制服から考えたこと
独特な幸福感
何が違うんだろ?
前のお話の「超ミニ制服で立ちんぼ」と以前のお話「お外で四つん這い」のコンビニ前で四つん這いの時に感じた気持ちが、なぜ違うのかわからなくて、すっきりしないの。
どちらもとても目立つことで「変な」こと。
ひとつは、超ミニ女子高生制服にパンプスで電信柱のそばで立っている。
もうひとつは、首輪にリードでガードレールに繋がれて中腰で立っていて、挙げ句の果てにその場で手と膝を付いて四つん這いになってる。
何か違いがあるから、私の気持ちも違うのだろうか。
「超ミニ」はいまだ引きずるほどいやな気持ちで、「わんこ」は大変で大変ででも、幸せだった。
「超ミニ」は那智さんがそばにいてくれなかったから?
でも、コンビニ前の「わんこ」も繋がれて中腰の時は那智さんはコンビニに入っていていなかったから、それだけが悲しい理由ではないだろう。
昨日のお話で書いた「大事にされていないと感じるから、悲しい」というのは、間違いじゃない。
じゃあ、似たようなことで、なぜ大事にされていると感じられるのと、そうじゃないものの差が出るのだろうと思って、いまパソコンに向かってる。(あはは、またしっかり結論でてないのに、書いてる^^;)
あのとき、制服姿でハイヒールを履いて電信柱に寄り添うように立っていたとき。
私は何が苦しかったのだろう。
まず、「思考回路」で書いたような思考回路になっていた。
とにかくこれをやり過ごすということに回路を繋いでいたのは確かだったから、あれはやはり私にはつらいことだったのだろう。
気を紛らわすような思考回路にしてしまうような苦しさの原因のひとつは、すぐ横に(正確に言えば駐車スペースを挟んでいるから2mくらい奥)ショップの店員さんがふたりおしゃべりをしているところ電信柱があったことだ。
ショップの入り口が奥まっていて、私自身電信柱まで移動してはじめてその2人の女性に気付いたくらいだから、おそらく那智さんからはその人たちは見えたいなかったはずだ。
だから、いきなり「変な」なんちゃって女子高生が視界に入り込んできて目の前で突っ立ってる違和感を味わわせてしまった居たたまれなさ。
見えていなかったとはいえ、それをさせたことに不当な扱いを感じてしまったのだろう。
そして、もうひとつ。
あの姿で立っていて、通り過ぎる人のうちの一握りは「おお♪」と思ったはずだ。(超ミニでハイヒールってだけでもね)
その一握りの性的な視線が、街角で突っ立てる私を「商品」と捉えていると感じたのだ。(実際に売買の対象になるというはっきりしたものではないけど)
かつて、自分には愛される価値がないと諦めていたとき、華やかな職業に就いて、羨望や悪意や性的な、いろんな視線に晒されて「私には商品価値がある」としか感じられなかった。
あの自分を「商品」にしてしまう視線。
まるで客を取る娼婦のように電信柱に立ちんぼしてるように感じてしまって、つらくなってしまっていたんだ。
派手な服を着て、目立って「おお♪」って視線はいままでだってある。
ハプバーなどで那智さんが私をおもちゃにして、他の男性の性的な視線に晒すとき、私は那智さんのそばにいる。
私はこの人のものとして晒してます、と那智さんも私も言葉には出さないけど告知してる。
