原体験
独特な幸福感
今日は愛すべきわたしの父のお話から。
父は姉ばかり溺愛した。
わたしは父から愛されていない。
だから、愛される価値があると思えない。
そんなことをいっぱい書いてきた。
それは、那智さんとわたしの関係をお話しするのに不可欠なことだったから、そこにスポットを当ててみているだけでして、世の中には、もっともっと厳しい状況を生き抜いている人がいるので、わたしの経験はとてもましなほうだと思ってます。
ただ、子供のような父に、いつも翻弄されていて、いつどこでまた父の機嫌が悪くなってしまうか、心の底でいつも『ヒヤヒヤ』していたことは確かでした。
岩月健司さんの著書の中で。
父性愛の足りない父親に育てられると、そんな父を毛嫌いしながらも似たようなタイプの男性を選んでしまって、結局幸せになれないということが書かれいていた。
なぜ、選んでしまうこというと、幼い頃、少女にとって父親からの愛情は必要不可欠なもの(愛される価値を持つためにね)。
だけど、適切な愛情を注げない父親を持つ少女は、愛情をくれないお父さんが『悪い』と思わず、もらえない自分が悪いのだと思うようになる。
なぜなら、自分が悪ければ、もしかしたらもらえるようになるかもしれないけど、お父さんが愛情のない人だったら絶対もらえないのだから、その絶望から逃れるために『お父さんは悪くない』と思うおうとするのだ。
だから、一生懸命お父さんを好きになろうとする、それが幼い子の生き延びる術だったからね。
それが無意識のうちに根付いてしまって、大人になったから『ダメ父と似たような男性』とばかり付き合うようになるのだ。
父親と似たタイプと付き合い、似たタイプに好かれることで、幼い頃もらえなかったものを補おうとしているのかもしれない。
だけど、ダメ父に似ているのだから、ダメ男なわけで、うまくいくはずないのですね。
子供のような父だった。
これを言うと相手がどう思うかという配慮のできない人。
だから、姉を溺愛する。
自分の気分で機嫌が上下する人だったので、わたしはもちろん溺愛されている姉だって結局は八つ当たりの的になるわけで、わたしたちその『大人の子供』にずいぶん振り回されていた。
ふざけて、ゴキブリを捕まえては、わたしたちに見せて脅かす。
怖がる娘を見て、更にくっつけようとする。
「おとーさん、やめてーー」
心の底から真剣に訴えてもおもしろがって聞いてくれない。
親戚の家に集まった帰りの電車。
降りる駅が近づいているのに酔っぱらって「俺は降りね〜」と言って座席から立ち上がってくれない。
「おとーさん、降りようよーー」そういって手を引っ張れば引っ張るほど、座席に体をうずめて動いてくれないい。
もう、半べそで必死になってお願いするのだ。
こんなこともあった。
動物園に行った。
父は虎の檻の前で柵から身を出し鞄で檻をたたき出すのだ。
虎が近づいて来て、その挑発に乗って檻の中で暴れ出す。
寝ている虎よりこっちのほうが面白いというのだ。
だけど、恐がりのわたしは、怖くて怖くてしかたなかった。
そして、『おかしなことをする人』の周りに人だかりができて、怖くて恥ずかしくてとても苦しかったことを覚えている。
どれも、もちろんどこかの家庭にもあるようなお話かもしれない。
だけど、相手は『大人の子供』。
限度を知らない。
その限度を知らないことを知っているから、それが『父と娘』のじゃれ合いっこにはならないのだ。
常にヒヤヒヤして不安が付きまとっていた。
ゴキブリをくっつけられそうになっても、「そんなお父さん嫌い」とそっぽを向けたらよかったかもしれない。
電車を降りない父、虎を威嚇する父、いやなら放っておけばよかったのかもしれない。
でも、ここが厄介なところで、お父さんに好かれたいわたしは、この子供のような父を突き放せない。
結果、いつまでもその父に翻弄されるような状態だったのだ。
気がつけば、選ぶ男性は『母性本能をくすぐるタイプ』ばかり。
それが好きなタイプと思っていたわたしは、なぜ急に嫌いになっていまうのか、不思議でならなかった。
岩月健司さんの本を読んで、那智さんに出会って、『ああ、わたしは父に似たタイプを選んでいたんだ』と気づいたときには、読んでいた電車の中で抑えるのが難しいほど涙が溢れてしまった。
那智さんは、違う。
父性豊でいつも感情に上下がなく、いつも安心の安定供給をしてもらっている。
だから、わたしは『愛される価値がある』と思えるようになっている。
と、いつものパターンになりながら…。
でも、今日ここで書いている『父』。
なんか、ちょっと似てません?那智さんと。
そう。
わたし、最近気づいたの。
わたしをからかったり、怖がらせたり、翻弄させたり、天の邪鬼だったり。
似ている。
以前、遊園地に行ったとき。
乗り場まで続く通路に飾り窓のようなものを、少し先を歩く那智さんがそれを覗いて『おお♪』って表情する。
わたしも『なに?なに!?』って覗く。
「別になんにもないよ(笑)」
もう!!那智さんったら!!!
