思考回路
りん子的独り言(生意気)
そのことだけで頭がいっぱいになってしまって、そのこと以外感情が湧かないようなこと。
思考停止になるみたいな感じ。
四つん這いでリードを引かれて外を歩いたとき、アスファルトとそこに付く自分の手と、時々視界に入る那智さんの靴以外何も脳みそになかった。
鞭で打たれるとき、たまに「痛い」だけの世界になる。
「痛いからやめて」とか「痛いのが気持ちいい」とか、そういう「痛い」にくっつく感情がなくなってしまって「痛い」しかない。
その脳みそにあるひとつの事柄から、感情や思考が枝分かれしていかないような状態。
これは、ちょっと「よいしょ」って気持ちを押さないと、その状態になれないとか快感や喜びにならないというようなとき、思考の回路を何本が切る。
これは、思考停止にするのだと思う。
マ○○で、床に四つん這いになって胸を触られて「誰か来ても続けるよ」と言われたとき、那智さんのその言葉で針は振れるんだけど、自分でも「えい」って回路を切る。
そうすると、あとは旋回しながら快感に堕ちていくことに身を任せることができる。
いつもいつもそうなるわけじゃなくて、だいたいは、堕ちたり昇ったりしながら、一部の私はそれを眺めている。
その姿に苦しくなったり、逆にそれに余計に興奮したりしている。
両手を吊られて鞭を打たれて、痛さのあまり体が反って思わずつま先立ちになるなんて姿を映像として眺め悦に入ったり(笑)
それはそれで気持ちいいし、あとから反芻して楽しめる^^
でも、思考停止状態も得難い状態だ。
私は、昔「多重人格」というのにとても興味を持った。
学術的な難しいものは読まなかったけど、それについてのノンフィクションはたくさん読んだ。
壮絶な虐待や心理的なショックで、新しい人格を誕生させてしまう。
その脳の不思議にとても惹かれてしまったのだ。
その新しい人格を作ってしまうのは「こんなつらい思いをしているのは、私じゃない」と思うからだそうだ。
愛してくれるはずの、大事にしてくれるはずの親(大人)から、こんな酷いことをされるのは誰か他の子で、私じゃないと思うことで、生き延びようとする脳の自衛手段なのだそうだ。
自分じゃないと、それを俯瞰しながら自分の脳は脳内にこもり別なことを考えたり、別な遊びをしたりして切り離してしまうところからはじまる。
弱い立場の生きる方法。
これは危険な逃げ道だと思う。
私たちMは、とても酷いことをされている。
もちろん愛されながら、それを望み感じているのだから、虐待とは違うけど。
でも、いまされている酷いことから気持ちを逃すために、「別なことを考える」という思考回路になるのは、危険だなと思う。
特にこれは精神的に酷いことをされている時に発生しやすいと思う(ほんとに痛かったら別なこと考えられない?)、気を紛らわす思考。
とてもつらいことの先に快感があるということも推測できるけど、「別なことを考える」時点でそれは傷付くことから逃れようとしていると、私は思う。
そして、なぜ紛らわしてまでそれを我慢してしまうのかという動機付けが、「Mだから、奴隷だから、我慢するべき」というものだと、つらさも増してしまうのではないかな。
Mの性癖は厄介で、そんな最中でも濡れてしまうかもしれないから、判断が難しいけどね。
いまのところ、そういう回路で我慢をしたことはないけど、あとからの判断材料として時々立ち止まってみる。(そこまで酷いことをされてないのかもしれませんが^^;)
だって、つらくても泣いても、それを私が喜んでいるなら他のことを考えてるなんて、もったいない(笑)
大好きな人が、私に向けて発してくれる酷いことの一部始終を脳で体で味わい尽くしたいと思うもの。
それだけでは、物足りずこうやってブログにしちゃってるのだもの^^
私のブログを読んでくださっている方の、どれくらいの人が、SでMでノーマルでそれ以外で、なのかな。
こういうお話しって、理解しにくいと思うけど、今日のは特にそんな感じです。
リスクを追ってまですることに「気を紛らわす」というような心理は相応しくないなと思うのでした。
そのことだけで頭がいっぱいになってしまって、そのこと以外感情が湧かないようなこと。
思考停止になるみたいな感じ。
四つん這いでリードを引かれて外を歩いたとき、アスファルトとそこに付く自分の手と、時々視界に入る那智さんの靴以外何も脳みそになかった。
鞭で打たれるとき、たまに「痛い」だけの世界になる。
「痛いからやめて」とか「痛いのが気持ちいい」とか、そういう「痛い」にくっつく感情がなくなってしまって「痛い」しかない。
その脳みそにあるひとつの事柄から、感情や思考が枝分かれしていかないような状態。
これは、ちょっと「よいしょ」って気持ちを押さないと、その状態になれないとか快感や喜びにならないというようなとき、思考の回路を何本が切る。
これは、思考停止にするのだと思う。
マ○○で、床に四つん這いになって胸を触られて「誰か来ても続けるよ」と言われたとき、那智さんのその言葉で針は振れるんだけど、自分でも「えい」って回路を切る。
そうすると、あとは旋回しながら快感に堕ちていくことに身を任せることができる。
いつもいつもそうなるわけじゃなくて、だいたいは、堕ちたり昇ったりしながら、一部の私はそれを眺めている。
その姿に苦しくなったり、逆にそれに余計に興奮したりしている。
両手を吊られて鞭を打たれて、痛さのあまり体が反って思わずつま先立ちになるなんて姿を映像として眺め悦に入ったり(笑)
それはそれで気持ちいいし、あとから反芻して楽しめる^^
でも、思考停止状態も得難い状態だ。
私は、昔「多重人格」というのにとても興味を持った。
学術的な難しいものは読まなかったけど、それについてのノンフィクションはたくさん読んだ。
壮絶な虐待や心理的なショックで、新しい人格を誕生させてしまう。
その脳の不思議にとても惹かれてしまったのだ。
その新しい人格を作ってしまうのは「こんなつらい思いをしているのは、私じゃない」と思うからだそうだ。
愛してくれるはずの、大事にしてくれるはずの親(大人)から、こんな酷いことをされるのは誰か他の子で、私じゃないと思うことで、生き延びようとする脳の自衛手段なのだそうだ。
自分じゃないと、それを俯瞰しながら自分の脳は脳内にこもり別なことを考えたり、別な遊びをしたりして切り離してしまうところからはじまる。
弱い立場の生きる方法。
これは危険な逃げ道だと思う。
私たちMは、とても酷いことをされている。
もちろん愛されながら、それを望み感じているのだから、虐待とは違うけど。
でも、いまされている酷いことから気持ちを逃すために、「別なことを考える」という思考回路になるのは、危険だなと思う。
特にこれは精神的に酷いことをされている時に発生しやすいと思う(ほんとに痛かったら別なこと考えられない?)、気を紛らわす思考。
とてもつらいことの先に快感があるということも推測できるけど、「別なことを考える」時点でそれは傷付くことから逃れようとしていると、私は思う。
そして、なぜ紛らわしてまでそれを我慢してしまうのかという動機付けが、「Mだから、奴隷だから、我慢するべき」というものだと、つらさも増してしまうのではないかな。
Mの性癖は厄介で、そんな最中でも濡れてしまうかもしれないから、判断が難しいけどね。
いまのところ、そういう回路で我慢をしたことはないけど、あとからの判断材料として時々立ち止まってみる。(そこまで酷いことをされてないのかもしれませんが^^;)
だって、つらくても泣いても、それを私が喜んでいるなら他のことを考えてるなんて、もったいない(笑)
大好きな人が、私に向けて発してくれる酷いことの一部始終を脳で体で味わい尽くしたいと思うもの。
それだけでは、物足りずこうやってブログにしちゃってるのだもの^^
私のブログを読んでくださっている方の、どれくらいの人が、SでMでノーマルでそれ以外で、なのかな。
こういうお話しって、理解しにくいと思うけど、今日のは特にそんな感じです。
リスクを追ってまですることに「気を紛らわす」というような心理は相応しくないなと思うのでした。
なんて呼ぼう?
