一般常識
非日常的な日常
便器に腰掛ける那智さんの前に座り、開いた太股の間に両手を入れてうんこを受け止める。
終わったら、処理をするためにお水を汲みに行ってくれる。
よっこらしょっと、差し出した私の両手をまたいで便器から降りるのだけど、この日は手に乗った量が多くて、(生々しくてごめんなさい)柔らかいから、上手い具合にまたげそうもないと判断した那智さんは、どうしようか一瞬悩む。
「一回手から落としますから、流してください。そうしたら便器に溜まった新しいお水で、ザッと洗いますから。」
そう提案してみるけれど、答えは「ダメ」。
それは、汚いだろ~ということらしい!!
え~?それは汚いけれど、これは汚くないの?
私は、掌にあるものの存在意義を考える。
慎重に便器から降りて、お水を汲みに行く後ろ姿に「なぜ、ダメなのですか~?」と疑問を投げかける。
「便器に手を入れるのと入れないのでは、入れないほうがいいだろ!」
「・・・じゃあ、うんこを手に乗せるのと乗せないのでは、どちらが良いのですか?!」
「それは、乗せるほう♪」
多分その感覚は、一般的ではないだろう(笑)
でも、私の「便器で手を洗ってもかまわない」と思う感覚は、おかしいのかしら・・。
一般常識は心得ているはずだ。
でも、何かが麻痺してしまっている!?
わからなくて、ちょっと困っている。
便器に腰掛ける那智さんの前に座り、開いた太股の間に両手を入れてうんこを受け止める。
終わったら、処理をするためにお水を汲みに行ってくれる。
よっこらしょっと、差し出した私の両手をまたいで便器から降りるのだけど、この日は手に乗った量が多くて、(生々しくてごめんなさい)柔らかいから、上手い具合にまたげそうもないと判断した那智さんは、どうしようか一瞬悩む。
「一回手から落としますから、流してください。そうしたら便器に溜まった新しいお水で、ザッと洗いますから。」
そう提案してみるけれど、答えは「ダメ」。
それは、汚いだろ~ということらしい!!
え~?それは汚いけれど、これは汚くないの?
私は、掌にあるものの存在意義を考える。
慎重に便器から降りて、お水を汲みに行く後ろ姿に「なぜ、ダメなのですか~?」と疑問を投げかける。
「便器に手を入れるのと入れないのでは、入れないほうがいいだろ!」
「・・・じゃあ、うんこを手に乗せるのと乗せないのでは、どちらが良いのですか?!」
「それは、乗せるほう♪」
多分その感覚は、一般的ではないだろう(笑)
でも、私の「便器で手を洗ってもかまわない」と思う感覚は、おかしいのかしら・・。
一般常識は心得ているはずだ。
でも、何かが麻痺してしまっている!?
わからなくて、ちょっと困っている。
一般常識(お散歩編)
独特な幸福感
つい4日前に「うんこの話題はしばらくはいいでしょう」みたいに書いたのに、すぐまたしてしまったので違う話題で再度更新を。
「本当は恥ずかしいことじゃないのに、恥ずかしがっていることが恥ずかしい」というようなこと。
今日のデートはジーンズ。
普段はスカートで会うことが多いのだけど、趣向を変えて。
余談ですが、私は背が高くて肩も張っているから、ジーンズやスーツのようなかっこいい服の方が似合うみたいなのだ。
ずっとそんな服装で通してきたけど、最近はちょっと趣味が変わってきている。
そのへんの変化もいつかお話ししたいな~と思っています(また「後日」が増えちゃった)。
だから、かっこいい私でデートに向かうのはあまり多くはない。
「どうせなら、かっこよく」とリクエストされたので、きちんとお化粧をしてかっこつけて待ち合わせ場所に。
先に着いて、あたりを伺う。
これも余談ですが、那智さんはよく私を驚かせる。
待ち合わせ場所に立つ私の背後にこっそり回り、いきなりお尻を触ったりするのだ。
何度されても「きゃあ!!!」と、叫んでしまってびっくりするやら恥ずかしいやらで、どぎまぎ。
ただのいたずら少年である。
最近は慣れてきて壁に背を付けて防御したりするけれど、那智さんを捜すために壁から一瞬離れたすきに、驚かされてしまうから、なかなか気が抜けない。(バカな2人?)