別なとき。
バスに乗る時間が迫っていて、急ぎ足で角を曲がる。
先に曲がった那智さんが、ひょいと顔を覗かせ『バス来てる!!』というアクションをする。
慌てて角を曲がると、バスが来る気配なんてこれっぽっちもない。
「うそだよ〜(笑)」
もう!!那智さんったら!!!
バリウム検査のときだって、クラリスのときだって、ホテルの廊下だって、どれもこれも『からかって遊ぶ』という行為だけとれば、父のそれと似ている。
岩月健司さんの著書とは違う。
まあ、そんなのは当たり前で、書いてあることがすべて正解ではないものね。
わたしの場合は。
本質はまったく『父』とは違う那智さんに。
『父』と似た行為をされている。
それで幸せを感じているのだ。(けっこう、このじゃれ合いっこはわたしたちの『核』だったりする)
わたしは。
ゴキブリを見せる父に「やめて!」と訴え、「本気にしないの〜」って笑ってほしかったのかもしれない。
電車で降りないふりをして「でも、一緒に帰ろうね」と最後は手を繋いでほしかったのかもしれない。
虎を威嚇する行為を、別な『りん子を楽しませる』行為に代えてほしかったのかもしれない。
幼い頃したかった、安心の上に成り立つじゃれ合いっこを、『父』と似た方法で那智さんとしているのかもしれないなと思うのだ。
那智さんは聖人君子でもないし、神様でもない。
『ダメ父』と違うからといって、完璧な男性ということでもない。
だから、天の邪鬼さんだし、わたしをからかって遊ぶ、驚かないとエスカレートしたりもする^^;
だけど、どうやら、それはわたしにとっては、『価値がある』と思えることの他に、もうひとつの埋めたいことだったみたいなのだ。
それが。
本質はまったく『父』とは違う那智さんに。
『父』と似た行為をされる。
こういう形になって現れているのではないだろうか。
だから、那智さんは聖人君子でもなんでもない。
だけど、わたしには、とてもとても『合っている』と思うのだ。
いつも思う。
自分の心、望みや欲求を知ることは、なんて面白いのだろう。
そして、それを見つけると、何か叶う道に繋がるような気がする。
先日読んだ小説で。
『私たちはなぜ年を重ねるのだろう』っていう言葉があった。
『また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。』と。
わたしは年を重ね、新しいわたしに出会う。
そして、欲しかったものを手に入れる。
那智さんと会話し、こうやって言語化することで新しいわたしが縁取られる。
年を重ねるのも悪くないなぁと、ブログを続けながら思うのだ。
ところで、虎の檻で威嚇する父の周りに人だかりができて『怖くて、とても恥ずかしかった』って。
人前で『怖くて、恥ずかしいこと』してません?わたしたち。
こじつけるのが好きなわたしは、『これも埋める行為か!?』と思うのでした^^
今日は愛すべきわたしの父のお話から。
父は姉ばかり溺愛した。
わたしは父から愛されていない。
だから、愛される価値があると思えない。
そんなことをいっぱい書いてきた。
それは、那智さんとわたしの関係をお話しするのに不可欠なことだったから、そこにスポットを当ててみているだけでして、世の中には、もっともっと厳しい状況を生き抜いている人がいるので、わたしの経験はとてもましなほうだと思ってます。
ただ、子供のような父に、いつも翻弄されていて、いつどこでまた父の機嫌が悪くなってしまうか、心の底でいつも『ヒヤヒヤ』していたことは確かでした。
岩月健司さんの著書の中で。
父性愛の足りない父親に育てられると、そんな父を毛嫌いしながらも似たようなタイプの男性を選んでしまって、結局幸せになれないということが書かれいていた。
なぜ、選んでしまうこというと、幼い頃、少女にとって父親からの愛情は必要不可欠なもの(愛される価値を持つためにね)。
