思考回路
りん子的独り言(生意気)
そのことだけで頭がいっぱいになってしまって、そのこと以外感情が湧かないようなこと。
思考停止になるみたいな感じ。
四つん這いでリードを引かれて外を歩いたとき、アスファルトとそこに付く自分の手と、時々視界に入る那智さんの靴以外何も脳みそになかった。
鞭で打たれるとき、たまに「痛い」だけの世界になる。
「痛いからやめて」とか「痛いのが気持ちいい」とか、そういう「痛い」にくっつく感情がなくなってしまって「痛い」しかない。
その脳みそにあるひとつの事柄から、感情や思考が枝分かれしていかないような状態。
これは、ちょっと「よいしょ」って気持ちを押さないと、その状態になれないとか快感や喜びにならないというようなとき、思考の回路を何本が切る。
これは、思考停止にするのだと思う。
マ○○で、床に四つん這いになって胸を触られて「誰か来ても続けるよ」と言われたとき、那智さんのその言葉で針は振れるんだけど、自分でも「えい」って回路を切る。
そうすると、あとは旋回しながら快感に堕ちていくことに身を任せることができる。
いつもいつもそうなるわけじゃなくて、だいたいは、堕ちたり昇ったりしながら、一部の私はそれを眺めている。
その姿に苦しくなったり、逆にそれに余計に興奮したりしている。
両手を吊られて鞭を打たれて、痛さのあまり体が反って思わずつま先立ちになるなんて姿を映像として眺め悦に入ったり(笑)
それはそれで気持ちいいし、あとから反芻して楽しめる^^
でも、思考停止状態も得難い状態だ。
私は、昔「多重人格」というのにとても興味を持った。
学術的な難しいものは読まなかったけど、それについてのノンフィクションはたくさん読んだ。
壮絶な虐待や心理的なショックで、新しい人格を誕生させてしまう。
その脳の不思議にとても惹かれてしまったのだ。
その新しい人格を作ってしまうのは「こんなつらい思いをしているのは、私じゃない」と思うからだそうだ。
愛してくれるはずの、大事にしてくれるはずの親(大人)から、こんな酷いことをされるのは誰か他の子で、私じゃないと思うことで、生き延びようとする脳の自衛手段なのだそうだ。
自分じゃないと、それを俯瞰しながら自分の脳は脳内にこもり別なことを考えたり、別な遊びをしたりして切り離してしまうところからはじまる。
弱い立場の生きる方法。
これは危険な逃げ道だと思う。
私たちMは、とても酷いことをされている。
もちろん愛されながら、それを望み感じているのだから、虐待とは違うけど。
でも、いまされている酷いことから気持ちを逃すために、「別なことを考える」という思考回路になるのは、危険だなと思う。
特にこれは精神的に酷いことをされている時に発生しやすいと思う(ほんとに痛かったら別なこと考えられない?)、気を紛らわす思考。
とてもつらいことの先に快感があるということも推測できるけど、「別なことを考える」時点でそれは傷付くことから逃れようとしていると、私は思う。
そして、なぜ紛らわしてまでそれを我慢してしまうのかという動機付けが、「Mだから、奴隷だから、我慢するべき」というものだと、つらさも増してしまうのではないかな。
Mの性癖は厄介で、そんな最中でも濡れてしまうかもしれないから、判断が難しいけどね。
いまのところ、そういう回路で我慢をしたことはないけど、あとからの判断材料として時々立ち止まってみる。(そこまで酷いことをされてないのかもしれませんが^^;)
だって、つらくても泣いても、それを私が喜んでいるなら他のことを考えてるなんて、もったいない(笑)
大好きな人が、私に向けて発してくれる酷いことの一部始終を脳で体で味わい尽くしたいと思うもの。
それだけでは、物足りずこうやってブログにしちゃってるのだもの^^
私のブログを読んでくださっている方の、どれくらいの人が、SでMでノーマルでそれ以外で、なのかな。
こういうお話しって、理解しにくいと思うけど、今日のは特にそんな感じです。
リスクを追ってまですることに「気を紛らわす」というような心理は相応しくないなと思うのでした。
