委ねられるということ
独特な幸福感
那智さんがかまってくれることで、気持ち良く、我を忘れるほど、無我夢中になって、といろいろ表現しているから、もともと快感に没頭できる人間かと思われるかもしれないけど、実は全然そんなことないの。
羞恥心や道徳心が、それを邪魔する。
それは、わかりやすいことかもしれない。
もうひとつ、わたしの邪魔をするものがある。
それはまわりに対する、過剰な気遣いなの。
自分の快感に没頭するのは、その瞬間は「自己中心」になることが必要。
気遣いとか「自己中心」とか言葉だけ並べれば、わたしの「邪魔」は美徳に聞こえるかもしれないけど、それはわたしに快感を与えようとする人にとっては、ちっとも歓迎されないことなんだ。
だってね、異常なほど気を遣ってしまう。
自分が気持ち良くなることそっちのけで、相手のことやまわりのことばかり気にしてしまう。
いま、この人は楽しんでいるだろうか。
この顔の角度は、この人の好みかな。
ベッドを汚してはいないか。
時間は大丈夫。
この人はいつ射精するのだろう。
そろそろ、その頃かな、じゃあ、わたしも感じてるふりをしよう。
こんなことずっと考えていたら、快感はおろか、相手とのスキンシップさえ充実を感じられなくなっちゃうよね。
それで、そのわたしの気遣いに気づくことなく満足してる男性を哀れに思うのだもの、始末悪い。
だから、快感に夢中になって我を忘れるなんて、わたしにはないと思っていたほど。
そんなわたしが、自分の快感に没頭できるようになったのは、那智さんと付き合い出したから。
快感の記憶。
安心の積み重ね。
深める信頼。
快感に溺れられないわたしの自意識を、それらを駆使して崩していってくれた。
痛いこと、気持ちいいこと、ものすごく勇気のいること、驚き、委ね、受け入れられて、それらが快感になっていく、その積み重ね。
いつしか、わたしは「自分中心」の快感を貪れるようになっていったのです。
その中でも「委ねる」というのが、わたしには大事なファクターでして。
過剰な自意識や気遣い(通行人はもちろん、ホテルの掃除の人にまで気にしちゃう)を払拭するには、「もう知らない、なんかあったら那智さんがなんとかしてくれる。」という那智さんに丸投げ状態が大事なんだ。
これができた瞬間は、とてもとても幸福で気持ちが良い。
今日はそのお話。
あるテーマパークに遊びに行った。
そこにあるアトラクションのひとつ。
大きな螺旋状の階段を上っていきながら、中心や外側に周囲に展示されているものを見ていく。
剥き出しの階段には途中に踊り場が何箇所かあったり、外側は壁ではなくて展示品が並んでいるだけなので、所々外の様子を眺めることができたりと、展望の意図も感じられるアトラクションだった。
人はそれほど多くない。
「中ではめようか?」
「それは、無理です…。」
そんな会話をしていたから、那智さんは中でなにかするつもりだろう。
わたしたちが入り口に向かうとき、ちょうどひと組の男女が入っていくのが見えた。
順路はひとつ。
だから、少し時差を作れば、前のカップルに出会うことはない。
気持ちゆっくりと階段を上りはじめる。
数段先を行くカップル。
わたしは那智さんの腕をつかみ、斜め後ろを歩く。
那智さんが、わたしのスカートに手をかけた。
太腿を触る。
ああ、どうか振り返らないでください。
慌ててしまうと異変に気づかれちゃうから、「じたばた」を押し殺す。
カップルは背中を向けたまま階段を上がり、螺旋のカーブに差し掛かる数段手前にきたとき、那智さんが思いっきりスカートをめくった。
ぎゃあ!!
太腿と下着が丸見え。
慌てる心と裏腹に、されるがままのわたし。
数m先に人がいる状態で、下着を露にしたまま階段を上がる姿。
助けて、那智さん。
振り向かれたら大変!!