だけど、適切な愛情を注げない父親を持つ少女は、愛情をくれないお父さんが『悪い』と思わず、もらえない自分が悪いのだと思うようになる。
なぜなら、自分が悪ければ、もしかしたらもらえるようになるかもしれないけど、お父さんが愛情のない人だったら絶対もらえないのだから、その絶望から逃れるために『お父さんは悪くない』と思うおうとするのだ。
だから、一生懸命お父さんを好きになろうとする、それが幼い子の生き延びる術だったからね。
それが無意識のうちに根付いてしまって、大人になったから『ダメ父と似たような男性』とばかり付き合うようになるのだ。
父親と似たタイプと付き合い、似たタイプに好かれることで、幼い頃もらえなかったものを補おうとしているのかもしれない。
だけど、ダメ父に似ているのだから、ダメ男なわけで、うまくいくはずないのですね。
子供のような父だった。
これを言うと相手がどう思うかという配慮のできない人。
だから、姉を溺愛する。
自分の気分で機嫌が上下する人だったので、わたしはもちろん溺愛されている姉だって結局は八つ当たりの的になるわけで、わたしたちその『大人の子供』にずいぶん振り回されていた。
ふざけて、ゴキブリを捕まえては、わたしたちに見せて脅かす。
怖がる娘を見て、更にくっつけようとする。
「おとーさん、やめてーー」
心の底から真剣に訴えてもおもしろがって聞いてくれない。
親戚の家に集まった帰りの電車。
降りる駅が近づいているのに酔っぱらって「俺は降りね〜」と言って座席から立ち上がってくれない。
「おとーさん、降りようよーー」そういって手を引っ張れば引っ張るほど、座席に体をうずめて動いてくれないい。
もう、半べそで必死になってお願いするのだ。
こんなこともあった。
動物園に行った。
父は虎の檻の前で柵から身を出し鞄で檻をたたき出すのだ。
虎が近づいて来て、その挑発に乗って檻の中で暴れ出す。
寝ている虎よりこっちのほうが面白いというのだ。
だけど、恐がりのわたしは、怖くて怖くてしかたなかった。
そして、『おかしなことをする人』の周りに人だかりができて、怖くて恥ずかしくてとても苦しかったことを覚えている。
どれも、もちろんどこかの家庭にもあるようなお話かもしれない。
だけど、相手は『大人の子供』。
限度を知らない。
その限度を知らないことを知っているから、それが『父と娘』のじゃれ合いっこにはならないのだ。
常にヒヤヒヤして不安が付きまとっていた。
ゴキブリをくっつけられそうになっても、「そんなお父さん嫌い」とそっぽを向けたらよかったかもしれない。
電車を降りない父、虎を威嚇する父、いやなら放っておけばよかったのかもしれない。
でも、ここが厄介なところで、お父さんに好かれたいわたしは、この子供のような父を突き放せない。
結果、いつまでもその父に翻弄されるような状態だったのだ。
気がつけば、選ぶ男性は『母性本能をくすぐるタイプ』ばかり。
それが好きなタイプと思っていたわたしは、なぜ急に嫌いになっていまうのか、不思議でならなかった。
岩月健司さんの本を読んで、那智さんに出会って、『ああ、わたしは父に似たタイプを選んでいたんだ』と気づいたときには、読んでいた電車の中で抑えるのが難しいほど涙が溢れてしまった。
那智さんは、違う。
父性豊でいつも感情に上下がなく、いつも安心の安定供給をしてもらっている。
だから、わたしは『愛される価値がある』と思えるようになっている。
と、いつものパターンになりながら…。
でも、今日ここで書いている『父』。
なんか、ちょっと似てません?那智さんと。
そう。
わたし、最近気づいたの。
わたしをからかったり、怖がらせたり、翻弄させたり、天の邪鬼だったり。
似ている。
以前、遊園地に行ったとき。
乗り場まで続く通路に飾り窓のようなものを、少し先を歩く那智さんがそれを覗いて『おお♪』って表情する。
わたしも『なに?なに!?』って覗く。
「別になんにもないよ(笑)」
もう!!那智さんったら!!!
