諦めない
りん子的独り言(生意気)
久しぶりに、ちょっと熱く?
『努力していれば、捨てない』
SMや奴隷などのカテゴリーの中で時々目にする台詞。
わたしは、これが好きじゃない。
大好きな人に対していつもでも魅力的でいたい。
それ以前に人として、自分を磨きたい。
それは大切なこと。
だから、『努力』することがいけないとは思わない。
そして。
人の心は移ろうもの。
いま大好きでも、いつかそうじゃなくなってお別れする日が来るかもしれない。
それが、一方的に別れを突きつけて『捨てる』という印象になることもあるでしょう。
『永遠』なんてないもの、だから、別れが訪れてしまったとしても、それは仕方がないこと。
だけど。
『努力していれば、捨てない』
ということは、努力しなければ捨てるということ。
『捨てる』ことが前提の関係って、どうなんだろう。
わたしはあたなにかわいいと思ってもらいたい。
だから、髪をブロウして洋服を選ぶ。
本を読み、感性を磨く。
でも、それって、捨てられたくないからしているんじゃない。
かわいいと思ってもらいたい、そして、それをしている自分が一番気分がいいからだ。
だから、努力であって努力でない。
それが、相手の望むような(時には理不尽な)努力をし、それをしなければ『捨てる』という前提の関係。
なんだか好きじゃない。
もしかしたら『捨てられ萌え』のような快感を覚える人もいるかもしれないな。
そのヒリヒリと焦がれるような感覚で幸福を感じ、どこかで楽しんでいるのであれば、それはたくさん楽しんでいただけたらいいなって思う。
でも、『自己肯定』できず『依存願望』の強い、かつてのわたしだったら。
わたしの場合は、多分最後はわたしがこっぴどくフルというパターンになりそうですけど^^;、それでも、付き合っている間は、ずっと不安で不安で、不安が故に遜って、結局大切にされない、大切にされないからまた不安でという悪循環になって苦しんでいたと思う。
こういう関係が想像できるので、好きじゃないんだ。
だから、その台詞を吐く側なんて、もっといや(笑)
那智さんに出会う前から、ひとりわたしに深く関わってくれた人がいたことは『奇跡なんてない』というエントリーに書いた。
彼女は、自分を大事にしない恋愛を繰り返すわたしに、よくこう言った。
『その立場を一度受け入れてしまったら、それより上の扱いを受けるようにするのは難しい』って。
男性の顔色を伺い、すぐ自分を低くしてしまうわたしに、そんなに遜ってしまったら、それ以上は大事にされないよ!!と、説教してくれた(笑)
わたしのような『自己肯定』できにくい女は、ほんとは人一倍大事にしてほしいのだ。
それなのに『捨てる』ことを前提になんて、絶対苦しい。
だから、そういう女ほど、そんな立場を受け入れてしまってはいけないの。
受け入れてしまっては、そこでおしまいなの。
『努力すれば、捨てない』それが快感に繋がる人は、きっとそれはそれでちゃんと立っていられる人なのでしょから、いい。
だけど、『奴隷願望』と『依存願望』を混同してしまっていると、その関係は苦しいだけだ。
『捨てる』こと前提にすることも。
その『努力』が理不尽なことも。
異を唱えていい。
そうしないと、それ以上大切にされないの。
条件付きの愛情を受け入れてしまったら(そもそも条件付きの愛情なんて愛情じゃないけど)、無条件の愛情はもらえないの。
諦めちゃいけない。
関係構築において受け入れ諦めてしまったら、そこでそれはストップしちゃう。
ということで、わたしも諦めない^^;
『共感』のことを書いたけど、相変わらず、わたしがつまずくのは那智さんから些細なことの共感を得られないこと。
那智さんは、感情的になることがほとんどない人なので、不機嫌になったり八つ当たりをしない。
そこはすごーくありがたいのだけど、その代わり些細な共感のような、心のスキップをほとんど表現してくれないの。
それで、時々つまずいてしまうのだけど。
ある日。
やっぱり、『そこ、問題提示の前に、まず一緒に喜んで!!』ということがあった。
しばらく議論(というぐずり^^;)して電話を切ってから、わたしはメールを打った。
『わたし、諦めませんね。上手に言葉を選んで、那智さんにも共感の心地良さを味わってもらって、わたしと日常の共感をしてもらうんだ。那智さんに変わってもらうの。』
こんな些細なことだけど、それを受け入れてしまったら、ずっとそれは手に入らないものね。
だから、諦めないって宣言してしまった。
『ありがとう。俺のために諦めないでね。』
と、お返事が来た。
こんなふうなスタンスでいてくれるから、わたしも諦めないでいられる。
そして、どうやったらいいか、頭を使って言葉を選んで、長期戦でいこうって思えるんだ。
『努力していれば、捨てない』
それを受け入れてしまったら、その不安からは抜け出せない。
だから、受け入れないことだ。
そんな条件を提示しなくても、付いて行きたいと思わせることが従わせる側の力量だと思うから。
那智さんとのやり取りで、自発的に『諦めない』と表明した、些細な、でも、大事な出来事。
そのメールを読み返しながら。
こんな『りん子的独り言』を思い、熱く語ってしまうのでした。
久しぶりに、ちょっと熱く?
