道具はどちら?
りん子的独り言(生意気)
『公衆便所』とか『便器』とか、女性を性処理の道具として扱う様子を時々目にします。
積極的に見ているわけではないのでごくわずかなケースしか知らないのだけど、そこから感じること。
経験のないわたしが外側から見て感じたことなので、的外れなことかもしれないですけど。
たくさんの男性が便器を使う。
便器だから、誰のものでもくわえ誰にでも体を開く。
女性には人格はなく、ただ男性の欲望を叶える道具としてだけ存在する。
女性は道具。
そんな女性を称して『公衆便所』。
だけど、本当にそれだけなのだろうか。
合意の上で、体を差し出す女性はただの道具なだけなのだろうか。
(っていうか、合意じゃなきゃ犯罪です!!)
合意の上ということであれば、そこに女性側にも何らかの利益が存在すると思うのだ。
見知らぬ男性に体を開くのだから、恐怖や嫌悪感で直接的な体の快感はないかもしれないけど。
被虐願望を満たしているかもしれないし。
自分をそこに差し出す主の存在が快感になっているかもしれない。
終わった後に、その主に褒めてもらうことが幸福かもしれない。
多分、どんな形にしても、何らかの快感に繋がっていると思うのだ。
『便器』だから表には現れないかもしれないけど、内側に密かな快感が存在しているのではないか。
もしかしたら、差し出す主にもその密やかな快感の存在を知っている人もいると思うけど。
使用している男性たちの中で、それを想像する人はどれくらいいるのだろう。
もし、秘めた快感が存在するとしたら。
その女性にとってそこにいる男性たちは、道具だよね。
双方が、欲望を果たすための道具になっていると思うのだ。
便器に群がる男性たちの中で、便器を使っている自分も実は道具なんじゃないかと想像できている人はどれくらいいるだろう。
そういう想像力のある人が大半だったとしても。
もし自分が道具になっていることに考えが及ばず、一方的に使っているとしか考えず、優越感に浸りながら腰を振っている男性がいるとするなら、わたしはその姿がとても滑稽なものに見えてしまう。
腰を振っているあなたは、道具なのかもしれない。
人格のない便器のバイブレーターになっているだけかもしれない。
道具を使っているように見えて、実は自分も道具なのかもしれない。
なんて思ってしまった。
心の交流のないセックスは女性を深く傷つけると思っている。
愛情でも友愛でも性的嗜好の一致でも、とにかく心の交流を持ってくれる相手とセックスしないと傷つく。
(『秘訣』『秘訣の続き』『もうひとつの秘訣』あたりにいっぱい書いてあります^^)
その意見は変わらない。
だけど、それと矛盾してしまうけど。
願わくば。
男性からは道具と思われている女性が、その男性を道具にするタフさを持ってほしいと思う。
実は自分も道具なのかもしれないと思える想像力のある男性が一人でも多いといいなと思ってしまう。
そして、使っている男性や我々外野の知ることのない、深く密かな快感を味わっていてほしいと思う。
『公衆便所』なんていうのを目にすると、いったいどちらが道具なんだろう?なんてちょっと意地悪な想像をしたるするのだ。
あくまでも合意の上での話です。
合意の上じゃないと犯罪ですし、『イヤよイヤも好きのうち』なんて勘違いしないでくださいね。
『公衆便所』とか『便器』とか、女性を性処理の道具として扱う様子を時々目にします。
積極的に見ているわけではないのでごくわずかなケースしか知らないのだけど、そこから感じること。
経験のないわたしが外側から見て感じたことなので、的外れなことかもしれないですけど。
たくさんの男性が便器を使う。
便器だから、誰のものでもくわえ誰にでも体を開く。
女性には人格はなく、ただ男性の欲望を叶える道具としてだけ存在する。
女性は道具。
そんな女性を称して『公衆便所』。
だけど、本当にそれだけなのだろうか。
合意の上で、体を差し出す女性はただの道具なだけなのだろうか。
(っていうか、合意じゃなきゃ犯罪です!!)
合意の上ということであれば、そこに女性側にも何らかの利益が存在すると思うのだ。
見知らぬ男性に体を開くのだから、恐怖や嫌悪感で直接的な体の快感はないかもしれないけど。
被虐願望を満たしているかもしれないし。
自分をそこに差し出す主の存在が快感になっているかもしれない。
終わった後に、その主に褒めてもらうことが幸福かもしれない。
多分、どんな形にしても、何らかの快感に繋がっていると思うのだ。
『便器』だから表には現れないかもしれないけど、内側に密かな快感が存在しているのではないか。
もしかしたら、差し出す主にもその密やかな快感の存在を知っている人もいると思うけど。
使用している男性たちの中で、それを想像する人はどれくらいいるのだろう。
もし、秘めた快感が存在するとしたら。
その女性にとってそこにいる男性たちは、道具だよね。
双方が、欲望を果たすための道具になっていると思うのだ。
便器に群がる男性たちの中で、便器を使っている自分も実は道具なんじゃないかと想像できている人はどれくらいいるだろう。
そういう想像力のある人が大半だったとしても。
もし自分が道具になっていることに考えが及ばず、一方的に使っているとしか考えず、優越感に浸りながら腰を振っている男性がいるとするなら、わたしはその姿がとても滑稽なものに見えてしまう。
腰を振っているあなたは、道具なのかもしれない。
人格のない便器のバイブレーターになっているだけかもしれない。
道具を使っているように見えて、実は自分も道具なのかもしれない。
なんて思ってしまった。
心の交流のないセックスは女性を深く傷つけると思っている。
愛情でも友愛でも性的嗜好の一致でも、とにかく心の交流を持ってくれる相手とセックスしないと傷つく。
(『秘訣』『秘訣の続き』『もうひとつの秘訣』あたりにいっぱい書いてあります^^)
その意見は変わらない。
だけど、それと矛盾してしまうけど。
願わくば。
男性からは道具と思われている女性が、その男性を道具にするタフさを持ってほしいと思う。
実は自分も道具なのかもしれないと思える想像力のある男性が一人でも多いといいなと思ってしまう。
そして、使っている男性や我々外野の知ることのない、深く密かな快感を味わっていてほしいと思う。
『公衆便所』なんていうのを目にすると、いったいどちらが道具なんだろう?なんてちょっと意地悪な想像をしたるするのだ。
あくまでも合意の上での話です。
合意の上じゃないと犯罪ですし、『イヤよイヤも好きのうち』なんて勘違いしないでくださいね。
犬よりも『犬』(笑)
独り言
自分は犬気質なくせに猫大好きなわたし。
犬はね…犬好きの方には申し訳ないけど、好きじゃない。
ううん、はっきり言おう。
むしろ、嫌いに近い。
飼ったことがないから、どう接していいかわからないというのを理由にしていたけど、突き詰めれば、あの『かまって』感が苦手なんだ。
知るか!!こっちがかまってほしいんじゃ〜という感じ(笑)
不思議なもので、かまってほしがる同士では『かまって欲』は満たされないようだ。
ということで、飼ったことがないから…というのは体のいい言い訳で、要するに『同族嫌悪』だったんじゃないかと最近思う。
その『同族嫌悪』を確信する出来事があった。
先日、知り合いのお宅にお呼ばれした。
とても立派なお宅で、日当りの良い吹き抜けのリビングには大きなダイニングテーブルとソファ、カウンターキッチンにスツールもあり、十数人集まっても十分な広さだった。
そこであるイベントの打ち合わせを兼ねて試食会が行われたのだ。
調理担当者がキッチンで準備して、他のメンバーは試食して価格や販売形状を思案する。
わたしは別の担当があって、はじめは別室で他の準備をしていた。
その準備が終わり試食会で賑わうリビングに合流した。
みんな差し入れのビールやワインを片手にあれこれ打ち合わせ。
わたしは担当外なので、試食させてもらいながらそのお宅のご主人とワインを空ける。
犬を飼っているのはお邪魔したときから気づいていたけど、まったく興味がないので最初から無視していた。
その犬がスツールに腰掛けるわたしの足の間をすり抜け、ダイニングテーブルで打ち合わせをしている一人に近づき、太ももの前足を乗せて尻尾をブンブン振っている。
かまって、かまって〜ってしている。
「あ〜、はいはい♪」
メモを取りながら、上手に片方の手で犬の体や首辺りを撫でてあげている。
しばらくすると、別の人のところへ。
試食会議の長の女性のところだ。
同じように、尻尾を振って前足を乗せる。
目をくりくりとさせて、愛嬌たっぷり。
「わかったわよ〜、○○さん、もうひとつあげてもいい?」
その家の主人に確認して、試食用の揚げた鶏肉をひと欠片犬に食べさせてた。
ふ〜ん、たしかに、あんなふうに尻尾振って目を輝かせてそばに来たら可愛いと思うだろうな〜。
普段は、犬側目線なのだけど、このときはちょっと人目線でそう思った。
でも、基本、無視(笑)
しばらくすると、話しをしていたご主人が席を外してしまって、一瞬わたし一人になった。
担当外のわたしが打ち合わせに顔を突っ込むこともできないので、ちょっと退屈。
そうだ、犬、かまってみよう!!