案の定、今日も後ろからお尻を触られて「ビク~~」ってなってしまった(ちょっと油断)。
「いつの間に~~?」なんて、せっかくのかっこいいお洋服が台無しの、慌てぶり。
でも、気を取り直して、背筋を伸ばして歩き出す。
那智さんがポケットから何かを取り出した。
わんこの時に、首輪に付けるリードだ。
これは本物のリードじゃなくて、キーチェーン。
これをリード代わりにしているのだ。
それを私のジーンズに「カチャン」と付けた。
服装の雰囲気から、この鎖はまったく違和感はない。
でも、その鎖を隣の男性が握っているというのは、どうだろう。
そんな疑問が頭をよぎるけど、鎖を付けられた私は嬉しくてたまらなくなってしまう。
こんなことが嬉しくて、でも、これを喜んでしまうことが恥ずかしくてうつむいて歩く。
まだ、時間的には早い。
人通りは、そんなに多くない。
どうか誰もうつむく私に気付きませんように。
鎖を持たれていることが変な光景に映りませんように。
那智さんが、持った鎖を自分のほうに引っ張る。
ああ、もう嬉しくて、この従属感がどうしようもなく気持ち良くて、困ってしまう。
引く力が強くて、那智さんのほうに僅かによろめく時なんて、嬉しくて声を上げてしまいそうだ。
本当は、数歩離れて四つん這いで付いて行きたいくらいなのだが、私は犬ではないのでそんなことはできずに、代わりに組んだ腕に力を入れて困惑や快感を隅に追いやろうとする。
うつむいているからか、幸福のためか、もう私はどこを歩いているかも考えていられない。
ただただ、この恥ずかしい状態を他の人に悟られないことだけを祈るばかりだ。
私がジーンズと予告していたので、那智さんは、以前プレゼントした首輪をしてくると想像していたらしい。
それは、かわいいアクセサリーの付いたオーダーメイドの犬用の皮の首輪で、裏に名前が彫ってある。
多少違和感はあるが、アクセサリーだと強引にしてしまえなくもない。
それを付けてくると想像していた那智さんは、本当ならばリードを首輪にしようと目論んでいたらしい。
帰り際にお茶をしながら、そんなことを言われて、「してこなくてよかった~」と安堵に胸を撫で下ろす。
しかし、追い打ちをかけるように那智さんは笑いながら言う。
「でもね、さすがに首輪に鎖を付けたら恥ずかしいかもしれないけれど、ジーンズに鎖を付けるなんて全然恥ずかしくないことだよね。カップルなら、それを持っていじりながら歩いてもそんなに不自然じゃない。それなのにあんなに恥ずかしがってしまうことが、恥ずかしいよなって思いながらお散歩していたんだよな~。」
ですって!!
それなら、「恥ずかしがるほうが、恥ずかしいよ」って、そのときに教えてください!!
この感覚はどうなのでしょう。
恥ずかしいことの区分けがよくわからなくなっている。
もう一回言わせてください。
私は常識のある人間と思っています。
お年寄りには席を譲るし、ゴミもいちおう分別している。
でも、何か感覚がずれている!?
わからなくて、やっぱりちょっと困ってしまいます。
つい4日前に「うんこの話題はしばらくはいいでしょう」みたいに書いたのに、すぐまたしてしまったので違う話題で再度更新を。
「本当は恥ずかしいことじゃないのに、恥ずかしがっていることが恥ずかしい」というようなこと。
今日のデートはジーンズ。
普段はスカートで会うことが多いのだけど、趣向を変えて。
余談ですが、私は背が高くて肩も張っているから、ジーンズやスーツのようなかっこいい服の方が似合うみたいなのだ。
ずっとそんな服装で通してきたけど、最近はちょっと趣味が変わってきている。
そのへんの変化もいつかお話ししたいな~と思っています(また「後日」が増えちゃった)。
だから、かっこいい私でデートに向かうのはあまり多くはない。
「どうせなら、かっこよく」とリクエストされたので、きちんとお化粧をしてかっこつけて待ち合わせ場所に。
先に着いて、あたりを伺う。
これも余談ですが、那智さんはよく私を驚かせる。
待ち合わせ場所に立つ私の背後にこっそり回り、いきなりお尻を触ったりするのだ。
何度されても「きゃあ!!!」と、叫んでしまってびっくりするやら恥ずかしいやらで、どぎまぎ。
ただのいたずら少年である。
最近は慣れてきて壁に背を付けて防御したりするけれど、那智さんを捜すために壁から一瞬離れたすきに、驚かされてしまうから、なかなか気が抜けない。(バカな2人?)
