ピンク
独特な幸福感
人は、何歳くらいから「キャラ」というのに当てはめられてしまうのだろう。
本当は「不真面目」なところだってあるのに「真面目そう」なんて当てはめられると、なかなか覆すことができなかったり、静かにしていたい部分もあるのに「キャラじゃない」で片づけられてしまったり。
人はいろんな側面があるから、それもこれも私と堂々とまわりのイメージを壊すことができれば楽なのでしょうけれど、人間どうしても「期待」に答えていたい弱さは、ある。
だから、つい「キャラ」通りに振る舞ってしまう。
そういうキャラクターを「演じている」というのは、ちょっと違和感があるかな。
私には「習い性」くらいな言葉がしっくりする。
「演じる」というと、強い意志が働いているように思えるのだけど、いつからかわからずに身に付いてしまっている「キャラ」は習慣くらいに自然すぎて、厄介な感じ。
人は多かれ少なかれ、他者の期待に添うように自分を変化させているものだから、特別なことだとは思わない、小さい子供だって親の当てはめるイメージに合うように行動することもあるのだから、多数の人がずっと長い間そうしているありがちなことなのだろう。
本来の自分。
と言っても、本来の自分というのもひとつじゃないと思うのです。
いろんな自分が総合して「自分」。
ただ「キャラ」という固定されたイメージしか持たれないのは、ちょっと苦しい。
中には、その固定イメージとその他の自分の落差や、その他の自分の数の多さに気付いていて、学校などで息苦しい思いをしている人もいるだろう。
「落差」に気付いている分、辛いだろう。
私は違った。
もちろん私にも、そのキャラ以外の私もいるのにな~と感じることはあった。
でも、それは「苦しい」ほどの落差はなかった。
私が苦しくなったのは、無自覚だった私が露呈したことだ。(苦しいという表現は間違っているかもしれません。いまは、そうとしか表現できないので、そうさせてくださいね。)
少し前に書いたが、私は背が高くて洋服が似合うスタイルをしている。(背が高いことや、恐らく顔が小さめなこと、肩が張っていることなど洋服が似合う要素を与えてくれた両親に感謝しています。「痩せる」などの本人の努力以外の要素を与えてくれたので)
スーツやワンピース、パンツやタイトスカート、どちらかというと派手目なかっこいい洋服が似合う。
ここまで読んで「宝塚の男役」な感じを想像されたかたも多いかもしれないけど、ちょっと違うのです。
なんか「水商売」の空気を出しているらしいのです。
那智さんには「とうが立ったキャバ嬢」なんて笑われる。
実際、酔っぱらいに抱きつかれたり、握手を求められたりするし、最近でも痴漢に遭う(よく顔見てね、目尻に小じわがありますよ、痴漢さん!!)。
だから「男役」ではない。
そうかといって、「色っぽい」のとも少し違うらしい。
私が派手目な服を着ると(といったってワンピースとかよ)、近所の人が「ぎょっ」として見るようで、一緒に歩く姉がよく面白がる。
「熊が出ると、みんなぎょっとするよね~そんな感じ(笑)」なんだそうだ。
話しが逸れましたね。
そんな私は(どんな私!?)、ぎょっとされて、酔っぱらいの人気者になろうとも「かっこいい服」を選んでいたのは、それが好きだからだったはずだ。
可愛らしいフリルやレース、ピンク色や白の服。
ふんわりとした女の子らしいシルエット。
そんなの全然ダメ~と思っていたからだ。
ずっとそうだった。
でも、ある日、いままでまったく自覚していなかった好みに気付いたとき、その感情を驚きながら何度も自問して確かめた。
「ロリータが着てみたい」
見てはいけないものを、恐る恐る覗き込むように、違和感を飼い慣らすように、何度も何度も自分に問いかけてみた。
なんだか、長くなりそうですので、二回に分けさせてくださいね。
お付き合いくださいませ。
人は、何歳くらいから「キャラ」というのに当てはめられてしまうのだろう。
本当は「不真面目」なところだってあるのに「真面目そう」なんて当てはめられると、なかなか覆すことができなかったり、静かにしていたい部分もあるのに「キャラじゃない」で片づけられてしまったり。
人はいろんな側面があるから、それもこれも私と堂々とまわりのイメージを壊すことができれば楽なのでしょうけれど、人間どうしても「期待」に答えていたい弱さは、ある。
だから、つい「キャラ」通りに振る舞ってしまう。
そういうキャラクターを「演じている」というのは、ちょっと違和感があるかな。
私には「習い性」くらいな言葉がしっくりする。
「演じる」というと、強い意志が働いているように思えるのだけど、いつからかわからずに身に付いてしまっている「キャラ」は習慣くらいに自然すぎて、厄介な感じ。
人は多かれ少なかれ、他者の期待に添うように自分を変化させているものだから、特別なことだとは思わない、小さい子供だって親の当てはめるイメージに合うように行動することもあるのだから、多数の人がずっと長い間そうしているありがちなことなのだろう。
本来の自分。
と言っても、本来の自分というのもひとつじゃないと思うのです。
いろんな自分が総合して「自分」。
ただ「キャラ」という固定されたイメージしか持たれないのは、ちょっと苦しい。
中には、その固定イメージとその他の自分の落差や、その他の自分の数の多さに気付いていて、学校などで息苦しい思いをしている人もいるだろう。
「落差」に気付いている分、辛いだろう。
私は違った。
もちろん私にも、そのキャラ以外の私もいるのにな~と感じることはあった。
でも、それは「苦しい」ほどの落差はなかった。
私が苦しくなったのは、無自覚だった私が露呈したことだ。(苦しいという表現は間違っているかもしれません。いまは、そうとしか表現できないので、そうさせてくださいね。)
少し前に書いたが、私は背が高くて洋服が似合うスタイルをしている。(背が高いことや、恐らく顔が小さめなこと、肩が張っていることなど洋服が似合う要素を与えてくれた両親に感謝しています。「痩せる」などの本人の努力以外の要素を与えてくれたので)
スーツやワンピース、パンツやタイトスカート、どちらかというと派手目なかっこいい洋服が似合う。
ここまで読んで「宝塚の男役」な感じを想像されたかたも多いかもしれないけど、ちょっと違うのです。
なんか「水商売」の空気を出しているらしいのです。
那智さんには「とうが立ったキャバ嬢」なんて笑われる。
実際、酔っぱらいに抱きつかれたり、握手を求められたりするし、最近でも痴漢に遭う(よく顔見てね、目尻に小じわがありますよ、痴漢さん!!)。
だから「男役」ではない。
そうかといって、「色っぽい」のとも少し違うらしい。
私が派手目な服を着ると(といったってワンピースとかよ)、近所の人が「ぎょっ」として見るようで、一緒に歩く姉がよく面白がる。
「熊が出ると、みんなぎょっとするよね~そんな感じ(笑)」なんだそうだ。
話しが逸れましたね。
そんな私は(どんな私!?)、ぎょっとされて、酔っぱらいの人気者になろうとも「かっこいい服」を選んでいたのは、それが好きだからだったはずだ。
可愛らしいフリルやレース、ピンク色や白の服。
ふんわりとした女の子らしいシルエット。
そんなの全然ダメ~と思っていたからだ。
ずっとそうだった。
でも、ある日、いままでまったく自覚していなかった好みに気付いたとき、その感情を驚きながら何度も自問して確かめた。
「ロリータが着てみたい」
見てはいけないものを、恐る恐る覗き込むように、違和感を飼い慣らすように、何度も何度も自分に問いかけてみた。
なんだか、長くなりそうですので、二回に分けさせてくださいね。
お付き合いくださいませ。