ちょうど近くにいたので、とりあえずスツールから降りてしゃがんでみる。
犬と視線があった。
一歩犬がこちらに寄り。
小さく『がるる』と唸ったのだ。
え!?
なに?その警戒姿勢!!
ううん、きっと空耳だよね。
わたし何も悪いことしていないものね。
わたしは聞こえなかったフリをして、両手を犬のほうに差し出し『おいでおいで』としてみる。
ポチポチと近づく犬。
ほら、やっぱり勘違いだわ。
全然警戒していないじゃない。
やっぱり犬は誰にでも懐くものなんだな〜。
わたしのすぐ前まで犬が来た。
…、さて、どうしたらいいの…?
わからない。
とりあえず、猫の好きな撫でポイントを撫でてみる。
首筋。
眉間。
おでこ。
うう、なんだか慣れなくておっかなびっくり。
わたしと犬の間にギクシャクとした空気が流れる。
撫でるわたしの膝や手を甘噛みしだした。
『うわ!!噛まれる!!』
甘噛みというのは知っていたけど、犬怖いんだもの。
思わずビビってしまって、ギクシャク度も増す。
ひたすら猫ポイントを撫でる。
しばらくすると甘噛みをやめて、コロンと横になりまるっきりお腹を見せてしまったのだ。
おお、お腹を見せるというのは服従だっていうよね!!
早くも手懐けたのか、わたし。
犬、御しやすし。
そう思って、ふと尻尾に視線を移すと。
だっら〜ん。
尻尾、ダレてる^^;
嬉しそうに振るでもなく、服従して萎縮するでもなく。
だら〜んと、ただダレてる。
不意に、別の部屋からそのお宅のお子さんたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
お腹を見せていた犬は、ささっと起き上がり一目散にその部屋に駆けて行った。
もしかして、もしかして、犬のヤツ『お愛想』で懐いたフリしていた!?
なんか似たような空気の女が無理矢理かまおうとしているから、『はいはい、わかりましたよ、お腹見せとけばいいでしょ』みたいな感じ?
うわあ、なんか変な感じ。
少しして、戻ってきた犬に、もう一回チャレンジ。
『同じ犬なんだから、仲良くして〜』なんて心の中で訴えながら。
しゃがんで呼んでみると。
すっと近づいてきて、わたしの手にしていたハンドタオルをくわえ手から奪い、そのままダイニングテーブルの近くまで持っていってしまった。
んん?遊んでほしいの?
わたしの匂いが気に入った?
さっきの『お愛想』は勘違いかと、ちょっと気分良くなりかけたそのとき。
ポンと、そのハンドタオルをテーブルの下に捨てて、知らん顔してどこかに行ってしまった。
そのしれっとした様子。
なに?からかってるの!?
信じられない!!
わたし、犬にからかわれたの!?
ええ?誰にでも懐くと思われている犬にからかわれる?
わたしは、何だ?
犬にからかわれる、もしくは、犬にかまってもらってる?
ある意味犬より『犬』っぽいぞ、わたし^^;
複雑な気分。
他人にはわからないでしょうけど。
あの『ガルル』から始まって、ハンドタオル持って行かれるまでのわたしと犬の間に流れていた空気は、『懐く』とか『かまって〜』とかそんな犬から連想される可愛らしいものではなかった。
明らかに『同族嫌悪』を感じずにはいられないものだった。
どうやら、犬のほうにも『同族嫌悪』はあるらしい^^;
犬って誰にでも尻尾振るものだと思っていたら、そんなこともないのね。
ちぇっと思う。
でも、それって、『M女だから、何をしても喜ぶ』と勘違いしている男性と同じ思考だ。
それに気付き、犬に謝りたい気分にもなる。
ごめんね、誰だっていいわけないよね。
犬だって、M女だって、心からかまいたいと思ってくれて上手にかまってくれる人じゃないといやだよね^^
って。
犬の気持ちはよーくわかる。
だけど、悲しいかなかまって欲しいもの同士では、『かまって欲しい』欲は満たされない。
あなたもわたしも悪くない、だけど、似た者同士が故に合わない^^;
同族嫌悪ってやつだろうか。
だから、遠くで幸せを願うのみ^^;
お互いいい人にかまってもらおうねって。
ということで、やっぱりわたしは猫大好きの、犬気質。
自分は犬気質なくせに猫大好きなわたし。
犬はね…犬好きの方には申し訳ないけど、好きじゃない。
ううん、はっきり言おう。
むしろ、嫌いに近い。
飼ったことがないから、どう接していいかわからないというのを理由にしていたけど、突き詰めれば、あの『かまって』感が苦手なんだ。
知るか!!こっちがかまってほしいんじゃ〜という感じ(笑)
不思議なもので、かまってほしがる同士では『かまって欲』は満たされないようだ。
ということで、飼ったことがないから…というのは体のいい言い訳で、要するに『同族嫌悪』だったんじゃないかと最近思う。
その『同族嫌悪』を確信する出来事があった。
先日、知り合いのお宅にお呼ばれした。
とても立派なお宅で、日当りの良い吹き抜けのリビングには大きなダイニングテーブルとソファ、カウンターキッチンにスツールもあり、十数人集まっても十分な広さだった。
そこであるイベントの打ち合わせを兼ねて試食会が行われたのだ。
調理担当者がキッチンで準備して、他のメンバーは試食して価格や販売形状を思案する。
わたしは別の担当があって、はじめは別室で他の準備をしていた。
その準備が終わり試食会で賑わうリビングに合流した。
みんな差し入れのビールやワインを片手にあれこれ打ち合わせ。
わたしは担当外なので、試食させてもらいながらそのお宅のご主人とワインを空ける。
犬を飼っているのはお邪魔したときから気づいていたけど、まったく興味がないので最初から無視していた。
その犬がスツールに腰掛けるわたしの足の間をすり抜け、ダイニングテーブルで打ち合わせをしている一人に近づき、太ももの前足を乗せて尻尾をブンブン振っている。
かまって、かまって〜ってしている。
「あ〜、はいはい♪」
メモを取りながら、上手に片方の手で犬の体や首辺りを撫でてあげている。
しばらくすると、別の人のところへ。
試食会議の長の女性のところだ。
同じように、尻尾を振って前足を乗せる。
目をくりくりとさせて、愛嬌たっぷり。
「わかったわよ〜、○○さん、もうひとつあげてもいい?」
その家の主人に確認して、試食用の揚げた鶏肉をひと欠片犬に食べさせてた。
ふ〜ん、たしかに、あんなふうに尻尾振って目を輝かせてそばに来たら可愛いと思うだろうな〜。
普段は、犬側目線なのだけど、このときはちょっと人目線でそう思った。
でも、基本、無視(笑)
しばらくすると、話しをしていたご主人が席を外してしまって、一瞬わたし一人になった。
担当外のわたしが打ち合わせに顔を突っ込むこともできないので、ちょっと退屈。
そうだ、犬、かまってみよう!!
ちょうど近くにいたので、とりあえずスツールから降りてしゃがんでみる。
犬と視線があった。
一歩犬がこちらに寄り。
小さく『がるる』と唸ったのだ。
え!?
なに?その警戒姿勢!!
ううん、きっと空耳だよね。
わたし何も悪いことしていないものね。
わたしは聞こえなかったフリをして、両手を犬のほうに差し出し『おいでおいで』としてみる。
ポチポチと近づく犬。
ほら、やっぱり勘違いだわ。
全然警戒していないじゃない。
やっぱり犬は誰にでも懐くものなんだな〜。
わたしのすぐ前まで犬が来た。
…、さて、どうしたらいいの…?
わからない。
とりあえず、猫の好きな撫でポイントを撫でてみる。
首筋。
眉間。
おでこ。
うう、なんだか慣れなくておっかなびっくり。
わたしと犬の間にギクシャクとした空気が流れる。
撫でるわたしの膝や手を甘噛みしだした。
『うわ!!噛まれる!!』
甘噛みというのは知っていたけど、犬怖いんだもの。
思わずビビってしまって、ギクシャク度も増す。
ひたすら猫ポイントを撫でる。
しばらくすると甘噛みをやめて、コロンと横になりまるっきりお腹を見せてしまったのだ。
おお、お腹を見せるというのは服従だっていうよね!!
