清らかな汗
独り言
はあ〜。
ただいま、りん子飢えさせられ中。
「いくの禁止令」発令されました。
もう、つらいです。
とりあえず普通に生活してる間はまだいいんだけど、那智さんの声を聞いた途端に「ふにゃん」ってなっちゃう。
電話を切ったあとは、その余韻で、ただつらいだけ。
だ、か、ら。
フィットネスにいってきまーす。
健全な精神は健全な肉体に宿るのだ!!!
「ロデオ○○でいけるんなら、そのたきだけは禁止令解いていってもいいよ」なんていじわる言われてますが。
ぜーったい、乗るもんかぁ!!
ああ、でも、いまなら、もれなくいけてしまいそうです(泣)
ダメダメ、いろんな邪念を捨てて、清らかな汗をかいてくるんだぁ。
では、いってきまーす^^
はあ〜。
ただいま、りん子飢えさせられ中。
「いくの禁止令」発令されました。
もう、つらいです。
とりあえず普通に生活してる間はまだいいんだけど、那智さんの声を聞いた途端に「ふにゃん」ってなっちゃう。
電話を切ったあとは、その余韻で、ただつらいだけ。
だ、か、ら。
フィットネスにいってきまーす。
健全な精神は健全な肉体に宿るのだ!!!
「ロデオ○○でいけるんなら、そのたきだけは禁止令解いていってもいいよ」なんていじわる言われてますが。
ぜーったい、乗るもんかぁ!!
ああ、でも、いまなら、もれなくいけてしまいそうです(泣)
ダメダメ、いろんな邪念を捨てて、清らかな汗をかいてくるんだぁ。
では、いってきまーす^^
深夜の考えごと
独り言
例えばね。
よくネットとかでも見かける「露出写真」。
あれって、被写体が露出してて、それをカメラに収める人がいるのですよね。
公園だったり、街中だったり。
いろんな場所でいろんな時間帯で、それぞれハードルやなにかは変わってくるでしょけど。
露出する被写体と、離れてカメラを構える人、どちらが恥ずかしいと思いますか?
実行するのに、どちらが勇気いるでしょう。
わたしは、当然「露出するほう」だと思うのです。
じゃあ、その露出してる人とカメラを構えてる人が近寄り、手を繋いだとしたなら。
恥ずかしさや勇気のハードルの高さは変わると思いますか?
まあ、度胸試しをしてるわけじゃないので、そんな比べっこ意味ないことかもしれないけど。
ちょっと想像してみて。
彼女に街中でスカートをめくるように言って、ちょっと離れてカメラを構えるのと、そのまま彼女に近寄ってスカートをめくったままの女の子と手を繋いで一緒に立つのと。
恥ずかしさや勇気のレベル変わりません?
那智さんはホテル街に入る手前のコンビニから、わたしを四つん這いにさせてリードを引いて歩いてホテルに入るということを、いつかしようと思ってる。
ホテル街の道をそのようにして歩いたことは2回あるけど、なんとなくホテル街ということが高いハードルをちょっとだけ下げてくれた。(ちょっとよ、ハードル高いのは、どうしたって高いです!!)
だけど、昼間の街中での四つん這いは、とんでもなく勇気がいる。
たとえ数mでも。
勇気いるよね。
だから、わたしはなんだかんだ言って、引き延ばし作戦してる。
で、ある日那智さんが言ったの。
「冷静に考えて、それってどっちが恥ずかしいと思う?」
コンビニの前からホテル街まで数m、ホテル街からホテルまで数十m。
昼間の街中を。
リードを引かれて、四つん這いで歩くのと。(ちなみに、こちらはうつむけます^^)
四つん這いの女性のリードを引いて歩くのと。(もちろん、こちらは顔を上げないと)
どちらが恥ずかしい?
当然、四つん這いのわたし!!
ほんとにそう?…那智さんかもしれない。
度胸比べしたいんじゃないけど。
ちょっとよくわからなくなっちゃった。
答え出すの怖い感じもするから、考えては、「いや、やめよう」と目を逸らし、って繰り返しちゃっているの。
想像できます?
どっちが勇気いる?
深夜に、こんなこと考えちゃった。
いや、なにも「やる」を前提にする必要ないのかな!?
例えばね。
よくネットとかでも見かける「露出写真」。
あれって、被写体が露出してて、それをカメラに収める人がいるのですよね。
公園だったり、街中だったり。
いろんな場所でいろんな時間帯で、それぞれハードルやなにかは変わってくるでしょけど。
露出する被写体と、離れてカメラを構える人、どちらが恥ずかしいと思いますか?
実行するのに、どちらが勇気いるでしょう。
わたしは、当然「露出するほう」だと思うのです。
じゃあ、その露出してる人とカメラを構えてる人が近寄り、手を繋いだとしたなら。
恥ずかしさや勇気のハードルの高さは変わると思いますか?
まあ、度胸試しをしてるわけじゃないので、そんな比べっこ意味ないことかもしれないけど。
ちょっと想像してみて。
彼女に街中でスカートをめくるように言って、ちょっと離れてカメラを構えるのと、そのまま彼女に近寄ってスカートをめくったままの女の子と手を繋いで一緒に立つのと。
恥ずかしさや勇気のレベル変わりません?