りん子的独り言(生意気)
ご主人様と奴隷とか主従関係とかSとかMとか。
名前が付いているのはいいなと思う。
特にブログを書いていると、そう思う。
なぜって、名前が付いているということは、多少の差異はあれカテゴライズされているわけで、そのカテゴリーの中ではわかりやすいし訴え掛けやすい。
名前が付いていればその型があるはずで、その型に沿って書けばいい、「こうあるべきだ」ということに則って書くのは安心する。
何より「名前」が付いてその型にはまっているということは、私のような小心者には落ち着くことだ。
「奴隷だから○○しちゃいけない」
「主の命令は絶対」
こうあるべきという決まり事。
その通りにできれば「喜び」を書けるし、そこから外れれば「反省」を書けばいい。
名前が決まっていない私たちは、その決まり事から書かないと「ブログとして公開する」には伝わりにくいように思う。
(伝わってない?そもそもそんな考えることない!?…結論なしであれこれ考えるのが好きなので…^^;)
SM?恋愛?お父さんと娘?
「あなたが私を尊重して」とお腹を見せて寝転がるくせに、ほんの少しでもぶれると「それはどういうこと?」とたてついて納得するまで引き下がらない^^;
那智さんより、私のほうがずっと「主従関係」に憧れがあるみたいで、従いたいと望んでいるのに、たてつく^^;
那智さんも闇雲に従わせようとしないから、ちっともご主人様然としてない(ほんにんご主人様は好きじゃない)
なんて命名したらいいんだろ?
「素直でいる」ということと「嘘はつかない」という以外ほとんど決まり事のない私たち。
唯一と言っていい細かい決まり事は「オナニーをするときには宣言と報告をする」ということ。
それも、ご主人様の命令のような絶対服従の厳格な感じではなくて、「そのほうがおもしろいから」という那智さんのモチベーション(笑)
ある日、私はその約束を破った。
那智さんの事情でめずらしく那智さんの心に余裕がなかったときの「腹いせ」に。
「したい」のではなく「してしまえ」。
それをすると決めたときは嘘つけると思うのだ。
嘘ついてみせると思う。
でも、実際すると、もう後悔。
その後悔とは、命令に背いちゃいけないとか約束を破ったからお仕置きで酷いめに遭うというのじゃないの。
私はもともとオナニーをすることに罪悪感を持っているから、那智さんに伝えることが免罪符になっている。
だから、報告しないと自分を許せずに、ちょっと傷付くのだ(大げさだけどね)。
そして、何より「大好きな大切な人との約束を破って嘘を付いている」苦しさで後悔してしまう。
男の人を「ぬるま湯」に浸らせて甘えさせ上手な私は、たくさん男の人に嘘をついてきた。
心の中で「あっかんべー」ってしてることを隠してた。
それが那智さんと、「嘘をつかない」関係を築いてその心地よさを知って、それを築いてくれた人を裏切る心苦しさも知る。
そして、那智さんが私に対して築いてくれた「りん子への信頼」を崩す怖さ。
だから、やっぱり嘘はつけない。正直に話す。
ごめんなさいと思う気持ちだけで、怖いとは思わない。
だって、那智さんは怒らないから。(ほんとうに怒るべきときは怒るでしょうけど)
「いけない子だ」とだけ言って、理由を聞く。
理由を聞いて、「それは俺にも原因があるな。そうさせてしまったことは謝る。でも、それと約束を破ったことは別だね。」そう言って話し合う時間を持ってくれる。
だから、私は「この人には嘘をつきたくない」と思うのだ。
理由を聞かずに怒られて、痛い思いをさせられたら、そのうち隠れてするだけだ。
子供と同じ。
あれ、じゃあ、お父さんと娘?
主従について話していたときのこと、那智さんは「従わせたいとは思わない」と言う。
従いたい欲が強い私は、物足りなくて食い下がる。
そうすると、「じゃあ、満足するような言い方してあげるね、『従うのが当たり前』(笑)」
きゃうん♪そういう言い方好きです〜。
「納得いくまで話し合って出した結論にりん子が従うのは当たり前、俺はそれに責任を取るという方法で従ってるだけ」(ああ、またりん子フィルター、那智さんかっこいい^^)
闇雲に「従う」じゃないから、主従じゃないと思うのだけど、これって一般的には主従なの!?
やっぱり命名できない^^;
でも、ほんとはそれはどうでもいいこと。
大切なのは、相手の幸せを互いに願いふたりが心地よい関係でいるということ。
それには、名前なんて、ほんとはいらないんだよね。
いやいや、ブログ書いてて「ご主人様ぁ」ってできるほうがかわいいし安心するなし、逆に「生意気M女」的なのもかっこいいよね〜でもそれほど自立してないし、…どれでもないから「何?わたし」って思ってつい書いてしまったのです。
単に「すぐぐずる女」!?…その女を相手してる人との関係を一般的にはなんて呼ぶんだろ??
