訓練中
独特な幸福感
私が、Mだと自覚して相手を探しはじめて間もないころ、ある「ノンフィクション」に出会った。
小説やエロ本などではないその「フィクション」には、作り物ではない迫力があって、私を魅了した。(もちろんそれだって、この目で見た訳ではないから「作り物」と言ってしまえば、そううなんだけど)
そこで、私が憧れていた「痛いこと」「恥ずかしい」ことの先に起こる感情や感覚があることを知る。
そのころの私には「SM(痛いや恥ずかしい、拘束など)」をして、無我夢中になりたいと思うまでしか、想像ができていなかった。
当然その先に、その結果として生まれるものがあるはずなんだけど、そこまで思いが至らなかった。
漠然と憧れているのだから、当たり前と言えば、当たり前。
だから、その「フィクション」は私には、とても影響を与えた。
作り物でない迫力に、まるで私までその感情を味わっているような、もしくは、必ず味わえる約束のようなものを感じてしまった。
もともと、自分に自信のない私、他者に影響されやすいのは、容易に想像できる。
それから、何人かのS男性と会い、何十人(何百人?)の自称S男性とツーショットダイヤルで話すたびに、あそこに出てきた感覚を味わわせてくれる人は誰なんだろうという標準が一部でできてしまっていた。(一部ね、それがすべての基準じゃない)
それから、何年も経っている、那智さんとも知り合った。
それでも、まだ私の心のどこかで、その影響が残っていることは否定できない。
だから、それ以来あまり、そういう情報には触れないように心掛けてきた。(それに、悲しくなちゃうし)
耳年増になって、それらに「まるで、自分が味わえる」ようなシンパシーを感じてしまいたくなかったのだ。
「人は人、自分は自分、私たちは私たち」って、言えない自立していない私。
「那智さんのしてくれることは、何でも私の喜びだ」というようなことを、何度か書いている。
もちろん、何でもとは言っても、人として生きている中での許される範囲のこと。
それでも、そんな言い方は、多少「陶酔」の入った言葉。
わかっている。
どちらかというと、こういう感じだ。
那智さんがしたいと思ってくれないと、嬉しくない。
「縛ってほしい」と願って、それをしてもらっても、全然嬉しくない。
もちろん、もうお互いわかっているから「お願いさせて、叶えるお遊び」はあるけど、それだってそれを那智さんが望んでそうさせているから、嬉しいし意味がある。
例えば(こんな例えで伝わるかな)、私の妄想や性癖が「赤、青、黄色」だったとして、那智さんが「黄色、緑」だとする。
黄色はそのまま、緑は青と黄色と混ぜて、なんて那智さんの色を揃える。
それが嬉しいから、赤は使われなくてもかまわない、そのうち「オレンジ」なんてのを所望されて、赤と黄色を混ぜる日が来るかもしれないけど、それまで無理矢理使わないでいい。
那智さんが望んで、那智さんがしたいことをしてくれることじゃないと喜べない。
だから、耳年増になって、色を増やしたくないと思うのだ。(まあ、色が増えちゃう私もどうかと思うけど 笑)
必要なら、那智さんが色を増やしたり、調合したりするだろう、それがいい。
「フィスト」って、いうのがあるのよね。
私も詳しいことは知らないけど、握り拳をおまんこやお尻に入れること(入れてどうする??)。
これは私的には「うげ〜〜〜〜〜」なんだけど、物事には100%なんてそうそうないので、その「うげ〜〜〜〜」でも、私の中の100人中「一人の小指」くらいは、「あれ?」と呼応してしまう。
それは、その行為そのものというよりも「異質な私」への憧れ。
それでも「うげ〜〜〜〜〜」には変わりないのだけど、人は人、私たちは私たちって思えない私は「そんなことまでしている人がいる、でも、那智さんがしていな いということは、私たちの深度はその程度なの?」なんて、まったく無意味で那智さんに怒られてしまうような悲しい感情を持ってしまうことも確かなんだ。
那智さんも、しようと思ってはいなかった。
体に良くなさそうということと、おまんこの締まりが悪くなっては困る(最近とても締まるらしいし♪)という理由。
だけど、されている方は気持ち良いらしいと知って、「それもありかな〜」と思い始めたそうだ。
私としては「うげ〜〜〜〜〜」だから、素直にそう伝えるけど、「でも、俺の手が全部中に入っているのを想像してみ、悪くないだろ?」なんて言ってくる。
そうすると100人中の1人の小指だったのが、2人くらいが手を挙げてしまうのだ。
那智さんがしたいと思ったことで始まって、私の回路が繋がってしまうのだ。
新たな色が加えられるのか(それはさしずめ茶色かな〜?)と、心が右往左往してしまっていると。
「でも、締まりが悪くなるんだったら、120%しない」と断言。
この断言が、とても嬉しいの。
そんなこと当たり前のことかもしれないけど、「自分は自分」と思いにくい私には、この断言は安心なの。
私は「那智さん仕様」が嬉しい、それがいいと思えるように訓練してもらって、そして徐々にそうなっているはずだ。
(本当は「りん子オリジナル」が正解なのでしょうけど、しょうがない私たちはこれが幸せなんだ。)
だから、少しずつ、他者を客観視できて、そういう媒体を目にしても「自立」していられるような気がしている。(別に、目にしなくてもいいのだけどね)
でも、そう思えてきている私が、嬉しい。
人は、必ず何かに影響されるけど、それですべてを決めるものではない、そんな当たり前のことを訓練中。
だから、私は「那智さん仕様」を突き進む。
次回、那智さんらしさ炸裂の「プチ露出(私的には全然プチじゃない!!)そんなところに那智さん色出さなくても〜」をお送りしますね。