うつむき加減に、でも、カップルの動きを目で追う。
カップルの動きを自ら追っていること時点では、わたしはまだ那智さんに委ねきれていない。
まあ、那智さんも、ここは誇示と、わたしのあわあわを楽しむところでしょうから、「委ねる」必要はないと思ってるはず。
困惑と羞恥。
でも、こういう誇示の仕方をされるとき、「O嬢の物語」のふくろうを思い出す。
異様な姿に誇りを感じてしまう、わたしもいるのです。
そんなことを繰り返し、何箇所目かの踊り場についた。
「ここで、フェラチオして。」
那智さんが階段の手すりに体を預けて、いう。
柵になった手すりからは、テーマパークの景色や雑踏を感じることができる。
少し高いところまで来たから、下から見上げてもこちらの様子はわかりづらいだろう。
数段先のカップルの足だけが見えた。
上っていくそれは、ほどなくして螺旋にそって消えていった。
那智さんは下側を向き、わたしは階下に背を向け、向かい合う。
「ほら。」
促される。
人が階段を上がってくる気配はない。
背中に神経を集中させて、伺う。
でも、いつ、上がってくるかわからない。
「ほら」といったまま那智さんは手すりの体を預けてる。
性的なことに関して那智さんとわたしの間には基本的に拒否権はない。(交渉権はある 笑)
だから、こういうときは「やる、やらない」で逡巡することはないの。
勢いをつけるとかやるタイミング、交渉の余地を探るため、それらが「ためらい」としての時間になるわけ。
そして、もうひとつ「委ねられるか、委ねられないか」を無意識に計ってる時間でもある。
やる?やらない?
ううん、この状況では、やるに決まってる。
人がいない、いまがいいよね。
ほんとにやるの?わたし。
できるの?
いいの?那智さん、やりますよ、わたし。
しらない、しらない、しらない。
半歩那智さんに近寄り、膝を折り、跪く。
膝に硬さを感じる。
この瞬間、ふわっと体が軽くなるの。
ああ、委ねられた。
気持ちいい。
ズボンに手を伸ばしファスナーを下ろす。
この指先だけが現実のよう。
緊張してる。
見えてるはずだけど、指先以外はぼんやりしてる。
そっとおちんちんを出して、顔を寄せ、口に含む。
膝立ちのわたしの頭に、那智さんの手が添えられてる。
委ねられた、委ねられた。
わたしがわたしではないような、この感覚が嬉しい。
那智さんのもの。
無我夢中でお口を使う。
外気が気持ち良く感じられてる(はず)。
人が来るかどうか、ほとんど気にならなくなってる。
盲目的に言う通りにできてる快感。
過剰な自意識や気遣いを那智さんに預けてしまえる気持ち良さ。
那智さんにフェラチオをする、那智さんのおちんちんをお口に含める、それだけでいい世界。
時間や人の気配、わからない、思考ストップ。
すっと、那智さんが身を引いた。
ぐわっと現実に引き戻される。
だれか来たの!?
慌てて、でも、瞬時には動かない体。
よろよろと立ち上がる。
怖くてうつむいたまま那智さんにもう一歩近寄り、「だれか来たのですか?」と小声で聞く。
「ううん。でも、これが限度だろ。」
ファスナーを上げながら何食わぬ顔。
よかった、だれも来なくて。
ほっと胸を撫で下ろし。
あらためて、まだ自分がふわふわしてることに気づく。
やってしまった高揚とふわふわの快感。
この「委ねられる」瞬間が、わたしにはとても大事な瞬間。
いつもいつもそうなれるわけじゃないの。
同じお外で遊ぶときでも、「委ねる」というより、パニックに陥りながらとか、かなり無理矢理とか、もう気持ち良くなるのわかっててする、とかいろんな感覚がある。
それは、お外じゃなくても、同じ。
痛いことや恥ずかしいことでも、感じ方は様々だ。
同じことをしても、違う感じ方をすることもある。
でも、その中で、わたしはこの「委ねちゃった」瞬間が、とても好きなの。
日常の中で、ふと、あの体の軽くなる感覚が甦り、ああ、また味わわせてほしいと、焦がれる。