だから、ああいう場で誰も「触っていいか」さえも聞かない。
「許可を得て触る」よりもっと近寄り難い空気を発しているのだろう。
那智さんが「触ってみます?」と声を掛けた人だけが、触る。
そういうときは、恥ずかしいけど大切に守られてると思える。
だから、たかが3mだけ離れただけなのに、道行く人に「大切に扱ってくれてる人がそばにいて立っている女」と思われないといことが悲しかった。
何かあったら守ってくれることは百も承知だ、それ以前に「この子は大切にされてる」とバリアが張れていないようで、悲しかったのだ。
私は、危険から守ることはもちろん、私を値踏みするような視線からバリアを張って守ってもらいたいのだ。
あの時の私は3m離れた場所からの那智さんの視線だけでは、バリアを感じられなかった。
そのバリアさえあれば、たとえ私を商品として視姦されても苦しくならないのだ。
だって、それは那智さんが守ってくれた上で、そういうふうにしたいのだから。
その「大切にされている女」だというバリアがないと幸せになれないということのよう。
コンビニの前でわんこになっているとき。
リードで繋がれていることで、ひとりじゃない守られるべき人(犬!?)と思えていたはずだ。(他人にそこまでの認識はないでしょうけど)
そして、「犬」ということで人々の視線は「?」だらけで、性的な「商品価値」からも遠ざかっていた。
あのとき私は「商品」じゃなかった。
バリアの有無と商品か否か、そのふたつの違いが、苦しさと幸せを分けているのではないかなと思うのだ。
このことでは那智さんにずいぶんと突っかかってしまっていた。
那智さん、付き合わせちゃってごめんなさいね、でも、ちゃんと解決しないと、あなたの犬にも娼婦にも少女にもなれないんだ^^
ここで最後に矛盾に気付く…。
「変」なのはいや、いやらしい目で見られたほうがまだまし、と散々言っていたけど、いやらしい目=商品と思えてつらい、ならば、もしかして「変」な視線のほうが幸せなの!?
うう、それはそれで、まずい結論かもしれない^^;
でも、どちらも濡れていたから、ほんと、性癖がMって厄介だ。
ここまで書いて数日後、ハプバーに制服を持参して、そこにいる皆さんにお披露目をしてみた。
「なんかの仕事の制服」に見えるから、問題ないという意見が圧倒的だった。
まあ、社交辞令と主に男性目線だからだとは思うけど、もしかしたら、「私の騒ぎ過ぎ!?」とも思えてきて、客観視できない!!
名札付けたらより制服らしいという意見もあって、今度はそうしようかしらと思ってる^^
何が違うんだろ?
前のお話の「超ミニ制服で立ちんぼ」と以前のお話「お外で四つん這い」のコンビニ前で四つん這いの時に感じた気持ちが、なぜ違うのかわからなくて、すっきりしないの。
どちらもとても目立つことで「変な」こと。
ひとつは、超ミニ女子高生制服にパンプスで電信柱のそばで立っている。
もうひとつは、首輪にリードでガードレールに繋がれて中腰で立っていて、挙げ句の果てにその場で手と膝を付いて四つん這いになってる。
何か違いがあるから、私の気持ちも違うのだろうか。
「超ミニ」はいまだ引きずるほどいやな気持ちで、「わんこ」は大変で大変ででも、幸せだった。
「超ミニ」は那智さんがそばにいてくれなかったから?
