触れる
独特な幸福感
ひとつまえのお話で「『100』の片鱗に触れるような感覚」という表現をした。「行為を数値で計ってしまうわたし」ってことを書いていたんだけど、その中のその表現がストンとわたしの心に落ちて、なんだか妙に納得してしまった。
SMがしたいと思って旅をしていたとき。
那智さんに出会う前に会った人たち。
その中でも3人目の人とは、ずいぶんコミュニケーションも取れてて「好きな人」だった。
だけど、その人の望んでいることとわたしの望んでいることが違うと、わたしが感じてしまってお別れした。
時間がかかったけど、その人はわたしの望む「S」じゃないと気が付いたのだ。
何が、わたしの望む「S」と違ったんだろう。
その人から感じられたのは「セックスのスパイスとしてのSM的行為」。
おもちゃを使ったり、ろうそくをしてみたり、縛ってみたり。
だけど、那智さんとだって、同じようなことをしてる。
いまでこそ、あとから思い出しても驚いてしまうようなことを那智さんとしてるけど、出会ったころしていたことは、その人と変わらない。
何が違うのだろう。
ずっと疑問だった。
もちろん、やってることがエスカレートしてくか、エスカレートの度合いが少ないかというわかりやすい違いはある。
だけど、その人だってやることが大胆になっていくところもあったし、逆に那智さんだって同じようなことが繰り返されたり、戻ったりはあるから、それだけでは納得できなかった。
ひとつ前のお話を書いていて、その「100の片鱗に触れる感覚」の有無が違うんだって思ったの。
「やることがすごい」からというほうがわかりやすいし、まったくの感覚的なことだから伝えづらいのだけど。
この感覚が腑に落ちてしまった。
「今度○○しようね」
そういう会話はSMのパートナーの間ではよく出ると思う。
それは、その人とも出た。
なのになぜか寂しいと思ってた。
それは「セックスの刺激」だったからだ。
きっと、わたしの望む「S」(那智さん)は、「100の片鱗」に触れさせてくれる人だ。
そして、自分も「100」を持っている。
わたしに「100」に触れさせているとき、自分の「100」にも同時に触れている。
その共感や一体感を感じることができるのだ。
わたしにとって「セックスの刺激」では、ずっと先にある妄想の「100の片鱗」に触れる満足感は得られなかったんだ。
だから、同じような行為をしてても寂しかった。
「ずっと先にある妄想」、それを持っているということは、あまり正しくないとずっと思ってた。
それを持つことに罪悪感を感じ、でも、消し去ることができずに持て余していた。
それに、ちょっとでも触れさせてくれる。
「S」も同じようなものを持っているから、理解し受け入れ手を取ってそっと触らせてくれるのだ。
そして、それが「わたしが望んでいるから」ではなくて、「S」も触りたいとわかるから、罪悪感を感じないでいい。
那智さんとわたしの「100」は一緒じゃないかもしれない。
でも、2人とも、ずっと先にぼんやりと光る「100」を抱えている。
同じ光を見てるとは限らないけど、持て余し抱えていたものに「いっせーの、せっ」で触れる。
わたしが怖くて手を引っ込めていると、那智さんが一歩先に行って、手を取ってそっと触らせてくれる、そんな感じだ。
この一体感を持つことができる「S」が、わたしのほしいものだったのだろう。
もちろん、そんなの最初からわかってるわけじゃないし、那智さんと付き合い出しても、まだわかってなかったかもしれない。
もっというと、那智さんの光はわたしが灯したとも思ってる(笑)
那智さんには、ろうそくかコンセントがあって、わたしが火かプラグを使って灯した。(これが相乗効果^^)
ただ、もとの「ろうそく」を那智さんが持っていたのだと思う。
那智さん自身も言ってるけど、そこ(ろうそく)は見ないようにしていたらしい。(わたしが見せちゃった^^)
見てみたら、悪くなかったでしょ?那智さん。
だって、最初から一緒に触れるわたしがいるんだもの。
よく「あなたのM性を引き出す」なんて誘い文句を聞くけど、わたしは那智さんの「S性を引き出した」の!?
それは驚き、そして、やっぱり嬉しい。
でも、一旦明かりが灯ったら、これがけっこうまぶしいやつだったのよね、那智さんの^^;…お外でわんこのあと、アスファルトで擦り剥けた膝小僧を眺めながら、ため息をつき、そう思う。
うーん、「ただの変態同士だから」の一言で片付けられるお話だったかな?