『努力していれば、捨てない』
SMや奴隷などのカテゴリーの中で時々目にする台詞。
わたしは、これが好きじゃない。
大好きな人に対していつもでも魅力的でいたい。
それ以前に人として、自分を磨きたい。
それは大切なこと。
だから、『努力』することがいけないとは思わない。
そして。
人の心は移ろうもの。
いま大好きでも、いつかそうじゃなくなってお別れする日が来るかもしれない。
それが、一方的に別れを突きつけて『捨てる』という印象になることもあるでしょう。
『永遠』なんてないもの、だから、別れが訪れてしまったとしても、それは仕方がないこと。
だけど。
『努力していれば、捨てない』
ということは、努力しなければ捨てるということ。
『捨てる』ことが前提の関係って、どうなんだろう。
わたしはあたなにかわいいと思ってもらいたい。
だから、髪をブロウして洋服を選ぶ。
本を読み、感性を磨く。
でも、それって、捨てられたくないからしているんじゃない。
かわいいと思ってもらいたい、そして、それをしている自分が一番気分がいいからだ。
だから、努力であって努力でない。
それが、相手の望むような(時には理不尽な)努力をし、それをしなければ『捨てる』という前提の関係。
なんだか好きじゃない。
もしかしたら『捨てられ萌え』のような快感を覚える人もいるかもしれないな。
そのヒリヒリと焦がれるような感覚で幸福を感じ、どこかで楽しんでいるのであれば、それはたくさん楽しんでいただけたらいいなって思う。
でも、『自己肯定』できず『依存願望』の強い、かつてのわたしだったら。
わたしの場合は、多分最後はわたしがこっぴどくフルというパターンになりそうですけど^^;、それでも、付き合っている間は、ずっと不安で不安で、不安が故に遜って、結局大切にされない、大切にされないからまた不安でという悪循環になって苦しんでいたと思う。
こういう関係が想像できるので、好きじゃないんだ。
だから、その台詞を吐く側なんて、もっといや(笑)
那智さんに出会う前から、ひとりわたしに深く関わってくれた人がいたことは『奇跡なんてない』というエントリーに書いた。
彼女は、自分を大事にしない恋愛を繰り返すわたしに、よくこう言った。
『その立場を一度受け入れてしまったら、それより上の扱いを受けるようにするのは難しい』って。
男性の顔色を伺い、すぐ自分を低くしてしまうわたしに、そんなに遜ってしまったら、それ以上は大事にされないよ!!と、説教してくれた(笑)
わたしのような『自己肯定』できにくい女は、ほんとは人一倍大事にしてほしいのだ。
それなのに『捨てる』ことを前提になんて、絶対苦しい。
だから、そういう女ほど、そんな立場を受け入れてしまってはいけないの。
受け入れてしまっては、そこでおしまいなの。
『努力すれば、捨てない』それが快感に繋がる人は、きっとそれはそれでちゃんと立っていられる人なのでしょから、いい。
だけど、『奴隷願望』と『依存願望』を混同してしまっていると、その関係は苦しいだけだ。
『捨てる』こと前提にすることも。
その『努力』が理不尽なことも。
異を唱えていい。
そうしないと、それ以上大切にされないの。
条件付きの愛情を受け入れてしまったら(そもそも条件付きの愛情なんて愛情じゃないけど)、無条件の愛情はもらえないの。
諦めちゃいけない。
関係構築において受け入れ諦めてしまったら、そこでそれはストップしちゃう。
ということで、わたしも諦めない^^;
『共感』のことを書いたけど、相変わらず、わたしがつまずくのは那智さんから些細なことの共感を得られないこと。
那智さんは、感情的になることがほとんどない人なので、不機嫌になったり八つ当たりをしない。
そこはすごーくありがたいのだけど、その代わり些細な共感のような、心のスキップをほとんど表現してくれないの。
それで、時々つまずいてしまうのだけど。
ある日。
やっぱり、『そこ、問題提示の前に、まず一緒に喜んで!!』ということがあった。
しばらく議論(というぐずり^^;)して電話を切ってから、わたしはメールを打った。
『わたし、諦めませんね。上手に言葉を選んで、那智さんにも共感の心地良さを味わってもらって、わたしと日常の共感をしてもらうんだ。那智さんに変わってもらうの。』
こんな些細なことだけど、それを受け入れてしまったら、ずっとそれは手に入らないものね。
だから、諦めないって宣言してしまった。
『ありがとう。俺のために諦めないでね。』
と、お返事が来た。
こんなふうなスタンスでいてくれるから、わたしも諦めないでいられる。
そして、どうやったらいいか、頭を使って言葉を選んで、長期戦でいこうって思えるんだ。
『努力していれば、捨てない』
それを受け入れてしまったら、その不安からは抜け出せない。
だから、受け入れないことだ。
そんな条件を提示しなくても、付いて行きたいと思わせることが従わせる側の力量だと思うから。
那智さんとのやり取りで、自発的に『諦めない』と表明した、些細な、でも、大事な出来事。
そのメールを読み返しながら。
こんな『りん子的独り言』を思い、熱く語ってしまうのでした。
必要なのは?
独特な幸福感
『うんこを食べられるようになるのは、慣れ』
いきなり乱暴な断言ではじまりましたけど。
これは、那智さんの言葉。
愛情や心の交流は大前提。
ある程度の嗜好の一致も大切。
だけど、できないことが、できるようになることのもうひとつのキーポイントは『慣れ』だと那智さんは思っている。
確かにね、それも一理ある。
以前『体質M』というエントリーを書きました。
同じ愛情のもとに同じ痛さを加えても、それを快感に思う人と痛いだけだという人といるんじゃないか。
痛いことを快感に感じるのに、『体質』もあるんじゃないかと。
那智さんはその考え方に、ちょっと疑問を抱いていた。
なぜかというと。
那智さんは、『愛情』と『する側の力量』と『慣れ』があれば、だいたい結果は同じだろうと思っているからだ。
じゃあ、あなたがいままで付き合った女性は、みんなあの痛いバラ鞭で惚けていましたか?
乳首握り潰して、快感に浸ってる女性はいましたか?
答えはNO。
だけど、それは『愛情』と『力量』の違いだと考えている。
わたしは、きっと違う!!と思って『体質M』をエントリーしたんだ。
すんごい生意気な言い方をすれば。
痛いことを快感に変えられる体質だったわたしに感謝していただきたい!!
あの痴人状態を見ることができて、ラッキーだと思っていただきたい!!
と思うけど、あまり受け入れてもらえない(笑)
まあ、那智さんは痛いことにそれほど執着はないし、そもそも『○○したい』というより、『りん子(女性)を可愛がりたい』その手段としていろいろする人なので、『体質』などはどうでもいいと思っているのでしょうね。
要は、『愛情』と『力量』と『慣れ』。
こっちの実力も認めてよぉと思うけど。(なんの実力だ!?)
まあ、こちらの力を抜きにして判断してもらうことは、ありがたいと思うこともあるのですね。
排泄物を食する描写を目にしたときに、ほんの少し悲しくなる。
わたしは那智さんの望みの『むしゃむしゃとおいしそうに食べる』ことができないからだ。
いまだに、一欠片を飲み込むことが精一杯。
いくら那智さんが「吐き出していいからね」と言ってくれても、吐き出してしまう自分に悲しくなってしまうのだ。
那智さんのこと大好きなのに。
「どうしてわたしは食べられないのでしょう。」
しょんぼりするわたしに。
「慣れじゃない!?」
と、さらりと言ってのける。
食べられないのは、わたしのせいじゃない。
ただ単に慣れていないだけ。
そう思うと心が少し軽くなる。
あっけないほどのお返事に、拍子抜けするけれど。
この、大したことないと思わせてくれるお返事は、ありがたいのです。
一般的に『気持ちが良い』と感じないことが快感になるのは。
受け手の性癖や性格や体質によるものなの?
する側の『力量』?
それとも、『慣れ』なのでしょうか!?
わたしはわたししか知らないし、計る術もないけれど。
もしかしたら『慣れ』、ありかもしれないと、最近少し感じているわたし。
その『慣れ』のお話を、次回^^
『うんこを食べられるようになるのは、慣れ』
いきなり乱暴な断言ではじまりましたけど。
これは、那智さんの言葉。
愛情や心の交流は大前提。
ある程度の嗜好の一致も大切。
だけど、できないことが、できるようになることのもうひとつのキーポイントは『慣れ』だと那智さんは思っている。
確かにね、それも一理ある。
以前『体質M』というエントリーを書きました。
同じ愛情のもとに同じ痛さを加えても、それを快感に思う人と痛いだけだという人といるんじゃないか。
痛いことを快感に感じるのに、『体質』もあるんじゃないかと。
那智さんはその考え方に、ちょっと疑問を抱いていた。
なぜかというと。
那智さんは、『愛情』と『する側の力量』と『慣れ』があれば、だいたい結果は同じだろうと思っているからだ。
じゃあ、あなたがいままで付き合った女性は、みんなあの痛いバラ鞭で惚けていましたか?