案の定、今日も後ろからお尻を触られて「ビク~~」ってなってしまった(ちょっと油断)。
「いつの間に~~?」なんて、せっかくのかっこいいお洋服が台無しの、慌てぶり。
でも、気を取り直して、背筋を伸ばして歩き出す。
那智さんがポケットから何かを取り出した。
わんこの時に、首輪に付けるリードだ。
これは本物のリードじゃなくて、キーチェーン。
これをリード代わりにしているのだ。
それを私のジーンズに「カチャン」と付けた。
服装の雰囲気から、この鎖はまったく違和感はない。
でも、その鎖を隣の男性が握っているというのは、どうだろう。
そんな疑問が頭をよぎるけど、鎖を付けられた私は嬉しくてたまらなくなってしまう。
こんなことが嬉しくて、でも、これを喜んでしまうことが恥ずかしくてうつむいて歩く。
まだ、時間的には早い。
人通りは、そんなに多くない。
どうか誰もうつむく私に気付きませんように。
鎖を持たれていることが変な光景に映りませんように。
那智さんが、持った鎖を自分のほうに引っ張る。
ああ、もう嬉しくて、この従属感がどうしようもなく気持ち良くて、困ってしまう。
引く力が強くて、那智さんのほうに僅かによろめく時なんて、嬉しくて声を上げてしまいそうだ。
本当は、数歩離れて四つん這いで付いて行きたいくらいなのだが、私は犬ではないのでそんなことはできずに、代わりに組んだ腕に力を入れて困惑や快感を隅に追いやろうとする。
うつむいているからか、幸福のためか、もう私はどこを歩いているかも考えていられない。
ただただ、この恥ずかしい状態を他の人に悟られないことだけを祈るばかりだ。
私がジーンズと予告していたので、那智さんは、以前プレゼントした首輪をしてくると想像していたらしい。
それは、かわいいアクセサリーの付いたオーダーメイドの犬用の皮の首輪で、裏に名前が彫ってある。
多少違和感はあるが、アクセサリーだと強引にしてしまえなくもない。
それを付けてくると想像していた那智さんは、本当ならばリードを首輪にしようと目論んでいたらしい。
帰り際にお茶をしながら、そんなことを言われて、「してこなくてよかった~」と安堵に胸を撫で下ろす。
しかし、追い打ちをかけるように那智さんは笑いながら言う。
「でもね、さすがに首輪に鎖を付けたら恥ずかしいかもしれないけれど、ジーンズに鎖を付けるなんて全然恥ずかしくないことだよね。カップルなら、それを持っていじりながら歩いてもそんなに不自然じゃない。それなのにあんなに恥ずかしがってしまうことが、恥ずかしいよなって思いながらお散歩していたんだよな~。」
ですって!!
それなら、「恥ずかしがるほうが、恥ずかしいよ」って、そのときに教えてください!!
この感覚はどうなのでしょう。
恥ずかしいことの区分けがよくわからなくなっている。
もう一回言わせてください。
私は常識のある人間と思っています。
お年寄りには席を譲るし、ゴミもいちおう分別している。
でも、何か感覚がずれている!?
わからなくて、やっぱりちょっと困ってしまいます。
痛みについて
非日常的な日常
どこで得た知識だか忘れたが、こんなレベル分けがある。
痛さと快感についてこんな変化があるのではないかというレベルだ。
「痛くされているシチュエーションに感じている」
「痛いけど、気持ち良い」
「痛いことが、気持ち良い」
「痛くなければ気持ち良くない」
こんな段階があるらしい。
もちろん「痛いこと」に興味があるということが前提で、誰もかれもこんな風になる分けられることではありませんよ。
それにこの段階を踏んで必ず変化するわけでもないでしょう。
話題のひとつくらいに思って想像してみましょう。
そして、ここから先は私の解釈ですので、好きに書きますがご了承ください。
「痛くされているシチュエーションに感じる」
叩いてもほとんど痛くないハタキみたいな鞭。
でも、音だけは「バシッ」と響くから気分は出る。
縛られたりしていたら、尚更良い雰囲気。
そんなシチュエーションは興奮を呼ぶでしょう。
「痛いけど、気持ち良い」
乳首に歯を立てて、軽く噛んだり愛撫したり、この軽い痛みと快感の繰り返しは、ある瞬間に境目がなくなって、「痛いけど、気持ち良い」という気持ちになっていく。
「痛いことが、気持ち良い」
お尻を思い切り何度もスパンキングをされて、どんどん強く打たれて、「痛い」「やめて」「やめないで」「幸せ」、いろんな感情が混ざって、最後に「やめて」がなくなる。
そうなると、残るのは「痛い、幸せだからやめないで」になる。
体の力が抜けて、ただ痛みを受け止めるだけになる。
