飲尿
非日常的な日常
私はいろんな所で那智さんのおしっこを飲む。
バスルームやお部屋の中、ベッドの上。
バスルームやソファに腰掛けた那智さんの足の間に収まって飲む時は、ちょっと気が楽。
万が一こぼしても安心だから。
ソファの置いてある床が絨毯だったら、ダメだけど。
お布団の上や、那智さんがお洋服を着ているときは、汚してしまってはいけないからちょっと気を使う。
もともと、那智さんが私におしっこを飲ませるという行為は「飲ませたい」からと「あげる♪」という気持ちから発生している。
そして、それを受け入れさせることも重要。
もっというと、それを喜ぶそれに感じることが、前提。
何事においても、苦痛や恐怖の後に、喜びや快感が生まれないと、那智さんはつまらないのだ。
だから、おしっこも飲める量と判断したときに飲ませることが多い。
「はい、飲めたね、嬉しいね」
「ちょっと、多かったけど、嬉しかったね」
みたいな感じだ。
全部飲まないとお仕置きとか、便器としてのりん子とか、そういうことではないのだ。
そして、飲んだ後の私の満足そうな誇らしいような、でも照れくさそうな表情も好きらしい。
だから、無理矢理大量接種ということは、あまりしない。
それでも、最近は私もだんだん慣れてきているようで、那智さんも安心しているのかわからないけど、勢いを調整してくれない。
以前は、私の飲み込む具合を見ながら、出していてくれたけど、最近はベッドや座椅子に体を預けて「はい、おしっこ〜」と言ったっきり、勢いよくおしっこをする。
ごくごくと飲む。
自分の舌で量を調節しながら、ごくごくと飲む。
こんなときに、こぼしてはいけない場所だと、ちょっと気を使う。
基本的に飲めそうな量のときだけだから、いつも通りにごくごくとしていればいいのだけど、思いのほか量が多かったときとか、味が濃いときはちょっとつらい。
那智さんが仰向けにベッドに横になっている。
正確には少し体を斜めに傾けて、仰向け。
私は背中側から覆いかぶさるようにして、おしっこを飲む。
今日二度目のおしっこだ。
この体勢は飲みづらかった。
加えて、味が濃い。
今日のはじめのおしっこはあんまり味がなくて、「独特な幸福感」の「味覚障害」じゃなけけど、「美味しいかも」なんて思えていたのだけど、二度目は苦い味。
体勢と味のつらさで、めずらしく飲み込めず「おえ」ってこぼしそうになってしまった。
久しぶりに那智さんが勢いを調整してくれて、こぼさずに全部飲めた。
今日のは大変だったな〜、でも、全部飲めて幸せ。
「なんだか嬉しそうだよ。」
からかうように那智さんが言う。
こういうとき、ほとんど私は「うふふ」と照れ笑いをして、うつむくのだけど、時々反撃に出るときもある。
どちらも、私にとっては自然な反応だ。
このときは、ちょっと反撃モード。
「でも、那智さんはこれを喜ぶほうがいいのですよね。辛くていやいやでも『ご主人様の命令だから』って我慢して飲むよりも、嬉しそうに飲むほうがいいのですよね♪』
「まあ、そうだね。」
「じゃあ、嬉しそうでよかったですね!!」
やった、一本取った気分。
その瞬間、那智さんの手が私の下半身にのびてきた。
そして、あっという間に気持ち良くされて、私は恥ずかしい声を上げて、最後は恥ずかしくうつむく。
あ〜あ、やっぱり最後はどんな方法でも、私が「うつむく」ようになっちゃうんだ。
それが、那智さんの満足で、そうならないと終わりにならない(笑)
これが、二人のベストポジションなのでしょう。
私はいろんな所で那智さんのおしっこを飲む。
バスルームやお部屋の中、ベッドの上。
バスルームやソファに腰掛けた那智さんの足の間に収まって飲む時は、ちょっと気が楽。
万が一こぼしても安心だから。
ソファの置いてある床が絨毯だったら、ダメだけど。
お布団の上や、那智さんがお洋服を着ているときは、汚してしまってはいけないからちょっと気を使う。
もともと、那智さんが私におしっこを飲ませるという行為は「飲ませたい」からと「あげる♪」という気持ちから発生している。
そして、それを受け入れさせることも重要。