乳首握り潰して、快感に浸ってる女性はいましたか?
答えはNO。
だけど、それは『愛情』と『力量』の違いだと考えている。
わたしは、きっと違う!!と思って『体質M』をエントリーしたんだ。
すんごい生意気な言い方をすれば。
痛いことを快感に変えられる体質だったわたしに感謝していただきたい!!
あの痴人状態を見ることができて、ラッキーだと思っていただきたい!!
と思うけど、あまり受け入れてもらえない(笑)
まあ、那智さんは痛いことにそれほど執着はないし、そもそも『○○したい』というより、『りん子(女性)を可愛がりたい』その手段としていろいろする人なので、『体質』などはどうでもいいと思っているのでしょうね。
要は、『愛情』と『力量』と『慣れ』。
こっちの実力も認めてよぉと思うけど。(なんの実力だ!?)
まあ、こちらの力を抜きにして判断してもらうことは、ありがたいと思うこともあるのですね。
排泄物を食する描写を目にしたときに、ほんの少し悲しくなる。
わたしは那智さんの望みの『むしゃむしゃとおいしそうに食べる』ことができないからだ。
いまだに、一欠片を飲み込むことが精一杯。
いくら那智さんが「吐き出していいからね」と言ってくれても、吐き出してしまう自分に悲しくなってしまうのだ。
那智さんのこと大好きなのに。
「どうしてわたしは食べられないのでしょう。」
しょんぼりするわたしに。
「慣れじゃない!?」
と、さらりと言ってのける。
食べられないのは、わたしのせいじゃない。
ただ単に慣れていないだけ。
そう思うと心が少し軽くなる。
あっけないほどのお返事に、拍子抜けするけれど。
この、大したことないと思わせてくれるお返事は、ありがたいのです。
一般的に『気持ちが良い』と感じないことが快感になるのは。
受け手の性癖や性格や体質によるものなの?
する側の『力量』?
それとも、『慣れ』なのでしょうか!?
わたしはわたししか知らないし、計る術もないけれど。
もしかしたら『慣れ』、ありかもしれないと、最近少し感じているわたし。
その『慣れ』のお話を、次回^^
必要なのは、慣らすこと?
独特な幸福感
普通は気持ち良くないことが気持ち良くなるのは、『慣れ』?
いや、愛情や嗜好の一致は当然で。
そこにする側の力量と慣れを掲げられたので、こっちの力も認めてよ〜と前エントリーでキャンキャン言ってしまいました。
しかも『慣れ』なんて、なんだか身も蓋もない感じしません!?
でも、『慣れ』もあるかもしれないと、改めて思ったのです。
『リードを付けて3』にみろさんがくださった『コンビニ前の出来事があまりにも強烈で、夕方の公園わんこが記憶に残らない。』というようなコメントを見たとき『そう!!そうなの!!』と、パソコンの前で思わず仰け反ってしまった。
レスにも書いたけど、それが『手』なの!!と実感した。
まず、最初に『とんでもないこと』を提示する。
そんなの無理!!と拒否するものの、100人中1人か2人くらいは『いいかも』とうっとりしてしまう。
それを那智さんは見逃さない。
それから、なにかあるごとにその話題に触れ、少数のうっとりしたわたしもつい話題に出し、いつのまにか『無理!!』から、話題としては出してもいいものに変わっていく。
そこで聞かされるシミュレーションに、うっとり人口も徐々に増え。
そのうち、それのずっと手前の似たようなことをする。
そうやって少しずつ慣れさせていくのは、ひとつの『手』。
そして、ときには、『とんでもないこと』に近いすごいことを、いきなりガーンとして、その衝撃やそのとき僅かに感じた強烈な快感をわたしに記憶させ、それからまた元のずっと手前に戻ったりもする。
これがふたつめの『手』
これをされると、それまでしていたことが、ちょっとだけど、怖くないと思えてしまうのだ。
そして、怖さが減ると、その分快感に浸れるから、また、一歩先に進める。
さらに厄介なことに、気が付くと、その衝撃が頭から離れず、いつしか『とんでもないこと』に焦がれるようになってしまうのだ。
そのふたつめの『手』を、恐らくみろさんも無意識に感じ取ってくれてコメントに反映されたんだと思う。
最初は首輪とリードを付けるだけ。
首筋を撫でられ、わんこの幸せを感じる。
遠い、遠い先の一般道で四つん這いに向けて。(那智さんが最初からそれを計画していたわけではないと思うけど)
尻尾を付けてマ○○から移動する。
マ○○の中で四つん這い。
コンビニ前から、ホテル街の道。
しばらく、百貨店とショウウィンドウの話題であわあわさせて、何もしない。
コンビニ前で四つん這い、声をかけられ、強烈な印象が植え付けられる。
そして、そのあとした公園わんこは、怖いけど大したことないと思ってしまったのだ。
薄暗い公園の片隅で那智さんが目の前にいてのわんこ。
数時間前のひとりで待つ数分間に比べたら、ずっと楽だ。
わんこの喜びに浸れる。
そうして、公の場所でわんこになることへのハードルがちょっと下がるのと同時に、あの人に声をかけられてしまった恐怖や居たたまれなさ、そして、変な自分に起こる快感、那智さんに撫でられる快感、それらがごちゃ混ぜになって翻弄する衝撃が忘れられなくなってしまうの。
ああ、慣らされている、と感じるのだ。
『リードを付けて3』で、こんな会話を書いた。
「買い物するから、ここで待ってて。」
「四つん這いでですか?」
「うん、リードを結んでおくからね。」
わたしは、そのときの記憶通りに、そのまま書いたのだけど、那智さんがあとになって。
「あれ、よく考えると変じゃない!?みんな変と思わないかな。」と言い出した。
わたしたちは当たり前のようにあの会話をして、わたしは何の疑いも持たず書いた。
「でも、面白いよね?俺は待っててと言っただけなのに、りん子は『四つん這いで』と認識してるんだよ。そして、俺も当然そう思ってる。笑」
確かに、あのときは、あの短い会話だけでコンビニ前わんこが決定していた。
その前の百貨店前でのやり取りがあったとはいえ、わたしたちの間ではコンビニ前で待っている=四つん這いという常識ができてしまっているようで、那智さんは面白いと感じたのだ。
こんなときも慣らされていると実感する…。
「りん子さ、わんこの話が最初に出たとき、何人くらいが『できない!!』と思った?」
「99人くらいです。」
「無理とは別に『したい』という気持ちも別カテゴリーであるとして、最初は『したい』はゼロに近かったと思うけど、いまはいくつくらいになってる?』
「…う〜ん、60くらいかな…。」
「俺の勘なんだけど、『できない!!』の数がそれほど減らなくても、『したい』が100近くになれば、『したい』が『できない!!』を押しつぶしてしまうような気がするんだよね。『したい』がMAXになれば『できない!!』は無意味。」
コップに水を注ぎ、いっぱいいっぱいになっても溢れずにいる表面張力のようだ。
『無理、できない!!』と必死に溢れさせずにいるけれど、あと一滴『したい』を垂らしたら、もう一気に溢れ出て、理性決壊状態ということなのかな。
「りん子、『したい』が100になったらどうすると思う?」
「…してくださいってお願いすると思います。」
那智さんはわたしのコップに、お水を少しずつ入れている。
ときに淵ギリギリまで注ぎ、また減らし。
わたしのコップはあとどれくらいで溢れてしまうのでしょう。
『したい』が増えたときに、決壊を防ぐことが難しいということが想像できてしまって、怖い。
そして、こんな会話が、また水の量を増やすことになるの。
那智さんは両方好きだ。
困惑しながらも従い、翻弄されて、最後には快感に浸る。
『とんでもない』と思っていたことを、してくださいと懇願するほどまでに変化させる。
どちらにしても、慣らされていると思う。
気持ち良いことじゃないはずのことを快感にするには。
『心の交流』とする側の『力量』と、『慣れ』?