痛いことには変わりない、でもこの放心を持続させてくれる痛みはもはや快感以外の何物でもない。
最後。
「痛くなければ気持ち良くない」
これは、私には未知の領域です。(よね?那智さん)
私は、他のことでも気持ち良いです(笑)
でも、似たような感覚があるとするなら、以前遊びにいったカップル喫茶でノーマル(カップル喫茶に行くこと自体ノーマルじゃないけど)のカップルの男性が、優しくバイブを出し入れしていて、彼女で満足そうだったのを見て、「私はあんな優しく扱われたことないな~(笑)」と苦笑したことがある。
ついでに「あれじゃダメかも・・。」と思ってしまったのは「痛くなければ気持ち良くない」に近いかもしれない。
長々と説明してしまいましたが、これに当てはめるなら私はきっと3番目だと思っています。
那智さんは、元々痛覚に訴えることは「大好き」ってほどではなかったらしい。
痛いことが好きな子と付き合っていたときには、それなりにしていたようですが(クリトリスに針とかね!!)、どちらかと言えば女性を恥ずかしがらせたりとか困らせたりするほうがお好みだった。
私は、家庭を持っていてあまり傷を残すわけにはいかないから、尚のこと痛いことには慎重になっていたようだ。
ある時、那智さんのお仕事場でスパンキングをされた。
姿見の前で椅子に体を預けるように前屈みになる姿勢でお尻を叩かれた。
その日は、もしかしたら来客があるかもしれなくて、那智さんとしては、ゆっくりと強弱を付けながら徐々に高めて「痛いけど気持ち良い」状態にするのど時間的余裕がない。
それでも、叩きたい気持ちが勝ったのか、何発か強く叩いて一気に終わらせようと思ったようだ。
この時「りん子の快感」を考慮したかどうかは、わからない。
まだ、付き合いだしてそれほど経っていないころで、スパンキングにも慣れていない私はいきなりの強さに驚く。
痛いのを我慢して、我慢して、「こわい、痛い、やめて」と心で叫んでいるうちに、ふっと体の力が抜けるのを感じたのだ。
気持ち良いとは思っていなかったはずだが、すべてを委ねるしかない状態に、もう「やめて」とは思わなくなっている私がいた。
その日の夜。
電話でお話ししているときに、那智さんは「これから痛いことをしていくだろう。」と言い出した。
「見てしまった」のですって、強く打たれて恍惚としている私の顔を鏡越しに。
「ごめんな、りん子。でも、俺、見ちゃったんだよね。あの表情を見てしまったら痛いことをしないわけにはいかない。」
その時の私の表情がどんなだったのか、わからない。
鏡を前にしていたけれど、自分では見ていない。
目に映っていたかもしれないけれど、脳みそには届いていなかったようだ。
あれから、いろんな痛いことをしている。
世の中には、もっともっと痛いことをしている人たちもいるだろう。
だから、自分たちが凄いなどとは思っていない。
でも、僅かながら段階が上がっている感じがして、ちょっと末恐ろしいかもしれないと、ベルトで打たれた太股に残る青痣を眺めて思うのだ。
もし明日私が死んでしまうとして、「痛い、お外、排泄」のうちどれかひとつだけ最後にできると言われたら、何を選びますか?(私の大好きなもしもシリーズ♪)
この答えは「痛いこと」だった。
「だって、死んじゃうんだから、際限なくできるでしょ♪」
もし「明日死ぬ」と神様に言われたら(あり得ないけど)、私はそれを正直に伝えるだろうか。
際限なく痛いことをしてもらうために。
どこで得た知識だか忘れたが、こんなレベル分けがある。
痛さと快感についてこんな変化があるのではないかというレベルだ。
「痛くされているシチュエーションに感じている」
「痛いけど、気持ち良い」
「痛いことが、気持ち良い」
「痛くなければ気持ち良くない」
こんな段階があるらしい。
もちろん「痛いこと」に興味があるということが前提で、誰もかれもこんな風になる分けられることではありませんよ。
それにこの段階を踏んで必ず変化するわけでもないでしょう。
話題のひとつくらいに思って想像してみましょう。
そして、ここから先は私の解釈ですので、好きに書きますがご了承ください。
「痛くされているシチュエーションに感じる」
叩いてもほとんど痛くないハタキみたいな鞭。
でも、音だけは「バシッ」と響くから気分は出る。
縛られたりしていたら、尚更良い雰囲気。
そんなシチュエーションは興奮を呼ぶでしょう。
「痛いけど、気持ち良い」
乳首に歯を立てて、軽く噛んだり愛撫したり、この軽い痛みと快感の繰り返しは、ある瞬間に境目がなくなって、「痛いけど、気持ち良い」という気持ちになっていく。
「痛いことが、気持ち良い」