でも、コンビニ前の「わんこ」も繋がれて中腰の時は那智さんはコンビニに入っていていなかったから、それだけが悲しい理由ではないだろう。
昨日のお話で書いた「大事にされていないと感じるから、悲しい」というのは、間違いじゃない。
じゃあ、似たようなことで、なぜ大事にされていると感じられるのと、そうじゃないものの差が出るのだろうと思って、いまパソコンに向かってる。(あはは、またしっかり結論でてないのに、書いてる^^;)
あのとき、制服姿でハイヒールを履いて電信柱に寄り添うように立っていたとき。
私は何が苦しかったのだろう。
まず、「思考回路」で書いたような思考回路になっていた。
とにかくこれをやり過ごすということに回路を繋いでいたのは確かだったから、あれはやはり私にはつらいことだったのだろう。
気を紛らわすような思考回路にしてしまうような苦しさの原因のひとつは、すぐ横に(正確に言えば駐車スペースを挟んでいるから2mくらい奥)ショップの店員さんがふたりおしゃべりをしているところ電信柱があったことだ。
ショップの入り口が奥まっていて、私自身電信柱まで移動してはじめてその2人の女性に気付いたくらいだから、おそらく那智さんからはその人たちは見えたいなかったはずだ。
だから、いきなり「変な」なんちゃって女子高生が視界に入り込んできて目の前で突っ立ってる違和感を味わわせてしまった居たたまれなさ。
見えていなかったとはいえ、それをさせたことに不当な扱いを感じてしまったのだろう。
そして、もうひとつ。
あの姿で立っていて、通り過ぎる人のうちの一握りは「おお♪」と思ったはずだ。(超ミニでハイヒールってだけでもね)
その一握りの性的な視線が、街角で突っ立てる私を「商品」と捉えていると感じたのだ。(実際に売買の対象になるというはっきりしたものではないけど)
かつて、自分には愛される価値がないと諦めていたとき、華やかな職業に就いて、羨望や悪意や性的な、いろんな視線に晒されて「私には商品価値がある」としか感じられなかった。
あの自分を「商品」にしてしまう視線。
まるで客を取る娼婦のように電信柱に立ちんぼしてるように感じてしまって、つらくなってしまっていたんだ。
派手な服を着て、目立って「おお♪」って視線はいままでだってある。
ハプバーなどで那智さんが私をおもちゃにして、他の男性の性的な視線に晒すとき、私は那智さんのそばにいる。
私はこの人のものとして晒してます、と那智さんも私も言葉には出さないけど告知してる。
だから、ああいう場で誰も「触っていいか」さえも聞かない。
「許可を得て触る」よりもっと近寄り難い空気を発しているのだろう。
那智さんが「触ってみます?」と声を掛けた人だけが、触る。
そういうときは、恥ずかしいけど大切に守られてると思える。
だから、たかが3mだけ離れただけなのに、道行く人に「大切に扱ってくれてる人がそばにいて立っている女」と思われないといことが悲しかった。
何かあったら守ってくれることは百も承知だ、それ以前に「この子は大切にされてる」とバリアが張れていないようで、悲しかったのだ。
私は、危険から守ることはもちろん、私を値踏みするような視線からバリアを張って守ってもらいたいのだ。
あの時の私は3m離れた場所からの那智さんの視線だけでは、バリアを感じられなかった。
そのバリアさえあれば、たとえ私を商品として視姦されても苦しくならないのだ。
だって、それは那智さんが守ってくれた上で、そういうふうにしたいのだから。
その「大切にされている女」だというバリアがないと幸せになれないということのよう。
コンビニの前でわんこになっているとき。
リードで繋がれていることで、ひとりじゃない守られるべき人(犬!?)と思えていたはずだ。(他人にそこまでの認識はないでしょうけど)
そして、「犬」ということで人々の視線は「?」だらけで、性的な「商品価値」からも遠ざかっていた。
あのとき私は「商品」じゃなかった。
バリアの有無と商品か否か、そのふたつの違いが、苦しさと幸せを分けているのではないかなと思うのだ。
このことでは那智さんにずいぶんと突っかかってしまっていた。
那智さん、付き合わせちゃってごめんなさいね、でも、ちゃんと解決しないと、あなたの犬にも娼婦にも少女にもなれないんだ^^
ここで最後に矛盾に気付く…。
「変」なのはいや、いやらしい目で見られたほうがまだまし、と散々言っていたけど、いやらしい目=商品と思えてつらい、ならば、もしかして「変」な視線のほうが幸せなの!?
うう、それはそれで、まずい結論かもしれない^^;
でも、どちらも濡れていたから、ほんと、性癖がMって厄介だ。
ここまで書いて数日後、ハプバーに制服を持参して、そこにいる皆さんにお披露目をしてみた。
「なんかの仕事の制服」に見えるから、問題ないという意見が圧倒的だった。
まあ、社交辞令と主に男性目線だからだとは思うけど、もしかしたら、「私の騒ぎ過ぎ!?」とも思えてきて、客観視できない!!
名札付けたらより制服らしいという意見もあって、今度はそうしようかしらと思ってる^^
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