私が、Mだと自覚して相手を探しはじめて間もないころ、ある「ノンフィクション」に出会った。
小説やエロ本などではないその「フィクション」には、作り物ではない迫力があって、私を魅了した。(もちろんそれだって、この目で見た訳ではないから「作り物」と言ってしまえば、そううなんだけど)
そこで、私が憧れていた「痛いこと」「恥ずかしい」ことの先に起こる感情や感覚があることを知る。
そのころの私には「SM(痛いや恥ずかしい、拘束など)」をして、無我夢中になりたいと思うまでしか、想像ができていなかった。
当然その先に、その結果として生まれるものがあるはずなんだけど、そこまで思いが至らなかった。
漠然と憧れているのだから、当たり前と言えば、当たり前。
だから、その「フィクション」は私には、とても影響を与えた。
作り物でない迫力に、まるで私までその感情を味わっているような、もしくは、必ず味わえる約束のようなものを感じてしまった。
もともと、自分に自信のない私、他者に影響されやすいのは、容易に想像できる。
それから、何人かのS男性と会い、何十人(何百人?)の自称S男性とツーショットダイヤルで話すたびに、あそこに出てきた感覚を味わわせてくれる人は誰なんだろうという標準が一部でできてしまっていた。(一部ね、それがすべての基準じゃない)
それから、何年も経っている、那智さんとも知り合った。
それでも、まだ私の心のどこかで、その影響が残っていることは否定できない。
だから、それ以来あまり、そういう情報には触れないように心掛けてきた。(それに、悲しくなちゃうし)
耳年増になって、それらに「まるで、自分が味わえる」ようなシンパシーを感じてしまいたくなかったのだ。
「人は人、自分は自分、私たちは私たち」って、言えない自立していない私。
「那智さんのしてくれることは、何でも私の喜びだ」というようなことを、何度か書いている。
もちろん、何でもとは言っても、人として生きている中での許される範囲のこと。
それでも、そんな言い方は、多少「陶酔」の入った言葉。
わかっている。
どちらかというと、こういう感じだ。
那智さんがしたいと思ってくれないと、嬉しくない。
「縛ってほしい」と願って、それをしてもらっても、全然嬉しくない。
もちろん、もうお互いわかっているから「お願いさせて、叶えるお遊び」はあるけど、それだってそれを那智さんが望んでそうさせているから、嬉しいし意味がある。
例えば(こんな例えで伝わるかな)、私の妄想や性癖が「赤、青、黄色」だったとして、那智さんが「黄色、緑」だとする。
黄色はそのまま、緑は青と黄色と混ぜて、なんて那智さんの色を揃える。
それが嬉しいから、赤は使われなくてもかまわない、そのうち「オレンジ」なんてのを所望されて、赤と黄色を混ぜる日が来るかもしれないけど、それまで無理矢理使わないでいい。
那智さんが望んで、那智さんがしたいことをしてくれることじゃないと喜べない。
だから、耳年増になって、色を増やしたくないと思うのだ。(まあ、色が増えちゃう私もどうかと思うけど 笑)
必要なら、那智さんが色を増やしたり、調合したりするだろう、それがいい。
「フィスト」って、いうのがあるのよね。
私も詳しいことは知らないけど、握り拳をおまんこやお尻に入れること(入れてどうする??)。
これは私的には「うげ〜〜〜〜〜」なんだけど、物事には100%なんてそうそうないので、その「うげ〜〜〜〜」でも、私の中の100人中「一人の小指」くらいは、「あれ?」と呼応してしまう。
それは、その行為そのものというよりも「異質な私」への憧れ。
それでも「うげ〜〜〜〜〜」には変わりないのだけど、人は人、私たちは私たちって思えない私は「そんなことまでしている人がいる、でも、那智さんがしていな いということは、私たちの深度はその程度なの?」なんて、まったく無意味で那智さんに怒られてしまうような悲しい感情を持ってしまうことも確かなんだ。
那智さんも、しようと思ってはいなかった。
体に良くなさそうということと、おまんこの締まりが悪くなっては困る(最近とても締まるらしいし♪)という理由。
だけど、されている方は気持ち良いらしいと知って、「それもありかな〜」と思い始めたそうだ。
私としては「うげ〜〜〜〜〜」だから、素直にそう伝えるけど、「でも、俺の手が全部中に入っているのを想像してみ、悪くないだろ?」なんて言ってくる。
そうすると100人中の1人の小指だったのが、2人くらいが手を挙げてしまうのだ。
那智さんがしたいと思ったことで始まって、私の回路が繋がってしまうのだ。
新たな色が加えられるのか(それはさしずめ茶色かな〜?)と、心が右往左往してしまっていると。
「でも、締まりが悪くなるんだったら、120%しない」と断言。
この断言が、とても嬉しいの。
そんなこと当たり前のことかもしれないけど、「自分は自分」と思いにくい私には、この断言は安心なの。
私は「那智さん仕様」が嬉しい、それがいいと思えるように訓練してもらって、そして徐々にそうなっているはずだ。
(本当は「りん子オリジナル」が正解なのでしょうけど、しょうがない私たちはこれが幸せなんだ。)
だから、少しずつ、他者を客観視できて、そういう媒体を目にしても「自立」していられるような気がしている。(別に、目にしなくてもいいのだけどね)
でも、そう思えてきている私が、嬉しい。
人は、必ず何かに影響されるけど、それですべてを決めるものではない、そんな当たり前のことを訓練中。
だから、私は「那智さん仕様」を突き進む。
次回、那智さんらしさ炸裂の「プチ露出(私的には全然プチじゃない!!)そんなところに那智さん色出さなくても〜」をお送りしますね。
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