体質M説は、意地でも曲げるつもりはないけれど(笑)
『慣れ』も、ありなのかもしれない。
慣らされている渦中のわたしは、否応なく『慣れ説』も認めるしかないような気がします。
と、だらだら書きましたけど。
本当は、那智さんもわたしも、わかってるの。
気持ち良いことじゃないことが快感になるには、愛情や心の交流は大前提。
する側の力量。
『慣れ』もあるでしょう。
痛いことに関しては脳みその作用で快感に変換することもあるわけで、体質は関係なくそれらが揃えば、大方気持ち良くなれるかもしれない。
痛いことに強い弱いの差があって、快感になる時間に違いはあるかもしれないけれど。
そして、もうひとつ大事なのは、お互いに、そうしたい、そうなりたいと思ってしまう変態性。
うう、わたしは幼い頃から気が付けば『そうなりたい』と思っていたので、みんなそうだと思ってて、変態性なんて思いも寄らなかったのだけど^^;
もしかしたら、これが心の交流の次くらいに大事なことかも。
って、なんだただの変態ってこと!?(笑)
那智さんは前エントリーを読んで、『面白いけど、続きを面白くするのが難しそう』と言っていた。
前振りまでして、結局、言いたいことは『変態』!?
そうなんです、わたし前振りで期待感を高めることは、上手なんです。
これもりん子ワールドということで、お楽しみくださいませ^^;
でも、でも、最後にやっぱり。
体質Mでも性癖Mでもなんでもいいけど。
那智さん、わたしが『変態』でよかったですね〜!!
普通は気持ち良くないことが気持ち良くなるのは、『慣れ』?
いや、愛情や嗜好の一致は当然で。
そこにする側の力量と慣れを掲げられたので、こっちの力も認めてよ〜と前エントリーでキャンキャン言ってしまいました。
しかも『慣れ』なんて、なんだか身も蓋もない感じしません!?
でも、『慣れ』もあるかもしれないと、改めて思ったのです。
『リードを付けて3』にみろさんがくださった『コンビニ前の出来事があまりにも強烈で、夕方の公園わんこが記憶に残らない。』というようなコメントを見たとき『そう!!そうなの!!』と、パソコンの前で思わず仰け反ってしまった。
レスにも書いたけど、それが『手』なの!!と実感した。
まず、最初に『とんでもないこと』を提示する。
そんなの無理!!と拒否するものの、100人中1人か2人くらいは『いいかも』とうっとりしてしまう。
それを那智さんは見逃さない。
それから、なにかあるごとにその話題に触れ、少数のうっとりしたわたしもつい話題に出し、いつのまにか『無理!!』から、話題としては出してもいいものに変わっていく。
そこで聞かされるシミュレーションに、うっとり人口も徐々に増え。
そのうち、それのずっと手前の似たようなことをする。
そうやって少しずつ慣れさせていくのは、ひとつの『手』。
そして、ときには、『とんでもないこと』に近いすごいことを、いきなりガーンとして、その衝撃やそのとき僅かに感じた強烈な快感をわたしに記憶させ、それからまた元のずっと手前に戻ったりもする。
これがふたつめの『手』
これをされると、それまでしていたことが、ちょっとだけど、怖くないと思えてしまうのだ。
そして、怖さが減ると、その分快感に浸れるから、また、一歩先に進める。
さらに厄介なことに、気が付くと、その衝撃が頭から離れず、いつしか『とんでもないこと』に焦がれるようになってしまうのだ。
そのふたつめの『手』を、恐らくみろさんも無意識に感じ取ってくれてコメントに反映されたんだと思う。
最初は首輪とリードを付けるだけ。
首筋を撫でられ、わんこの幸せを感じる。
遠い、遠い先の一般道で四つん這いに向けて。(那智さんが最初からそれを計画していたわけではないと思うけど)
尻尾を付けてマ○○から移動する。
マ○○の中で四つん這い。
コンビニ前から、ホテル街の道。
しばらく、百貨店とショウウィンドウの話題であわあわさせて、何もしない。
コンビニ前で四つん這い、声をかけられ、強烈な印象が植え付けられる。
そして、そのあとした公園わんこは、怖いけど大したことないと思ってしまったのだ。
薄暗い公園の片隅で那智さんが目の前にいてのわんこ。
数時間前のひとりで待つ数分間に比べたら、ずっと楽だ。
わんこの喜びに浸れる。
そうして、公の場所でわんこになることへのハードルがちょっと下がるのと同時に、あの人に声をかけられてしまった恐怖や居たたまれなさ、そして、変な自分に起こる快感、那智さんに撫でられる快感、それらがごちゃ混ぜになって翻弄する衝撃が忘れられなくなってしまうの。
ああ、慣らされている、と感じるのだ。
『リードを付けて3』で、こんな会話を書いた。
「買い物するから、ここで待ってて。」
「四つん這いでですか?」
「うん、リードを結んでおくからね。」
わたしは、そのときの記憶通りに、そのまま書いたのだけど、那智さんがあとになって。
「あれ、よく考えると変じゃない!?みんな変と思わないかな。」と言い出した。
わたしたちは当たり前のようにあの会話をして、わたしは何の疑いも持たず書いた。
「でも、面白いよね?俺は待っててと言っただけなのに、りん子は『四つん這いで』と認識してるんだよ。そして、俺も当然そう思ってる。笑」
確かに、あのときは、あの短い会話だけでコンビニ前わんこが決定していた。
その前の百貨店前でのやり取りがあったとはいえ、わたしたちの間ではコンビニ前で待っている=四つん這いという常識ができてしまっているようで、那智さんは面白いと感じたのだ。
こんなときも慣らされていると実感する…。
「りん子さ、わんこの話が最初に出たとき、何人くらいが『できない!!』と思った?」
「99人くらいです。」
「無理とは別に『したい』という気持ちも別カテゴリーであるとして、最初は『したい』はゼロに近かったと思うけど、いまはいくつくらいになってる?』
「…う〜ん、60くらいかな…。」
「俺の勘なんだけど、『できない!!』の数がそれほど減らなくても、『したい』が100近くになれば、『したい』が『できない!!』を押しつぶしてしまうような気がするんだよね。『したい』がMAXになれば『できない!!』は無意味。」
コップに水を注ぎ、いっぱいいっぱいになっても溢れずにいる表面張力のようだ。
『無理、できない!!』と必死に溢れさせずにいるけれど、あと一滴『したい』を垂らしたら、もう一気に溢れ出て、理性決壊状態ということなのかな。
「りん子、『したい』が100になったらどうすると思う?」
「…してくださいってお願いすると思います。」
那智さんはわたしのコップに、お水を少しずつ入れている。
ときに淵ギリギリまで注ぎ、また減らし。
わたしのコップはあとどれくらいで溢れてしまうのでしょう。
『したい』が増えたときに、決壊を防ぐことが難しいということが想像できてしまって、怖い。
そして、こんな会話が、また水の量を増やすことになるの。
那智さんは両方好きだ。
困惑しながらも従い、翻弄されて、最後には快感に浸る。
『とんでもない』と思っていたことを、してくださいと懇願するほどまでに変化させる。
どちらにしても、慣らされていると思う。
気持ち良いことじゃないはずのことを快感にするには。
『心の交流』とする側の『力量』と、『慣れ』?
