感動の乱用2
独り言
前回書いた「感動の乱用」にコメントをいただき、改めて、私の言葉足らずや説明不足を感じましたので、補足説明させてくださいね。
仕事の移動中に思ったことを垂れ流してしまったので、「説明不足」以前に自分でも言いたいことの軸が定まっていなかったというほうが正解です。
すみません。
改めて「感動」を辞書で引いてみました。
「ものごとに感じて起こる、精神の興奮。深く感じ入ること」と書いてあった。
これに基づいていえば、高校野球を観て、泣いても興奮しても感動ということになる。
だから、アナウンサーの言う「感動」は間違っていない。
「感動」は、様々な心の動きを総称していうならば、ひとつの出来事に対して、感動の種類は様々なはずだ。
私が気になるのは、メディア(多数派)がこぞって作り出す「感動」が、ハートフルな感涙に向かってだけレールを敷いているように感じられてしまうことだ。
「さあ、感動しろ!」「ここで泣け!」とこれでもかってくらい、「親子愛」や「師弟愛」、「努力」や「絆」を駆使してレールを敷いている。
面白い試合で「熱狂」したことよりも、その選手の生い立ちや苦労をクローズアップさせて、美しい話にだけしようとしている。
これは、スポーツに限っていっているわけではないですよ、一例です。
それと、ハートフルがいけないと言っているわけでもないです。
それもあるけど、他もあると言いたいの。
私が弱い人間だからかもしれないけれど、不安になるのです。
多数派のレール以外の感情を持つことに、罪の意識みたなものを持ってしまいそうで不安なのです。
多数派の意見以外を持つことが、いけないことのようになってしまう世の中が危険だと思ってしまうのです。
いろんな意見がある。
そんなこと当たり前なのに、メディア(多数派)はまるで、ひとつの「感動」に向かうように仕向けているのではないかなと思って、違和感を感じていたのでした。
それが、スポーツやドラマの世界だけでとどまるならば、良いとしても、生きていく上で、多数派以外の選択肢を持つことに罪悪感を感じてしまったり、少数派を排除するような目を持っている世の中は生きにくいと不安になってしまうのです。
今日付けの読売新聞で小説家のあさのあつこさんの高校野球に関するコラムが載っていて、うなずけるものだったので、一部抜粋させてくださいね、長い文章ですので、抜粋することをお許しください。
「ただ、わたしの臍が曲がっているせいなのだろうか、誰もがやたらに、感動し、一部に選手に群がり、浮かれまくる今回の騒ぎがどうにも気持ちが悪い。いたたまれないほどだ。~。問題は大人たちである。選手たちが必死に闘った野球というものを安っぽいドラマにすり替えようとする。~。さあ泣け、さあ喜べ、さあ感動しろ。新聞もテレビもこれからも続々出てくるだろう甲子園特集の雑誌も、今回決勝戦を、甲子園を、野球を「息詰まる感動のドラマ」以上のものとして捉えることはできるのだろうか。
野球は、感涙のためのちゃちなドラマなどではない。人間の業と知と運命が複雑に交差し縺(もつ)れ、揺らぐスポーツだ。深く人間を抉(えぐ)り出す。」
ほんの一部で、わかりにくいかもしれません、しかもこれは「野球」を主に言っているのだけど、多分それ以外にも当てはまるのではないかと思います。
私は、メディアの一様に作り出すレールに違和感を感じる、そして、それしかないと思ってしまうことに不安を感じたのでした、と言いたかったのです。
それにしても、小説家のかたは、自分の感情を表現するのが上手で羨ましい(笑)
少しは、説明になったかしら!
やっぱり、物事を理論的に考えるのが苦手で、腰を据えてじっくりなんてできないこらえ性のない私には、社会について語るなんて、所詮無理なこと!?
せいぜい自分に起こったことを、ノロケたり、報告したりが関の山。
でも、限界に挑戦!
