螺旋
独特な幸福感
凄いことをして凄い反応をしたあとは、いつもあれこれ聞いてしまう。
それは、思い出して「きゃっきゃ」と恥ずかしながらも喜ぶお遊びのようなものではなくて、はしたなくなったりん子を愛でる片鱗を探したいから。
私は乱れる私に、完全に嫌悪感を捨て去ることができない。
そして、那智さんも、自分が崩れさせるくせに、その状態の私を100%好きにはなってくれないことが多い。
だから、私は少しでもそのりん子を肯定する言葉が欲しいのだ。
でも、それはいつもだいたい玉砕されておしまいになる。
「○○のときの私はどうでしたか?」なんて質問に「不合格ではないというニュアンス」というような答えが返ってきたりする。
私は一気に悲しくなってしまう。
そこで悲しくなっていると、那智さんは「俺はそれが満足なのであって、それに対して何も言っていないはずだよ」と言う。
そう、那智さんは私が凄い反応をすることに対して、からかって面白がったりはするけれど、それがダメとも、その姿に不満だとも、一言もいっていない。
私が聞いて、勝手に悲しくなっているの。
気になることや不満があって、それを改善させたければちゃんと向き合う那智さんだから、その私の反応に言及しないのならば、そのままでいいってことなんだ。
乱れさせるくせに、その私を数%嫌いになる。
矛盾がひとつ。
そして、数%嫌いになることも満足。
また、矛盾。
この矛盾を感じることはつらくて、いままでも何度も悲しくなってきた。
でも、最近、少し考え方が変わった気がする。
もともと那智さんが言っていた「俺の幸せがりん子の幸せ。りん子が幸せだと俺も幸せ」。
この幸せの連鎖。
頭ではわかっていて、実感できていたつもりだったけど、もう一皮剥けた感じ。
そうしたら、この矛盾もつらくなくなった。
それとわんこの時の那智さんの感想で再認識したんだけど、那智さんは私の心を動かすことと「俺の物」と思えることが満足。
そのプロセスが大事で、それに伴う結果(私の乱れ具合?)は、それほど重要ではないのではないだろうかと思えるようになったのだ。
よほど(って、どれほど?)のことがない限り、どんな反応でも、数%嫌いになっても、それは那智さんにとっては満足の後のことだから、重要ではない。
だから、那智さんの満足のために、私は揺さぶられ、誇示され、その波に揉まれていればいいだけ。
それで、私がどうなろうとも那智さんの満足には変わりない。
そう思えたら、とても楽になった気がする。
そして、私は那智さんにとって、もっと大切な愛しいりん子になる。
だから、那智さんの幸せは私の幸せ、那智さんの満足は私の満足。
性的なことに限らず、自律できていない私にとってこの考え方は、とても安心してのびのびできるの。
でも、この考え方は、私の気持ちを軽くしてくれるけど、ちょっと危険な感じもする。
「俺の満足」という殿下の宝刀で「結局は、都合の良い女作り」になってしまうかもしれないからね。
でも、きっと大丈夫、「那智さんの満足で、私が幸せになれない時があったら、どうします?」、「その時は話し合えばいい」って言ってくれるから、私は全部素直に話せばいいんだ。
そうやって、負の感情も全部見せたら、それに向き合ってくれて、責任も負ってくれる。
もしかしたら、那智さんの方が私の幸せを考えてくれているかもしれないくらいだ。
うん、多分那智さんの方が考えてくれている。
私たちの関係に於いて、責任を負ってくれている那智さんの満足が、私を幸福にしてくれる。
那智さんの愛情に包まれ、守られている、それが私の幸せ。
ただ、この「卵が先か、鶏が先か」みたいな幸せの螺旋のスタートが「那智さんの幸せ」というだけのこと。
それが私たちの心地よいポジション。
(上手に説明できないよ〜)
これを改めて実感して、結果的に矛盾のつらさがなくなったのは、ゲストを招いて私を貸すという出来事があったからだ。
明日から、そのお話しをします。
凄いことをして凄い反応をしたあとは、いつもあれこれ聞いてしまう。
