孤独に思考する
140字もどき
「不幸なふりをして幸せの夢を見るのはやめよう」
中学生のころだと思う。
読んだマンガのセリフだ。
誰のなんという作品だったかは忘れちゃった。
たしか学園恋愛ものだったと思う。
失恋した女の子のセリフだった。
そのページのコマ割りもぼんやり覚えているくらいなので、思春期のわたしにはインパクトのあるセリフだったのだろう。
そのときのわたしは主人公と同じように失恋したんだ。
本当に傷心な部分と、どこかに悲劇のヒロイン的な陶酔もあって、そんな自分から抜け出したいと足掻いていたときに読んだんだ。
冷や水を浴びせられたような感覚を覚えている。
あのころのわたしは、余裕がなくて、自分がどうしたいか、何を求めているのか、ぜんぜんわからず。
不幸のふりをしていることに気づける客観性もなく。
まあ、思春期なんてそんなものだけど、そのあと長く続くバカな恋愛や根無し草のような不安定を抱えていくそのままを生きていた。
それから30代半ばで那智さんに出会い根無し草の不安定はなくなっていったけど。
いま思うと(ときどき書いているけど)、那智さんに出会う前、20代半ばからの10年間は、那智さんに出会って変わっていかれるようになる準備期間だったのではないかと思っている。
根無し草で自分が何を求めているか、何が不足しているか、わかるのは那智さんに出会ってからだったけど『客観視する』訓練はその10年間でできたはずなんだ。
おそらく、それができたから、那智さんが教えてくれることが素直に実ったのだと思う。
それがなかったら、那智さんでもダメだったかもね(笑)
中学生のわたしは、まあ、それでもいい^^
でも、そこから10年後の20代のわたしに教えてあげよう。
このあとの10年は自分を客観視できるようになるから余計にいろいろ見えてきて逆に問題に直面してしまうかもしれないけど、ひとり思考したそれは無駄ではないからねって^^
自分を知るための孤独な思考期間は大事なのだ。
「等式」感想です。 色々考えて「ぐるぐるちゃん」になり、多種多様な答を考えて正解と思われる結論も多々あったと思うが、過程での「思考」の式が間違っていることが多かったのではないかな?懐かしいね。(笑)
「不幸なふりをして幸せの夢を見るのはやめよう」
中学生のころだと思う。
読んだマンガのセリフだ。
誰のなんという作品だったかは忘れちゃった。
たしか学園恋愛ものだったと思う。
失恋した女の子のセリフだった。
そのページのコマ割りもぼんやり覚えているくらいなので、思春期のわたしにはインパクトのあるセリフだったのだろう。
そのときのわたしは主人公と同じように失恋したんだ。
本当に傷心な部分と、どこかに悲劇のヒロイン的な陶酔もあって、そんな自分から抜け出したいと足掻いていたときに読んだんだ。
冷や水を浴びせられたような感覚を覚えている。
あのころのわたしは、余裕がなくて、自分がどうしたいか、何を求めているのか、ぜんぜんわからず。
不幸のふりをしていることに気づける客観性もなく。
まあ、思春期なんてそんなものだけど、そのあと長く続くバカな恋愛や根無し草のような不安定を抱えていくそのままを生きていた。
それから30代半ばで那智さんに出会い根無し草の不安定はなくなっていったけど。
いま思うと(ときどき書いているけど)、那智さんに出会う前、20代半ばからの10年間は、那智さんに出会って変わっていかれるようになる準備期間だったのではないかと思っている。
根無し草で自分が何を求めているか、何が不足しているか、わかるのは那智さんに出会ってからだったけど『客観視する』訓練はその10年間でできたはずなんだ。
おそらく、それができたから、那智さんが教えてくれることが素直に実ったのだと思う。
それがなかったら、那智さんでもダメだったかもね(笑)
中学生のわたしは、まあ、それでもいい^^
でも、そこから10年後の20代のわたしに教えてあげよう。
このあとの10年は自分を客観視できるようになるから余計にいろいろ見えてきて逆に問題に直面してしまうかもしれないけど、ひとり思考したそれは無駄ではないからねって^^
自分を知るための孤独な思考期間は大事なのだ。
「等式」感想です。 色々考えて「ぐるぐるちゃん」になり、多種多様な答を考えて正解と思われる結論も多々あったと思うが、過程での「思考」の式が間違っていることが多かったのではないかな?懐かしいね。(笑)