早くも手懐けたのか、わたし。
犬、御しやすし。
そう思って、ふと尻尾に視線を移すと。
だっら〜ん。
尻尾、ダレてる^^;
嬉しそうに振るでもなく、服従して萎縮するでもなく。
だら〜んと、ただダレてる。
不意に、別の部屋からそのお宅のお子さんたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
お腹を見せていた犬は、ささっと起き上がり一目散にその部屋に駆けて行った。
もしかして、もしかして、犬のヤツ『お愛想』で懐いたフリしていた!?
なんか似たような空気の女が無理矢理かまおうとしているから、『はいはい、わかりましたよ、お腹見せとけばいいでしょ』みたいな感じ?
うわあ、なんか変な感じ。
少しして、戻ってきた犬に、もう一回チャレンジ。
『同じ犬なんだから、仲良くして〜』なんて心の中で訴えながら。
しゃがんで呼んでみると。
すっと近づいてきて、わたしの手にしていたハンドタオルをくわえ手から奪い、そのままダイニングテーブルの近くまで持っていってしまった。
んん?遊んでほしいの?
わたしの匂いが気に入った?
さっきの『お愛想』は勘違いかと、ちょっと気分良くなりかけたそのとき。
ポンと、そのハンドタオルをテーブルの下に捨てて、知らん顔してどこかに行ってしまった。
そのしれっとした様子。
なに?からかってるの!?
信じられない!!
わたし、犬にからかわれたの!?
ええ?誰にでも懐くと思われている犬にからかわれる?
わたしは、何だ?
犬にからかわれる、もしくは、犬にかまってもらってる?
ある意味犬より『犬』っぽいぞ、わたし^^;
複雑な気分。
他人にはわからないでしょうけど。
あの『ガルル』から始まって、ハンドタオル持って行かれるまでのわたしと犬の間に流れていた空気は、『懐く』とか『かまって〜』とかそんな犬から連想される可愛らしいものではなかった。
明らかに『同族嫌悪』を感じずにはいられないものだった。
どうやら、犬のほうにも『同族嫌悪』はあるらしい^^;
犬って誰にでも尻尾振るものだと思っていたら、そんなこともないのね。
ちぇっと思う。
でも、それって、『M女だから、何をしても喜ぶ』と勘違いしている男性と同じ思考だ。
それに気付き、犬に謝りたい気分にもなる。
ごめんね、誰だっていいわけないよね。
犬だって、M女だって、心からかまいたいと思ってくれて上手にかまってくれる人じゃないといやだよね^^
って。
犬の気持ちはよーくわかる。
だけど、悲しいかなかまって欲しいもの同士では、『かまって欲しい』欲は満たされない。
あなたもわたしも悪くない、だけど、似た者同士が故に合わない^^;
同族嫌悪ってやつだろうか。
だから、遠くで幸せを願うのみ^^;
お互いいい人にかまってもらおうねって。
ということで、やっぱりわたしは猫大好きの、犬気質。
チューニング
りん子的独り言(エラそう)
前エントリー『アンテナ』(3/8)を書いていて、またいつものノロケになっちゃったな〜と思いながら、実はわたしにとってとても重要な回路が繋がってもいた。
那智さんの意志を感じ取る『アンテナ』を張ると書いていたけれど、それは那智さんに限ったことじゃないのではないだろうかと思ったのだ。
他の人からしたら些細なことかもしれない。
でも、自分のことをわかっていくのは、生きていく上でとても大事なこと。
それが、わずかに感じていた『生きにくさ』に繋がっているとしたら、尚更だよね。
悲劇のヒロインになるつもりはないのです。
こういう人もいるんだなと思って読んでいただけるとうれしいです。
なぜだかわからないけど。
人の言葉の小さな棘を感じ取ってしまっていた。
冗談と笑って言っていることでも、そこに微かな悪意を感じて途方に暮れることもある。
(ブラックジョークと悪意は違うものなので、ブラックジョークは多いに笑えます)
わたしは、弱いのだろうか、傷つきやすいのだろうか。
いちいち棘が刺さる自分を情けない人間に思っていた。
『アンテナ』を書いていて、もしかしたらアンテナの感度が少し強いのではないかと思ったのだ。
確かに強い精神は持っていないけど^^;、ただ弱いというのではなくて、感度が良すぎるのではないか。
なぜそう思ったかというと。
わたしは自分に向けられるもの以外でも、人の『悪意』にとても敏感みたいなんだ。
女子の輪の中の『冗談』という悪口に敏感だし。
友人でもない、隣のクラスの女の子がシカトされている様子を見つけたり、不良と呼ばれる子たちにちょっかいを出されている男子を見たりしても、正義感や倫理観だけじゃない、別の感情が湧いてしまって苦しくなってしまう。
なんていうのかな、他人事と思えず我がことのようにシンパシーを感じ取ってしまって、苦しい気持ちになってしまっていたんだ。
その男子を庇おうと、その不良たちの前の立ちはだかってしまったこともあるし^^;
女子のシカトに加わらず、結果自分が呼び出されるなんてこともあったし。
ひと事の『悪意』を拾ってしまって、スルーできないのだ。
黙っていればいいのに、それもできず、更に傷つかなくてよい傷まで負ってしまう。
サラリーマンが駅員に怒鳴っていても。
電車で隣に座った男性の貧乏揺すりも。
まったく関係ない他人の発する『負』でさえ、我がことのようでスルーできず、ヒヤヒヤソワソワしてしまう。
自分に関係ない人のことでもいちいち気づいて、いちいち心がささくれ立って刺さってしまうのは、アンテナの感度が良すぎるからではないだろうかと思ったんだ。
那智さんの、メールの一言に込めた小さな意志を感じ取ることができたことは、きっとアンテナのおかげだ。
でも、このアンテナは同じように小さな悪意も拾ってしまうんじゃないかと思ったのです。
もし、そうだとするなら。
わたしは、とても気持ちが楽になる。
だって、それはわたしが『弱い』だけじゃないのだもの。
これは両手を広げて歩いているようなものなんじゃないか。
普通に歩いていれば当たらずに済むナイフも当たってしまう。
拾わなくていい雑音も拾ってしまう。
そりゃあ、痛いよね。
確かに、わたしは決して強くない(えばるな^^)
でも、きっといらない雑音をたくさん拾ってしまっているんだと思うと、なんだか気持が楽になる。
もちろん、人はみんないろんな棘から身を守り、時には立ち向かい、自分の力で生きているのだから、わたしだけが棘刺さってると思っているわけじゃないのですよ。
だけど、他人が他人に向ける『悪意』さえも拾っているということは、わたしのアンテナは少し感度が強いのではないかと思うのだ。
きっと感度強くて、それで苦しくなっているんだと思えれば、自分を責めることなく、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ事実としてそれを受け止められるよね。
ああ、なんで傷ついちゃうんだろうって自分を責めるんじゃなくて。
アンテナの奴、拾っちゃな〜と客観視できるほうが、問題解決に一歩近づけると思うのです。
だから、アンテナの存在がわかったことは、わたしにはとても重要なことだった。
ただ、これは単に悲劇なだけじゃなくて、実はとても良い点もある。
それは、小さな幸福を感じ取ることもできるということ。
それのひとつが、『俺は楽しむ』という言葉から、那智さんの意志を見つけることができたことに表れていると思う。
例えば、ひこうき雲を見つけて『なんだか今日幸せかも〜』と上機嫌になったり。
毎日のご飯は幸福だし、露天風呂で夕立なんてスーパーラッキーなプレゼント。
高校生がおばあさんに席を譲ったりしているのを見ると、わたしまで喜んじゃったり。
昔から、低燃費で幸福を感じられる自分を『安上がりな女だな〜』と思っていたけど。
これも、もしアンテナのおかげだとしたら。
なーんだ、悪いばかりじゃないじゃないアンテナ、とも思える。
物事には、いろんな側面があるなと思う。
その両方がわかっていると、混乱せずシンプルに解決する道が見つけられるのではないかしら。
で、多分。
那智さんも、似たようなアンテナを持っているんだ。
だから、わたしと感性が合うと感じている。
じゃあ、なぜ那智さんは弱くないの?