ご主人様と奴隷とか主従関係とかSとかMとか。
名前が付いているのはいいなと思う。
特にブログを書いていると、そう思う。
なぜって、名前が付いているということは、多少の差異はあれカテゴライズされているわけで、そのカテゴリーの中ではわかりやすいし訴え掛けやすい。
名前が付いていればその型があるはずで、その型に沿って書けばいい、「こうあるべきだ」ということに則って書くのは安心する。
何より「名前」が付いてその型にはまっているということは、私のような小心者には落ち着くことだ。
「奴隷だから○○しちゃいけない」
「主の命令は絶対」
こうあるべきという決まり事。
その通りにできれば「喜び」を書けるし、そこから外れれば「反省」を書けばいい。
名前が決まっていない私たちは、その決まり事から書かないと「ブログとして公開する」には伝わりにくいように思う。
(伝わってない?そもそもそんな考えることない!?…結論なしであれこれ考えるのが好きなので…^^;)
SM?恋愛?お父さんと娘?
「あなたが私を尊重して」とお腹を見せて寝転がるくせに、ほんの少しでもぶれると「それはどういうこと?」とたてついて納得するまで引き下がらない^^;
那智さんより、私のほうがずっと「主従関係」に憧れがあるみたいで、従いたいと望んでいるのに、たてつく^^;
那智さんも闇雲に従わせようとしないから、ちっともご主人様然としてない(ほんにんご主人様は好きじゃない)
なんて命名したらいいんだろ?
「素直でいる」ということと「嘘はつかない」という以外ほとんど決まり事のない私たち。
唯一と言っていい細かい決まり事は「オナニーをするときには宣言と報告をする」ということ。
それも、ご主人様の命令のような絶対服従の厳格な感じではなくて、「そのほうがおもしろいから」という那智さんのモチベーション(笑)
ある日、私はその約束を破った。
那智さんの事情でめずらしく那智さんの心に余裕がなかったときの「腹いせ」に。
「したい」のではなく「してしまえ」。
それをすると決めたときは嘘つけると思うのだ。
嘘ついてみせると思う。
でも、実際すると、もう後悔。
その後悔とは、命令に背いちゃいけないとか約束を破ったからお仕置きで酷いめに遭うというのじゃないの。
私はもともとオナニーをすることに罪悪感を持っているから、那智さんに伝えることが免罪符になっている。
だから、報告しないと自分を許せずに、ちょっと傷付くのだ(大げさだけどね)。
そして、何より「大好きな大切な人との約束を破って嘘を付いている」苦しさで後悔してしまう。
男の人を「ぬるま湯」に浸らせて甘えさせ上手な私は、たくさん男の人に嘘をついてきた。
心の中で「あっかんべー」ってしてることを隠してた。
それが那智さんと、「嘘をつかない」関係を築いてその心地よさを知って、それを築いてくれた人を裏切る心苦しさも知る。
そして、那智さんが私に対して築いてくれた「りん子への信頼」を崩す怖さ。
だから、やっぱり嘘はつけない。正直に話す。
ごめんなさいと思う気持ちだけで、怖いとは思わない。
だって、那智さんは怒らないから。(ほんとうに怒るべきときは怒るでしょうけど)
「いけない子だ」とだけ言って、理由を聞く。
理由を聞いて、「それは俺にも原因があるな。そうさせてしまったことは謝る。でも、それと約束を破ったことは別だね。」そう言って話し合う時間を持ってくれる。
だから、私は「この人には嘘をつきたくない」と思うのだ。
理由を聞かずに怒られて、痛い思いをさせられたら、そのうち隠れてするだけだ。
子供と同じ。
あれ、じゃあ、お父さんと娘?
主従について話していたときのこと、那智さんは「従わせたいとは思わない」と言う。
従いたい欲が強い私は、物足りなくて食い下がる。
そうすると、「じゃあ、満足するような言い方してあげるね、『従うのが当たり前』(笑)」
きゃうん♪そういう言い方好きです〜。
「納得いくまで話し合って出した結論にりん子が従うのは当たり前、俺はそれに責任を取るという方法で従ってるだけ」(ああ、またりん子フィルター、那智さんかっこいい^^)
闇雲に「従う」じゃないから、主従じゃないと思うのだけど、これって一般的には主従なの!?
やっぱり命名できない^^;
でも、ほんとはそれはどうでもいいこと。
大切なのは、相手の幸せを互いに願いふたりが心地よい関係でいるということ。
それには、名前なんて、ほんとはいらないんだよね。
いやいや、ブログ書いてて「ご主人様ぁ」ってできるほうがかわいいし安心するなし、逆に「生意気M女」的なのもかっこいいよね〜でもそれほど自立してないし、…どれでもないから「何?わたし」って思ってつい書いてしまったのです。
単に「すぐぐずる女」!?…その女を相手してる人との関係を一般的にはなんて呼ぶんだろ??
M女余り?
りん子的独り言(生意気)
SMって、サディストとマゾヒストのSとMですよね。
それぞれ小説家の名前から由来してることは知られていますが、その加虐と被虐で性的興奮を覚える性癖がサディズムとマゾヒズムと名付けられた当初から比べたら、いまの日本で一般的に使われているSMって様変わりしちゃっていると思うのです。
時々わたしがブログの中で書いてる「性癖M」と「性格M」。
これのね、性癖MがそもそものMなんだろうな。
それでも、サド侯爵の話に比べたら、いまわたしたちが使っている被虐で興奮する内容も変化してると思うけど、広く性癖としてのMが、それなんだと思う。
O嬢のように、選択の余地なく鞭で打たれ、焼印をされる。
これに興奮する。
でも、その「有無を言わせず」という部分が「服従」という種類の言葉で表されて、わたしたちはS=支配する人、M=支配される人と認識するようになっている?