体質M説は、意地でも曲げるつもりはないけれど(笑)
『慣れ』も、ありなのかもしれない。
慣らされている渦中のわたしは、否応なく『慣れ説』も認めるしかないような気がします。
と、だらだら書きましたけど。
本当は、那智さんもわたしも、わかってるの。
気持ち良いことじゃないことが快感になるには、愛情や心の交流は大前提。
する側の力量。
『慣れ』もあるでしょう。
痛いことに関しては脳みその作用で快感に変換することもあるわけで、体質は関係なくそれらが揃えば、大方気持ち良くなれるかもしれない。
痛いことに強い弱いの差があって、快感になる時間に違いはあるかもしれないけれど。
そして、もうひとつ大事なのは、お互いに、そうしたい、そうなりたいと思ってしまう変態性。
うう、わたしは幼い頃から気が付けば『そうなりたい』と思っていたので、みんなそうだと思ってて、変態性なんて思いも寄らなかったのだけど^^;
もしかしたら、これが心の交流の次くらいに大事なことかも。
って、なんだただの変態ってこと!?(笑)
那智さんは前エントリーを読んで、『面白いけど、続きを面白くするのが難しそう』と言っていた。
前振りまでして、結局、言いたいことは『変態』!?
そうなんです、わたし前振りで期待感を高めることは、上手なんです。
これもりん子ワールドということで、お楽しみくださいませ^^;
でも、でも、最後にやっぱり。
体質Mでも性癖Mでもなんでもいいけど。
那智さん、わたしが『変態』でよかったですね〜!!
すべてはする側のせいだと思いたい!!(笑)
独特な幸福感
前々エントリーと前エントリーで最後には『わたしは変態』と豪語してしまいましたが、本当はわたしは自分が変態だなんて思っていないのです。
那智さんに『こちらの実力も認めてよ〜』ということと、それでも『慣れ』はあるかもしれないと感じたので、なんか最後の〆として、つい売り言葉に買い言葉で『変態』と書いてしまったという感じです。
うう、1人で売ったり買ったりしている^^;
なんだか3部作になってしまっていますが、今日はフォローエントリー。
前回、わたしは変態だなんて書いてしまいましたが、実はそんなふうに思っていないの。
確かに自分は『M』っぽいと自覚しています。
でも、それって多くの人が持っているものだと、けっこう真剣に思ってる。
『猫タイプ』『犬タイプ』みたいにいくつかのカテゴリーに人を分けることができるのなら、SタイプMタイプとおおまかに人はカテゴライズできると思っているのです。
ほら、ちまたでは『ドS』や『ドM』なんて言われていますし。
で、たまたまわたしは『Mタイプ』で、たまたま幼いころにそういう雑誌に触れ、たまたま小説などを読み、たまたま妄想好きだったから、その芽が出ているだけなんじゃないか。
人は一度くらいは『強引に』とか『追い詰められて』に憧れたりしているんじゃなかしら。
それが、たまたま育つ環境だっただけ。
それで、たまたま那智さんという人に出会って、いつの間にか『わたしは変態』だなんて言うはめになってしまっているのではないかと思うのです。
スタートは同じで、出たサイコロの目が、たまたりん子ういうブログを書かせているだけだと、かなり真面目に思ってます^^;
一度くらいは、メチャクチャにされたいと思ったこと、ありますよね…?
あると思いたいのですけど…、ありますよね?
あってほしいなぁ…。
だから、わたしは変態じゃないと。
前エントリーを書いたあと。
りん子で良かったですね〜と思ってもらいたいばっかりに(いや、思ってくれているのでしょうけど)、あんな風に書いたことをフォローしたくて、那智さんにメールを入れた。
『わたし、変態じゃなーい!!』
そしたら、那智さんからお返事。
『変態の定義は?』
そのときは外だったので、辞書を引くこともなく、わたしなりのひと言。
『少数派』
『じゃあ、立派な変態です。』
と言われてしまった。
そのあとすぐお電話できる機会があって、続きを話す。
「わたし変態じゃなありません;;」
「え、だって認めていたじゃない。少数派だって。」
「違います、那智さんが『変態の定義は?』と聞いてきたので、少数派と答えただけで、自分が少数派だとは言っていません。」
「ああ、そうだったね、じゃあ、りん子は少数派じゃないの?」
「はい、多数派だと思ってます。多分、みんな多かれ少なかれそういう感覚は持っているの。たまたま表面化しているだけ。だから、わたしの定義から言えば、変態じゃないのです。」
と、先に書いたようなことを言う。
「でも、多数派の人が、あんなわんこみたいのことするかな?笑」
「それは、わたしが少数派なんじゃなくて、那智さんが少数派なだけです。わたしがそれに引っ張られただけ。」
「だって、『愛情』と『する側の力量』と『慣れ』があればいいのですものね!!だから、わたし側の器量は関係ないのです。」
「ははは、うまいとこ突くね〜。」
「だから、わたしは変態じゃない!!!」
ふう〜。
もう、何書いているだか…。
自分でもわからなくなってます^^;
わたしがわんこになっちゃうのも、変態だなんて言ってしまったのも、いったい誰の何のせい!?
それは、きっと那智さんのせいだ!!
那智さんが、愛情と力量と慣れでわたしをそういう風に見せているだけだ!!