お尻を思い切り何度もスパンキングをされて、どんどん強く打たれて、「痛い」「やめて」「やめないで」「幸せ」、いろんな感情が混ざって、最後に「やめて」がなくなる。
そうなると、残るのは「痛い、幸せだからやめないで」になる。
体の力が抜けて、ただ痛みを受け止めるだけになる。
痛いことには変わりない、でもこの放心を持続させてくれる痛みはもはや快感以外の何物でもない。
最後。
「痛くなければ気持ち良くない」
これは、私には未知の領域です。(よね?那智さん)
私は、他のことでも気持ち良いです(笑)
でも、似たような感覚があるとするなら、以前遊びにいったカップル喫茶でノーマル(カップル喫茶に行くこと自体ノーマルじゃないけど)のカップルの男性が、優しくバイブを出し入れしていて、彼女で満足そうだったのを見て、「私はあんな優しく扱われたことないな~(笑)」と苦笑したことがある。
ついでに「あれじゃダメかも・・。」と思ってしまったのは「痛くなければ気持ち良くない」に近いかもしれない。
長々と説明してしまいましたが、これに当てはめるなら私はきっと3番目だと思っています。
那智さんは、元々痛覚に訴えることは「大好き」ってほどではなかったらしい。
痛いことが好きな子と付き合っていたときには、それなりにしていたようですが(クリトリスに針とかね!!)、どちらかと言えば女性を恥ずかしがらせたりとか困らせたりするほうがお好みだった。
私は、家庭を持っていてあまり傷を残すわけにはいかないから、尚のこと痛いことには慎重になっていたようだ。
ある時、那智さんのお仕事場でスパンキングをされた。
姿見の前で椅子に体を預けるように前屈みになる姿勢でお尻を叩かれた。
その日は、もしかしたら来客があるかもしれなくて、那智さんとしては、ゆっくりと強弱を付けながら徐々に高めて「痛いけど気持ち良い」状態にするのど時間的余裕がない。
それでも、叩きたい気持ちが勝ったのか、何発か強く叩いて一気に終わらせようと思ったようだ。
この時「りん子の快感」を考慮したかどうかは、わからない。
まだ、付き合いだしてそれほど経っていないころで、スパンキングにも慣れていない私はいきなりの強さに驚く。
痛いのを我慢して、我慢して、「こわい、痛い、やめて」と心で叫んでいるうちに、ふっと体の力が抜けるのを感じたのだ。
気持ち良いとは思っていなかったはずだが、すべてを委ねるしかない状態に、もう「やめて」とは思わなくなっている私がいた。
その日の夜。
電話でお話ししているときに、那智さんは「これから痛いことをしていくだろう。」と言い出した。
「見てしまった」のですって、強く打たれて恍惚としている私の顔を鏡越しに。
「ごめんな、りん子。でも、俺、見ちゃったんだよね。あの表情を見てしまったら痛いことをしないわけにはいかない。」
その時の私の表情がどんなだったのか、わからない。
鏡を前にしていたけれど、自分では見ていない。
目に映っていたかもしれないけれど、脳みそには届いていなかったようだ。
あれから、いろんな痛いことをしている。
世の中には、もっともっと痛いことをしている人たちもいるだろう。
だから、自分たちが凄いなどとは思っていない。
でも、僅かながら段階が上がっている感じがして、ちょっと末恐ろしいかもしれないと、ベルトで打たれた太股に残る青痣を眺めて思うのだ。
もし明日私が死んでしまうとして、「痛い、お外、排泄」のうちどれかひとつだけ最後にできると言われたら、何を選びますか?(私の大好きなもしもシリーズ♪)
この答えは「痛いこと」だった。
「だって、死んじゃうんだから、際限なくできるでしょ♪」
もし「明日死ぬ」と神様に言われたら(あり得ないけど)、私はそれを正直に伝えるだろうか。
際限なく痛いことをしてもらうために。
那智さんの気持ち
独特な幸福感
あとのスケジュールが詰まっていて、ちょっとそちらに気を取られていたから、なんだか満足度が低かった。
那智さんに、そんなふうに言われたことがある。
「射精欲」ではないようで(しているし!)、「りん子に集中できなかった」から満足できなかったそうです。
何年かの付き合いで、そう感じたことはその時くらいというほど、めずらしいことらしい。
時間的に余裕のないときは何度もある。
精神的に弱っているときもあった。
でも、その時々でも「りん子に集中」はしてくれていたようで、その不満足感はめずらしい。
満足度が低いことは残念だけど、私としては嬉しいこと。
だって、逆を返せば、ほとんどの場合私に集中してくれていることになるからだ。