もっというと、それを喜ぶそれに感じることが、前提。
何事においても、苦痛や恐怖の後に、喜びや快感が生まれないと、那智さんはつまらないのだ。
だから、おしっこも飲める量と判断したときに飲ませることが多い。
「はい、飲めたね、嬉しいね」
「ちょっと、多かったけど、嬉しかったね」
みたいな感じだ。
全部飲まないとお仕置きとか、便器としてのりん子とか、そういうことではないのだ。
そして、飲んだ後の私の満足そうな誇らしいような、でも照れくさそうな表情も好きらしい。
だから、無理矢理大量接種ということは、あまりしない。
それでも、最近は私もだんだん慣れてきているようで、那智さんも安心しているのかわからないけど、勢いを調整してくれない。
以前は、私の飲み込む具合を見ながら、出していてくれたけど、最近はベッドや座椅子に体を預けて「はい、おしっこ〜」と言ったっきり、勢いよくおしっこをする。
ごくごくと飲む。
自分の舌で量を調節しながら、ごくごくと飲む。
こんなときに、こぼしてはいけない場所だと、ちょっと気を使う。
基本的に飲めそうな量のときだけだから、いつも通りにごくごくとしていればいいのだけど、思いのほか量が多かったときとか、味が濃いときはちょっとつらい。
那智さんが仰向けにベッドに横になっている。
正確には少し体を斜めに傾けて、仰向け。
私は背中側から覆いかぶさるようにして、おしっこを飲む。
今日二度目のおしっこだ。
この体勢は飲みづらかった。
加えて、味が濃い。
今日のはじめのおしっこはあんまり味がなくて、「独特な幸福感」の「味覚障害」じゃなけけど、「美味しいかも」なんて思えていたのだけど、二度目は苦い味。
体勢と味のつらさで、めずらしく飲み込めず「おえ」ってこぼしそうになってしまった。
久しぶりに那智さんが勢いを調整してくれて、こぼさずに全部飲めた。
今日のは大変だったな〜、でも、全部飲めて幸せ。
「なんだか嬉しそうだよ。」
からかうように那智さんが言う。
こういうとき、ほとんど私は「うふふ」と照れ笑いをして、うつむくのだけど、時々反撃に出るときもある。
どちらも、私にとっては自然な反応だ。
このときは、ちょっと反撃モード。
「でも、那智さんはこれを喜ぶほうがいいのですよね。辛くていやいやでも『ご主人様の命令だから』って我慢して飲むよりも、嬉しそうに飲むほうがいいのですよね♪』
「まあ、そうだね。」
「じゃあ、嬉しそうでよかったですね!!」
やった、一本取った気分。
その瞬間、那智さんの手が私の下半身にのびてきた。
そして、あっという間に気持ち良くされて、私は恥ずかしい声を上げて、最後は恥ずかしくうつむく。
あ〜あ、やっぱり最後はどんな方法でも、私が「うつむく」ようになっちゃうんだ。
それが、那智さんの満足で、そうならないと終わりにならない(笑)
これが、二人のベストポジションなのでしょう。
排尿
非日常的な日常
私はいろんな場所におしっこをする。
洗面器、ビールジョッキ、コンビにのビニール袋、紙おむつの中。
もちろん普通にトイレですることの方が多いのだけど、ほとんど全部那智さんに見てもらう、そして、拭いてもらう。
那智さんは、私におしっこを飲ませる時には「飲ませたい」「飲ませてあげる」という可愛がる感情が働いている。
では、私のおしっこをする姿をほぼ全部(お店の中とかはなしでね)見るのは、どんな感情が働いているのだろう。
本当にほぼ毎回だ。
見ていないのは、数年の付き合いで2、3回あるかないか。
タバコを吸っていても、ベッドでくつろいでいても、遅れてでも来てくれる。
くつろいでいる時などは、申し訳ないから「いいですよ、ひとりで行きますから。」ともじもじして言うけど、よいしょと腰を上げて来てくれる。
何か取り込み中の時は「まだ、ダメ」と我慢させたりもする。
それで、おしっこが出ている様子を見て、私をからかったり気持ちよくさせたりする場合もるけど、足も開かせずただ眺めていて、最後拭くだけなんてこともある。
これは、どんな感情なのでしょう。
多分、はじめのころは「恥ずかしがるりん子」を見るのが楽しかったはずだ。