ぜーんぶ、那智さんのせい(笑)
那智さんは「そうそう、俺のせい」と一手に引き受けてくれるはず(よろしくね、那智さん♪)。
うん、その責任背負ってくれることも、理性決壊にはとっても必要なひとつでした^^
わたし、小心者だからどーしても多数派が落ち着くの。
だから、みんな多かれ少なかれ似たような妄想の種を持っていると思いたい。
思いたいから、フォローエントリー^^
でも、次回は『慣れ』の一例を書く予定です。
また、少数派っぽいこと書いちゃうことになってしまうけど、心はいつも『みんなと同じ』で…いたい…いたいのだけど、いいかな〜^^;
前々エントリーと前エントリーで最後には『わたしは変態』と豪語してしまいましたが、本当はわたしは自分が変態だなんて思っていないのです。
那智さんに『こちらの実力も認めてよ〜』ということと、それでも『慣れ』はあるかもしれないと感じたので、なんか最後の〆として、つい売り言葉に買い言葉で『変態』と書いてしまったという感じです。
うう、1人で売ったり買ったりしている^^;
なんだか3部作になってしまっていますが、今日はフォローエントリー。
前回、わたしは変態だなんて書いてしまいましたが、実はそんなふうに思っていないの。
確かに自分は『M』っぽいと自覚しています。
でも、それって多くの人が持っているものだと、けっこう真剣に思ってる。
『猫タイプ』『犬タイプ』みたいにいくつかのカテゴリーに人を分けることができるのなら、SタイプMタイプとおおまかに人はカテゴライズできると思っているのです。
ほら、ちまたでは『ドS』や『ドM』なんて言われていますし。
で、たまたまわたしは『Mタイプ』で、たまたま幼いころにそういう雑誌に触れ、たまたま小説などを読み、たまたま妄想好きだったから、その芽が出ているだけなんじゃないか。
人は一度くらいは『強引に』とか『追い詰められて』に憧れたりしているんじゃなかしら。
それが、たまたま育つ環境だっただけ。
それで、たまたま那智さんという人に出会って、いつの間にか『わたしは変態』だなんて言うはめになってしまっているのではないかと思うのです。
スタートは同じで、出たサイコロの目が、たまたりん子ういうブログを書かせているだけだと、かなり真面目に思ってます^^;
一度くらいは、メチャクチャにされたいと思ったこと、ありますよね…?
あると思いたいのですけど…、ありますよね?
あってほしいなぁ…。
だから、わたしは変態じゃないと。
前エントリーを書いたあと。
りん子で良かったですね〜と思ってもらいたいばっかりに(いや、思ってくれているのでしょうけど)、あんな風に書いたことをフォローしたくて、那智さんにメールを入れた。
『わたし、変態じゃなーい!!』
そしたら、那智さんからお返事。
『変態の定義は?』
そのときは外だったので、辞書を引くこともなく、わたしなりのひと言。
『少数派』
『じゃあ、立派な変態です。』
と言われてしまった。
そのあとすぐお電話できる機会があって、続きを話す。
「わたし変態じゃなありません;;」
「え、だって認めていたじゃない。少数派だって。」
「違います、那智さんが『変態の定義は?』と聞いてきたので、少数派と答えただけで、自分が少数派だとは言っていません。」
「ああ、そうだったね、じゃあ、りん子は少数派じゃないの?」
「はい、多数派だと思ってます。多分、みんな多かれ少なかれそういう感覚は持っているの。たまたま表面化しているだけ。だから、わたしの定義から言えば、変態じゃないのです。」
と、先に書いたようなことを言う。
「でも、多数派の人が、あんなわんこみたいのことするかな?笑」
「それは、わたしが少数派なんじゃなくて、那智さんが少数派なだけです。わたしがそれに引っ張られただけ。」
「だって、『愛情』と『する側の力量』と『慣れ』があればいいのですものね!!だから、わたし側の器量は関係ないのです。」
「ははは、うまいとこ突くね〜。」
「だから、わたしは変態じゃない!!!」
ふう〜。
もう、何書いているだか…。
自分でもわからなくなってます^^;
わたしがわんこになっちゃうのも、変態だなんて言ってしまったのも、いったい誰の何のせい!?
それは、きっと那智さんのせいだ!!
那智さんが、愛情と力量と慣れでわたしをそういう風に見せているだけだ!!
ぜーんぶ、那智さんのせい(笑)
那智さんは「そうそう、俺のせい」と一手に引き受けてくれるはず(よろしくね、那智さん♪)。
うん、その責任背負ってくれることも、理性決壊にはとっても必要なひとつでした^^
わたし、小心者だからどーしても多数派が落ち着くの。
だから、みんな多かれ少なかれ似たような妄想の種を持っていると思いたい。
思いたいから、フォローエントリー^^
でも、次回は『慣れ』の一例を書く予定です。
また、少数派っぽいこと書いちゃうことになってしまうけど、心はいつも『みんなと同じ』で…いたい…いたいのだけど、いいかな〜^^;
飼い主の目、犬の目
独特な幸福感
時々テレビで『ダメ犬しつけ大会』のような番組やコーナーを見るときがあります。
そこに登場するしつけのプロと言われる方々、ブリーダーともいうのかしら。
吠えまくったり暴走する犬を、あれよあれよというまに手名付けてしまう。
わたしは犬を飼ったことがないからわからないのだけど、犬ってあんなふうに人によって変わるものなのね〜と感心して見ております。
すぐ暴走する犬に『ぐいっ』とリードを引き、暴走を止め、できたら褒める。
それを2、3回繰り返すうちに、犬の様子ががらりと変わり、途端にいい子になってしまうのだ。
それをしたしつけのプロさんはこんなようなことを言っていた。
犬は服従する存在ができると落ち着くのだ。
その存在の命令を待ち、褒められることで喜びを感じる。
犬が喜ぶ撫で場所があるようで、そこを撫でることでより効果があるそうなので、犬は心(があるとして)と体と両方で喜ぶのだそう。
リードを『ぐいっ』と引かれて驚くような瞳。
それを繰り返した後の、少し怯えるような期待するように見上げる。
あの犬のような気持ち。
那智さんが出張から戻るのを空港までお迎えに行く日があった。
そこから那智さんのお仕事場までの移動時間と、ちょっとだけ長く取ってくれたランチタイムのデート。
それでも、普段のランチデートよりも長く一緒にいられるし、空港までお迎えなんて普段とは違う状況で、わくわく気分で空港へ向かった。
到着ゲートを横に見るように並んだベンチの二列目に座って待つ。
体をちょっと斜めに向けて、到着ゲートが見えやすいように。
ゲートの反対側には飲食店。
ただ、お昼前だし、ほとんど人が入っていない。
わたしの前のベンチに親子連れが、後ろにはスーツ姿の男性。
こんな昼間に国内線のお迎えに来るような人はそんなにいないのね。
時々、その先にある従業員用通路のドアから人の出入りがあるくらいだった。
到着した人の波が落ち着けば、それ以外は人影まばらだ。
まぁだっかな♪
文字通り首を長くして待つ。
いくつかの便をやり過ごし、ようやく遠くに那智さんの姿を発見。
わい、わい!!