俺は鎧を着けることも学んでいるし、ここは傷を受けるかもしれないと先回りして力を入れることもできる。
同じようなアンテナを持っている人も、そうやってみんな自衛しているんだよ。
うう、すみません、やっぱり、わたしは根性ないのか…。
だけど、わたしはあなたの『意志』をしっかり感じることができた、鎧を着ていないから気持ちのよい綿毛を感じることもできているかもしれない。
なーんて、開き直らずに^^;
わずかに感じていた『生きにくさ』の理由がわかった気がする。
問題の原因がわかれば解決方法に繋がるよね、もういい年した大人なんだけど、これからでも遅くない。
きっと、時には鎧を着て、普段はたくさんの幸福を感じられるようなわたしになれるはず。
だから『アンテナ』の存在を認知できたことは、わたしにはとても大きな収穫だったのだ。
同じように、なぜ棘刺さってばっかりなんだろうと感じる人がいたら、もしかしたらアンテナの感度が良すぎるのかもしれない。
そして、それと繋がったところで『小さな幸福』を見つける感度も強いかもしれないよ。
悪いことばかりじゃないと思いたい。
アンテナの感度が良くても、しっかりと生きている人もいるでしょう。
上手に自分をコントロールして、幸福の感度だけ上げられる人もいるかもしれない。
わたしも、これが『悲劇』だと言っているのではなくて、自分を客観視できたほうが楽になるなと思って書きました。
だから、悲劇のヒロインになってなければいいのだけど^^;
ブログをはじめて。
思考や問題点がクリアになるのを感じる。
言語化することって大事だな〜と思う。
言語化してクリアになったことを那智さんと話し。
那智さんと話して形になったことをまた言語化する。
本当は、こういう作業は自分の内側で行うものなのでしょうけど。
わたしは、それをブログにしちゃっているわけで、実生活で付き合いのある人のほとんどは、わたしのこういう部分を知らないと思う。
『凹む』とか『傷つく』とは無縁な人と思われているはず。
というくらい、ここは内側のわたし^^;
で、そこにスポットを当てて書いているから、なんだか付き合いにくい女像が出来上がってしまっているかもしれない^^;
それでもって、M女さんブログを読んでつらそうなことが書かれていたりすると、これもアンテナがキャッチしまくりで、ついつい吠えちゃうんだな、きっと^^;
だから、我がことのように生意気なこと書いちゃう。
そんなんだから、なんか、やな奴になっている気がしないでもないけど…。
実物は、けっこういい奴なんだよぉと、最後にちょっとフォローを入れてみる^^
みんなアンテナを持っているのでしょう。
わたしは、多分、正も負も両方に対して感度がちょっと良すぎるみたい。
(もっと良くて、何かの才能を開花させたり、逆に苦しさが増している人もいると思う)
存在がわかれば、チューニングの必要性もわかるはず。
で、この年にして、那智さんからチューニング方法を教えてもらっている。
なんだか情けない気もするけど、伸びしろがあるってことで、良しとしていただこうと思っています^^
前エントリー『アンテナ』(3/8)を書いていて、またいつものノロケになっちゃったな〜と思いながら、実はわたしにとってとても重要な回路が繋がってもいた。
那智さんの意志を感じ取る『アンテナ』を張ると書いていたけれど、それは那智さんに限ったことじゃないのではないだろうかと思ったのだ。
他の人からしたら些細なことかもしれない。
でも、自分のことをわかっていくのは、生きていく上でとても大事なこと。
それが、わずかに感じていた『生きにくさ』に繋がっているとしたら、尚更だよね。
悲劇のヒロインになるつもりはないのです。
こういう人もいるんだなと思って読んでいただけるとうれしいです。
なぜだかわからないけど。
人の言葉の小さな棘を感じ取ってしまっていた。
冗談と笑って言っていることでも、そこに微かな悪意を感じて途方に暮れることもある。
(ブラックジョークと悪意は違うものなので、ブラックジョークは多いに笑えます)
わたしは、弱いのだろうか、傷つきやすいのだろうか。
いちいち棘が刺さる自分を情けない人間に思っていた。
『アンテナ』を書いていて、もしかしたらアンテナの感度が少し強いのではないかと思ったのだ。
確かに強い精神は持っていないけど^^;、ただ弱いというのではなくて、感度が良すぎるのではないか。
なぜそう思ったかというと。
わたしは自分に向けられるもの以外でも、人の『悪意』にとても敏感みたいなんだ。
女子の輪の中の『冗談』という悪口に敏感だし。
友人でもない、隣のクラスの女の子がシカトされている様子を見つけたり、不良と呼ばれる子たちにちょっかいを出されている男子を見たりしても、正義感や倫理観だけじゃない、別の感情が湧いてしまって苦しくなってしまう。
なんていうのかな、他人事と思えず我がことのようにシンパシーを感じ取ってしまって、苦しい気持ちになってしまっていたんだ。
その男子を庇おうと、その不良たちの前の立ちはだかってしまったこともあるし^^;
女子のシカトに加わらず、結果自分が呼び出されるなんてこともあったし。
ひと事の『悪意』を拾ってしまって、スルーできないのだ。
黙っていればいいのに、それもできず、更に傷つかなくてよい傷まで負ってしまう。
サラリーマンが駅員に怒鳴っていても。
電車で隣に座った男性の貧乏揺すりも。
まったく関係ない他人の発する『負』でさえ、我がことのようでスルーできず、ヒヤヒヤソワソワしてしまう。
自分に関係ない人のことでもいちいち気づいて、いちいち心がささくれ立って刺さってしまうのは、アンテナの感度が良すぎるからではないだろうかと思ったんだ。
那智さんの、メールの一言に込めた小さな意志を感じ取ることができたことは、きっとアンテナのおかげだ。
でも、このアンテナは同じように小さな悪意も拾ってしまうんじゃないかと思ったのです。
もし、そうだとするなら。
わたしは、とても気持ちが楽になる。
だって、それはわたしが『弱い』だけじゃないのだもの。
これは両手を広げて歩いているようなものなんじゃないか。
普通に歩いていれば当たらずに済むナイフも当たってしまう。
拾わなくていい雑音も拾ってしまう。
そりゃあ、痛いよね。
確かに、わたしは決して強くない(えばるな^^)
でも、きっといらない雑音をたくさん拾ってしまっているんだと思うと、なんだか気持が楽になる。
もちろん、人はみんないろんな棘から身を守り、時には立ち向かい、自分の力で生きているのだから、わたしだけが棘刺さってると思っているわけじゃないのですよ。
だけど、他人が他人に向ける『悪意』さえも拾っているということは、わたしのアンテナは少し感度が強いのではないかと思うのだ。
きっと感度強くて、それで苦しくなっているんだと思えれば、自分を責めることなく、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ事実としてそれを受け止められるよね。
ああ、なんで傷ついちゃうんだろうって自分を責めるんじゃなくて。
アンテナの奴、拾っちゃな〜と客観視できるほうが、問題解決に一歩近づけると思うのです。
だから、アンテナの存在がわかったことは、わたしにはとても重要なことだった。
ただ、これは単に悲劇なだけじゃなくて、実はとても良い点もある。
それは、小さな幸福を感じ取ることもできるということ。
それのひとつが、『俺は楽しむ』という言葉から、那智さんの意志を見つけることができたことに表れていると思う。
例えば、ひこうき雲を見つけて『なんだか今日幸せかも〜』と上機嫌になったり。
毎日のご飯は幸福だし、露天風呂で夕立なんてスーパーラッキーなプレゼント。
高校生がおばあさんに席を譲ったりしているのを見ると、わたしまで喜んじゃったり。
昔から、低燃費で幸福を感じられる自分を『安上がりな女だな〜』と思っていたけど。
これも、もしアンテナのおかげだとしたら。
なーんだ、悪いばかりじゃないじゃないアンテナ、とも思える。
物事には、いろんな側面があるなと思う。
その両方がわかっていると、混乱せずシンプルに解決する道が見つけられるのではないかしら。
で、多分。
那智さんも、似たようなアンテナを持っているんだ。
だから、わたしと感性が合うと感じている。
じゃあ、なぜ那智さんは弱くないの?