現に、とても恥ずかしかった。
付き合って間もないころ「このまま一年間くらいおしっこをするところを見て拭いて、その後自分で拭かせたらどんな気持ちになると思う?」と聞かれたことがあった。
「多分、寂しいと思ってしまうと思います」と答えた。
「自分で拭くことが、恥ずかしくなるはずだよ。」というお返事。
そのときは、そうか、もっと恥ずかしくなるためにしているんだなと思った。
それは間違いではない、でも、やっぱり私の答えが私の気持ちに一番近かったと思う。
「寂しい」のだ。
見てもらえなくて、拭いてもらえないと、寂しいの。
いつからそう思うようになったのかははっきりしないけど、きっと私がそう感じるのと同じように那智さんの中でも、おしっこをする姿を見る拭くことの意味合いが変わって来ているのではないかしら。
恥ずかしがらせたいは、もちろんあるでしょうけど、「委ねさせ、委ねている」私たちの関係の象徴のような行為になっているように思う。
小さい子の世話をしているみたいな行為。
だから、毎回見る、見てあげる、とにかくチラッとでも見る(笑)
先にトイレに入っていて「そろそろ出ます〜那智さ〜ん」なんて呼ぶ(笑)
いやらしい空気ではなく、なんだか微笑ましいくらいだ。
もし私たちが夫婦だったら、そんな毎回付き合っていられませんね、なんて言ってみたり。
それでも、微笑ましくならずに、性的な空気になる時もある。
おしっこしてもいいですか?
ホテルの入って、すぐにトイレに行きたくなってしまった。
「洗面器、持って来て」
今日は洗面器なんだ。
バスルームから洗面器を持って来て、畳の上に置く。
こぼさないようにしないと。
なるべく洗面器から離れないように、腰を落として膝を閉じて、どちらかというと洗面器の上に正座に近い格好でしゃがむ。
足を広げてと言われないかぎりは、飛び散らないようにこの体勢でしよう。
体の少し前に手を付いて、僅かに前傾姿勢で洗面器の上に跨がる。
もう少しで、おしっこがでそうだ。
あっ不思議、私この体勢でおしっこをしようとしているだけなのに、どうしようとっても感じてきている。
目の前のベッドに那智さんが腰掛けてこちらを見ているだけで、猫が猫トイレにおしっこをするよな格好をしているだけで、どうしてこんなに気持ち良いのだろう。
何度となく那智さんにおしっこをする姿を見せていて、恥ずかしく嬉しく、なんだか気持ち良いと感じていたことはあるけど、こんなにはっきりと体が震えるほどに快感を覚えたことはなかった。
不思議、いつもと同じ排泄行為なのに、感情がリンクすると体の快感に跳ね上がる。
心が気持ち良いが、体が気持ち良いになる瞬間。
これって、やっぱり進化?成長?しているのかな。
那智さんのいう、快感の記憶の積み重ねなのかな。
だからといって、これから先いつもいつもおしっこするたびに、こんなになるわけじゃないから、体って不思議。
だけど、それをまた、待ち望んでしまうことだけは、確かなこと。
私はいろんな場所におしっこをする。
洗面器、ビールジョッキ、コンビにのビニール袋、紙おむつの中。
もちろん普通にトイレですることの方が多いのだけど、ほとんど全部那智さんに見てもらう、そして、拭いてもらう。
那智さんは、私におしっこを飲ませる時には「飲ませたい」「飲ませてあげる」という可愛がる感情が働いている。
では、私のおしっこをする姿をほぼ全部(お店の中とかはなしでね)見るのは、どんな感情が働いているのだろう。
本当にほぼ毎回だ。
見ていないのは、数年の付き合いで2、3回あるかないか。
タバコを吸っていても、ベッドでくつろいでいても、遅れてでも来てくれる。
くつろいでいる時などは、申し訳ないから「いいですよ、ひとりで行きますから。」ともじもじして言うけど、よいしょと腰を上げて来てくれる。
何か取り込み中の時は「まだ、ダメ」と我慢させたりもする。
それで、おしっこが出ている様子を見て、私をからかったり気持ちよくさせたりする場合もるけど、足も開かせずただ眺めていて、最後拭くだけなんてこともある。
これは、どんな感情なのでしょう。