もちろん、あり得ない苦痛により快感を覚え、その快感によって支配されてしまうとも言えるけど、なんていうのかな「なんでも言うことを聞く人」ってすり替わってる感じがする。
そうすると、わたしのように「性格M」を強く持ってる女は、なんでも言うことを聞きたい、支配されたいと、これをM願望と思い、叶うのかもしれないと相手を探す。
わたしは、性癖も性格もMだと思ってる。
これね、微妙にリンクしてるよね。
どちらかだけって人もいるでしょうけど、多分、両方持ってる人が多いと思う、どちらかに比重が掛かってて千差万別だろう。
でね、「誰かに従いたい」「跪ける存在がほしい」そう思う性格Mは、SM的な行為の中で有無を言わせない圧倒的な存在を確認しようと、一歩踏み出すところがあると思うの。
恥ずかしいけど従うしかない。
痛いけど言う通りにする。
性癖もリンクしてるから、それで濡れる。
SMの行為の中で、その被虐願望と従いたい願望が満たされれば、問題ない。
でも、わたし自身について言えば、その性格Mはね、底なし。(怖いのよ〜)
基本的に「誰かに従いたい」なんて思うこと自体、自分の土台がしっかりしてない自律できてない女なので、性的な行いだけ「従う」だけじゃ、根本的に満たされない。
最初はSMとして、プレイの中で「従う」ことで満足できると思っているけど、ほんとは違う穴を埋めたいのだと気付く。(自覚してない場合もある)
そうすると、ご主人様と名乗る人に、全人格を支配してもらって、導いてもらいたいと、底なしに渇望してしまうのだ。(ほんとはね、従って「褒めてもらいた い」っていうのが一番根底にあるんだな。だから、このタイプに奴隷ゆえの「無償の愛」なんてほんとは求めても、無理なの 笑)
で、結局何が言いたいかってね。
純粋に「加虐」と「被虐」を求めている者同士ならそれでいい。
でも、よく出会い系とかで「心も体も支配したい」なんて謳い文句で、エッチの場面で都合良く言うことをきく女性を求めていると、あなたに従いますなんてか わいいかわいいM女さんがやって来るかもしれないけど、それって、底なしに「満たして満たして」って浸食してくることになるように思うのです。
現代の日本のSMから想像する「支配したい」と「支配されたい」という思いには、温度差があるように思う。
「支配されたい欲」は、不安定な土台を全部含めて包み込んでほしいということの現れ。
でも、そんな面倒くさいことしてくれる人そんなにいないと思うから、満たしきれていないMはけっこういると思うのだ。(わたしは10年、彷徨ってた 笑 いまでもそんな簡単に支配なんて言葉使いたくないし)
だって、全人格を丸抱えにして女性を支配したなんて思って出会い系に登録してるS男性そんなにいないよね!?
だからね、いまの日本の一般的なSM観で見渡せば、深層部分で以外とM女余りだったりして!!…エッチな出会いでは圧倒的に女性不足だと思うけど、ここだけ逆転現象が起こってる!?なーんて思うのでした。
わたし自身も、底なしになり過ぎないように、一生懸命「客観視」の努力です^^
マルキ・ド・サドも「そんなつもりで加虐嗜好を書いたんじゃなかったんだけど…」なんて天国(地獄?)から思ってたりして^^
説明、難しいなぁ^^;
訳わかんないこと、言ってる?
こんな話をお酒のつまみにしながらだったら、楽しいだろうし、上手に伝えられるかもしれないな〜。
ここまで書いてアップして、改めてブログ巡りしてみると、わたしにはとてもできそうもないことをされている方々もたくさんいて、頭の下がる思いです。
満たして〜って底なしに浸食してるのは、わたしだけかもしれない!?
ちょっと反省。
でも、そういう女なので、しょうがない(笑)
SMって、サディストとマゾヒストのSとMですよね。
それぞれ小説家の名前から由来してることは知られていますが、その加虐と被虐で性的興奮を覚える性癖がサディズムとマゾヒズムと名付けられた当初から比べたら、いまの日本で一般的に使われているSMって様変わりしちゃっていると思うのです。
時々わたしがブログの中で書いてる「性癖M」と「性格M」。
これのね、性癖MがそもそものMなんだろうな。
それでも、サド侯爵の話に比べたら、いまわたしたちが使っている被虐で興奮する内容も変化してると思うけど、広く性癖としてのMが、それなんだと思う。
O嬢のように、選択の余地なく鞭で打たれ、焼印をされる。
これに興奮する。
でも、その「有無を言わせず」という部分が「服従」という種類の言葉で表されて、わたしたちはS=支配する人、M=支配される人と認識するようになっている?
もちろん、あり得ない苦痛により快感を覚え、その快感によって支配されてしまうとも言えるけど、なんていうのかな「なんでも言うことを聞く人」ってすり替わってる感じがする。
そうすると、わたしのように「性格M」を強く持ってる女は、なんでも言うことを聞きたい、支配されたいと、これをM願望と思い、叶うのかもしれないと相手を探す。
わたしは、性癖も性格もMだと思ってる。
これね、微妙にリンクしてるよね。
どちらかだけって人もいるでしょうけど、多分、両方持ってる人が多いと思う、どちらかに比重が掛かってて千差万別だろう。
でね、「誰かに従いたい」「跪ける存在がほしい」そう思う性格Mは、SM的な行為の中で有無を言わせない圧倒的な存在を確認しようと、一歩踏み出すところがあると思うの。
恥ずかしいけど従うしかない。
痛いけど言う通りにする。
性癖もリンクしてるから、それで濡れる。
SMの行為の中で、その被虐願望と従いたい願望が満たされれば、問題ない。
でも、わたし自身について言えば、その性格Mはね、底なし。(怖いのよ〜)
基本的に「誰かに従いたい」なんて思うこと自体、自分の土台がしっかりしてない自律できてない女なので、性的な行いだけ「従う」だけじゃ、根本的に満たされない。
最初はSMとして、プレイの中で「従う」ことで満足できると思っているけど、ほんとは違う穴を埋めたいのだと気付く。(自覚してない場合もある)
そうすると、ご主人様と名乗る人に、全人格を支配してもらって、導いてもらいたいと、底なしに渇望してしまうのだ。(ほんとはね、従って「褒めてもらいた い」っていうのが一番根底にあるんだな。だから、このタイプに奴隷ゆえの「無償の愛」なんてほんとは求めても、無理なの 笑)
で、結局何が言いたいかってね。
純粋に「加虐」と「被虐」を求めている者同士ならそれでいい。
でも、よく出会い系とかで「心も体も支配したい」なんて謳い文句で、エッチの場面で都合良く言うことをきく女性を求めていると、あなたに従いますなんてか わいいかわいいM女さんがやって来るかもしれないけど、それって、底なしに「満たして満たして」って浸食してくることになるように思うのです。
現代の日本のSMから想像する「支配したい」と「支配されたい」という思いには、温度差があるように思う。
「支配されたい欲」は、不安定な土台を全部含めて包み込んでほしいということの現れ。
でも、そんな面倒くさいことしてくれる人そんなにいないと思うから、満たしきれていないMはけっこういると思うのだ。(わたしは10年、彷徨ってた 笑 いまでもそんな簡単に支配なんて言葉使いたくないし)
だって、全人格を丸抱えにして女性を支配したなんて思って出会い系に登録してるS男性そんなにいないよね!?