たまには、いろんなこと書かせてくださいね♪
前回書いた「感動の乱用」にコメントをいただき、改めて、私の言葉足らずや説明不足を感じましたので、補足説明させてくださいね。
仕事の移動中に思ったことを垂れ流してしまったので、「説明不足」以前に自分でも言いたいことの軸が定まっていなかったというほうが正解です。
すみません。
改めて「感動」を辞書で引いてみました。
「ものごとに感じて起こる、精神の興奮。深く感じ入ること」と書いてあった。
これに基づいていえば、高校野球を観て、泣いても興奮しても感動ということになる。
だから、アナウンサーの言う「感動」は間違っていない。
「感動」は、様々な心の動きを総称していうならば、ひとつの出来事に対して、感動の種類は様々なはずだ。
私が気になるのは、メディア(多数派)がこぞって作り出す「感動」が、ハートフルな感涙に向かってだけレールを敷いているように感じられてしまうことだ。
「さあ、感動しろ!」「ここで泣け!」とこれでもかってくらい、「親子愛」や「師弟愛」、「努力」や「絆」を駆使してレールを敷いている。
面白い試合で「熱狂」したことよりも、その選手の生い立ちや苦労をクローズアップさせて、美しい話にだけしようとしている。
これは、スポーツに限っていっているわけではないですよ、一例です。
それと、ハートフルがいけないと言っているわけでもないです。
それもあるけど、他もあると言いたいの。
私が弱い人間だからかもしれないけれど、不安になるのです。
多数派のレール以外の感情を持つことに、罪の意識みたなものを持ってしまいそうで不安なのです。
多数派の意見以外を持つことが、いけないことのようになってしまう世の中が危険だと思ってしまうのです。
いろんな意見がある。
そんなこと当たり前なのに、メディア(多数派)はまるで、ひとつの「感動」に向かうように仕向けているのではないかなと思って、違和感を感じていたのでした。
それが、スポーツやドラマの世界だけでとどまるならば、良いとしても、生きていく上で、多数派以外の選択肢を持つことに罪悪感を感じてしまったり、少数派を排除するような目を持っている世の中は生きにくいと不安になってしまうのです。
今日付けの読売新聞で小説家のあさのあつこさんの高校野球に関するコラムが載っていて、うなずけるものだったので、一部抜粋させてくださいね、長い文章ですので、抜粋することをお許しください。
「ただ、わたしの臍が曲がっているせいなのだろうか、誰もがやたらに、感動し、一部に選手に群がり、浮かれまくる今回の騒ぎがどうにも気持ちが悪い。いたたまれないほどだ。~。問題は大人たちである。選手たちが必死に闘った野球というものを安っぽいドラマにすり替えようとする。~。さあ泣け、さあ喜べ、さあ感動しろ。新聞もテレビもこれからも続々出てくるだろう甲子園特集の雑誌も、今回決勝戦を、甲子園を、野球を「息詰まる感動のドラマ」以上のものとして捉えることはできるのだろうか。
野球は、感涙のためのちゃちなドラマなどではない。人間の業と知と運命が複雑に交差し縺(もつ)れ、揺らぐスポーツだ。深く人間を抉(えぐ)り出す。」
ほんの一部で、わかりにくいかもしれません、しかもこれは「野球」を主に言っているのだけど、多分それ以外にも当てはまるのではないかと思います。
私は、メディアの一様に作り出すレールに違和感を感じる、そして、それしかないと思ってしまうことに不安を感じたのでした、と言いたかったのです。
それにしても、小説家のかたは、自分の感情を表現するのが上手で羨ましい(笑)
少しは、説明になったかしら!
やっぱり、物事を理論的に考えるのが苦手で、腰を据えてじっくりなんてできないこらえ性のない私には、社会について語るなんて、所詮無理なこと!?
せいぜい自分に起こったことを、ノロケたり、報告したりが関の山。
でも、限界に挑戦!
たまには、いろんなこと書かせてくださいね♪
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