俺は鎧を着けることも学んでいるし、ここは傷を受けるかもしれないと先回りして力を入れることもできる。
同じようなアンテナを持っている人も、そうやってみんな自衛しているんだよ。
うう、すみません、やっぱり、わたしは根性ないのか…。
だけど、わたしはあなたの『意志』をしっかり感じることができた、鎧を着ていないから気持ちのよい綿毛を感じることもできているかもしれない。
なーんて、開き直らずに^^;
わずかに感じていた『生きにくさ』の理由がわかった気がする。
問題の原因がわかれば解決方法に繋がるよね、もういい年した大人なんだけど、これからでも遅くない。
きっと、時には鎧を着て、普段はたくさんの幸福を感じられるようなわたしになれるはず。
だから『アンテナ』の存在を認知できたことは、わたしにはとても大きな収穫だったのだ。
同じように、なぜ棘刺さってばっかりなんだろうと感じる人がいたら、もしかしたらアンテナの感度が良すぎるのかもしれない。
そして、それと繋がったところで『小さな幸福』を見つける感度も強いかもしれないよ。
悪いことばかりじゃないと思いたい。
アンテナの感度が良くても、しっかりと生きている人もいるでしょう。
上手に自分をコントロールして、幸福の感度だけ上げられる人もいるかもしれない。
わたしも、これが『悲劇』だと言っているのではなくて、自分を客観視できたほうが楽になるなと思って書きました。
だから、悲劇のヒロインになってなければいいのだけど^^;
ブログをはじめて。
思考や問題点がクリアになるのを感じる。
言語化することって大事だな〜と思う。
言語化してクリアになったことを那智さんと話し。
那智さんと話して形になったことをまた言語化する。
本当は、こういう作業は自分の内側で行うものなのでしょうけど。
わたしは、それをブログにしちゃっているわけで、実生活で付き合いのある人のほとんどは、わたしのこういう部分を知らないと思う。
『凹む』とか『傷つく』とは無縁な人と思われているはず。
というくらい、ここは内側のわたし^^;
で、そこにスポットを当てて書いているから、なんだか付き合いにくい女像が出来上がってしまっているかもしれない^^;
それでもって、M女さんブログを読んでつらそうなことが書かれていたりすると、これもアンテナがキャッチしまくりで、ついつい吠えちゃうんだな、きっと^^;
だから、我がことのように生意気なこと書いちゃう。
そんなんだから、なんか、やな奴になっている気がしないでもないけど…。
実物は、けっこういい奴なんだよぉと、最後にちょっとフォローを入れてみる^^
みんなアンテナを持っているのでしょう。
わたしは、多分、正も負も両方に対して感度がちょっと良すぎるみたい。
(もっと良くて、何かの才能を開花させたり、逆に苦しさが増している人もいると思う)
存在がわかれば、チューニングの必要性もわかるはず。
で、この年にして、那智さんからチューニング方法を教えてもらっている。
なんだか情けない気もするけど、伸びしろがあるってことで、良しとしていただこうと思っています^^
諭され萌え
独特な幸福感
まったく色気のないお話ですが。
関東ならスイカ、関西ならイコカなどなどの、チャージして改札ピッのチャージ。
一度に高額チャージします?
それともちょこちょこチャージします?
合理的な那智さんはもちろん前者で。
わたしは後者。
たいがい最小金額の「1000円」しかチャージしないので、しょっちゅう金額不足で改札で『ピンポン』されてしまう。
気がつけば、切符を買うのとそれほど変わらない頻度で券売機に立ち寄ることになり、いったいどんだけ便利になっているんだかという感じ。
だから、一緒に行動していると、わたしだけ改札で足止めを食らうことがよーくあるのです。
そして、毎度毎度「チャージしとけよ〜」と叱られます。
「なんでいっぱいチャージしないの?」
その度に聞かれます。
那智さんは『少しでも不便より便利なほうがいい』と思う人なので、それに則っていろいろわたしに勧めます。
わたしは『ちょっとくらい不便でも、エコなほうがいい』と思うので、その勧めを断ることが多いのです。
あ、エコっていうとすごく聞こえがいいけれど、エコロジーよりもエコノミーのほうが多数を占めていると思うし、もっというと『現状を変える努力』に対する省エネというのは一番大きい。
わかりやすくいうと、『お金かかるし、変えるのめんどくさーい』というのが最大の理由。
原付バイクなんて散々勧められた。
ちょうど父が入院していた頃。
交通機関を使うにはちょっと面倒な病院で、手っ取り早くわたしは自転車を漕いで通院していた。
そんなわたしを見て、那智さんはバイクを勧めるのだ。
今回だけではなく、今後もっと不便な場所の病院に両親がお世話になるかもしれない。
その時にはバイクは便利。
『じゃあ、そのときになったら考えます』とはぐらかすわたしに、早いうちから乗ることに慣れていたほうがいいなどと、わたしの運動能力まで考えて勧めてくれる。(ほんと、お父さん^^)
那智さんの言うことはもっともなんだけど。
いまからバイクの練習してバイク買って駐車場確保してって、すんごい労力なのだ、わたしには^^;
別に引きこもりじゃないけれど、簡単に現状で満足できてしまうので、逆に現状を変えることにすごくパワーがいるのだ。
それに、バイク代や維持費を考えたら、交通機関を使う通院のほうが安上がりじゃない?なんても思ったりして。
って、話しが逸れましたが。
そうやって、勧めることのひとつが『たっぷりチャージ』なわけですね。
だから「なんでチャージしないの?」と聞いてくる。
毎度、勧められてはもっともらしい理由を並べて『不便だけど、現状を変えない』ようにするのだけど、大きな理由がふたつあって。
ひとつは。
たくさんチャージして落としたら大変。
これは、お金を大事にしている印象が感じられる表向きの理由。
もうひとつは。
たっぷりチャージしてあると、交通費を支払うことに対して無頓着になりそうじゃありません?
それが嫌なのです。
常にギリギリのチャージ金しかなければ、無駄に使おうと思わないでしょ?
ああ、もうあんまり入っていないから、最寄りじゃないけど安い○○線の駅を使おうとか、バス乗るのやめて歩こうとか、そういう方向に考えがいくと思うのです。
たっぷりあると、『まあ、いっかバス乗っても』とか、わたしはなりそうで。
これは、わたしの住んでいるところが比較的交通機関に恵まれていているので、こういう幸運な選択ができるとも思うのですが。
とにかく、まあ、ケチだってことで、これが裏の本当の理由^^;
(飲み代とかタクシー代とかは全然惜しくないのだけどね、ケチポイントがあるらしい)
ちょっと不便でもエコなわけです。
何度か説明して、特に裏のケチ理由で納得してもらって、それ以来は勧められなくなったのだけど。
那智さん、けっこう忘れっぽくって、時々わたしがチャージ不足で足止めを食らっていると『ったく〜』と呆れて、理由を聞いてくる。
「なんでいっぱいチャージしないの?」
この日は電話で話しながらの時だった。
那智さんはお仕事場で、わたしは別の用事で移動中。
話せるタイミングだったので、電車を降りて他愛もない話しをしながら改札へ。
そこで『不足です!!』ってピンポン鳴っちゃったんだ。
あ〜あ、またやっちゃった。
後ろの人滞ってしまってごめんなさい。
そんなふうに思いながら精算機に向かう。
「那智さん、いま那智さんと一緒じゃなくてよかったです〜。」
「なんで?」
「チャージ不足になっちゃったから^^;また叱られる。」
「あはは、そうだね、で、なんでいっぱいチャージしないの?」
那智さん、また聞いてきた。
多分、納得できる理由を聞いている記憶はあるのでしょうけど、すぐ思い出せなくてつい聞いたのでしょう。
そう思ってとりあえず『表向き理由』から言う。
「たくさんチャージして、万が一落としたら大変じゃないですか!?」
「あのね、りん子…」
ちょっと呆れ気味の、でも諭すような口調で。
「あのね、りん子。りん子は普段それを財布に入れてるよな。」
ああ、ダメ、その言い含めるような感じ、すてき。
「はい。」
「りん子は財布を落とすことを前提にして持ち歩いてる?」
「ああ、那智さん、こういうの好き。」
「はあ?」
「そんなふうに諭されるの、すごくいい。那智さん、すてき。」
「はぁぁ〜、何言ってんの!?」
「だから、諭されるのが嬉しいって。」
「ばかじゃないの!?」
呆れながらも気を取り直し。
「…だから、りん子は財布を落とすつもりでいますか?」
「いいえ〜^^いやん、すてき那智さん♪」
「…」
「あ、那智さん諭す気なくなっちゃいました?」
「うん、戦意喪失(笑)」
だって〜、とってもよかったんだもの〜。
諭されるの、いい。
この後裏の理由を聞いて、納得を思い出した那智さん。
こんなことがあったから、当分「なんで」と聞いてくることはないでしょう。
でも、忘れっぽい那智さんのことだから、しばらくしたらまた諭してくれるかもしれない。
だから、ケチで諭され萌えのわたしは、これからも『少なめチャージ』のままでいこうと思うのだ。
まったく色気のないお話ですが。
関東ならスイカ、関西ならイコカなどなどの、チャージして改札ピッのチャージ。
一度に高額チャージします?
それともちょこちょこチャージします?
