してもらいたい
独特な幸福感
もともと自分のファンタジーになかったことが、何かをきっかけに望むようになっていく。
もともとファンタジーになかったけど、深層では望んでいたことなのか、それとも新たに生まれたことなのか、それは自分でもわからない。
それは他者の影響だったり、那智さんとの行為で芽生えたり。
でも、一番確実に「望み」として植え付けられるのは、那智さんがそれをとても望むということ。
自分の願望を叶えてもらうようにお願いするのは、好きじゃない。
変態的なことをする動機付けを「自分がしたいから」というのは、恥ずかしく、そして、なんだか情けない。
お願いしてしてもらっても、それほど喜べない、やっぱり「那智さんがとてもとてもそれをしたい、させたい」と思う情熱があるからこそできる、と思ってる。
お願いして自分がしたいことをしてもらうより、那智さんがしたいことが私のしてほしいこと。
時々お願いもするけど、そうするとそれよりもワンランク上の酷いことをするから、それは実はありがたい。
そうすると、それは「那智さんのしたいこと」に変わるからだ。
ちょっと話が逸れちゃった^^;
もともとファンタジーになかったことが、私の喜びになる。
スカトロが最たる例。
といっても、最終到達の「美味しそうにむしゃむしゃ食べる」までには至っていないけど。
那智さんの排泄物を手や口や体で受けることは、時に苦しいけど、喜んで濡れる、そして、次を待ち望む。
全身を那智さんの排泄物まみれにしてほしいと思う。
アナルセックスもそうだ。
それは恐怖だけで、なぜかSM的行為として認識してなかった。
それがいまでは、「してもらう」幸せなことになっている。
そして、もうひとつが、おまんこの毛を剃ることだ。
これも、SMの話題では聞いたことがあった。
「ご主人様のものという証拠、ご主人様を思って日々手入れする」なんて感じね。
でも、なんだかピンと来なかったのよね。
なんでだろう。
結婚しているからという理由以前に、したいとも思わなかったし、それは私の快感ではなかった。
数ヶ月前、那智さんは何の予告もなしに剃刀を持ってきて「おまんこの毛剃る?」と聞いてきた。(1/16「独特な幸福感」の「電気剃刀」に書いてあります。)
その瞬間、私の針がぎゅ〜んと振れて、いままで圏外だった「剃毛」を急激に意識することになった。
結局、危険だということで、私は断った。
もとろん、「危険」という理由が付いたことには無理強いをする人じゃないから、それはしなかった。
だけど、不思議。
那智さんの「する?」が、私を変える。
したいと思うことが、私はしてほしくてたまらない。
この気持ちね、献身じゃないの。
那智さんの楽しみのために私を差し出すという感覚は、すごーく少ない。
魔法のように、「それをしてほしく」なってしまうの。
断るとき私は泣いた。
それは、謝罪ではなくて、悲しかったから。
那智さんの望み通りになれなくてごめんなさいではなくて、したいことができない悲しい涙。
子供のころ、楽しみにしていたことが流れてしまったようなときに、流した涙と同じだった。
そのときは、最終的には「ちょっと剃る」で気持ちを収めたけど、それもどちらかというと那智さんが慰めてくれたような感じだった。
その薄くなったおまんこを見て「かわいい」とめずらしく感情をあらわにして那智さんが言ったのを聞いて、更にそれは私の「望む」ことになっていったんだ。
それから数ヶ月。
なんの前触れもなく剃刀を取り出したときのように、電話で不意に「毛、剃るか?」と言う。
ああ、嬉しい。
那智さんの「かわいいりん子」になりたい。
でも、これは結婚している私には危険なことだ。
散々迷う。
そして、強力な後押しを求める。
「那智さんがどうしてもしたいというなら…。」
「俺が、どうしてもって思わないとダメ?」
胸をぎゅーーーっと掴まれたみたいだ。
この感覚、きっと上手に伝えられない(けど書く^^;)。
いままでは那智さんが強烈にしたいと思ってくれることが、私の免罪符だった。
でも、この会話で、「強烈な情熱」がなくても、那智さんがしたいことをしてもらうことが喜び、もっというと、那智さんがしたいかどうか二の次で「那智さんにしてもらう」ことが、私の望みだということを認識してしまった。
これは、ちょっと衝撃。
引き返せない階段をまた一歩昇ってしまったような、落ち着かない気持ちになる。
那智さんのしたいことをしてほしいということには変わりないけど、那智さんにしてもらうことが私の喜びという、とても私本意で、それでいて、那智さん自身のハードルを下げるこの感情。(だって、「どうしてもしたい」という動機付けなしでも、那智さん、できちゃうってことだもんね)
私、こんなんでいいの!?という自分を責めるような気持ちだ。
ある側面は「私本意」の贅沢な感情、別な側面は「簡単に那智さんの言う通り」になってしまうみじめな状況になりかねない感情、この矛盾する感情が天秤の両端でゆらゆらして、落ち着かない。
那智さんにしてもらいたい。
フェラチオのように形として、私がしている行為でも「してもらっている」という感覚だ。
一見好きなように扱われてるけど、実は私がしてもらっていて、私が喜んでる。
享受してると、感じる。
もともとファンタジーとしてなかったおまんこの毛を剃った。
それは那智さんの楽しみであったかもしれないけど、私には那智さんにしてもらったという幸福な事実だった。
「どうしてもって思わないと、ダメ?」
これって、共犯にさせられてる!?と思わなくもないけど(笑)