那智さんはホテル街に入る手前のコンビニから、わたしを四つん這いにさせてリードを引いて歩いてホテルに入るということを、いつかしようと思ってる。
ホテル街の道をそのようにして歩いたことは2回あるけど、なんとなくホテル街ということが高いハードルをちょっとだけ下げてくれた。(ちょっとよ、ハードル高いのは、どうしたって高いです!!)
だけど、昼間の街中での四つん這いは、とんでもなく勇気がいる。
たとえ数mでも。
勇気いるよね。
だから、わたしはなんだかんだ言って、引き延ばし作戦してる。
で、ある日那智さんが言ったの。
「冷静に考えて、それってどっちが恥ずかしいと思う?」
コンビニの前からホテル街まで数m、ホテル街からホテルまで数十m。
昼間の街中を。
リードを引かれて、四つん這いで歩くのと。(ちなみに、こちらはうつむけます^^)
四つん這いの女性のリードを引いて歩くのと。(もちろん、こちらは顔を上げないと)
どちらが恥ずかしい?
当然、四つん這いのわたし!!
ほんとにそう?…那智さんかもしれない。
度胸比べしたいんじゃないけど。
ちょっとよくわからなくなっちゃった。
答え出すの怖い感じもするから、考えては、「いや、やめよう」と目を逸らし、って繰り返しちゃっているの。
想像できます?
どっちが勇気いる?
深夜に、こんなこと考えちゃった。
いや、なにも「やる」を前提にする必要ないのかな!?
SMに音楽は必要か
非日常的な日常
ラブホテルには有線放送のついてるところが多いですよね。
わたしは普段音がない生活でもまったく平気なので、テレビもラジオもつけない。
だから、ラブホテルの有線放送などには、全然興味がないの。
那智さんは時々、音を流す。
お好みは、60年代(70年代?)。
特にフォークソングが好きみたい。
那智さんは小学生くらいから音楽を聴いていたそうで、比較的古い(?)ものもよく知ってる。
わたしは、超ミーハーおこちゃまだったので、フォークソングなんて大人の聴くものだった。
だから、もともと年齢差と成熟度合いの両方のせいで、それらのどれを聞いてもほとんど知らないのです。
なんとかわかるのは、イルカとか南こうせつとか吉田拓郎とかの有名どころ、その中でも代表作しか知らない。
いろいろ終わって、お風呂やマッサージなどのくつろぎタイムに、時々それを流すんだ。
わたしは、ほとんどわからないから、ただ流れてるという感じ。
いろいろ終わって、那智さんがお風呂にお湯を張りにいく。
戻ってきて、有線放送をいじりだした。
この日は、わたしは、ちょっとぐったりしてて、一緒にお風呂に入れなかった。
その音楽をうとうとしながら聴いているうちに那智さんがお風呂から出てきた。
しばらくそのままぼんやりしていたら、ホテルの靴べらを持ってきて、わたしの掛けているお布団をめくって肌を剥き出しにさせられてしまった。
そんな雰囲気はまったくなかったから、ちょっと慌てる。
あらわになった肌が不安気だ。
痛いことへの身構えができていないところに、いきなりの痛いことは、なんだかそれだけで怖い。
それに、手に持っているその靴べらが分厚くてやけにしっかりしているように見えて、よけいに怖い。
それでも条件反射のようにお尻を那智さんに向ける。
「ビシッ」
一発目。
叩く衝撃とあとからぐわっと広がるしびれるような痛み。
この二重の波が、とっても痛くて怖いくせに、とってもいい。
一発目を打ってから、タバコと灰皿をスタンバイして、ゆっくり叩きモードを整えはじめてる。
痛さが、ちょっと引いてきた。
つい、次の「痛み」を待ってしまうわたしがいる。
待ちながら、タバコに火を付ける余裕の仕草に焦がれてしまう。
待っていたお尻に二発目。
ああ、嬉しい。
痛いの怖いけど、とっても怖いけど、これは時々ほしくなる。
ずっと音楽は流れてる。
でも、脳には伝わって来ない。
知らないということが、余計に脳に訴えかけないよう。
それはありがたいな。
知ってる音楽だと一瞬でも意識がそちらに行ってしまって、痛みを味わうことを邪魔してしまいそうだもの。
痛いこと、那智さんに痛くしてもらうことに集中したい。
三発、四発。
ゆっくりと打つ場所を変え、タバコをふかし、時々、わざと同じ場所を打ち、少しずつ「おかしいわたし」になれてくる。
ふと、くわえタバコの那智さんから鼻歌らしい声が聞こえたような気がした。
かなり、遠い意識の中なので、空耳かもしれない。
だけど、そこに振れた意識を追求するつもりはなかった。
痛いことで「おかしいわたし」になるときは、わたしはわたしの快感以外のことを考えたくないから。
でも、心がちょっとだけ温度を上げた。
いま思えば、きっとお気に入りの歌が流れたのでしょうね。
お気に入りの歌、タバコ、自分の傍らで痛さに喜ぶわたしを打つ。
多分、この時間を那智さんも楽しんでいる。
そんな感覚が無意識に、わたしの心を温度を上げたのでしょう。
打たれ、身をひるがえして、痛みを堪え味わい、それが嬉しくて「くすくす」と笑い出す。
そのうち、痛いことを我慢することを放棄してしまうほど、酔いしれていく。
こうなると、うつむいたまま、ただ連続して打たれつづけるのだ。
最初のゆっくりから少し変えて、連打まではいかないけど、連続して打つ。
靴べらの堅い音が小気味よく響く。
ビシッビシッビシッ。
痛い、それが気持ちいい。
ビシッビシッビシッ。
もうずっと叩いていてほしい。
ビシッビシッビシッ。
『♪〜〜〜♪』
「ぶはっ!!」
なに!?いきなり、なにか音楽と共に那智さんが吹き出した。
「わっはっはっは。これじゃ、合わないよな〜。」
ビシッビシッビシッ。
なに?笑いながら叩いてる。
ちょっとリズムに合わせるように。
ビシッビシッビシッ。
『♪あ〜#%○▲&$◎しょう♪』
意識が戻ってくる。
『♪あんたが大将〜♪』
ビシッビシッビシッ。
『♪あぁぁんたが、大将おぅ♪』
ビシッビシッビシッ。
武田鉄矢!!!!!