合理的な那智さんはもちろん前者で。
わたしは後者。
たいがい最小金額の「1000円」しかチャージしないので、しょっちゅう金額不足で改札で『ピンポン』されてしまう。
気がつけば、切符を買うのとそれほど変わらない頻度で券売機に立ち寄ることになり、いったいどんだけ便利になっているんだかという感じ。
だから、一緒に行動していると、わたしだけ改札で足止めを食らうことがよーくあるのです。
そして、毎度毎度「チャージしとけよ〜」と叱られます。
「なんでいっぱいチャージしないの?」
その度に聞かれます。
那智さんは『少しでも不便より便利なほうがいい』と思う人なので、それに則っていろいろわたしに勧めます。
わたしは『ちょっとくらい不便でも、エコなほうがいい』と思うので、その勧めを断ることが多いのです。
あ、エコっていうとすごく聞こえがいいけれど、エコロジーよりもエコノミーのほうが多数を占めていると思うし、もっというと『現状を変える努力』に対する省エネというのは一番大きい。
わかりやすくいうと、『お金かかるし、変えるのめんどくさーい』というのが最大の理由。
原付バイクなんて散々勧められた。
ちょうど父が入院していた頃。
交通機関を使うにはちょっと面倒な病院で、手っ取り早くわたしは自転車を漕いで通院していた。
そんなわたしを見て、那智さんはバイクを勧めるのだ。
今回だけではなく、今後もっと不便な場所の病院に両親がお世話になるかもしれない。
その時にはバイクは便利。
『じゃあ、そのときになったら考えます』とはぐらかすわたしに、早いうちから乗ることに慣れていたほうがいいなどと、わたしの運動能力まで考えて勧めてくれる。(ほんと、お父さん^^)
那智さんの言うことはもっともなんだけど。
いまからバイクの練習してバイク買って駐車場確保してって、すんごい労力なのだ、わたしには^^;
別に引きこもりじゃないけれど、簡単に現状で満足できてしまうので、逆に現状を変えることにすごくパワーがいるのだ。
それに、バイク代や維持費を考えたら、交通機関を使う通院のほうが安上がりじゃない?なんても思ったりして。
って、話しが逸れましたが。
そうやって、勧めることのひとつが『たっぷりチャージ』なわけですね。
だから「なんでチャージしないの?」と聞いてくる。
毎度、勧められてはもっともらしい理由を並べて『不便だけど、現状を変えない』ようにするのだけど、大きな理由がふたつあって。
ひとつは。
たくさんチャージして落としたら大変。
これは、お金を大事にしている印象が感じられる表向きの理由。
もうひとつは。
たっぷりチャージしてあると、交通費を支払うことに対して無頓着になりそうじゃありません?
それが嫌なのです。
常にギリギリのチャージ金しかなければ、無駄に使おうと思わないでしょ?
ああ、もうあんまり入っていないから、最寄りじゃないけど安い○○線の駅を使おうとか、バス乗るのやめて歩こうとか、そういう方向に考えがいくと思うのです。
たっぷりあると、『まあ、いっかバス乗っても』とか、わたしはなりそうで。
これは、わたしの住んでいるところが比較的交通機関に恵まれていているので、こういう幸運な選択ができるとも思うのですが。
とにかく、まあ、ケチだってことで、これが裏の本当の理由^^;
(飲み代とかタクシー代とかは全然惜しくないのだけどね、ケチポイントがあるらしい)
ちょっと不便でもエコなわけです。
何度か説明して、特に裏のケチ理由で納得してもらって、それ以来は勧められなくなったのだけど。
那智さん、けっこう忘れっぽくって、時々わたしがチャージ不足で足止めを食らっていると『ったく〜』と呆れて、理由を聞いてくる。
「なんでいっぱいチャージしないの?」
この日は電話で話しながらの時だった。
那智さんはお仕事場で、わたしは別の用事で移動中。
話せるタイミングだったので、電車を降りて他愛もない話しをしながら改札へ。
そこで『不足です!!』ってピンポン鳴っちゃったんだ。
あ〜あ、またやっちゃった。
後ろの人滞ってしまってごめんなさい。
そんなふうに思いながら精算機に向かう。
「那智さん、いま那智さんと一緒じゃなくてよかったです〜。」
「なんで?」
「チャージ不足になっちゃったから^^;また叱られる。」
「あはは、そうだね、で、なんでいっぱいチャージしないの?」
那智さん、また聞いてきた。
多分、納得できる理由を聞いている記憶はあるのでしょうけど、すぐ思い出せなくてつい聞いたのでしょう。
そう思ってとりあえず『表向き理由』から言う。
「たくさんチャージして、万が一落としたら大変じゃないですか!?」
「あのね、りん子…」
ちょっと呆れ気味の、でも諭すような口調で。
「あのね、りん子。りん子は普段それを財布に入れてるよな。」
ああ、ダメ、その言い含めるような感じ、すてき。
「はい。」
「りん子は財布を落とすことを前提にして持ち歩いてる?」
「ああ、那智さん、こういうの好き。」
「はあ?」
「そんなふうに諭されるの、すごくいい。那智さん、すてき。」
「はぁぁ〜、何言ってんの!?」
「だから、諭されるのが嬉しいって。」
「ばかじゃないの!?」
呆れながらも気を取り直し。
「…だから、りん子は財布を落とすつもりでいますか?」
「いいえ〜^^いやん、すてき那智さん♪」
「…」
「あ、那智さん諭す気なくなっちゃいました?」
「うん、戦意喪失(笑)」
だって〜、とってもよかったんだもの〜。
諭されるの、いい。
この後裏の理由を聞いて、納得を思い出した那智さん。
こんなことがあったから、当分「なんで」と聞いてくることはないでしょう。
でも、忘れっぽい那智さんのことだから、しばらくしたらまた諭してくれるかもしれない。
だから、ケチで諭され萌えのわたしは、これからも『少なめチャージ』のままでいこうと思うのだ。
羞恥系の葛藤
非日常的な日常
わたしみたいなのは『羞恥系』というのだろうか。
痛いこともスカトロもして普通にセックスもしているわたし、どれかに特化しているほうではないので、『○○系』と名乗るほどのものではないとも思うけど。
わたしの核になっている『過剰な自意識』。
多分、痛いこともスカトロもわんこも、根っこはこの『過剰な自意識』から来るんじゃないかな。
この過剰な自意識には『自己否定』と『自己愛』の両方が混在していて、その矛盾からいろんなものが生まれているように思う。
思いつきで書いてるから、いつかまとめてみます。
で、もちろん羞恥もこの過剰な自意識のなせる業だと思うので、『羞恥系』でもあると。
いや、もともと恥ずかしがり屋なのは自覚していた。
ベルトにチェーンを付けられただけで顔を上げて歩けなくなるし、おちんちんやおまんこはもちろん、日常生活で『耳くそ』や『鼻くそ』なんていうのさえ、ちょっと意識してしまう。
以前飲み屋で『地豚の○○焼き』っていうのをオーダーしようとして『豚』の文字に照れてしまったときなどは、自分でも『どんだけ自意識過剰なんじゃ!1』と突っ込みたくなるほどの、恥ずかしぶり。
(まあ、このときは、那智さんと他のSMカップルさんと一緒だったから余計だと思うけど)
だけど、『羞恥系』だと決定付けたのが、なつこさん主催の台湾料理ツアー。
『マンゴージュースの濁点を取って』に大赤面。
それを言う言わないで、わたし的には真剣にきゃーきゃー楽しませていただいたのだけど。
途中トイレに立ったときに冗談で濡れているか確認したら、濡れていた…。
那智さんが作用していない、その状況ででも、恥ずかしいで濡れるわたし。
軽ーくショックを受けながら、ああ、こういう女は『羞恥系』と呼ばれるのかもしれないと自覚したのです。
『那智さんが作用していない』を書くの、少し悩みました。
なぜかというと、特に性的な部分でいまのわたしを作り上げたのは那智さんの力が大きいので、『いま』濡れるのは、そこに那智さんがいなくても作用しているとも思うからです。
那智さんに出会う前のわたしが『マンゴー』で濡れていたのか、いまとなっては知る術がなく。
100%那智さん仕様でいたいわたしなので、『那智さんが作用していない』という言葉はちょっとためらうけど、目に見えている事実だけとって、そう表現しました。
そんなわたしに那智さんは、
恥ずかしいのがいいんだろ?