それにしても、毎回毎回面倒臭いことをして、手間暇掛けて、いろんなことを飽きもせず続けられるのは、なぜだろう。
男の人は「射精」する瞬間がとっても気持ち良いのですよね。
だとするならば、そんな面倒なことをしなくても、とっても気持ち良いことは味わえるはずなのだ。
それでも、「集中」を求め続ける。
そこから得られる感情を、私は想像できない。
「こんな私やあんな私を見ていて、どんな気分になるのですか?」
と聞いてみると「満足」と返ってくる。
その一言では、想像できないほどの何かがなくては、あんなに大変なことできないと思うのだ。
何があるのでしょう。
きっと私には一生わからないこと。
味わってみたいと思うけど、面倒臭くて無理♪
どうか、これからもずっと私で得られる「満足」に執着しつづけてくださいね、那智さん♪
あとのスケジュールが詰まっていて、ちょっとそちらに気を取られていたから、なんだか満足度が低かった。
那智さんに、そんなふうに言われたことがある。
「射精欲」ではないようで(しているし!)、「りん子に集中できなかった」から満足できなかったそうです。
何年かの付き合いで、そう感じたことはその時くらいというほど、めずらしいことらしい。
時間的に余裕のないときは何度もある。
精神的に弱っているときもあった。
でも、その時々でも「りん子に集中」はしてくれていたようで、その不満足感はめずらしい。
満足度が低いことは残念だけど、私としては嬉しいこと。
だって、逆を返せば、ほとんどの場合私に集中してくれていることになるからだ。
それにしても、毎回毎回面倒臭いことをして、手間暇掛けて、いろんなことを飽きもせず続けられるのは、なぜだろう。
男の人は「射精」する瞬間がとっても気持ち良いのですよね。
だとするならば、そんな面倒なことをしなくても、とっても気持ち良いことは味わえるはずなのだ。
それでも、「集中」を求め続ける。
そこから得られる感情を、私は想像できない。
「こんな私やあんな私を見ていて、どんな気分になるのですか?」
と聞いてみると「満足」と返ってくる。
その一言では、想像できないほどの何かがなくては、あんなに大変なことできないと思うのだ。
何があるのでしょう。
きっと私には一生わからないこと。
味わってみたいと思うけど、面倒臭くて無理♪
どうか、これからもずっと私で得られる「満足」に執着しつづけてくださいね、那智さん♪
那智さんのいる日常
独特な幸福感
那智さんと付き合って数ヶ月の頃、はじめて一晩共にできる機会に恵まれたときがあった。
早朝に別れないといけないから、旅行とは違う。
まさに「一晩を共にする」。
それでも、それまでで一番長い時間一緒にいられることになる。
付き合って数ヶ月。
すでに「白旗も上げて」「父性の毛布」にも包んでもらった(詳しくは「惹かれ合う理由」に)あととはいえ、いまのように「離れているのが不自然」なんて思えるほど深い付き合いにはなっていないから、長い時間一緒にいるのは、嬉しい反面、不安もある。
一晩一緒にいたらお互いの嫌な部分が見えてしまったなんてことになってしまうかもしれないと、ちょっと不安。
那智さんは、この時点で「深い」と認識していたかもしれないけれど(今の方がもっと深いですよ♪)、私はまだいままでの悪い癖が抜け切れておらず「嫌われちゃうかも」なんて、不安もあった。
それでも、やっぱり嬉しくてお仕事場に向かう。
お泊まりの場所はあらかじめ予約してある。
でも、そこに向かう前に、やっぱりデートもしなくちゃね。
電車で移動しながら、途中で下車してカップル喫茶へ。
はじめてのカップル喫茶体験はドキドキハラハラ、やきもちも焼いて短い時間だったけど、疲れた~って感じでした(「非日常的な日常」の「嫉妬の効用1」に詳しいことは書いてあります)。
めくるめく空間から逃れて、再び電車に乗って目的地へ。
私は、普段から電車の揺れが苦手で、つり革につかまっていてもヨロヨロしてしまうのです。
ちょうどつり革のないあたりに立って電車に揺られていると、バランスを保つのが大変で那智さんにつかまってなんとかよろけずにいられるというくらい、足腰が弱い(?)。
「なんで、そんなにヨロヨロなの?」苦笑いしながらも、腕を貸してくれるその状態も幸せ。
足腰弱いのも悪くない♪と思える瞬間。
お泊まり場所の最寄り駅に着いても、そう簡単にチェックインはさせてくれない。
駅のトイレで自分で入れてくるように、いちじく浣腸を渡される。
途中でおもらししても大丈夫なように、紙おむつも一緒に。
トイレの中の「あたふた」は、恥ずかしいから省略させてね(今更恥ずかしいなんて!?)