だからね、いまの日本の一般的なSM観で見渡せば、深層部分で以外とM女余りだったりして!!…エッチな出会いでは圧倒的に女性不足だと思うけど、ここだけ逆転現象が起こってる!?なーんて思うのでした。
わたし自身も、底なしになり過ぎないように、一生懸命「客観視」の努力です^^
マルキ・ド・サドも「そんなつもりで加虐嗜好を書いたんじゃなかったんだけど…」なんて天国(地獄?)から思ってたりして^^
説明、難しいなぁ^^;
訳わかんないこと、言ってる?
こんな話をお酒のつまみにしながらだったら、楽しいだろうし、上手に伝えられるかもしれないな〜。
ここまで書いてアップして、改めてブログ巡りしてみると、わたしにはとてもできそうもないことをされている方々もたくさんいて、頭の下がる思いです。
満たして〜って底なしに浸食してるのは、わたしだけかもしれない!?
ちょっと反省。
でも、そういう女なので、しょうがない(笑)
秘訣
りん子的独り言(生意気)
男女のことを、かなり身勝手に書いてます、ツッコミどころ満載かと思いますが、大目に見てね。
それでも、良ければ続きをどうぞ〜。
ちょうど那智さんと出会ったころ、「岩月謙司さん」とも出会った。
何回かこのブログにも登場している岩月謙司さんの本には、わたしの心の問題と同じようなことが書かれていて、自分は「父性」を求めているのだと気付くきっかけとなった。
たくさんの著書を読み、目から鱗を落としながら「ああ、そうだったのね!」と納得したことがいくつかある。
ひとつは、女性には幼い頃の父親の適正な愛情が必要ということ。
溺愛ではない誠実な愛情を注ぐと、女の子は「私は愛されるに値する」と自信を持ち、その後の人生を伸び伸びと生き、その父親と同じ誠実な愛情溢れる男性と人生を共にできるということ。
逆に、幼い頃適正な愛情をもらえないと、自信が持てず、愛をくれなかった父親を心の奥底で憎み、それなのに父親と同じような男性を選んで不幸な恋愛を繰り返してしまう。
なぜ、憎んでる父親と似た男性ばかり選んでしまうかというと、愛情をくれないお父さんはいや、でも、それはお父さんが悪いんじゃない、わたしが悪いと思お うとする。だって、お父さんが悪いと否定してしまっては、もう愛をもらえないことが確定してしまうから。だから、女の子はお父さんを肯定して、悪いところ を無意識のうちに必死に好きになろうと努力する。その努力がずっと続いてしまって、父親の悪いところと同じもとのを持った男性を選んでしまうのです。
それほどまでに、生き死にに値するほど、女の子にとってお父さんの愛情は大事なものだということ。
ああ、わたしが幸せではない恋愛を繰り返していたのは、これだったのね!!とこれを知ったとき妙に納得してしまった。
もうひとつ、納得したのは。
「女性は心の交流のないセックスをすると傷付く」ということ。
岩月さんがいうのは、女性は「快を感じること」が大好きなのだそうだ。
おいしい、気持ち良い、心地良い、幸せ、などなど。
だから、男性と触れ合うにも心地良くないといけない。
その心地良さは「心の交流」から生まれる。
ポスターの猫を撫でていても全然嬉しくないけど、自分の膝の上でごろごろと喉を鳴らしている猫を撫でるのは、こちらまで気持ち良くてずっと続けていたいと思うでしょう。
それは、快適な心の交流があるから。
幼い頃お父さんの膝の上に座って、いつまでも甘えていたような、そんな心地良さを求めている。
だからね、女性は別に男性とセックスをしなくてもいいのだそうだ。
あれは、女性にとって愛情を注いでもらう行為。
だから、愛情のないセックスは、傷付く。
これは、感覚的なことだから、根拠はない。
でも、岩月さんの言っていることと、わたしの経験から、この場では断言しちゃう。
心の交流のない、大切にされない、セックスは女を傷付ける。
それは、妊娠とか会って間もない危険性から来る「怖い気持ち」のような目に見える負だけじゃない。
なんとも言えない、嫌な傷になるのだ。
心に溶かした鉛を注がれ、それが固まり心に重く暗くのしかかる闇を抱えるような「負」。
「1回くらい減るもんじゃない」と男性は言うかもしれないけど、女性の場合は「減る」のだ。
別に体の一部が減るわけじゃないけど、確実に心は消耗するのだ。
大事な大事な「純情」やら「女の子」やら、とにかく女性が持っていないと生きて行けないようなものを擦り減らすのだ。
傷付くなんて生易しいものじゃなくて、死活問題といってもいい。
でも、父親からその心地良さをもらえなかった女性は、わからないから彷徨う。
セックスアピールをして引っ掛かる男性に口説かれベッドに入る、そこまでは「しめしめ(心で舌を出してるよね)」と思ったり「必要とされたい」と逆に必死だったり、でも、いざセックスが始まるととにかく早く終わってほしいと思う。
わたしにとってセックスというのは、そういうものだと自分を納得させるけど、数日後訳もなく物悲しくなる。
で、また、必要とされたいと必死になる。
那智さんと知り合って、大切にされながら抱かれることを知り(大切にされながら、酷いこと 笑)、はじめて、いままでのセックスは愛情がなく、あの物悲しさは「傷」だったのだと気付いたのだ。
ずいぶんと彷徨った。
でも、気付くことで救われた。
なぜこんな長ったらしく書いてるかというと。
いま、わたしは「出会い系」というもの、それを使って「その時だけエッチしよう」としてる男性に対して、ちょっと怒ってるの。
メールをくださる方が「出会い系」で嫌な思いをしたことをお話ししてくれた。
男性が全部そうだとは思わないし、男女の出会いややり取りに於いて、大人なんだからどちらにも責任があることはわかってる。
でも、セックスをする場面では、絶対に女性は不利なのです。
危険性以前に、この消耗する性を持っているというだけで、充分労られないといけないの、女の子は。
心の交流のないセックスをすることは女性にとって死活問題だということを男性は知らない。
そして、当の女性も知らないことが多い。
だから、ほんとは、出会い系なんてシステムからは幸せは生まれにくいんだ。