そのことだけで頭がいっぱいになってしまって、そのこと以外感情が湧かないようなこと。
思考停止になるみたいな感じ。
四つん這いでリードを引かれて外を歩いたとき、アスファルトとそこに付く自分の手と、時々視界に入る那智さんの靴以外何も脳みそになかった。
鞭で打たれるとき、たまに「痛い」だけの世界になる。
「痛いからやめて」とか「痛いのが気持ちいい」とか、そういう「痛い」にくっつく感情がなくなってしまって「痛い」しかない。
その脳みそにあるひとつの事柄から、感情や思考が枝分かれしていかないような状態。
これは、ちょっと「よいしょ」って気持ちを押さないと、その状態になれないとか快感や喜びにならないというようなとき、思考の回路を何本が切る。
これは、思考停止にするのだと思う。
マ○○で、床に四つん這いになって胸を触られて「誰か来ても続けるよ」と言われたとき、那智さんのその言葉で針は振れるんだけど、自分でも「えい」って回路を切る。
そうすると、あとは旋回しながら快感に堕ちていくことに身を任せることができる。
いつもいつもそうなるわけじゃなくて、だいたいは、堕ちたり昇ったりしながら、一部の私はそれを眺めている。
その姿に苦しくなったり、逆にそれに余計に興奮したりしている。
両手を吊られて鞭を打たれて、痛さのあまり体が反って思わずつま先立ちになるなんて姿を映像として眺め悦に入ったり(笑)
それはそれで気持ちいいし、あとから反芻して楽しめる^^
でも、思考停止状態も得難い状態だ。
私は、昔「多重人格」というのにとても興味を持った。
学術的な難しいものは読まなかったけど、それについてのノンフィクションはたくさん読んだ。
壮絶な虐待や心理的なショックで、新しい人格を誕生させてしまう。
その脳の不思議にとても惹かれてしまったのだ。
その新しい人格を作ってしまうのは「こんなつらい思いをしているのは、私じゃない」と思うからだそうだ。
愛してくれるはずの、大事にしてくれるはずの親(大人)から、こんな酷いことをされるのは誰か他の子で、私じゃないと思うことで、生き延びようとする脳の自衛手段なのだそうだ。
自分じゃないと、それを俯瞰しながら自分の脳は脳内にこもり別なことを考えたり、別な遊びをしたりして切り離してしまうところからはじまる。
弱い立場の生きる方法。
これは危険な逃げ道だと思う。
私たちMは、とても酷いことをされている。
もちろん愛されながら、それを望み感じているのだから、虐待とは違うけど。
でも、いまされている酷いことから気持ちを逃すために、「別なことを考える」という思考回路になるのは、危険だなと思う。
特にこれは精神的に酷いことをされている時に発生しやすいと思う(ほんとに痛かったら別なこと考えられない?)、気を紛らわす思考。
とてもつらいことの先に快感があるということも推測できるけど、「別なことを考える」時点でそれは傷付くことから逃れようとしていると、私は思う。
そして、なぜ紛らわしてまでそれを我慢してしまうのかという動機付けが、「Mだから、奴隷だから、我慢するべき」というものだと、つらさも増してしまうのではないかな。
Mの性癖は厄介で、そんな最中でも濡れてしまうかもしれないから、判断が難しいけどね。
いまのところ、そういう回路で我慢をしたことはないけど、あとからの判断材料として時々立ち止まってみる。(そこまで酷いことをされてないのかもしれませんが^^;)
だって、つらくても泣いても、それを私が喜んでいるなら他のことを考えてるなんて、もったいない(笑)
大好きな人が、私に向けて発してくれる酷いことの一部始終を脳で体で味わい尽くしたいと思うもの。
それだけでは、物足りずこうやってブログにしちゃってるのだもの^^
私のブログを読んでくださっている方の、どれくらいの人が、SでMでノーマルでそれ以外で、なのかな。
こういうお話しって、理解しにくいと思うけど、今日のは特にそんな感じです。
リスクを追ってまですることに「気を紛らわす」というような心理は相応しくないなと思うのでした。
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