お泊まり場所まで歩けない距離ではない、でも、ちょっと遠い、タクシーならワンメーターですぐ着く。
さあ、ここで二択です。
あなたなら、どちらを選ぶでしょう。
ひとつは、タクシーに乗って急いでチェックインをしてしまう。
リスクは、タクシーの中で我慢できなくなることだ。
タクシーの閉ざされた空間の中、運転手さんのいるところで排泄をすることになる。
音や臭いがもれて勘付かれてしまうかもしれない。(後にわかることですが、最近の紙おむつは優秀で臭いはかなり防げるものです。・・・なぜ介護もしていないのに、それを知っているかは、またまた後日)
もうひとつは、歩いて向かう。
外なので雑音もあるから、余程のことがないかぎり、他人に知られることはないだろう。
挙動不審にさえならなけらば(笑)
ただ、かなり高い確率でチェックインまで、我慢することができないだろう。
おむつの中に排泄をしたまま歩き、チェックインをしなければならない。
私は、前者を選んだ。
タクシーの中で腹痛を起こすが、なんとか部屋に入るまで我慢できた。
(しばらく排泄話はやめようと言っていました。えっとだから、これは排泄話とは思わないでくださいね!お泊まりのお話の流れで・・・言い訳)
実は、そのときどんな風に抱かれたかはっきりとは覚えていないのです。
それより覚えているのは、お腹空いたからってルームサービスでソーセージの盛り合わせを頼んで、ビールと一緒に食べたこと、那智さんが食べやすい大きさに切ってくれたことや、一緒にシャワーを浴びながら「りん子は化粧が下手、化粧をとったほうがきれいなんておかしい。それは化粧が下手な証拠。」なんて、誉められてるのかけなされているのかわからない会話をして、甘えて「しゅん」ってしたこと、そんな他愛もないことばかりなのだ。
はじめて長い時間一緒にいる危惧など、まったく感じさせることなく、側にいる心地よさに浸る思い出ばかりなのだ。
事情があって、那智さんが先にチェックアウトをした。
私もウトウトと仮眠をとって、続けてホテルをあとにした。
まだ、早朝の澄んだ空気の中に1人で立つ。
なぜか、涙が止まらない。
1人でいることが、こんなにも心許ないなんて知らなかった。
ひとりが淋しくてしかたがない。
いままでだって、ひとりでいたはずだ(別に天涯孤独と言っているわけじゃありませんよ。いろんな人と関わりもあって支えられてもいましたけどね、迷子の部分ね)
でも、私は那智さんといる安堵を知ってしまったから、いままで立っていたことが「必死」だったことに気付いてしまったのだ。
どうしよう、それを知ってしまった私は、もう元の健気な私に戻れない。
それでも、私は大人だ。
今日も明日も、ひとりで立たなければいけない。
心は那智さんが支えてくれているではないか。
だから、実際は日常は私の二本の足で立っていられるだろう(足腰弱いけど)。
その時の私は感傷的で、心の支えだけじゃなく、贅沢にも「いま1人」さえも心許なく涙してしまったのだ。
一緒にいる安心を長い時間一緒にいることで、はからずも確認してしまった私はいまこの朝だけは、感傷的な贅沢な涙を流すことを許したい。
まだ朝早い、昨晩タクシーで通った道を、人通りがほとんどないことをいいことに涙を流して歩く。
そのうち駅に着く。
そろそろ電車が動き出すころだろう。
それと同じくして、私は泣くのをおしまいにしよう。
数時間したら、那智さんがまた「おはよう」ってメールをくれるはずだ。
私には那智さんがいてくれる。
24時間側にいられるわけじゃないけれど、できる限り安心を与えてくれている。
だから、私は「必死」にならずに立っていられるのだ。
那智さんはいつも「悲しい涙も最終的に幸せの涙に変えよう」って手伝ってくれる。
感傷的な涙をいつまでも流すのは、那智さんの本意ではないだろう。
涙を拭いて、深呼吸をして、始発電車に乗って私は那智さんのいる日常に戻っていく。
那智さんと付き合って数ヶ月の頃、はじめて一晩共にできる機会に恵まれたときがあった。
早朝に別れないといけないから、旅行とは違う。
まさに「一晩を共にする」。
それでも、それまでで一番長い時間一緒にいられることになる。
付き合って数ヶ月。
すでに「白旗も上げて」「父性の毛布」にも包んでもらった(詳しくは「惹かれ合う理由」に)あととはいえ、いまのように「離れているのが不自然」なんて思えるほど深い付き合いにはなっていないから、長い時間一緒にいるのは、嬉しい反面、不安もある。
一晩一緒にいたらお互いの嫌な部分が見えてしまったなんてことになってしまうかもしれないと、ちょっと不安。
那智さんは、この時点で「深い」と認識していたかもしれないけれど(今の方がもっと深いですよ♪)、私はまだいままでの悪い癖が抜け切れておらず「嫌われちゃうかも」なんて、不安もあった。
それでも、やっぱり嬉しくてお仕事場に向かう。
お泊まりの場所はあらかじめ予約してある。
でも、そこに向かう前に、やっぱりデートもしなくちゃね。
電車で移動しながら、途中で下車してカップル喫茶へ。
はじめてのカップル喫茶体験はドキドキハラハラ、やきもちも焼いて短い時間だったけど、疲れた~って感じでした(「非日常的な日常」の「嫉妬の効用1」に詳しいことは書いてあります)。
めくるめく空間から逃れて、再び電車に乗って目的地へ。
私は、普段から電車の揺れが苦手で、つり革につかまっていてもヨロヨロしてしまうのです。
ちょうどつり革のないあたりに立って電車に揺られていると、バランスを保つのが大変で那智さんにつかまってなんとかよろけずにいられるというくらい、足腰が弱い(?)。
「なんで、そんなにヨロヨロなの?」苦笑いしながらも、腕を貸してくれるその状態も幸せ。
足腰弱いのも悪くない♪と思える瞬間。
お泊まり場所の最寄り駅に着いても、そう簡単にチェックインはさせてくれない。
駅のトイレで自分で入れてくるように、いちじく浣腸を渡される。
途中でおもらししても大丈夫なように、紙おむつも一緒に。
トイレの中の「あたふた」は、恥ずかしいから省略させてね(今更恥ずかしいなんて!?)