ひとつまえのお話で「『100』の片鱗に触れるような感覚」という表現をした。「行為を数値で計ってしまうわたし」ってことを書いていたんだけど、その中のその表現がストンとわたしの心に落ちて、なんだか妙に納得してしまった。
SMがしたいと思って旅をしていたとき。
那智さんに出会う前に会った人たち。
その中でも3人目の人とは、ずいぶんコミュニケーションも取れてて「好きな人」だった。
だけど、その人の望んでいることとわたしの望んでいることが違うと、わたしが感じてしまってお別れした。
時間がかかったけど、その人はわたしの望む「S」じゃないと気が付いたのだ。
何が、わたしの望む「S」と違ったんだろう。
その人から感じられたのは「セックスのスパイスとしてのSM的行為」。
おもちゃを使ったり、ろうそくをしてみたり、縛ってみたり。
だけど、那智さんとだって、同じようなことをしてる。
いまでこそ、あとから思い出しても驚いてしまうようなことを那智さんとしてるけど、出会ったころしていたことは、その人と変わらない。
何が違うのだろう。
ずっと疑問だった。
もちろん、やってることがエスカレートしてくか、エスカレートの度合いが少ないかというわかりやすい違いはある。
だけど、その人だってやることが大胆になっていくところもあったし、逆に那智さんだって同じようなことが繰り返されたり、戻ったりはあるから、それだけでは納得できなかった。
ひとつ前のお話を書いていて、その「100の片鱗に触れる感覚」の有無が違うんだって思ったの。
「やることがすごい」からというほうがわかりやすいし、まったくの感覚的なことだから伝えづらいのだけど。
この感覚が腑に落ちてしまった。
「今度○○しようね」
そういう会話はSMのパートナーの間ではよく出ると思う。
それは、その人とも出た。
なのになぜか寂しいと思ってた。
それは「セックスの刺激」だったからだ。
きっと、わたしの望む「S」(那智さん)は、「100の片鱗」に触れさせてくれる人だ。
そして、自分も「100」を持っている。
わたしに「100」に触れさせているとき、自分の「100」にも同時に触れている。
その共感や一体感を感じることができるのだ。
わたしにとって「セックスの刺激」では、ずっと先にある妄想の「100の片鱗」に触れる満足感は得られなかったんだ。
だから、同じような行為をしてても寂しかった。
「ずっと先にある妄想」、それを持っているということは、あまり正しくないとずっと思ってた。
それを持つことに罪悪感を感じ、でも、消し去ることができずに持て余していた。
それに、ちょっとでも触れさせてくれる。
「S」も同じようなものを持っているから、理解し受け入れ手を取ってそっと触らせてくれるのだ。
そして、それが「わたしが望んでいるから」ではなくて、「S」も触りたいとわかるから、罪悪感を感じないでいい。
那智さんとわたしの「100」は一緒じゃないかもしれない。
でも、2人とも、ずっと先にぼんやりと光る「100」を抱えている。
同じ光を見てるとは限らないけど、持て余し抱えていたものに「いっせーの、せっ」で触れる。
わたしが怖くて手を引っ込めていると、那智さんが一歩先に行って、手を取ってそっと触らせてくれる、そんな感じだ。
この一体感を持つことができる「S」が、わたしのほしいものだったのだろう。
もちろん、そんなの最初からわかってるわけじゃないし、那智さんと付き合い出しても、まだわかってなかったかもしれない。
もっというと、那智さんの光はわたしが灯したとも思ってる(笑)
那智さんには、ろうそくかコンセントがあって、わたしが火かプラグを使って灯した。(これが相乗効果^^)
ただ、もとの「ろうそく」を那智さんが持っていたのだと思う。
那智さん自身も言ってるけど、そこ(ろうそく)は見ないようにしていたらしい。(わたしが見せちゃった^^)
見てみたら、悪くなかったでしょ?那智さん。
だって、最初から一緒に触れるわたしがいるんだもの。
よく「あなたのM性を引き出す」なんて誘い文句を聞くけど、わたしは那智さんの「S性を引き出した」の!?
それは驚き、そして、やっぱり嬉しい。
でも、一旦明かりが灯ったら、これがけっこうまぶしいやつだったのよね、那智さんの^^;…お外でわんこのあと、アスファルトで擦り剥けた膝小僧を眺めながら、ため息をつき、そう思う。
うーん、「ただの変態同士だから」の一言で片付けられるお話だったかな?
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