世の中に「やりマン」も「させ子」もいないの。(この言葉打つだけで、いや)
ハプバーなんてところも危険、女の子が傷付く可能性が高い場所。
じゃあ、そんなのに手を出さなきゃいいと思うけど、これは自覚するのが難しい。
わたしもずっとわからなくて、もがいて、やっとわかったのだもの。
だけど、「傷付く」んだと、知ることは大事なことだと思う。
だからね、女性は気が付こう。
愛のないセックスは心を擦り減らす。
抱かれた後、物悲しく満たされず、もっと何かを求めてしまうのは、それは傷付いているからだ。
そして、誰でも持っている(とわたしは思ってる)「心の中の女の子」を抱きしめて、いい子いい子してあげよう。
自分を大切にして、自分に優しくしてあげて。
ガーターベルトのお話を書いてて思ったのだけど、男性はきっと「手を掛けてる」女性は好き。
ネイルアートやキャバクラ嬢が派手に着飾るのも、そのひとつかなと思った。
ネイルアートそのものは好きというより、手を掛けてる=わたしはわたしを大事にしてますということが好きなんじゃないかと。
それは、きっと自分の子孫を残すのに、「自分を大事にしてる女性」に魅力を感じる遺伝子レベルのことなんじゃないかなと、思ったのです。
だからね、お金を賭けるとか着飾れっていうのじゃなくて、自分を大切にしてあげると女性は幸せになれるんじゃないかなと思うのです。
出会い系を否定はしない。
わたしだって、那智さんとはそれで出会った。
危険性は付きまとう、心も消耗する、それならせめて「自分を大切にする」気持ちだけは持っていよう、そして、素敵な出会いに繋げよう。
ふう、長いですね〜。
全然簡潔に書けない^^;
それなのに、ここまで読んでくださって、ありがとう。
特に男性の方は、あまり良い気分じゃなかったですよね。
わたしの書いてることで、出会い系もハプバーも楽しめなくなったなんて方いらっしゃらないとは思いますが(笑)
わたしなりの「男性が幸せを感じられる」方法もお披露目しますね。
また、その岩月氏の話なのですが。
女性は心地良いことが大好きと書きましたよね。
それで、その女性というものは「心地良い愛情をくれた男性」をとても大好きになります。
その男性を素敵と思い、その男性を支え応援したくなります。
「あなたといるととても幸せ、あたなはとても魅力的でわたしはあなたをいつも肯定します」と自然と思うのです。
で、男性というものは、肯定され応援されると、ますますその女性を慈しみ、愛情を注ぎたいと思うのです。
そうすると、女性はもっと、男性を励ます。
こうやって、幸せのスパイラルが出来上がるのですね。
男性が心地良く幸せにになるためには、釣った魚に餌をあげるのです。(物品じゃなくていいの、可愛がるのね)
そうすると女性はもっとあなたを肯定して、あなたは、もっと幸せになれるというわけです。
男は女を「可愛がる」
女は男に「可愛がらせたいと思わせる」(自分を大切にするのね)
だから、女は自分の「女の子」を撫で撫でして、男は女を「いい子いい子」してあげるのです^^
そうすると、その場だけの快感なんかより、もっとずっと気持ちいいことが得られるのです。
ずいぶん身勝手なこと書きましたね。
でも、世の女性が心地良く幸せになれますように。
そしたら、きっと男性も幸せになるんだ。
そうそう、「心地良くさせる」って、バイブ買いに行っちゃいけませんよ(笑)
男女のことを、かなり身勝手に書いてます、ツッコミどころ満載かと思いますが、大目に見てね。
それでも、良ければ続きをどうぞ〜。
ちょうど那智さんと出会ったころ、「岩月謙司さん」とも出会った。
何回かこのブログにも登場している岩月謙司さんの本には、わたしの心の問題と同じようなことが書かれていて、自分は「父性」を求めているのだと気付くきっかけとなった。
たくさんの著書を読み、目から鱗を落としながら「ああ、そうだったのね!」と納得したことがいくつかある。
ひとつは、女性には幼い頃の父親の適正な愛情が必要ということ。
溺愛ではない誠実な愛情を注ぐと、女の子は「私は愛されるに値する」と自信を持ち、その後の人生を伸び伸びと生き、その父親と同じ誠実な愛情溢れる男性と人生を共にできるということ。
逆に、幼い頃適正な愛情をもらえないと、自信が持てず、愛をくれなかった父親を心の奥底で憎み、それなのに父親と同じような男性を選んで不幸な恋愛を繰り返してしまう。
なぜ、憎んでる父親と似た男性ばかり選んでしまうかというと、愛情をくれないお父さんはいや、でも、それはお父さんが悪いんじゃない、わたしが悪いと思お うとする。だって、お父さんが悪いと否定してしまっては、もう愛をもらえないことが確定してしまうから。だから、女の子はお父さんを肯定して、悪いところ を無意識のうちに必死に好きになろうと努力する。その努力がずっと続いてしまって、父親の悪いところと同じもとのを持った男性を選んでしまうのです。
それほどまでに、生き死にに値するほど、女の子にとってお父さんの愛情は大事なものだということ。
ああ、わたしが幸せではない恋愛を繰り返していたのは、これだったのね!!とこれを知ったとき妙に納得してしまった。
もうひとつ、納得したのは。
「女性は心の交流のないセックスをすると傷付く」ということ。
岩月さんがいうのは、女性は「快を感じること」が大好きなのだそうだ。
おいしい、気持ち良い、心地良い、幸せ、などなど。
だから、男性と触れ合うにも心地良くないといけない。
その心地良さは「心の交流」から生まれる。
ポスターの猫を撫でていても全然嬉しくないけど、自分の膝の上でごろごろと喉を鳴らしている猫を撫でるのは、こちらまで気持ち良くてずっと続けていたいと思うでしょう。
それは、快適な心の交流があるから。
幼い頃お父さんの膝の上に座って、いつまでも甘えていたような、そんな心地良さを求めている。
だからね、女性は別に男性とセックスをしなくてもいいのだそうだ。
あれは、女性にとって愛情を注いでもらう行為。
だから、愛情のないセックスは、傷付く。
これは、感覚的なことだから、根拠はない。