と言います。
その最中に言うことはないけど(そういう言葉責めはちょっと興ざめする、わたしは^^;)、何か提示されて『恥ずかしいから無理!!』と難色を示すときなどに、そんなふうに言ってくるのです。
でも、それは、NOなのです。
恥ずかしいことは、ただただ恥ずかしい。
恥ずかしいことは、恥ずかしいんだから、困ること。
だから、恥ずかしいことがいいわけない。
だけど。
だけど。
恥ずかしいことは、とても興奮する。
那智さんが、お仕事場の近くでハプバーを見つけてくれた。
歓楽街からは離れた所なのでそういうものが少ないみたいなんだけど、見つけてくれた。
なぜ、『見つけてくれた』という言い方をするかというと。
俺が休みが取れなくてりん子が欲情して悲しくなりそうなときに、昼休みを少し延長して使えるだろ。
という理由。
もちろん、那智さんだってわたしを抱きたいという気持ちはあるでしょうけど、この場合はレスキューの意味合いが強い。
ちょっとゆっくりできるし肌を合わせることも可能なので『那智さん不足』を埋めるにはカラオケよりも有効だろうということらしい。
なんだか情けない気もするけど、ここは素直に感謝なのです。
で、明日のランチデートは時間を延長させてそこに行ってみようという提案だったのだ。
それを聞いてわたしはまず喜んだ。
那智さんが、わたしに何かしたいとアクションを起こしてくれることは、大概のことは喜びに繋がる。
だから、まず喜びが湧く。
それから、あとは、もうずっとずっと困ってしまっていた。
いつも行くハプバーはだいぶ慣れたけど、それでも、そこに行くということは…と考えちゃうと毎度毎度照れ臭い。
そんな具合なので、はじめて行く、しかも真っ昼間に、なんて状況恥ずかしい以外の何ものでもない。
お昼間だから、恐らくわたしたち以外はいないだろう。
だけど、開店と同時に入店して、2時間もいないで帰るなんて、『それ』目的ですと言っているようなもんではないか。
誰かいても恥ずかしいし、誰もいない時間帯に行くのも恥ずかしい。
ましてはじめての所だから、わたしはエッチですと、新たに自己紹介することになるようで、それも恥ずかしい。
そして、その理由が『わたしが欲求不満になった場合のレスキュー』だなんて、もう居たたまれないほど情けなくて、とても困る。
店も入り口は人目につく?
スタッフはどんな人?
いろんなことを考えて、居たたまれなくて困って困って、大変だった。
だけど、とても困っていながらも、それと同じくらい、その日一日興奮してどうにも落ち着かなかった。
何もしていないのに、下着を濡らすわたし。
はしたないその様子に、もっと困る。
翌日、お昼に合流して、そのハプバーへ。
お店のほうの手違いでわたしたちは、近くのドトールで待たされることになるのだけど、その間も、ずっと落ち着かない。
はじめての場所は戸惑うし、どんなふうに思われるか想像して、関係ない隣りのサラリーマンの存在まで意識しちゃって、那智さんと一緒に遊びに行くというワクワクを差し引いても、落ち着かない。
テレテレ状態で店に入る。
マンションの一室を改装したそこは、大きなソファや広いマットレスがあって、意外と寛げる雰囲気だった。
スタッフはわたしと同じような年代の女性で、一見するとまじめな印象すらあるにこやかなの人だった。
ハプバーのスタッフだからそれっぽい衣装を身につけるでもなく、マンションの一室だったこともあって、まるで、その人のお宅に遊びに来たかのような感じだった。
お仕事中の那智さんはコーヒーで、わたしは失礼してちょっとだけアルコールの入った飲み物をいただいた。
スタッフがキッチンに入ったのをきっかけに、那智さんが動く。
「じゃあ、さっさとやることやるか(笑)」
こういうとき那智さんはことさら『堂々』とする。
少しでも躊躇を見せるほうが、ずっとずっと恥ずかしいことだと思う人だから。
マットレスのほうに移動して、さっさとスーツを脱いでしまう。
わたしは、どうしたらいいかわからなくて、動けない。
「おいで。」
そういわれてはじめてソファを降りる。
なんとか洋服は脱いだけど、仕切りの向こう側のスタッフのことが気になってしまって、下着姿のまま、どうしようか固まっていると。
「ったく、めんどくせーなー(笑)」
わたしを押し倒し、強引に下着を剥ぐ。
その乱暴さと優しさに、胸がきゅっと掴まれる。
時間がないから、乱暴に愛撫されて、すぐ挿入される。
もう、昨日からずっと濡れているからまったく問題ない。
仕切りの向こうが気になってしかたないのに、驚くほど濡れている。
気持ちいいのはいつもなんだけど、興奮の度合いが大きい。
声を出すわけにはいかないから、唇を噛んで抑えるけれど、後から後から快感が押し寄せて気を抜くと大きな声が漏れる。
その一瞬の決壊に、また、恥ずかしさが増して、もっと興奮する。
那智さんの指がクリトリスを触る。
あああああ、気持ちいいです。
声も快感も抑えられない。
指の動きだけではもどかしく。
それに合わせるように、わたしは腰を動かす。
そんな自分が恥ずかしい。
だけど、気持ちいいを味わうことをやめられない。
もっと、もっとと那智さんの指に腰を押し付ける。
上半身と下半身が別の生き物みたいだ。
もしかしたら、那智さんはそれほど指を動かしていないかもしれない。
わたしだけが、動き、擦り付けているようだ。
那智さんの腕の中で、那智さんの指でするオナニー。
自ら快感を求めてしまうほど情けないものはない。
それを、まるで知り合いのお宅にお邪魔したような空間で、仕切りの向こうの女性の気配を意識しながらするのだ。
いやだ。
那智さんとふたりきりのホテルの部屋で、誰の目も気にせずはしたない声を上げているほうが、ずっと心の負担が少ない。
まわりを気にしながら気持ちいいのなんて、いやだ。
だけど。
この上なく恥ずかしくて。
たまらなく気持ちいい。
正味15分くらいのことだった。
だけど驚くほど興奮して、それと比例するように、とても満たされた。
このときの自分をみると、わたしは恥ずかしいことでとても興奮するようなのだ。
だけど、恥ずかしいのがいいのかと聞かれれば、それは違う。
だって、小学生のとき、クラスメイトの中で先生にひとりだけ名指しされたりすると、恥ずかしくて赤面したでしょ?
あれ、よかった?
そんなことないですよね。
びっくりしたりドキドキしたりで、いいことなんか全然ない。
それを想像してみれば、赤面するほどの動揺を『いいだろ?』というのは、違う気がするのだ。
那智さんは、『興奮する=いい』と思っているみたいなんだけど。
この違い理解してもらえないんだ。
性的に興奮することに、自己嫌悪をしてしまうわたしにとって、『興奮する=いい』とは一概に言えないのだ。
恥ずかしいことは、決して『いい』わけじゃない。
そして、興奮するものは、何もかも『いい』というものでもない。
だから、いいかと聞かれれば、NOなの。
ただ、恥ずかしいことは、とてもとても興奮する。
『恥ずかしいからいい』とか『恥ずかしいことが好き』というのが羞恥系なら、わたしは違うと思うけど。
恥ずかしいことで、とても興奮するというのが羞恥系ならば、わたしはそういう性癖のようだ。
で、その恥ずかしいことの最たるものの『わんこ』。
那智さんの好みの変わった露出。
昼間の一般道を、四つん這いのわたしを連れて散歩するのだ。
そんな行為、苦しいほど物凄い抵抗はある。
だけど、結果的に興奮している。
そこに那智さんに従属しているというもうひとつの喜びが加わるのだ。
その興奮と従属の甘美な喜びが混ざり合った快感にどっぷりと浸かる。
だけど、その恥ずかしいことが『いい』わけじゃない、葛藤。
その葛藤を伝えたいと、いつも思っている。
葛藤の中、徐々に『百貨店のショウウィンドウをお散歩』包囲網を狭められているわたしの話を次回から。
しばらく『わんこ』です^^
わたしみたいなのは『羞恥系』というのだろうか。
痛いこともスカトロもして普通にセックスもしているわたし、どれかに特化しているほうではないので、『○○系』と名乗るほどのものではないとも思うけど。
わたしの核になっている『過剰な自意識』。
多分、痛いこともスカトロもわんこも、根っこはこの『過剰な自意識』から来るんじゃないかな。
この過剰な自意識には『自己否定』と『自己愛』の両方が混在していて、その矛盾からいろんなものが生まれているように思う。
思いつきで書いてるから、いつかまとめてみます。
で、もちろん羞恥もこの過剰な自意識のなせる業だと思うので、『羞恥系』でもあると。
いや、もともと恥ずかしがり屋なのは自覚していた。
ベルトにチェーンを付けられただけで顔を上げて歩けなくなるし、おちんちんやおまんこはもちろん、日常生活で『耳くそ』や『鼻くそ』なんていうのさえ、ちょっと意識してしまう。
以前飲み屋で『地豚の○○焼き』っていうのをオーダーしようとして『豚』の文字に照れてしまったときなどは、自分でも『どんだけ自意識過剰なんじゃ!1』と突っ込みたくなるほどの、恥ずかしぶり。
(まあ、このときは、那智さんと他のSMカップルさんと一緒だったから余計だと思うけど)
だけど、『羞恥系』だと決定付けたのが、なつこさん主催の台湾料理ツアー。
『マンゴージュースの濁点を取って』に大赤面。
それを言う言わないで、わたし的には真剣にきゃーきゃー楽しませていただいたのだけど。
途中トイレに立ったときに冗談で濡れているか確認したら、濡れていた…。
那智さんが作用していない、その状況ででも、恥ずかしいで濡れるわたし。
軽ーくショックを受けながら、ああ、こういう女は『羞恥系』と呼ばれるのかもしれないと自覚したのです。
『那智さんが作用していない』を書くの、少し悩みました。
なぜかというと、特に性的な部分でいまのわたしを作り上げたのは那智さんの力が大きいので、『いま』濡れるのは、そこに那智さんがいなくても作用しているとも思うからです。
那智さんに出会う前のわたしが『マンゴー』で濡れていたのか、いまとなっては知る術がなく。
100%那智さん仕様でいたいわたしなので、『那智さんが作用していない』という言葉はちょっとためらうけど、目に見えている事実だけとって、そう表現しました。
そんなわたしに那智さんは、
恥ずかしいのがいいんだろ?