見えない尻尾がブンブン振れているみたい。
こちらに向かって来てくれるとばかり思っていたら、ひょいっと曲がってトイレに入っちゃった。
次々と到着ゲートから出てくるビジネスマンたちを見送りながら、しかたなくベンチに腰掛けている。
人の流れのピークが少し落ち着いたころ、那智さんがゲートから出てきた。
立ち上がり、近寄る。
今日は黒いパンツに黒い9cmヒールのパンプス、でかいわたしは駆け寄ると変に目立ってしまいそうで、そそと近寄る。(背が高いことの、利点とコンプレックスは表裏一体です)
いつもと違うシチュエーションに、ちょっと照れ笑いで。
「お疲れさまでした^^」
「うん、いいこだね。」
きっと、笑顔で迎えたことを『いいこ』と言ってくれたのだろう。
うふふ、と思う。
数歩歩いて、そうだなベンチ4個分くらい、親子連れから離れ、スーツ姿の男性を通り過ぎた辺りで。
「四つん這い。」
へ!?
きょとんとするわたしに、もう一度。
「四つん這いになって。」
わたしがベンチ寄り、那智さんは通路に背を向けた状態。
那智さんの肩越しに、ゲートから出て来たビジネスマンたちが通り過ぎるのが見える。
いま?
ここで?
首を横に振る。
でも、わかってるの。
那智さんの目が『やらせる目』だったから。(ああ、那智さん、トップブリーダーの目!?)
これは、やることだっていうことを。
『どうする!?』というお遊びの目じゃなくて、このときは最初からやらせる目だった。
怖い目じゃなくて、とてもとても強く真剣な目。
口調だって全然怖くない、普通に話しかけているみたいだ。
「ここで…?無理です。」
あり得ない!!!とそうお返事しながら、一方でわたしはやるんだなと、もう決まっている感覚だ。
でも、すんなりと従えるものではないから、無駄な抵抗をしているようだ。
「四つん這いになりな。」
相変わらず普通の口調。
でも、わたしの首筋に伸びた手に一瞬入った力だけが、有無を言わせぬ迫力でわたしを押す。
怖いからとりあえず、ベンチに腰を下ろす。
いきなりしゃがむより目立たないかなと、必死の作戦。
もう一度、首筋に置かれた手に力。
観念して、ベンチから腰をずらし、硬い床に降りる。
まず膝をつき。
次に両手をつく。
最後にお尻を上げて、那智さんのいう四つん這い完成。
もううううう、恥ずかしい!!!
わたし、いま空港で四つん這いになってる!!
うつむいているけれど、視界に通り過ぎるビジネスマン達の足が見える、その足が速度を緩めたり、振り返ったりしているように見える。
辺りがざわつくように感じる。
恥ずかしくて、申し訳なくて、ぎゅっと目を瞑る。
その間、ずっと那智さんはわたしの首筋を撫でてくれている。
これがたまらなく気持ちが良い。
お尻を上げることで、わずかに頭が那智さんの足の近付くの。
そこに抱え込むように首筋を撫でていてくれるのだ。
首筋に性感帯が集中しているみたい。
衆人環視の中で大事に大事に護られているよう。
こんなに気持ち良いことない!!
緊張して硬く握った拳の力がほんの少し抜けたみたいになる。
「はい、いいよ、いいこだったね。」
時間にしたら20秒くらいかな、促されて腰を上げるけど、恥ずかしくてすぐに立ち上がることができず、そのままスライドしてベンチに座る。
歩き出そうとする那智さんのスーツのジャケットを握り、ちょ、ちょっと待ってと阻止。
だって、いまそれを見た人と同じペースで歩くなんて恥ずかしくてできないです。
非現実な感覚を、ちょっと現実に戻すよう。
でも、お菓子を取り上げられてしまったような、名残惜しい気持ちもわずかに残る。
少し落ち着きを取り戻して、歩き出す。
歩きながらあの気持ち良さを思い出して、なんとも言えない恍惚感を反芻してしまう。
この『どこでもわんこ』を那智さんは気に入ったようです。
短い時間なので、それほど気合いを入れなくてもできるし、りん子1人にさせることもない。
『四つん這い』といって、どこでも従うわたしを見るのも楽しいでしょう。
移動の最中も、その話題に触れては『やる?』とあわあわさせて遊んでいた。
でも、そのときの目は違うんだな、わかるの。
だから、わたしもヒヤヒヤしながらも、一緒に遊んでいる感じ。
1回だけ駅のホームでやらせる目になりかけたから、心臓が飛び出そうなほどビクビクしたけれど。
そのとき恐怖に怯えながらも、あの那智さんの意志がわたしの意志になってそこから生まれる快感をまた味わわせてもらえるかも、と取り下げられて、ほんの少し、わずかに、微量に、寂しく思ってしまった。
だから、移動中、ずっと、ちょっと怯えながら様子を伺い、快感をくれるのかわずかに期待しながら、一緒に歩いていた。
これも『慣れ』のひとつ?
怖いよぉ、わたし、慣れちゃうよぉと、怯えながら、期待して待ってしまうのだ。
やらせる目。
それを何度か経験して、心と体に気持ち良さを植え付けて。
次はいつ来るのか、怯えながら期待して待ってしまう。
テレビで見た犬のよう。
犬が怯えて見えるのは、本当に怯えているからなのかな。
だとしたら、何に怯えているのだろう。
少なくともわたしは那智さんには怯えていない。
那智さんは『脅して』従わせているんじゃないの。
『諦めない』でも書いたけど、那智さんはやらないことと愛情を秤に掛けたことは一度もないから。
わたしは、人の視線と、あり得ないことをしてしまう自分に怯えているのだと思う。
そこは犬とは違うと思うけど。
どこかあの犬に気持ちに似ているようで、テレビで見た怯えと期待の目を思い出すのだ。
時々テレビで『ダメ犬しつけ大会』のような番組やコーナーを見るときがあります。
そこに登場するしつけのプロと言われる方々、ブリーダーともいうのかしら。
吠えまくったり暴走する犬を、あれよあれよというまに手名付けてしまう。
わたしは犬を飼ったことがないからわからないのだけど、犬ってあんなふうに人によって変わるものなのね〜と感心して見ております。
すぐ暴走する犬に『ぐいっ』とリードを引き、暴走を止め、できたら褒める。
それを2、3回繰り返すうちに、犬の様子ががらりと変わり、途端にいい子になってしまうのだ。
それをしたしつけのプロさんはこんなようなことを言っていた。
犬は服従する存在ができると落ち着くのだ。
その存在の命令を待ち、褒められることで喜びを感じる。
犬が喜ぶ撫で場所があるようで、そこを撫でることでより効果があるそうなので、犬は心(があるとして)と体と両方で喜ぶのだそう。
リードを『ぐいっ』と引かれて驚くような瞳。
それを繰り返した後の、少し怯えるような期待するように見上げる。
あの犬のような気持ち。
那智さんが出張から戻るのを空港までお迎えに行く日があった。
そこから那智さんのお仕事場までの移動時間と、ちょっとだけ長く取ってくれたランチタイムのデート。
それでも、普段のランチデートよりも長く一緒にいられるし、空港までお迎えなんて普段とは違う状況で、わくわく気分で空港へ向かった。
到着ゲートを横に見るように並んだベンチの二列目に座って待つ。
体をちょっと斜めに向けて、到着ゲートが見えやすいように。
ゲートの反対側には飲食店。
ただ、お昼前だし、ほとんど人が入っていない。
わたしの前のベンチに親子連れが、後ろにはスーツ姿の男性。
こんな昼間に国内線のお迎えに来るような人はそんなにいないのね。
時々、その先にある従業員用通路のドアから人の出入りがあるくらいだった。
到着した人の波が落ち着けば、それ以外は人影まばらだ。
まぁだっかな♪
文字通り首を長くして待つ。
いくつかの便をやり過ごし、ようやく遠くに那智さんの姿を発見。
わい、わい!!