た、け、だ、て、つ、や!!!!
「な〜、合わないだろ〜。笑っちゃって。いや、歌に合わせて叩くってのもありかな!?」
そういって、もっとわざと曲に合わせてビシビシはじめる。
やめて、那智さん!!
笑わないで、台無しじゃない!!
せっかく、よかったのに〜。
もう、無理。
その間も武田鉄矢さんは、ずっと「あんたが大将」って歌い続けてる。
こんな中、淫靡なSMなんかできやしない。
わたしまで大笑い。
さっきまでの、うっとりするような空気が一気にお笑いモードに。
残念なような、情けないような。
「あんたが大将」に反応する那智さんを、ちょっと恨めしく思うのだ。
でも、もし、那智さんが反応しなかったら、わたしが反応してたかな。
「あんたが大将」って聴きながら、はたして打たれる喜びに浸れただろうか。
その最中、なにも聞こえないという感覚にはなるけれど、わたしの場合薄皮一枚、デリケートにすぐ戻ると思うのだ。
それでも、そこを見て見ぬふりはできなくないけど、それさえしないで「痛いこと」に集中したい。
だから、那智さんがストップをかけてくれたのは、逆に感謝しないといけないのかもしれない。
だって、密かに「あんたが大将」に反応するわたしに気づかずに、打ち続ける那智さん像は、ちょっといやかな(笑)
SMに音楽は必要か。
だから、わたしは、できればいらないと思うのです。
例外として?
そのあと、その有線放送はつけたまましばらくして、今度はわたしが那智さんを気持ち良くさせる番に。
相変わらず、有線放送は流れてるけど、やっぱり知らない曲ばかりなので、ほとんど気にならなかった。
お口と手で射精をして、精液を飲む。
ティッシュでおちんちんをきれいにしていたら、知ってる曲が流れ出した。
『いま〜わたしの〜、願〜いごとが 叶うならば 翼がほし〜い』
おお、これなら知ってる。
合唱コンクールの定番「翼をください」。
流れ出した瞬間に、また那智さんが笑い出した。
「あははは、これの前に終わってよかったよ。俺、これ聴きながら、いけないや。なんか笑っちゃう。」
そうかしら?
『悲しみのない 自由な空へ 翼はため〜か〜せ〜 ゆきたい〜』
で、フィニッシュ!!!
ほら、ありな感じしません!?(笑)
ということで、訂正^^
SMに音楽は必要ないけど、射精時に「翼をください」はあり!!!