過剰な気遣いをしてしまうわたしが我を忘れることができる、一番の方法なのかなと思うのです。
那智さんがかまってくれることで、気持ち良く、我を忘れるほど、無我夢中になって、といろいろ表現しているから、もともと快感に没頭できる人間かと思われるかもしれないけど、実は全然そんなことないの。
羞恥心や道徳心が、それを邪魔する。
それは、わかりやすいことかもしれない。
もうひとつ、わたしの邪魔をするものがある。
それはまわりに対する、過剰な気遣いなの。
自分の快感に没頭するのは、その瞬間は「自己中心」になることが必要。
気遣いとか「自己中心」とか言葉だけ並べれば、わたしの「邪魔」は美徳に聞こえるかもしれないけど、それはわたしに快感を与えようとする人にとっては、ちっとも歓迎されないことなんだ。
だってね、異常なほど気を遣ってしまう。
自分が気持ち良くなることそっちのけで、相手のことやまわりのことばかり気にしてしまう。
いま、この人は楽しんでいるだろうか。
この顔の角度は、この人の好みかな。
ベッドを汚してはいないか。
時間は大丈夫。
この人はいつ射精するのだろう。
そろそろ、その頃かな、じゃあ、わたしも感じてるふりをしよう。
こんなことずっと考えていたら、快感はおろか、相手とのスキンシップさえ充実を感じられなくなっちゃうよね。
それで、そのわたしの気遣いに気づくことなく満足してる男性を哀れに思うのだもの、始末悪い。
だから、快感に夢中になって我を忘れるなんて、わたしにはないと思っていたほど。
そんなわたしが、自分の快感に没頭できるようになったのは、那智さんと付き合い出したから。
快感の記憶。
安心の積み重ね。
深める信頼。
快感に溺れられないわたしの自意識を、それらを駆使して崩していってくれた。
痛いこと、気持ちいいこと、ものすごく勇気のいること、驚き、委ね、受け入れられて、それらが快感になっていく、その積み重ね。
いつしか、わたしは「自分中心」の快感を貪れるようになっていったのです。
その中でも「委ねる」というのが、わたしには大事なファクターでして。
過剰な自意識や気遣い(通行人はもちろん、ホテルの掃除の人にまで気にしちゃう)を払拭するには、「もう知らない、なんかあったら那智さんがなんとかしてくれる。」という那智さんに丸投げ状態が大事なんだ。
これができた瞬間は、とてもとても幸福で気持ちが良い。
今日はそのお話。
あるテーマパークに遊びに行った。
そこにあるアトラクションのひとつ。
大きな螺旋状の階段を上っていきながら、中心や外側に周囲に展示されているものを見ていく。
剥き出しの階段には途中に踊り場が何箇所かあったり、外側は壁ではなくて展示品が並んでいるだけなので、所々外の様子を眺めることができたりと、展望の意図も感じられるアトラクションだった。
人はそれほど多くない。
「中ではめようか?」
「それは、無理です…。」
そんな会話をしていたから、那智さんは中でなにかするつもりだろう。
わたしたちが入り口に向かうとき、ちょうどひと組の男女が入っていくのが見えた。
順路はひとつ。
だから、少し時差を作れば、前のカップルに出会うことはない。
気持ちゆっくりと階段を上りはじめる。
数段先を行くカップル。
わたしは那智さんの腕をつかみ、斜め後ろを歩く。
那智さんが、わたしのスカートに手をかけた。
太腿を触る。
ああ、どうか振り返らないでください。
慌ててしまうと異変に気づかれちゃうから、「じたばた」を押し殺す。
カップルは背中を向けたまま階段を上がり、螺旋のカーブに差し掛かる数段手前にきたとき、那智さんが思いっきりスカートをめくった。
ぎゃあ!!
太腿と下着が丸見え。
慌てる心と裏腹に、されるがままのわたし。
数m先に人がいる状態で、下着を露にしたまま階段を上がる姿。
助けて、那智さん。
振り向かれたら大変!!