でも、岩月さんの言っていることと、わたしの経験から、この場では断言しちゃう。
心の交流のない、大切にされない、セックスは女を傷付ける。
それは、妊娠とか会って間もない危険性から来る「怖い気持ち」のような目に見える負だけじゃない。
なんとも言えない、嫌な傷になるのだ。
心に溶かした鉛を注がれ、それが固まり心に重く暗くのしかかる闇を抱えるような「負」。
「1回くらい減るもんじゃない」と男性は言うかもしれないけど、女性の場合は「減る」のだ。
別に体の一部が減るわけじゃないけど、確実に心は消耗するのだ。
大事な大事な「純情」やら「女の子」やら、とにかく女性が持っていないと生きて行けないようなものを擦り減らすのだ。
傷付くなんて生易しいものじゃなくて、死活問題といってもいい。
でも、父親からその心地良さをもらえなかった女性は、わからないから彷徨う。
セックスアピールをして引っ掛かる男性に口説かれベッドに入る、そこまでは「しめしめ(心で舌を出してるよね)」と思ったり「必要とされたい」と逆に必死だったり、でも、いざセックスが始まるととにかく早く終わってほしいと思う。
わたしにとってセックスというのは、そういうものだと自分を納得させるけど、数日後訳もなく物悲しくなる。
で、また、必要とされたいと必死になる。
那智さんと知り合って、大切にされながら抱かれることを知り(大切にされながら、酷いこと 笑)、はじめて、いままでのセックスは愛情がなく、あの物悲しさは「傷」だったのだと気付いたのだ。
ずいぶんと彷徨った。
でも、気付くことで救われた。
なぜこんな長ったらしく書いてるかというと。
いま、わたしは「出会い系」というもの、それを使って「その時だけエッチしよう」としてる男性に対して、ちょっと怒ってるの。
メールをくださる方が「出会い系」で嫌な思いをしたことをお話ししてくれた。
男性が全部そうだとは思わないし、男女の出会いややり取りに於いて、大人なんだからどちらにも責任があることはわかってる。
でも、セックスをする場面では、絶対に女性は不利なのです。
危険性以前に、この消耗する性を持っているというだけで、充分労られないといけないの、女の子は。
心の交流のないセックスをすることは女性にとって死活問題だということを男性は知らない。
そして、当の女性も知らないことが多い。
だから、ほんとは、出会い系なんてシステムからは幸せは生まれにくいんだ。
世の中に「やりマン」も「させ子」もいないの。(この言葉打つだけで、いや)
ハプバーなんてところも危険、女の子が傷付く可能性が高い場所。
じゃあ、そんなのに手を出さなきゃいいと思うけど、これは自覚するのが難しい。
わたしもずっとわからなくて、もがいて、やっとわかったのだもの。
だけど、「傷付く」んだと、知ることは大事なことだと思う。
だからね、女性は気が付こう。
愛のないセックスは心を擦り減らす。
抱かれた後、物悲しく満たされず、もっと何かを求めてしまうのは、それは傷付いているからだ。
そして、誰でも持っている(とわたしは思ってる)「心の中の女の子」を抱きしめて、いい子いい子してあげよう。
自分を大切にして、自分に優しくしてあげて。
ガーターベルトのお話を書いてて思ったのだけど、男性はきっと「手を掛けてる」女性は好き。
ネイルアートやキャバクラ嬢が派手に着飾るのも、そのひとつかなと思った。
ネイルアートそのものは好きというより、手を掛けてる=わたしはわたしを大事にしてますということが好きなんじゃないかと。
それは、きっと自分の子孫を残すのに、「自分を大事にしてる女性」に魅力を感じる遺伝子レベルのことなんじゃないかなと、思ったのです。
だからね、お金を賭けるとか着飾れっていうのじゃなくて、自分を大切にしてあげると女性は幸せになれるんじゃないかなと思うのです。
出会い系を否定はしない。
わたしだって、那智さんとはそれで出会った。
危険性は付きまとう、心も消耗する、それならせめて「自分を大切にする」気持ちだけは持っていよう、そして、素敵な出会いに繋げよう。
ふう、長いですね〜。
全然簡潔に書けない^^;
それなのに、ここまで読んでくださって、ありがとう。
特に男性の方は、あまり良い気分じゃなかったですよね。
わたしの書いてることで、出会い系もハプバーも楽しめなくなったなんて方いらっしゃらないとは思いますが(笑)
わたしなりの「男性が幸せを感じられる」方法もお披露目しますね。
また、その岩月氏の話なのですが。
女性は心地良いことが大好きと書きましたよね。
それで、その女性というものは「心地良い愛情をくれた男性」をとても大好きになります。
その男性を素敵と思い、その男性を支え応援したくなります。
「あなたといるととても幸せ、あたなはとても魅力的でわたしはあなたをいつも肯定します」と自然と思うのです。
で、男性というものは、肯定され応援されると、ますますその女性を慈しみ、愛情を注ぎたいと思うのです。
そうすると、女性はもっと、男性を励ます。
こうやって、幸せのスパイラルが出来上がるのですね。
男性が心地良く幸せにになるためには、釣った魚に餌をあげるのです。(物品じゃなくていいの、可愛がるのね)
そうすると女性はもっとあなたを肯定して、あなたは、もっと幸せになれるというわけです。
男は女を「可愛がる」
女は男に「可愛がらせたいと思わせる」(自分を大切にするのね)
だから、女は自分の「女の子」を撫で撫でして、男は女を「いい子いい子」してあげるのです^^
そうすると、その場だけの快感なんかより、もっとずっと気持ちいいことが得られるのです。
ずいぶん身勝手なこと書きましたね。
でも、世の女性が心地良く幸せになれますように。
そしたら、きっと男性も幸せになるんだ。
そうそう、「心地良くさせる」って、バイブ買いに行っちゃいけませんよ(笑)
わたしらしく^^
りん子的独り言(生意気)
「あれでおしまい?」って那智さんに言われてしまったけど、はい、あれでおしまいなんです^^;
「一緒にご飯」は半酔い状態で、しかも流れを練ることもなく(これはよくある 笑)書いたので、尻切れトンボになっちゃった?