ラブホテルには有線放送のついてるところが多いですよね。
わたしは普段音がない生活でもまったく平気なので、テレビもラジオもつけない。
だから、ラブホテルの有線放送などには、全然興味がないの。
那智さんは時々、音を流す。
お好みは、60年代(70年代?)。
特にフォークソングが好きみたい。
那智さんは小学生くらいから音楽を聴いていたそうで、比較的古い(?)ものもよく知ってる。
わたしは、超ミーハーおこちゃまだったので、フォークソングなんて大人の聴くものだった。
だから、もともと年齢差と成熟度合いの両方のせいで、それらのどれを聞いてもほとんど知らないのです。
なんとかわかるのは、イルカとか南こうせつとか吉田拓郎とかの有名どころ、その中でも代表作しか知らない。
いろいろ終わって、お風呂やマッサージなどのくつろぎタイムに、時々それを流すんだ。
わたしは、ほとんどわからないから、ただ流れてるという感じ。
いろいろ終わって、那智さんがお風呂にお湯を張りにいく。
戻ってきて、有線放送をいじりだした。
この日は、わたしは、ちょっとぐったりしてて、一緒にお風呂に入れなかった。
その音楽をうとうとしながら聴いているうちに那智さんがお風呂から出てきた。
しばらくそのままぼんやりしていたら、ホテルの靴べらを持ってきて、わたしの掛けているお布団をめくって肌を剥き出しにさせられてしまった。
そんな雰囲気はまったくなかったから、ちょっと慌てる。
あらわになった肌が不安気だ。
痛いことへの身構えができていないところに、いきなりの痛いことは、なんだかそれだけで怖い。
それに、手に持っているその靴べらが分厚くてやけにしっかりしているように見えて、よけいに怖い。
それでも条件反射のようにお尻を那智さんに向ける。
「ビシッ」
一発目。
叩く衝撃とあとからぐわっと広がるしびれるような痛み。
この二重の波が、とっても痛くて怖いくせに、とってもいい。
一発目を打ってから、タバコと灰皿をスタンバイして、ゆっくり叩きモードを整えはじめてる。
痛さが、ちょっと引いてきた。
つい、次の「痛み」を待ってしまうわたしがいる。
待ちながら、タバコに火を付ける余裕の仕草に焦がれてしまう。
待っていたお尻に二発目。
ああ、嬉しい。
痛いの怖いけど、とっても怖いけど、これは時々ほしくなる。
ずっと音楽は流れてる。
でも、脳には伝わって来ない。
知らないということが、余計に脳に訴えかけないよう。
それはありがたいな。
知ってる音楽だと一瞬でも意識がそちらに行ってしまって、痛みを味わうことを邪魔してしまいそうだもの。
痛いこと、那智さんに痛くしてもらうことに集中したい。
三発、四発。
ゆっくりと打つ場所を変え、タバコをふかし、時々、わざと同じ場所を打ち、少しずつ「おかしいわたし」になれてくる。
ふと、くわえタバコの那智さんから鼻歌らしい声が聞こえたような気がした。
かなり、遠い意識の中なので、空耳かもしれない。
だけど、そこに振れた意識を追求するつもりはなかった。
痛いことで「おかしいわたし」になるときは、わたしはわたしの快感以外のことを考えたくないから。
でも、心がちょっとだけ温度を上げた。
いま思えば、きっとお気に入りの歌が流れたのでしょうね。
お気に入りの歌、タバコ、自分の傍らで痛さに喜ぶわたしを打つ。
多分、この時間を那智さんも楽しんでいる。
そんな感覚が無意識に、わたしの心を温度を上げたのでしょう。
打たれ、身をひるがえして、痛みを堪え味わい、それが嬉しくて「くすくす」と笑い出す。
そのうち、痛いことを我慢することを放棄してしまうほど、酔いしれていく。
こうなると、うつむいたまま、ただ連続して打たれつづけるのだ。
最初のゆっくりから少し変えて、連打まではいかないけど、連続して打つ。
靴べらの堅い音が小気味よく響く。
ビシッビシッビシッ。
痛い、それが気持ちいい。
ビシッビシッビシッ。
もうずっと叩いていてほしい。
ビシッビシッビシッ。
『♪〜〜〜♪』
「ぶはっ!!」
なに!?いきなり、なにか音楽と共に那智さんが吹き出した。
「わっはっはっは。これじゃ、合わないよな〜。」
ビシッビシッビシッ。
なに?笑いながら叩いてる。
ちょっとリズムに合わせるように。
ビシッビシッビシッ。
『♪あ〜#%○▲&$◎しょう♪』
意識が戻ってくる。
『♪あんたが大将〜♪』
ビシッビシッビシッ。
『♪あぁぁんたが、大将おぅ♪』
ビシッビシッビシッ。
武田鉄矢!!!!!
た、け、だ、て、つ、や!!!!
「な〜、合わないだろ〜。笑っちゃって。いや、歌に合わせて叩くってのもありかな!?」
そういって、もっとわざと曲に合わせてビシビシはじめる。
やめて、那智さん!!
笑わないで、台無しじゃない!!
せっかく、よかったのに〜。
もう、無理。
その間も武田鉄矢さんは、ずっと「あんたが大将」って歌い続けてる。
こんな中、淫靡なSMなんかできやしない。
わたしまで大笑い。
さっきまでの、うっとりするような空気が一気にお笑いモードに。
残念なような、情けないような。
「あんたが大将」に反応する那智さんを、ちょっと恨めしく思うのだ。
でも、もし、那智さんが反応しなかったら、わたしが反応してたかな。
「あんたが大将」って聴きながら、はたして打たれる喜びに浸れただろうか。
その最中、なにも聞こえないという感覚にはなるけれど、わたしの場合薄皮一枚、デリケートにすぐ戻ると思うのだ。
それでも、そこを見て見ぬふりはできなくないけど、それさえしないで「痛いこと」に集中したい。
だから、那智さんがストップをかけてくれたのは、逆に感謝しないといけないのかもしれない。
だって、密かに「あんたが大将」に反応するわたしに気づかずに、打ち続ける那智さん像は、ちょっといやかな(笑)
SMに音楽は必要か。
だから、わたしは、できればいらないと思うのです。
例外として?