もともと自分のファンタジーになかったことが、何かをきっかけに望むようになっていく。
もともとファンタジーになかったけど、深層では望んでいたことなのか、それとも新たに生まれたことなのか、それは自分でもわからない。
それは他者の影響だったり、那智さんとの行為で芽生えたり。
でも、一番確実に「望み」として植え付けられるのは、那智さんがそれをとても望むということ。
自分の願望を叶えてもらうようにお願いするのは、好きじゃない。
変態的なことをする動機付けを「自分がしたいから」というのは、恥ずかしく、そして、なんだか情けない。
お願いしてしてもらっても、それほど喜べない、やっぱり「那智さんがとてもとてもそれをしたい、させたい」と思う情熱があるからこそできる、と思ってる。
お願いして自分がしたいことをしてもらうより、那智さんがしたいことが私のしてほしいこと。
時々お願いもするけど、そうするとそれよりもワンランク上の酷いことをするから、それは実はありがたい。
そうすると、それは「那智さんのしたいこと」に変わるからだ。
ちょっと話が逸れちゃった^^;
もともとファンタジーになかったことが、私の喜びになる。
スカトロが最たる例。
といっても、最終到達の「美味しそうにむしゃむしゃ食べる」までには至っていないけど。
那智さんの排泄物を手や口や体で受けることは、時に苦しいけど、喜んで濡れる、そして、次を待ち望む。
全身を那智さんの排泄物まみれにしてほしいと思う。
アナルセックスもそうだ。
それは恐怖だけで、なぜかSM的行為として認識してなかった。
それがいまでは、「してもらう」幸せなことになっている。
そして、もうひとつが、おまんこの毛を剃ることだ。
これも、SMの話題では聞いたことがあった。
「ご主人様のものという証拠、ご主人様を思って日々手入れする」なんて感じね。
でも、なんだかピンと来なかったのよね。
なんでだろう。
結婚しているからという理由以前に、したいとも思わなかったし、それは私の快感ではなかった。
数ヶ月前、那智さんは何の予告もなしに剃刀を持ってきて「おまんこの毛剃る?」と聞いてきた。(1/16「独特な幸福感」の「電気剃刀」に書いてあります。)
その瞬間、私の針がぎゅ〜んと振れて、いままで圏外だった「剃毛」を急激に意識することになった。
結局、危険だということで、私は断った。
もとろん、「危険」という理由が付いたことには無理強いをする人じゃないから、それはしなかった。
だけど、不思議。
那智さんの「する?」が、私を変える。
したいと思うことが、私はしてほしくてたまらない。
この気持ちね、献身じゃないの。
那智さんの楽しみのために私を差し出すという感覚は、すごーく少ない。
魔法のように、「それをしてほしく」なってしまうの。
断るとき私は泣いた。
それは、謝罪ではなくて、悲しかったから。
那智さんの望み通りになれなくてごめんなさいではなくて、したいことができない悲しい涙。
子供のころ、楽しみにしていたことが流れてしまったようなときに、流した涙と同じだった。
そのときは、最終的には「ちょっと剃る」で気持ちを収めたけど、それもどちらかというと那智さんが慰めてくれたような感じだった。
その薄くなったおまんこを見て「かわいい」とめずらしく感情をあらわにして那智さんが言ったのを聞いて、更にそれは私の「望む」ことになっていったんだ。
それから数ヶ月。
なんの前触れもなく剃刀を取り出したときのように、電話で不意に「毛、剃るか?」と言う。
ああ、嬉しい。
那智さんの「かわいいりん子」になりたい。
でも、これは結婚している私には危険なことだ。
散々迷う。
そして、強力な後押しを求める。
「那智さんがどうしてもしたいというなら…。」
「俺が、どうしてもって思わないとダメ?」
胸をぎゅーーーっと掴まれたみたいだ。
この感覚、きっと上手に伝えられない(けど書く^^;)。
いままでは那智さんが強烈にしたいと思ってくれることが、私の免罪符だった。
でも、この会話で、「強烈な情熱」がなくても、那智さんがしたいことをしてもらうことが喜び、もっというと、那智さんがしたいかどうか二の次で「那智さんにしてもらう」ことが、私の望みだということを認識してしまった。
これは、ちょっと衝撃。
引き返せない階段をまた一歩昇ってしまったような、落ち着かない気持ちになる。
那智さんのしたいことをしてほしいということには変わりないけど、那智さんにしてもらうことが私の喜びという、とても私本意で、それでいて、那智さん自身のハードルを下げるこの感情。(だって、「どうしてもしたい」という動機付けなしでも、那智さん、できちゃうってことだもんね)
私、こんなんでいいの!?という自分を責めるような気持ちだ。
ある側面は「私本意」の贅沢な感情、別な側面は「簡単に那智さんの言う通り」になってしまうみじめな状況になりかねない感情、この矛盾する感情が天秤の両端でゆらゆらして、落ち着かない。
那智さんにしてもらいたい。
フェラチオのように形として、私がしている行為でも「してもらっている」という感覚だ。
一見好きなように扱われてるけど、実は私がしてもらっていて、私が喜んでる。
享受してると、感じる。
もともとファンタジーとしてなかったおまんこの毛を剃った。
それは那智さんの楽しみであったかもしれないけど、私には那智さんにしてもらったという幸福な事実だった。
「どうしてもって思わないと、ダメ?」
これって、共犯にさせられてる!?と思わなくもないけど(笑)
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