と言います。
その最中に言うことはないけど(そういう言葉責めはちょっと興ざめする、わたしは^^;)、何か提示されて『恥ずかしいから無理!!』と難色を示すときなどに、そんなふうに言ってくるのです。
でも、それは、NOなのです。
恥ずかしいことは、ただただ恥ずかしい。
恥ずかしいことは、恥ずかしいんだから、困ること。
だから、恥ずかしいことがいいわけない。
だけど。
だけど。
恥ずかしいことは、とても興奮する。
那智さんが、お仕事場の近くでハプバーを見つけてくれた。
歓楽街からは離れた所なのでそういうものが少ないみたいなんだけど、見つけてくれた。
なぜ、『見つけてくれた』という言い方をするかというと。
俺が休みが取れなくてりん子が欲情して悲しくなりそうなときに、昼休みを少し延長して使えるだろ。
という理由。
もちろん、那智さんだってわたしを抱きたいという気持ちはあるでしょうけど、この場合はレスキューの意味合いが強い。
ちょっとゆっくりできるし肌を合わせることも可能なので『那智さん不足』を埋めるにはカラオケよりも有効だろうということらしい。
なんだか情けない気もするけど、ここは素直に感謝なのです。
で、明日のランチデートは時間を延長させてそこに行ってみようという提案だったのだ。
それを聞いてわたしはまず喜んだ。
那智さんが、わたしに何かしたいとアクションを起こしてくれることは、大概のことは喜びに繋がる。
だから、まず喜びが湧く。
それから、あとは、もうずっとずっと困ってしまっていた。
いつも行くハプバーはだいぶ慣れたけど、それでも、そこに行くということは…と考えちゃうと毎度毎度照れ臭い。
そんな具合なので、はじめて行く、しかも真っ昼間に、なんて状況恥ずかしい以外の何ものでもない。
お昼間だから、恐らくわたしたち以外はいないだろう。
だけど、開店と同時に入店して、2時間もいないで帰るなんて、『それ』目的ですと言っているようなもんではないか。
誰かいても恥ずかしいし、誰もいない時間帯に行くのも恥ずかしい。
ましてはじめての所だから、わたしはエッチですと、新たに自己紹介することになるようで、それも恥ずかしい。
そして、その理由が『わたしが欲求不満になった場合のレスキュー』だなんて、もう居たたまれないほど情けなくて、とても困る。
店も入り口は人目につく?
スタッフはどんな人?
いろんなことを考えて、居たたまれなくて困って困って、大変だった。
だけど、とても困っていながらも、それと同じくらい、その日一日興奮してどうにも落ち着かなかった。
何もしていないのに、下着を濡らすわたし。
はしたないその様子に、もっと困る。
翌日、お昼に合流して、そのハプバーへ。
お店のほうの手違いでわたしたちは、近くのドトールで待たされることになるのだけど、その間も、ずっと落ち着かない。
はじめての場所は戸惑うし、どんなふうに思われるか想像して、関係ない隣りのサラリーマンの存在まで意識しちゃって、那智さんと一緒に遊びに行くというワクワクを差し引いても、落ち着かない。
テレテレ状態で店に入る。
マンションの一室を改装したそこは、大きなソファや広いマットレスがあって、意外と寛げる雰囲気だった。
スタッフはわたしと同じような年代の女性で、一見するとまじめな印象すらあるにこやかなの人だった。
ハプバーのスタッフだからそれっぽい衣装を身につけるでもなく、マンションの一室だったこともあって、まるで、その人のお宅に遊びに来たかのような感じだった。
お仕事中の那智さんはコーヒーで、わたしは失礼してちょっとだけアルコールの入った飲み物をいただいた。
スタッフがキッチンに入ったのをきっかけに、那智さんが動く。
「じゃあ、さっさとやることやるか(笑)」
こういうとき那智さんはことさら『堂々』とする。
少しでも躊躇を見せるほうが、ずっとずっと恥ずかしいことだと思う人だから。
マットレスのほうに移動して、さっさとスーツを脱いでしまう。
わたしは、どうしたらいいかわからなくて、動けない。
「おいで。」
そういわれてはじめてソファを降りる。
なんとか洋服は脱いだけど、仕切りの向こう側のスタッフのことが気になってしまって、下着姿のまま、どうしようか固まっていると。
「ったく、めんどくせーなー(笑)」
わたしを押し倒し、強引に下着を剥ぐ。
その乱暴さと優しさに、胸がきゅっと掴まれる。
時間がないから、乱暴に愛撫されて、すぐ挿入される。
もう、昨日からずっと濡れているからまったく問題ない。
仕切りの向こうが気になってしかたないのに、驚くほど濡れている。
気持ちいいのはいつもなんだけど、興奮の度合いが大きい。
声を出すわけにはいかないから、唇を噛んで抑えるけれど、後から後から快感が押し寄せて気を抜くと大きな声が漏れる。
その一瞬の決壊に、また、恥ずかしさが増して、もっと興奮する。
那智さんの指がクリトリスを触る。
あああああ、気持ちいいです。
声も快感も抑えられない。
指の動きだけではもどかしく。
それに合わせるように、わたしは腰を動かす。
そんな自分が恥ずかしい。
だけど、気持ちいいを味わうことをやめられない。
もっと、もっとと那智さんの指に腰を押し付ける。
上半身と下半身が別の生き物みたいだ。
もしかしたら、那智さんはそれほど指を動かしていないかもしれない。
わたしだけが、動き、擦り付けているようだ。
那智さんの腕の中で、那智さんの指でするオナニー。
自ら快感を求めてしまうほど情けないものはない。
それを、まるで知り合いのお宅にお邪魔したような空間で、仕切りの向こうの女性の気配を意識しながらするのだ。
いやだ。
那智さんとふたりきりのホテルの部屋で、誰の目も気にせずはしたない声を上げているほうが、ずっと心の負担が少ない。
まわりを気にしながら気持ちいいのなんて、いやだ。
だけど。
この上なく恥ずかしくて。
たまらなく気持ちいい。
正味15分くらいのことだった。
だけど驚くほど興奮して、それと比例するように、とても満たされた。
このときの自分をみると、わたしは恥ずかしいことでとても興奮するようなのだ。
だけど、恥ずかしいのがいいのかと聞かれれば、それは違う。
だって、小学生のとき、クラスメイトの中で先生にひとりだけ名指しされたりすると、恥ずかしくて赤面したでしょ?
あれ、よかった?
そんなことないですよね。
びっくりしたりドキドキしたりで、いいことなんか全然ない。
それを想像してみれば、赤面するほどの動揺を『いいだろ?』というのは、違う気がするのだ。
那智さんは、『興奮する=いい』と思っているみたいなんだけど。
この違い理解してもらえないんだ。
性的に興奮することに、自己嫌悪をしてしまうわたしにとって、『興奮する=いい』とは一概に言えないのだ。
恥ずかしいことは、決して『いい』わけじゃない。
そして、興奮するものは、何もかも『いい』というものでもない。
だから、いいかと聞かれれば、NOなの。
ただ、恥ずかしいことは、とてもとても興奮する。
『恥ずかしいからいい』とか『恥ずかしいことが好き』というのが羞恥系なら、わたしは違うと思うけど。
恥ずかしいことで、とても興奮するというのが羞恥系ならば、わたしはそういう性癖のようだ。
で、その恥ずかしいことの最たるものの『わんこ』。
那智さんの好みの変わった露出。
昼間の一般道を、四つん這いのわたしを連れて散歩するのだ。
そんな行為、苦しいほど物凄い抵抗はある。
だけど、結果的に興奮している。
そこに那智さんに従属しているというもうひとつの喜びが加わるのだ。
その興奮と従属の甘美な喜びが混ざり合った快感にどっぷりと浸かる。
だけど、その恥ずかしいことが『いい』わけじゃない、葛藤。
その葛藤を伝えたいと、いつも思っている。
葛藤の中、徐々に『百貨店のショウウィンドウをお散歩』包囲網を狭められているわたしの話を次回から。
しばらく『わんこ』です^^