そのあと、その有線放送はつけたまましばらくして、今度はわたしが那智さんを気持ち良くさせる番に。
相変わらず、有線放送は流れてるけど、やっぱり知らない曲ばかりなので、ほとんど気にならなかった。
お口と手で射精をして、精液を飲む。
ティッシュでおちんちんをきれいにしていたら、知ってる曲が流れ出した。
『いま〜わたしの〜、願〜いごとが 叶うならば 翼がほし〜い』
おお、これなら知ってる。
合唱コンクールの定番「翼をください」。
流れ出した瞬間に、また那智さんが笑い出した。
「あははは、これの前に終わってよかったよ。俺、これ聴きながら、いけないや。なんか笑っちゃう。」
そうかしら?
『悲しみのない 自由な空へ 翼はため〜か〜せ〜 ゆきたい〜』
で、フィニッシュ!!!
ほら、ありな感じしません!?(笑)
ということで、訂正^^
SMに音楽は必要ないけど、射精時に「翼をください」はあり!!!
日々のお食事
独特な幸福感
日々届く「おはよう」のメール。
姿を見つけるたびに湧き上がる照れ臭いような喜び。
幾度となく肌を合わせる。
慣れ親しんだ毛布のように安心して、おもちゃ箱のようにわくわくして、苦しいほどにわたしを拘束する。
数年間、繰り返し、変わらない。
むしろ、安心も快感も増している。
なぜ?
飽きないの?
「どんなに高級なフランス料理でも毎日食べたら飽きる」と、よく例え話で出るよね。
なぜ、飽きないのだろう。
きっと、わたしにとって那智さんは「フランス料理」じゃないんだ。
「食事」そのものなの。
特別な贅沢な「フランス料理」じゃなくて、生きていくために必要な「お食事」。
そして、普通のご飯だったり、贅沢なフランス料理だったり、ときどきクセのあるスパイスを利かせたりしてくれる。
だから、飽きることもない。
那智さんはわたしにとって、ときどき味わう贅沢品ではなくて、もっと大事な生きていくために必要なもの。
だから、逆にときどきじゃダメなの^^;
でも、人は「贅沢品」には喜びを見いだすのは簡単なのだけど、日々の「必要」なものには慣れてしまうもの。
そこは受け取る側の力がいるのだ。
こちらが慣れない。
日々のメールを喜び。
会うたびに湧き上がる喜びを自覚して。
肌を合わせるときの感動を伝える。
那智さん曰く、「りん子はそれが上手」のだそうだ。
わたしは、わたししかわからないから、わたしの感じるとおりにしてるだけなんだけど。
もしかしたら、少しのことでも「喜びやすい」女なのかもしれない^^
安上がりな女?
なんでも、いいわ。
でも、こちらがちゃんと「おいしい」と伝え続けると、日々「お食事」は届けられるものなのです。
そして、それは「必要」なものだから、こちらは飽きることはない。
与える側も、その都度、笑ったり鳴いたり狂喜したり理解したり赤面したりで、きっと飽きることないのでしょうね。
これが、一緒に暮らしていたりすると、また話は違ってくるのかな。
この部分は、ちょっとわからない。
だから、「一緒に暮らさずに、一緒に暮らしているくらいのコミュニケーションを取っていても」飽きないとしか言えないんだけどね。
さて、さて、わたしたちは付き合いはじめて数年。
これが二桁になるころには、また違った感覚になっているものなのかしら。
これも、ちょっとわからない。
もしかしたら、なにか表層は形を変えてるかもしれないけど、「お食事」は変わっていないと思う。
だって、生きていくために「必要」なものなんだものね。
今朝も「おはよう」メールをもらって、「感謝の気持ちとともに、これからもずっと「お食事」をいただきたいな〜と思うのでした。
日々届く「おはよう」のメール。
姿を見つけるたびに湧き上がる照れ臭いような喜び。
幾度となく肌を合わせる。
慣れ親しんだ毛布のように安心して、おもちゃ箱のようにわくわくして、苦しいほどにわたしを拘束する。
数年間、繰り返し、変わらない。
むしろ、安心も快感も増している。
なぜ?
飽きないの?
「どんなに高級なフランス料理でも毎日食べたら飽きる」と、よく例え話で出るよね。
なぜ、飽きないのだろう。
きっと、わたしにとって那智さんは「フランス料理」じゃないんだ。
「食事」そのものなの。
特別な贅沢な「フランス料理」じゃなくて、生きていくために必要な「お食事」。
そして、普通のご飯だったり、贅沢なフランス料理だったり、ときどきクセのあるスパイスを利かせたりしてくれる。
だから、飽きることもない。
那智さんはわたしにとって、ときどき味わう贅沢品ではなくて、もっと大事な生きていくために必要なもの。
だから、逆にときどきじゃダメなの^^;
でも、人は「贅沢品」には喜びを見いだすのは簡単なのだけど、日々の「必要」なものには慣れてしまうもの。
そこは受け取る側の力がいるのだ。
こちらが慣れない。
日々のメールを喜び。
会うたびに湧き上がる喜びを自覚して。
肌を合わせるときの感動を伝える。
那智さん曰く、「りん子はそれが上手」のだそうだ。
わたしは、わたししかわからないから、わたしの感じるとおりにしてるだけなんだけど。
もしかしたら、少しのことでも「喜びやすい」女なのかもしれない^^
安上がりな女?