うつむき加減に、でも、カップルの動きを目で追う。
カップルの動きを自ら追っていること時点では、わたしはまだ那智さんに委ねきれていない。
まあ、那智さんも、ここは誇示と、わたしのあわあわを楽しむところでしょうから、「委ねる」必要はないと思ってるはず。
困惑と羞恥。
でも、こういう誇示の仕方をされるとき、「O嬢の物語」のふくろうを思い出す。
異様な姿に誇りを感じてしまう、わたしもいるのです。
そんなことを繰り返し、何箇所目かの踊り場についた。
「ここで、フェラチオして。」
那智さんが階段の手すりに体を預けて、いう。
柵になった手すりからは、テーマパークの景色や雑踏を感じることができる。
少し高いところまで来たから、下から見上げてもこちらの様子はわかりづらいだろう。
数段先のカップルの足だけが見えた。
上っていくそれは、ほどなくして螺旋にそって消えていった。
那智さんは下側を向き、わたしは階下に背を向け、向かい合う。
「ほら。」
促される。
人が階段を上がってくる気配はない。
背中に神経を集中させて、伺う。
でも、いつ、上がってくるかわからない。
「ほら」といったまま那智さんは手すりの体を預けてる。
性的なことに関して那智さんとわたしの間には基本的に拒否権はない。(交渉権はある 笑)
だから、こういうときは「やる、やらない」で逡巡することはないの。
勢いをつけるとかやるタイミング、交渉の余地を探るため、それらが「ためらい」としての時間になるわけ。
そして、もうひとつ「委ねられるか、委ねられないか」を無意識に計ってる時間でもある。
やる?やらない?
ううん、この状況では、やるに決まってる。
人がいない、いまがいいよね。
ほんとにやるの?わたし。
できるの?
いいの?那智さん、やりますよ、わたし。
しらない、しらない、しらない。
半歩那智さんに近寄り、膝を折り、跪く。
膝に硬さを感じる。
この瞬間、ふわっと体が軽くなるの。
ああ、委ねられた。
気持ちいい。
ズボンに手を伸ばしファスナーを下ろす。
この指先だけが現実のよう。
緊張してる。
見えてるはずだけど、指先以外はぼんやりしてる。
そっとおちんちんを出して、顔を寄せ、口に含む。
膝立ちのわたしの頭に、那智さんの手が添えられてる。
委ねられた、委ねられた。
わたしがわたしではないような、この感覚が嬉しい。
那智さんのもの。
無我夢中でお口を使う。
外気が気持ち良く感じられてる(はず)。
人が来るかどうか、ほとんど気にならなくなってる。
盲目的に言う通りにできてる快感。
過剰な自意識や気遣いを那智さんに預けてしまえる気持ち良さ。
那智さんにフェラチオをする、那智さんのおちんちんをお口に含める、それだけでいい世界。
時間や人の気配、わからない、思考ストップ。
すっと、那智さんが身を引いた。
ぐわっと現実に引き戻される。
だれか来たの!?
慌てて、でも、瞬時には動かない体。
よろよろと立ち上がる。
怖くてうつむいたまま那智さんにもう一歩近寄り、「だれか来たのですか?」と小声で聞く。
「ううん。でも、これが限度だろ。」
ファスナーを上げながら何食わぬ顔。
よかった、だれも来なくて。
ほっと胸を撫で下ろし。
あらためて、まだ自分がふわふわしてることに気づく。
やってしまった高揚とふわふわの快感。
この「委ねられる」瞬間が、わたしにはとても大事な瞬間。
いつもいつもそうなれるわけじゃないの。
同じお外で遊ぶときでも、「委ねる」というより、パニックに陥りながらとか、かなり無理矢理とか、もう気持ち良くなるのわかっててする、とかいろんな感覚がある。
それは、お外じゃなくても、同じ。
痛いことや恥ずかしいことでも、感じ方は様々だ。
同じことをしても、違う感じ方をすることもある。
でも、その中で、わたしはこの「委ねちゃった」瞬間が、とても好きなの。
日常の中で、ふと、あの体の軽くなる感覚が甦り、ああ、また味わわせてほしいと、焦がれる。
過剰な気遣いをしてしまうわたしが我を忘れることができる、一番の方法なのかなと思うのです。