多分、はじめのころは「恥ずかしがるりん子」を見るのが楽しかったはずだ。
現に、とても恥ずかしかった。
付き合って間もないころ「このまま一年間くらいおしっこをするところを見て拭いて、その後自分で拭かせたらどんな気持ちになると思う?」と聞かれたことがあった。
「多分、寂しいと思ってしまうと思います」と答えた。
「自分で拭くことが、恥ずかしくなるはずだよ。」というお返事。
そのときは、そうか、もっと恥ずかしくなるためにしているんだなと思った。
それは間違いではない、でも、やっぱり私の答えが私の気持ちに一番近かったと思う。
「寂しい」のだ。
見てもらえなくて、拭いてもらえないと、寂しいの。
いつからそう思うようになったのかははっきりしないけど、きっと私がそう感じるのと同じように那智さんの中でも、おしっこをする姿を見る拭くことの意味合いが変わって来ているのではないかしら。
恥ずかしがらせたいは、もちろんあるでしょうけど、「委ねさせ、委ねている」私たちの関係の象徴のような行為になっているように思う。
小さい子の世話をしているみたいな行為。
だから、毎回見る、見てあげる、とにかくチラッとでも見る(笑)
先にトイレに入っていて「そろそろ出ます〜那智さ〜ん」なんて呼ぶ(笑)
いやらしい空気ではなく、なんだか微笑ましいくらいだ。
もし私たちが夫婦だったら、そんな毎回付き合っていられませんね、なんて言ってみたり。
それでも、微笑ましくならずに、性的な空気になる時もある。
おしっこしてもいいですか?
ホテルの入って、すぐにトイレに行きたくなってしまった。
「洗面器、持って来て」
今日は洗面器なんだ。
バスルームから洗面器を持って来て、畳の上に置く。
こぼさないようにしないと。
なるべく洗面器から離れないように、腰を落として膝を閉じて、どちらかというと洗面器の上に正座に近い格好でしゃがむ。
足を広げてと言われないかぎりは、飛び散らないようにこの体勢でしよう。
体の少し前に手を付いて、僅かに前傾姿勢で洗面器の上に跨がる。
もう少しで、おしっこがでそうだ。
あっ不思議、私この体勢でおしっこをしようとしているだけなのに、どうしようとっても感じてきている。
目の前のベッドに那智さんが腰掛けてこちらを見ているだけで、猫が猫トイレにおしっこをするよな格好をしているだけで、どうしてこんなに気持ち良いのだろう。
何度となく那智さんにおしっこをする姿を見せていて、恥ずかしく嬉しく、なんだか気持ち良いと感じていたことはあるけど、こんなにはっきりと体が震えるほどに快感を覚えたことはなかった。
不思議、いつもと同じ排泄行為なのに、感情がリンクすると体の快感に跳ね上がる。
心が気持ち良いが、体が気持ち良いになる瞬間。
これって、やっぱり進化?成長?しているのかな。
那智さんのいう、快感の記憶の積み重ねなのかな。
だからといって、これから先いつもいつもおしっこするたびに、こんなになるわけじゃないから、体って不思議。
だけど、それをまた、待ち望んでしまうことだけは、確かなこと。
お言葉に甘えて
独特な幸福感
「那智 さんが必要。那智さんがいないとどうして良いかわからないくらいあなたが必要。那智さんは『俺が死んだ瞬間に俺から卒業できるように』と言うけれど、私はそれ は無理だと思います。那智さんが死んだら泣いて泣いて暮らすの。それでもいいと思えるくらい愛していたんだと、泣いて暮らすの。」
こんな感傷的なメールのお返事は嬉しいものでした。
「出来れば卒業して欲しい、でもそんな話を聞いたらそれも悪くないと思わず思ってしまう。少し前まで墓参りなんて??? と思っていたけれど本当に愛して いるという実感があれば墓参りに行くではなく、会いに行く感覚になる。成仏するとか宗教的な概念もあるかもしれないけれど、もしりん子が何かで先に死んだら 会いに行く。出来たらオマンコの近くの骨でも貰って持っていたい。遺言でも書いておいてもらおうか。遺骨が愛しいなんて思いも寄らなかった、でもりん子の遺 骨なら想像できる。」
前の記事のコメントで「美しき愛」も好しと言っていただけたので、どわ〜っと出してみました!!