別なとき。
バスに乗る時間が迫っていて、急ぎ足で角を曲がる。
先に曲がった那智さんが、ひょいと顔を覗かせ『バス来てる!!』というアクションをする。
慌てて角を曲がると、バスが来る気配なんてこれっぽっちもない。
「うそだよ〜(笑)」
もう!!那智さんったら!!!
バリウム検査のときだって、クラリスのときだって、ホテルの廊下だって、どれもこれも『からかって遊ぶ』という行為だけとれば、父のそれと似ている。
岩月健司さんの著書とは違う。
まあ、そんなのは当たり前で、書いてあることがすべて正解ではないものね。
わたしの場合は。
本質はまったく『父』とは違う那智さんに。
『父』と似た行為をされている。
それで幸せを感じているのだ。(けっこう、このじゃれ合いっこはわたしたちの『核』だったりする)
わたしは。
ゴキブリを見せる父に「やめて!」と訴え、「本気にしないの〜」って笑ってほしかったのかもしれない。
電車で降りないふりをして「でも、一緒に帰ろうね」と最後は手を繋いでほしかったのかもしれない。
虎を威嚇する行為を、別な『りん子を楽しませる』行為に代えてほしかったのかもしれない。
幼い頃したかった、安心の上に成り立つじゃれ合いっこを、『父』と似た方法で那智さんとしているのかもしれないなと思うのだ。
那智さんは聖人君子でもないし、神様でもない。
『ダメ父』と違うからといって、完璧な男性ということでもない。
だから、天の邪鬼さんだし、わたしをからかって遊ぶ、驚かないとエスカレートしたりもする^^;
だけど、どうやら、それはわたしにとっては、『価値がある』と思えることの他に、もうひとつの埋めたいことだったみたいなのだ。
それが。
本質はまったく『父』とは違う那智さんに。
『父』と似た行為をされる。
こういう形になって現れているのではないだろうか。
だから、那智さんは聖人君子でもなんでもない。
だけど、わたしには、とてもとても『合っている』と思うのだ。
いつも思う。
自分の心、望みや欲求を知ることは、なんて面白いのだろう。
そして、それを見つけると、何か叶う道に繋がるような気がする。
先日読んだ小説で。
『私たちはなぜ年を重ねるのだろう』っていう言葉があった。
『また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。』と。
わたしは年を重ね、新しいわたしに出会う。
そして、欲しかったものを手に入れる。
那智さんと会話し、こうやって言語化することで新しいわたしが縁取られる。
年を重ねるのも悪くないなぁと、ブログを続けながら思うのだ。
ところで、虎の檻で威嚇する父の周りに人だかりができて『怖くて、とても恥ずかしかった』って。
人前で『怖くて、恥ずかしいこと』してません?わたしたち。
こじつけるのが好きなわたしは、『これも埋める行為か!?』と思うのでした^^