なんでも、いいわ。
でも、こちらがちゃんと「おいしい」と伝え続けると、日々「お食事」は届けられるものなのです。
そして、それは「必要」なものだから、こちらは飽きることはない。
与える側も、その都度、笑ったり鳴いたり狂喜したり理解したり赤面したりで、きっと飽きることないのでしょうね。
これが、一緒に暮らしていたりすると、また話は違ってくるのかな。
この部分は、ちょっとわからない。
だから、「一緒に暮らさずに、一緒に暮らしているくらいのコミュニケーションを取っていても」飽きないとしか言えないんだけどね。
さて、さて、わたしたちは付き合いはじめて数年。
これが二桁になるころには、また違った感覚になっているものなのかしら。
これも、ちょっとわからない。
もしかしたら、なにか表層は形を変えてるかもしれないけど、「お食事」は変わっていないと思う。
だって、生きていくために「必要」なものなんだものね。
今朝も「おはよう」メールをもらって、「感謝の気持ちとともに、これからもずっと「お食事」をいただきたいな〜と思うのでした。
信じることに慣れるのだ(5/20追記と変更あり)
りん子的独り言(エラそう)
ちょっと追記と変更しました。
気づいてくださるかな〜。
っていうか、もう一度読んでくれる奇特なかたはいらっしゃるかしら!!と思いつつ、ペコリです。
書くときに、ときどき「わたしのような女は」という言い方をします。
はっきりとした「基準」があるわけじゃなくて、かなりぼんやりした「わたし像」。
性癖や生い立ちやネガティブな部分や、使う場面もそれぞれだから、このエントリーの「わたしのような」には共感できるけど、こちらのそれはちょっと理解できない、なんていうのも、きっとあると思います。
今日、これから書こうとしてることも、感覚的なことだからどれくらいの人が理解や共感をしてくださるのか、自分の筆力も含めて、不安^^;
まず第一に「女」って書いてるのだから、男性には無理かな!?
なんて、前置きばっかりしてないで、行ってみよう!!
那智さんと知り合って最初の三日間は、とにかく物凄い量と質の長電話をした。
「惹かれ合う理由」の「出会い」のころ、一日5、6時間と書いてあったように思うけど、もしかしたら、もうちょっといっぱいだったかもしれない。
さすがに、社会人として、そんな状況いつまでも続けるわけにはいかないので、那智さんも「落とすのに必死(笑)」だったその三日間以降は、少し落ち着いてはきた。
それでも、一日数時間、そうだなぁ、3、4時間は話していたかな。
毎日続いたそれが、2週間ほどして徐々に減り出した。
毎晩、毎晩、2時間は話していたのに、ある日を境に「話せない夜(もしくは、ほんのちょっとだけしか話せない)」ができたのだ。
当然と言えば当然よね、那智さんにも那智さんの生活パターンがある。
那智さんは、お世話になっている先輩の男性のお付き合いで週数回フィットネスに通っていたのだ。
わたしとの電話で、もう2週間もそれを断っていたのだ、「さすがに、これ以上付き合い悪くはできない」そう言って、いままでの生活パターンに戻していった。
根拠なく、その夜がずっと続くと思っていたわたしは、驚いてしまった。
驚き、そして、悪い癖の「マイナス思考」が働くのだ。
「わたしに対する好きが減ってしまったの?」
那智さんはいつもわたしにこう言う。
「できるときはできるし、できないときはできない」
メールも電話も。
「だから、臆することなく、メールも電話も、寄っかかることもしていい」と。
実際、わたしのいっぱいのメール、忙しいときはほとんどスルー。
電話も「いまはダメ」とか「いまは、りん子に20%だけどそれでよければ」とか言われる。(ちなみに20%のときはかなり空返事^^;わたしの独り言状態。それでも繋がっていたいわたしって…)
でも、一段落して「できるとき」になったら、返してくれる。(メールはくだらない内容が多いので、けっこう返信は少ないけど)
何度も聞いた。
わたしが寄りかかることが負担にならない?
その負担がいずれ大きくなって、好きが減ってしまわない?
何度も答えてくれた。
「できるときはできるし、できないときはできないっていう、だから、心配しないで寄りかかればいい。」
多分、その那智さんの言っていることは、本当のことだろう。
そのときのわたしも、そう感じていたはずだ。
だけど、何度も何度も聞いてしまった。
そして、いつもいつも同じ答えをもらっていた。
わたしは、その言葉を、一生懸命自分に言い聞かせて、マイナス思考を断ち切ろうとした。
おまじないのように。
寄りかかり、ダメなときは待ち、また寄りかかれるときに疑わずに寄りかかる。
その間も、何度も聞いた。
そして、何度も答えてもらった。
こんなに両手を広げてくれている那智さんに、大丈夫だと感じさせてくれている那智さんに、なぜ、何度も同じようなことを繰り返し聞いてしまっていたのだろう。
いま、思えば。
わたしは、あのとき「那智さんが信じられなかった」のではないと思う。
信じることに慣れていなかったんだ。
これって、似ているようで、違うと思いませんか。
この感覚、理解されるだろうか。
わたしのような女は、疑い深いとか人を信じられないとかじゃなくて。
信じることに慣れてないの。
なんていうのかな、具体的に「なに」を信じることに慣れてないというより。
信じるという行為に、慣れてない、という感じかな。
あなたを信用していないのではなくて。
あなたの言ってることは嘘じゃないとわかった上で、ただ「慣れてない」だけ。
疑う余地のないほどいっぱい信じさせてもらえてるはずなのに、それでも不安に思うのは、「信じていいの?」「寄りかかってもいいの?」と何度も確認してしまうのは、誰のせいでもなくて、ただ慣れていないだけ。
信じるたための材料を全部そろえてもらっている。
あとは、それを体験して、自分の感覚にしみ込ませるために繰り返しの慣れる作業をしてるようなもの。
たとえば。
「富士山は高い」と知っていることと、実際に裾野に立ち仰ぎ見たときに感じる迫力。
そこではじめて「富士山は高い」という言葉が自分のものになるような。(違うかな…!?)