お泊まり場所まで歩けない距離ではない、でも、ちょっと遠い、タクシーならワンメーターですぐ着く。
さあ、ここで二択です。
あなたなら、どちらを選ぶでしょう。
ひとつは、タクシーに乗って急いでチェックインをしてしまう。
リスクは、タクシーの中で我慢できなくなることだ。
タクシーの閉ざされた空間の中、運転手さんのいるところで排泄をすることになる。
音や臭いがもれて勘付かれてしまうかもしれない。(後にわかることですが、最近の紙おむつは優秀で臭いはかなり防げるものです。・・・なぜ介護もしていないのに、それを知っているかは、またまた後日)
もうひとつは、歩いて向かう。
外なので雑音もあるから、余程のことがないかぎり、他人に知られることはないだろう。
挙動不審にさえならなけらば(笑)
ただ、かなり高い確率でチェックインまで、我慢することができないだろう。
おむつの中に排泄をしたまま歩き、チェックインをしなければならない。
私は、前者を選んだ。
タクシーの中で腹痛を起こすが、なんとか部屋に入るまで我慢できた。
(しばらく排泄話はやめようと言っていました。えっとだから、これは排泄話とは思わないでくださいね!お泊まりのお話の流れで・・・言い訳)
実は、そのときどんな風に抱かれたかはっきりとは覚えていないのです。
それより覚えているのは、お腹空いたからってルームサービスでソーセージの盛り合わせを頼んで、ビールと一緒に食べたこと、那智さんが食べやすい大きさに切ってくれたことや、一緒にシャワーを浴びながら「りん子は化粧が下手、化粧をとったほうがきれいなんておかしい。それは化粧が下手な証拠。」なんて、誉められてるのかけなされているのかわからない会話をして、甘えて「しゅん」ってしたこと、そんな他愛もないことばかりなのだ。
はじめて長い時間一緒にいる危惧など、まったく感じさせることなく、側にいる心地よさに浸る思い出ばかりなのだ。
事情があって、那智さんが先にチェックアウトをした。
私もウトウトと仮眠をとって、続けてホテルをあとにした。
まだ、早朝の澄んだ空気の中に1人で立つ。
なぜか、涙が止まらない。
1人でいることが、こんなにも心許ないなんて知らなかった。
ひとりが淋しくてしかたがない。
いままでだって、ひとりでいたはずだ(別に天涯孤独と言っているわけじゃありませんよ。いろんな人と関わりもあって支えられてもいましたけどね、迷子の部分ね)
でも、私は那智さんといる安堵を知ってしまったから、いままで立っていたことが「必死」だったことに気付いてしまったのだ。
どうしよう、それを知ってしまった私は、もう元の健気な私に戻れない。
それでも、私は大人だ。
今日も明日も、ひとりで立たなければいけない。
心は那智さんが支えてくれているではないか。
だから、実際は日常は私の二本の足で立っていられるだろう(足腰弱いけど)。
その時の私は感傷的で、心の支えだけじゃなく、贅沢にも「いま1人」さえも心許なく涙してしまったのだ。
一緒にいる安心を長い時間一緒にいることで、はからずも確認してしまった私はいまこの朝だけは、感傷的な贅沢な涙を流すことを許したい。
まだ朝早い、昨晩タクシーで通った道を、人通りがほとんどないことをいいことに涙を流して歩く。
そのうち駅に着く。
そろそろ電車が動き出すころだろう。
それと同じくして、私は泣くのをおしまいにしよう。
数時間したら、那智さんがまた「おはよう」ってメールをくれるはずだ。
私には那智さんがいてくれる。
24時間側にいられるわけじゃないけれど、できる限り安心を与えてくれている。
だから、私は「必死」にならずに立っていられるのだ。
那智さんはいつも「悲しい涙も最終的に幸せの涙に変えよう」って手伝ってくれる。
感傷的な涙をいつまでも流すのは、那智さんの本意ではないだろう。
涙を拭いて、深呼吸をして、始発電車に乗って私は那智さんのいる日常に戻っていく。