うん、たしかに…、失礼しました!!
一緒ってことだけ書いたら満足しちゃった^^;
一応顛末をお話ししますと。
舌で掬って飲むのってとても時間がかかってね、ずいぶん体を折り曲げてお皿に顔を埋めていたな。(それでも2分くらいなのかな、必死なときってわからないよね)
最後にペロペロと2回くらい舐めてお皿をきれいにして、おしまい。
その後席を立ってフロアを出るときがとっても恥ずかしかった。(努めて平静を装うの^^)
こんな感じしか残ってないので、「一緒にご飯3」は書くことないかな〜と思ったので、尻切れのままおしまいにしました。
ああ、もしかしたら、わたしのことだから、これだけで長い1エントリー書けるかもしれない!?(笑)
フロアを出て階段を下るときに那智さんが下着に指を入れたら、濡れてた、とっても。
何にも性的なことしてなくて、こうなることに毎度驚いてしまう。
鞭で打っても、アスファルトの上を四つん這いで歩いても、それだけで濡れる。
「那智さんの足下の幸せ」なんて美しいこと言ってるけど、濡れるということは昂奮し性的な喜びを感じているのよね。(だから変態なのか!?)
松浦理英子さんの「犬身」はもう最後の数ページまできてます。
早く続きが読みたいと思いつつ、終わってしまうのがもったえなくてつい先延ばし(笑)
感想文苦手だから書けないけど、わたしがクローズアップしてる「犬になって可愛がられる」だけじゃないこといっぱいなので、そこだけ憧れて読むとつらいかもしれないです。
でも、どこか乾燥していていやな感じしないので、つらいといってもドロドロしたものじゃないけど。(ああ、やっぱり感想下手、しかも内容言わないほうがいいものね!?)
その中で、男女の間だけじゃなく、親子でも友達でも犬と人間でもすべての体の触れ合いには性的な萌芽が含まれているのではないか。
逆に、すべての性的快楽は親子の触れ合いに代表されるような原始的な快楽が基盤になっているのではないかというようなことが書かれていました。
柴門ふみさんも昔のエッセイで、ご自分のお子さん(赤ちゃん)との皮膚の接触は快感だとおっしゃってた。(これに気付くと子育てはちょっと楽になる!)
そうだよな〜と納得します。
性的なことで気持ちがいいということと、抱きしめられて気持ちいい、撫でられて気持ちいいということは根っこは同じ。
信頼し合う間での接触はどれも「快感」なのだろうな。
だから、足下で太腿に頭を寄せて、首筋を撫でられることは快楽なのだ。
ビンタだって、乳首をつねるのだって、信頼し合う接触!!
鞭もリードも間接的な接触にしちゃう。
濡れてもしかたない(笑)
それが、マ○○で人前だから良い?と言われると、もうそれは性癖です、すみませんとしか言えませんけど^^;
ということで、一緒にご飯はおしまいです。
いつも見切り発車、発車してからあわあわする。
いかにも、わたしらしい感じで…さあ、次何書こう^^
「あれでおしまい?」って那智さんに言われてしまったけど、はい、あれでおしまいなんです^^;
「一緒にご飯」は半酔い状態で、しかも流れを練ることもなく(これはよくある 笑)書いたので、尻切れトンボになっちゃった?
うん、たしかに…、失礼しました!!
一緒ってことだけ書いたら満足しちゃった^^;
一応顛末をお話ししますと。
舌で掬って飲むのってとても時間がかかってね、ずいぶん体を折り曲げてお皿に顔を埋めていたな。(それでも2分くらいなのかな、必死なときってわからないよね)
最後にペロペロと2回くらい舐めてお皿をきれいにして、おしまい。
その後席を立ってフロアを出るときがとっても恥ずかしかった。(努めて平静を装うの^^)
こんな感じしか残ってないので、「一緒にご飯3」は書くことないかな〜と思ったので、尻切れのままおしまいにしました。
ああ、もしかしたら、わたしのことだから、これだけで長い1エントリー書けるかもしれない!?(笑)
フロアを出て階段を下るときに那智さんが下着に指を入れたら、濡れてた、とっても。
何にも性的なことしてなくて、こうなることに毎度驚いてしまう。
鞭で打っても、アスファルトの上を四つん這いで歩いても、それだけで濡れる。
「那智さんの足下の幸せ」なんて美しいこと言ってるけど、濡れるということは昂奮し性的な喜びを感じているのよね。(だから変態なのか!?)
松浦理英子さんの「犬身」はもう最後の数ページまできてます。
早く続きが読みたいと思いつつ、終わってしまうのがもったえなくてつい先延ばし(笑)
感想文苦手だから書けないけど、わたしがクローズアップしてる「犬になって可愛がられる」だけじゃないこといっぱいなので、そこだけ憧れて読むとつらいかもしれないです。
でも、どこか乾燥していていやな感じしないので、つらいといってもドロドロしたものじゃないけど。(ああ、やっぱり感想下手、しかも内容言わないほうがいいものね!?)
その中で、男女の間だけじゃなく、親子でも友達でも犬と人間でもすべての体の触れ合いには性的な萌芽が含まれているのではないか。
逆に、すべての性的快楽は親子の触れ合いに代表されるような原始的な快楽が基盤になっているのではないかというようなことが書かれていました。
柴門ふみさんも昔のエッセイで、ご自分のお子さん(赤ちゃん)との皮膚の接触は快感だとおっしゃってた。(これに気付くと子育てはちょっと楽になる!)
そうだよな〜と納得します。
性的なことで気持ちがいいということと、抱きしめられて気持ちいい、撫でられて気持ちいいということは根っこは同じ。
信頼し合う間での接触はどれも「快感」なのだろうな。
だから、足下で太腿に頭を寄せて、首筋を撫でられることは快楽なのだ。
ビンタだって、乳首をつねるのだって、信頼し合う接触!!
鞭もリードも間接的な接触にしちゃう。
濡れてもしかたない(笑)
それが、マ○○で人前だから良い?と言われると、もうそれは性癖です、すみませんとしか言えませんけど^^;
ということで、一緒にご飯はおしまいです。
いつも見切り発車、発車してからあわあわする。
いかにも、わたしらしい感じで…さあ、次何書こう^^