信じるに値するだけのものをもらってる、それなのに不安になることを責めずに、ただ慣れていないだけだと思いたい。
自分の感覚にしみ込ませてる最中なんだ。
似たようなことを何度も何度も聞いてしまうのは、信じる練習をしてるだけなの。
だから、わたしは祈るように那智さんに何度も聞いた。
あなたのせいじゃない、わたしが不慣れなだけ。
どうか、信じることに慣れさせてください。
慣れるまで、付き合ってください。
あのときは、こんな風に自分の心を言語化できていなかったけど、多分、那智さんのもそんな感覚が伝わっていたのではないかしら。
だから、付き合ってくれたのでしょう。
その、一見面倒なキャッチボールに付き合ってくれた那智さんをありがたいと思う。(もちろん、那智さんは那智さんのスタンスは変えずに、付き合ってくれた)
でも、わたしは、あなたと関係を作っていくために、信じることに慣れたかったの。
だから、投げ返してくれるボールを、素直に受け取り、また返す。
同じようなやり取りを繰り返していくたびに、人は慣れてくるものだ。
慣れるのにちょっと時間がかかっても、付き合ってくれれば、いつかは慣れるもの。
出会った頃、那智さんの生活パターンによって、減った電話(それだって、いっぱいだけどね)。
負担をかけていないか、不安に思った気持ち。
マイナス思考に陥りそうなとき、スタンスは変えずに「大丈夫」と同じ答えを繰り返してくれた。
だから、わたしは、信じることに慣れることができたのだ。
「信じることに慣れてないだけ」と言語化できたいま。
慣れてないんだ!!と開き直ることはよくないけど、信じられず不安な気持ちになり、「信じられない自分」を必要以上に責めてしまう、かつてのわたしに教えてあげたい。
慣れてないだけだから、慣れれば大丈夫って。
そして、恐らくほとんどが大丈夫だったと信じてるけど、そりゃあ、ちょっとは「面倒くせ〜」と思ったことがあるかもしれないかつての那智さんにも、教えてあげたい。
わたしのような女と付き合うの、ちょっとここ面倒かもしれないけど、ちゃんと慣れさせてくれれば、あとはけっこう「いい子」になりますよって(笑)
ちょっと追記と変更しました。
気づいてくださるかな〜。
っていうか、もう一度読んでくれる奇特なかたはいらっしゃるかしら!!と思いつつ、ペコリです。
書くときに、ときどき「わたしのような女は」という言い方をします。
はっきりとした「基準」があるわけじゃなくて、かなりぼんやりした「わたし像」。
性癖や生い立ちやネガティブな部分や、使う場面もそれぞれだから、このエントリーの「わたしのような」には共感できるけど、こちらのそれはちょっと理解できない、なんていうのも、きっとあると思います。
今日、これから書こうとしてることも、感覚的なことだからどれくらいの人が理解や共感をしてくださるのか、自分の筆力も含めて、不安^^;
まず第一に「女」って書いてるのだから、男性には無理かな!?
なんて、前置きばっかりしてないで、行ってみよう!!
那智さんと知り合って最初の三日間は、とにかく物凄い量と質の長電話をした。
「惹かれ合う理由」の「出会い」のころ、一日5、6時間と書いてあったように思うけど、もしかしたら、もうちょっといっぱいだったかもしれない。
さすがに、社会人として、そんな状況いつまでも続けるわけにはいかないので、那智さんも「落とすのに必死(笑)」だったその三日間以降は、少し落ち着いてはきた。
それでも、一日数時間、そうだなぁ、3、4時間は話していたかな。
毎日続いたそれが、2週間ほどして徐々に減り出した。
毎晩、毎晩、2時間は話していたのに、ある日を境に「話せない夜(もしくは、ほんのちょっとだけしか話せない)」ができたのだ。
当然と言えば当然よね、那智さんにも那智さんの生活パターンがある。
那智さんは、お世話になっている先輩の男性のお付き合いで週数回フィットネスに通っていたのだ。
わたしとの電話で、もう2週間もそれを断っていたのだ、「さすがに、これ以上付き合い悪くはできない」そう言って、いままでの生活パターンに戻していった。
根拠なく、その夜がずっと続くと思っていたわたしは、驚いてしまった。
驚き、そして、悪い癖の「マイナス思考」が働くのだ。
「わたしに対する好きが減ってしまったの?」
那智さんはいつもわたしにこう言う。
「できるときはできるし、できないときはできない」
メールも電話も。
「だから、臆することなく、メールも電話も、寄っかかることもしていい」と。
実際、わたしのいっぱいのメール、忙しいときはほとんどスルー。
電話も「いまはダメ」とか「いまは、りん子に20%だけどそれでよければ」とか言われる。(ちなみに20%のときはかなり空返事^^;わたしの独り言状態。それでも繋がっていたいわたしって…)
でも、一段落して「できるとき」になったら、返してくれる。(メールはくだらない内容が多いので、けっこう返信は少ないけど)
何度も聞いた。
わたしが寄りかかることが負担にならない?