それは、思い出して「きゃっきゃ」と恥ずかしながらも喜ぶお遊びのようなものではなくて、はしたなくなったりん子を愛でる片鱗を探したいから。
私は乱れる私に、完全に嫌悪感を捨て去ることができない。
そして、那智さんも、自分が崩れさせるくせに、その状態の私を100%好きにはなってくれないことが多い。
だから、私は少しでもそのりん子を肯定する言葉が欲しいのだ。
でも、それはいつもだいたい玉砕されておしまいになる。
「○○のときの私はどうでしたか?」なんて質問に「不合格ではないというニュアンス」というような答えが返ってきたりする。
私は一気に悲しくなってしまう。
そこで悲しくなっていると、那智さんは「俺はそれが満足なのであって、それに対して何も言っていないはずだよ」と言う。
そう、那智さんは私が凄い反応をすることに対して、からかって面白がったりはするけれど、それがダメとも、その姿に不満だとも、一言もいっていない。
私が聞いて、勝手に悲しくなっているの。
気になることや不満があって、それを改善させたければちゃんと向き合う那智さんだから、その私の反応に言及しないのならば、そのままでいいってことなんだ。
乱れさせるくせに、その私を数%嫌いになる。
矛盾がひとつ。
そして、数%嫌いになることも満足。
また、矛盾。
この矛盾を感じることはつらくて、いままでも何度も悲しくなってきた。
でも、最近、少し考え方が変わった気がする。
もともと那智さんが言っていた「俺の幸せがりん子の幸せ。りん子が幸せだと俺も幸せ」。
この幸せの連鎖。
頭ではわかっていて、実感できていたつもりだったけど、もう一皮剥けた感じ。
そうしたら、この矛盾もつらくなくなった。
それとわんこの時の那智さんの感想で再認識したんだけど、那智さんは私の心を動かすことと「俺の物」と思えることが満足。
そのプロセスが大事で、それに伴う結果(私の乱れ具合?)は、それほど重要ではないのではないだろうかと思えるようになったのだ。
よほど(って、どれほど?)のことがない限り、どんな反応でも、数%嫌いになっても、それは那智さんにとっては満足の後のことだから、重要ではない。
だから、那智さんの満足のために、私は揺さぶられ、誇示され、その波に揉まれていればいいだけ。
それで、私がどうなろうとも那智さんの満足には変わりない。
そう思えたら、とても楽になった気がする。
そして、私は那智さんにとって、もっと大切な愛しいりん子になる。
だから、那智さんの幸せは私の幸せ、那智さんの満足は私の満足。
性的なことに限らず、自律できていない私にとってこの考え方は、とても安心してのびのびできるの。
でも、この考え方は、私の気持ちを軽くしてくれるけど、ちょっと危険な感じもする。
「俺の満足」という殿下の宝刀で「結局は、都合の良い女作り」になってしまうかもしれないからね。
でも、きっと大丈夫、「那智さんの満足で、私が幸せになれない時があったら、どうします?」、「その時は話し合えばいい」って言ってくれるから、私は全部素直に話せばいいんだ。
そうやって、負の感情も全部見せたら、それに向き合ってくれて、責任も負ってくれる。
もしかしたら、那智さんの方が私の幸せを考えてくれているかもしれないくらいだ。
うん、多分那智さんの方が考えてくれている。
私たちの関係に於いて、責任を負ってくれている那智さんの満足が、私を幸福にしてくれる。
那智さんの愛情に包まれ、守られている、それが私の幸せ。
ただ、この「卵が先か、鶏が先か」みたいな幸せの螺旋のスタートが「那智さんの幸せ」というだけのこと。
それが私たちの心地よいポジション。
(上手に説明できないよ〜)
これを改めて実感して、結果的に矛盾のつらさがなくなったのは、ゲストを招いて私を貸すという出来事があったからだ。
明日から、そのお話しをします。
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