見えない尻尾がブンブン振れているみたい。
こちらに向かって来てくれるとばかり思っていたら、ひょいっと曲がってトイレに入っちゃった。
次々と到着ゲートから出てくるビジネスマンたちを見送りながら、しかたなくベンチに腰掛けている。
人の流れのピークが少し落ち着いたころ、那智さんがゲートから出てきた。
立ち上がり、近寄る。
今日は黒いパンツに黒い9cmヒールのパンプス、でかいわたしは駆け寄ると変に目立ってしまいそうで、そそと近寄る。(背が高いことの、利点とコンプレックスは表裏一体です)
いつもと違うシチュエーションに、ちょっと照れ笑いで。
「お疲れさまでした^^」
「うん、いいこだね。」
きっと、笑顔で迎えたことを『いいこ』と言ってくれたのだろう。
うふふ、と思う。
数歩歩いて、そうだなベンチ4個分くらい、親子連れから離れ、スーツ姿の男性を通り過ぎた辺りで。
「四つん這い。」
へ!?
きょとんとするわたしに、もう一度。
「四つん這いになって。」
わたしがベンチ寄り、那智さんは通路に背を向けた状態。
那智さんの肩越しに、ゲートから出て来たビジネスマンたちが通り過ぎるのが見える。
いま?
ここで?
首を横に振る。
でも、わかってるの。
那智さんの目が『やらせる目』だったから。(ああ、那智さん、トップブリーダーの目!?)
これは、やることだっていうことを。
『どうする!?』というお遊びの目じゃなくて、このときは最初からやらせる目だった。
怖い目じゃなくて、とてもとても強く真剣な目。
口調だって全然怖くない、普通に話しかけているみたいだ。
「ここで…?無理です。」
あり得ない!!!とそうお返事しながら、一方でわたしはやるんだなと、もう決まっている感覚だ。
でも、すんなりと従えるものではないから、無駄な抵抗をしているようだ。
「四つん這いになりな。」
相変わらず普通の口調。
でも、わたしの首筋に伸びた手に一瞬入った力だけが、有無を言わせぬ迫力でわたしを押す。
怖いからとりあえず、ベンチに腰を下ろす。
いきなりしゃがむより目立たないかなと、必死の作戦。
もう一度、首筋に置かれた手に力。
観念して、ベンチから腰をずらし、硬い床に降りる。
まず膝をつき。
次に両手をつく。
最後にお尻を上げて、那智さんのいう四つん這い完成。
もううううう、恥ずかしい!!!
わたし、いま空港で四つん這いになってる!!
うつむいているけれど、視界に通り過ぎるビジネスマン達の足が見える、その足が速度を緩めたり、振り返ったりしているように見える。
辺りがざわつくように感じる。
恥ずかしくて、申し訳なくて、ぎゅっと目を瞑る。
その間、ずっと那智さんはわたしの首筋を撫でてくれている。
これがたまらなく気持ちが良い。
お尻を上げることで、わずかに頭が那智さんの足の近付くの。
そこに抱え込むように首筋を撫でていてくれるのだ。
首筋に性感帯が集中しているみたい。
衆人環視の中で大事に大事に護られているよう。
こんなに気持ち良いことない!!
緊張して硬く握った拳の力がほんの少し抜けたみたいになる。
「はい、いいよ、いいこだったね。」
時間にしたら20秒くらいかな、促されて腰を上げるけど、恥ずかしくてすぐに立ち上がることができず、そのままスライドしてベンチに座る。
歩き出そうとする那智さんのスーツのジャケットを握り、ちょ、ちょっと待ってと阻止。
だって、いまそれを見た人と同じペースで歩くなんて恥ずかしくてできないです。
非現実な感覚を、ちょっと現実に戻すよう。
でも、お菓子を取り上げられてしまったような、名残惜しい気持ちもわずかに残る。
少し落ち着きを取り戻して、歩き出す。
歩きながらあの気持ち良さを思い出して、なんとも言えない恍惚感を反芻してしまう。
この『どこでもわんこ』を那智さんは気に入ったようです。
短い時間なので、それほど気合いを入れなくてもできるし、りん子1人にさせることもない。
『四つん這い』といって、どこでも従うわたしを見るのも楽しいでしょう。
移動の最中も、その話題に触れては『やる?』とあわあわさせて遊んでいた。
でも、そのときの目は違うんだな、わかるの。
だから、わたしもヒヤヒヤしながらも、一緒に遊んでいる感じ。
1回だけ駅のホームでやらせる目になりかけたから、心臓が飛び出そうなほどビクビクしたけれど。
そのとき恐怖に怯えながらも、あの那智さんの意志がわたしの意志になってそこから生まれる快感をまた味わわせてもらえるかも、と取り下げられて、ほんの少し、わずかに、微量に、寂しく思ってしまった。
だから、移動中、ずっと、ちょっと怯えながら様子を伺い、快感をくれるのかわずかに期待しながら、一緒に歩いていた。
これも『慣れ』のひとつ?
怖いよぉ、わたし、慣れちゃうよぉと、怯えながら、期待して待ってしまうのだ。
やらせる目。
それを何度か経験して、心と体に気持ち良さを植え付けて。
次はいつ来るのか、怯えながら期待して待ってしまう。
テレビで見た犬のよう。
犬が怯えて見えるのは、本当に怯えているからなのかな。
だとしたら、何に怯えているのだろう。
少なくともわたしは那智さんには怯えていない。
那智さんは『脅して』従わせているんじゃないの。
『諦めない』でも書いたけど、那智さんはやらないことと愛情を秤に掛けたことは一度もないから。
わたしは、人の視線と、あり得ないことをしてしまう自分に怯えているのだと思う。
そこは犬とは違うと思うけど。
どこかあの犬に気持ちに似ているようで、テレビで見た怯えと期待の目を思い出すのだ。