ランチデートで思ったこと
独特な幸福感
「ランチデート」で思ったこと。
「おちんちんを入れてください。」
ずっとこういう言葉言えなかった。
そういう名称を口にするのさえ恥ずかしいのだもの、それを「ほしい」なんてこと言えるわけがない。
羞恥心から言えないというのはちょっと可愛らしい部分で、それとは違う理由で「言えない」と思う部分もあった。
それは、心からそう思わないと言えないなということ。
もともとセックスに関して執着がなかったから、自分を基準に考えて「入れてほしい」なんて思えない。
もし、ちょっとだけ思ったとしてもそんなこと口にできない、心から思わないとそれは「演技」とか「自己陶酔」になってしまうようで気恥ずかしかった。
性的な陶酔は、陶酔しちゃえると気持ち良いとは思うのだけど、なんか嘘っぽくて照れ臭い。
だから、そういう言葉をどこかで見聞きすると「ほんとにそう思ってるの!?自分に酔ってるだけじゃない?」なんて思ってた。(可愛くない^^;)
それで言えなかった。
那智さんとの間でも、滅多に口にすることはなかった。
あるとしても「もう入れるよ〜」って段階でじらされて、もうお願い!!みたいな感じ、わたしの中では「入れてほしい」という純粋な気持ちと、ちょっとスパイス的な要素もあったことは否めない。
入れてくれるのわかってるから、スパイス。
でも、「ランチデート」で「入れてほしい」と口にしたときは、違ったの。
まず、ほんとにほんとに入れてほしかった。
快感と、入れることで「愛情」をもらえるとも思ってるので、それもほしかった(これは美しすぎる?笑)
とにかく入れてほしかった。
その日は「気持ち良くなるの禁止」だったから、お願いしても無理なのはわかっていたのだけど、それでも、無理を承知でお願いしてしまえることが嬉しかった。
涙が出るほどほしいと思えて、それを口することができた。
感情の放流。
これが、何より嬉しくて気持ち良い。
心から?自己陶酔?自己陶酔してる自分を客観視?どのわたしも存在してるのだけど、全部ひっくるめて「ほしい」と涙を流せる嬉しさ。
堰を切ったように感情を放流できることの気持ち良さ。
ほんとにほしいと思ったのも嘘じゃないけど、半分くらいはこの放流の気持ち良さで口にしていたかもしれない。(いままで、そういうセリフに対して疑ってたくせにね^^;)
那智さんは、わたしに体の快感を教えた。
それと同じように、この「感情の放流」の気持ち良さも教えてくれた。
ほしいと思い、それを言葉にできる、泣いて訴える。
この放流が快感なのだ。
それが許され、それを歓迎してくれることが、わたしを自由にしてくれる。
羞恥心だったりモラルだったり疑いだったりを捨てられなかったわたしを、那智さんは時間をかけて自由にしてくれた。
これは、体の快感よりも、もしかしたら手放したくないと思ってしまいそうなほどの快感。
だから、もっともっと那智さんから離れられなくなってしまう。
ランチデートで、改めてこの気持ち良さを感じたので補足のエントリーです。
だって、そうしないと「おちんちんを入れてほしいだけの淫乱りん子」になっちゃいそうなんだもの^^
「ランチデート」で思ったこと。
「おちんちんを入れてください。」
ずっとこういう言葉言えなかった。
そういう名称を口にするのさえ恥ずかしいのだもの、それを「ほしい」なんてこと言えるわけがない。
羞恥心から言えないというのはちょっと可愛らしい部分で、それとは違う理由で「言えない」と思う部分もあった。
それは、心からそう思わないと言えないなということ。
もともとセックスに関して執着がなかったから、自分を基準に考えて「入れてほしい」なんて思えない。
もし、ちょっとだけ思ったとしてもそんなこと口にできない、心から思わないとそれは「演技」とか「自己陶酔」になってしまうようで気恥ずかしかった。
性的な陶酔は、陶酔しちゃえると気持ち良いとは思うのだけど、なんか嘘っぽくて照れ臭い。
だから、そういう言葉をどこかで見聞きすると「ほんとにそう思ってるの!?自分に酔ってるだけじゃない?」なんて思ってた。(可愛くない^^;)
それで言えなかった。
那智さんとの間でも、滅多に口にすることはなかった。
あるとしても「もう入れるよ〜」って段階でじらされて、もうお願い!!みたいな感じ、わたしの中では「入れてほしい」という純粋な気持ちと、ちょっとスパイス的な要素もあったことは否めない。
入れてくれるのわかってるから、スパイス。
でも、「ランチデート」で「入れてほしい」と口にしたときは、違ったの。
まず、ほんとにほんとに入れてほしかった。
快感と、入れることで「愛情」をもらえるとも思ってるので、それもほしかった(これは美しすぎる?笑)
とにかく入れてほしかった。
その日は「気持ち良くなるの禁止」だったから、お願いしても無理なのはわかっていたのだけど、それでも、無理を承知でお願いしてしまえることが嬉しかった。
涙が出るほどほしいと思えて、それを口することができた。
感情の放流。
これが、何より嬉しくて気持ち良い。
心から?自己陶酔?自己陶酔してる自分を客観視?どのわたしも存在してるのだけど、全部ひっくるめて「ほしい」と涙を流せる嬉しさ。
堰を切ったように感情を放流できることの気持ち良さ。
ほんとにほしいと思ったのも嘘じゃないけど、半分くらいはこの放流の気持ち良さで口にしていたかもしれない。(いままで、そういうセリフに対して疑ってたくせにね^^;)
那智さんは、わたしに体の快感を教えた。
それと同じように、この「感情の放流」の気持ち良さも教えてくれた。
ほしいと思い、それを言葉にできる、泣いて訴える。
この放流が快感なのだ。
それが許され、それを歓迎してくれることが、わたしを自由にしてくれる。
羞恥心だったりモラルだったり疑いだったりを捨てられなかったわたしを、那智さんは時間をかけて自由にしてくれた。
これは、体の快感よりも、もしかしたら手放したくないと思ってしまいそうなほどの快感。
だから、もっともっと那智さんから離れられなくなってしまう。
ランチデートで、改めてこの気持ち良さを感じたので補足のエントリーです。
だって、そうしないと「おちんちんを入れてほしいだけの淫乱りん子」になっちゃいそうなんだもの^^