那智さんの指示に従うとき。
それが、「どちらでもいいよ」というテンションでの指示のとき。
羞恥心。
喜ぶ困惑。
那智さんは、どうしたら喜ぶか。
その判断を下す、自分に嫌悪しないか。
などなど、いろんな感情を秤にかけて、闘って、決めるのだ。
寒い朝。
駅まで早足で向かうわたしが紙おむつを付けているなんて、誰も想像していないだろうな。
電車の時間があるから、ちゃかちゃか歩く。
ふふ、紙おむつあったかい*^^*
寒がりのわたしは、このホカホカが嬉しくて、ちょっと照れ臭い。
じゃあ、逆に夏は暑いのだろうな。
寝たきりの人とか、蒸し暑くていやだろうな。
なんて、いまの自分の状況をまったく無視したこと考えたり。
電車に乗って、しばらくしたらトイレに行きたくなってきた。
まだ全然切羽詰まってる感じじゃないのだけど、このままいけば、那智さんと待ち合わせる手前くらいでピークに達しそう。(わたしね、トイレ我慢するの苦手なのです)
どうしよう。
紙おむつを付けさせたということは、そこに排泄させたいのよね。
それをしないで、トイレに行ってしまっていいものか。
とりあえずメールで指示を仰いでみよう。
「那智さん、トイレに行きたくなったら、どうしたらよいですか?」
送信。
なんてお返事がくるかしら。
ほんとは、ほんとは、怖いけど、「中にしなさい」って言ってもらえることを、ほんの少し望んでるわたしがいる。
それは、いつものこと、すごーく困って、少量だけど濃く望む。
でも、この日は、99%困っていた。
なぜかというと、非常に赤裸々なのだけど、大きいほうが、ちょっとだけ出そうだったのです。(ああ、もうわたし何書いてるの〜!!ほんとにちょっとだけなの^^;)
もしかして、おしっこだったら困りながらも甘美なものになったかもしれない。
でも、でも、少量でも、大きいほうだったら、もう大変なだけだ。
一駅、二駅。
もしかしたら、もよおすかもしれないと思っていたものが、かなり確実な感じになっている。
那智さんからの返信はない。
どうしよう。
待ち合わせ場所について、直接「トイレに行きたい」なんて言えば、ぜーーーったい「ここで」と言われる。
だから、万が一の可能性を求めて、確認メールをしたのだ。
待ち合わせ場所に着くまえに、済ませてしまいたい。
それなのに、待てど暮らせどお返事はない。
もしかして、送信ミス?メールに気づいてない?
いやいや、那智さんのことだ、わざとじらして音沙汰なしにしてるのかもしれない。
ああ、困った、下車駅も「トイレ行きたい」も迫ってきてる。
何度携帯をチェックしても、ない。
気づいてなくても、わざとでも、「指示」がないならしょうがない。
いろんなことを、秤にかけて、闘って、自分で決めなければ。
普通、おむつに出す選択はないよね。
でも、履いてくるという指示は、そこにするという指示と取れなくもない。
じゃあ、その意志に従う?
無理無理!!電車の中でおむつにうんこ出すなんて、ぜっっっっっったい無理!!!
じゃあ、おむつ=そこに出すということを、無視してトイレに行く?
常識的に考えれば、それしかないのだけど、迷う。
それは、那智さんの意志に反してる気がして。
トイレに行ったことを責められることはないけど、ちょっとがっかりさせちゃうかもしれない。
怒ったりもしないでしょうけど、「お仕置き」というお遊びに発展するかもしれない。(最近、お外流行なので、おむつしてお仕置きは、想像するだけで恐ろしい^^;)
だから、トイレに行かないほうが、いいのか。
それに、もうひとつ。
わたしが、恥ずかしがりながらもおむつを汚していったら、那智さんは喜んでくれるかもしれないと思ってしまうのだ。
「よくできたね」って頭を撫でてくれて、「こんなに汚れちゃったね」ってきれいにしてくれるかもしれない。
それを想像すると、それもいいかもと思ってしまってるの。
だから、行かないほうがいい?
常識。
羞恥心。
それを喜んでしまう、困惑。
那智さんの喜び。
それをする自分自身への嫌悪。
もうすぐ、駅に着く。
ああ、どうしたら、いいのだろう。
那智さんの指示が欲しい。
でも、「しなさい」って言われても、困る、困るけど、嬉しいかもしれない。
秤にかけて、いろんなわたし同士が闘う。
あああ、だめ、やっぱりトイレに行く!!
汚くても喜んでくれるだろう。
きれいだったらがっかりさせてしまうかもしれない。
でも、トイレに行く。
それは、常識とか道徳とか羞恥心とか、それも全部あるけど。
わたしは、那智さんが喜ぶからと自分の甘美な時間のために、それをしてしまう自分を許せないのです。
那智さんが望むだろうと想像して、それをしてしまうわたしを許せない。
変態のわたしを、大好きになれないのだ。
那智さんの「それでいい」がないと、そのわたしを許せず、軽く自己嫌悪してしまう。
だから、那智さんの意に反するほうを選ぼう。
那智さんはわざとお返事しなくて、遊んでるかもしれない、汚いわたしを楽しもうとしてるのかもしれない。
それでがっかりさせてもしかたがない。
ごめんなさい那智さんと思いつつ、駅のトイレでおむつを下ろす。
待ち合わせ場所に着いて、トイレに行ったことを伝える。
そこではじめて「あ、メール気づかなかった」ということがわかった。
わたしは、拍子抜けするような、ホッとするような、朝いちからもうすでにヘロヘロしてしまった。
那智さんの反応は「別にしてもしなくても、かまわない」。
そう、那智さんって、絶対こうしなさいということがほとんどないの。
わたしが、それによって、ぐるぐるなっていることで楽しいという感じ。
那智さんが好き。
わたしは、わたしを好きでいたい。
そのぐるぐるで出した結果は、基本的に喜んでくれるのだ。
こうしてはじまったこの日のデートは、わたしにとってとても「濃い」デートになった。
そのお話をしますね。