その負担がいずれ大きくなって、好きが減ってしまわない?
何度も答えてくれた。
「できるときはできるし、できないときはできないっていう、だから、心配しないで寄りかかればいい。」
多分、その那智さんの言っていることは、本当のことだろう。
そのときのわたしも、そう感じていたはずだ。
だけど、何度も何度も聞いてしまった。
そして、いつもいつも同じ答えをもらっていた。
わたしは、その言葉を、一生懸命自分に言い聞かせて、マイナス思考を断ち切ろうとした。
おまじないのように。
寄りかかり、ダメなときは待ち、また寄りかかれるときに疑わずに寄りかかる。
その間も、何度も聞いた。
そして、何度も答えてもらった。
こんなに両手を広げてくれている那智さんに、大丈夫だと感じさせてくれている那智さんに、なぜ、何度も同じようなことを繰り返し聞いてしまっていたのだろう。
いま、思えば。
わたしは、あのとき「那智さんが信じられなかった」のではないと思う。
信じることに慣れていなかったんだ。
これって、似ているようで、違うと思いませんか。
この感覚、理解されるだろうか。
わたしのような女は、疑い深いとか人を信じられないとかじゃなくて。
信じることに慣れてないの。
なんていうのかな、具体的に「なに」を信じることに慣れてないというより。
信じるという行為に、慣れてない、という感じかな。
あなたを信用していないのではなくて。
あなたの言ってることは嘘じゃないとわかった上で、ただ「慣れてない」だけ。
疑う余地のないほどいっぱい信じさせてもらえてるはずなのに、それでも不安に思うのは、「信じていいの?」「寄りかかってもいいの?」と何度も確認してしまうのは、誰のせいでもなくて、ただ慣れていないだけ。
信じるたための材料を全部そろえてもらっている。
あとは、それを体験して、自分の感覚にしみ込ませるために繰り返しの慣れる作業をしてるようなもの。
たとえば。
「富士山は高い」と知っていることと、実際に裾野に立ち仰ぎ見たときに感じる迫力。
そこではじめて「富士山は高い」という言葉が自分のものになるような。(違うかな…!?)
信じるに値するだけのものをもらってる、それなのに不安になることを責めずに、ただ慣れていないだけだと思いたい。
自分の感覚にしみ込ませてる最中なんだ。
似たようなことを何度も何度も聞いてしまうのは、信じる練習をしてるだけなの。
だから、わたしは祈るように那智さんに何度も聞いた。
あなたのせいじゃない、わたしが不慣れなだけ。
どうか、信じることに慣れさせてください。
慣れるまで、付き合ってください。
あのときは、こんな風に自分の心を言語化できていなかったけど、多分、那智さんのもそんな感覚が伝わっていたのではないかしら。
だから、付き合ってくれたのでしょう。
その、一見面倒なキャッチボールに付き合ってくれた那智さんをありがたいと思う。(もちろん、那智さんは那智さんのスタンスは変えずに、付き合ってくれた)
でも、わたしは、あなたと関係を作っていくために、信じることに慣れたかったの。
だから、投げ返してくれるボールを、素直に受け取り、また返す。
同じようなやり取りを繰り返していくたびに、人は慣れてくるものだ。
慣れるのにちょっと時間がかかっても、付き合ってくれれば、いつかは慣れるもの。
出会った頃、那智さんの生活パターンによって、減った電話(それだって、いっぱいだけどね)。
負担をかけていないか、不安に思った気持ち。
マイナス思考に陥りそうなとき、スタンスは変えずに「大丈夫」と同じ答えを繰り返してくれた。
だから、わたしは、信じることに慣れることができたのだ。
「信じることに慣れてないだけ」と言語化できたいま。
慣れてないんだ!!と開き直ることはよくないけど、信じられず不安な気持ちになり、「信じられない自分」を必要以上に責めてしまう、かつてのわたしに教えてあげたい。
慣れてないだけだから、慣れれば大丈夫って。
そして、恐らくほとんどが大丈夫だったと信じてるけど、そりゃあ、ちょっとは「面倒くせ〜」と思ったことがあるかもしれないかつての那智さんにも、教えてあげたい。
わたしのような女と付き合うの、ちょっとここ面倒かもしれないけど、ちゃんと慣れさせてくれれば、あとはけっこう「いい子」になりますよって(笑)