そこでなぜ「オマンコの近く」の骨なのかは、置いておいて(笑)
「那智 さんが必要。那智さんがいないとどうして良いかわからないくらいあなたが必要。那智さんは『俺が死んだ瞬間に俺から卒業できるように』と言うけれど、私はそれ は無理だと思います。那智さんが死んだら泣いて泣いて暮らすの。それでもいいと思えるくらい愛していたんだと、泣いて暮らすの。」
こんな感傷的なメールのお返事は嬉しいものでした。
「出来れば卒業して欲しい、でもそんな話を聞いたらそれも悪くないと思わず思ってしまう。少し前まで墓参りなんて??? と思っていたけれど本当に愛して いるという実感があれば墓参りに行くではなく、会いに行く感覚になる。成仏するとか宗教的な概念もあるかもしれないけれど、もしりん子が何かで先に死んだら 会いに行く。出来たらオマンコの近くの骨でも貰って持っていたい。遺言でも書いておいてもらおうか。遺骨が愛しいなんて思いも寄らなかった、でもりん子の遺 骨なら想像できる。」
前の記事のコメントで「美しき愛」も好しと言っていただけたので、どわ〜っと出してみました!!
そこでなぜ「オマンコの近く」の骨なのかは、置いておいて(笑)
訓練中
独特な幸福感
私が、Mだと自覚して相手を探しはじめて間もないころ、ある「ノンフィクション」に出会った。
小説やエロ本などではないその「フィクション」には、作り物ではない迫力があって、私を魅了した。(もちろんそれだって、この目で見た訳ではないから「作り物」と言ってしまえば、そううなんだけど)
そこで、私が憧れていた「痛いこと」「恥ずかしい」ことの先に起こる感情や感覚があることを知る。
そのころの私には「SM(痛いや恥ずかしい、拘束など)」をして、無我夢中になりたいと思うまでしか、想像ができていなかった。
当然その先に、その結果として生まれるものがあるはずなんだけど、そこまで思いが至らなかった。
漠然と憧れているのだから、当たり前と言えば、当たり前。
だから、その「フィクション」は私には、とても影響を与えた。
作り物でない迫力に、まるで私までその感情を味わっているような、もしくは、必ず味わえる約束のようなものを感じてしまった。
もともと、自分に自信のない私、他者に影響されやすいのは、容易に想像できる。
それから、何人かのS男性と会い、何十人(何百人?)の自称S男性とツーショットダイヤルで話すたびに、あそこに出てきた感覚を味わわせてくれる人は誰なんだろうという標準が一部でできてしまっていた。(一部ね、それがすべての基準じゃない)
それから、何年も経っている、那智さんとも知り合った。
それでも、まだ私の心のどこかで、その影響が残っていることは否定できない。
だから、それ以来あまり、そういう情報には触れないように心掛けてきた。(それに、悲しくなちゃうし)
耳年増になって、それらに「まるで、自分が味わえる」ようなシンパシーを感じてしまいたくなかったのだ。
「人は人、自分は自分、私たちは私たち」って、言えない自立していない私。
「那智さんのしてくれることは、何でも私の喜びだ」というようなことを、何度か書いている。
もちろん、何でもとは言っても、人として生きている中での許される範囲のこと。
それでも、そんな言い方は、多少「陶酔」の入った言葉。
わかっている。
どちらかというと、こういう感じだ。
那智さんがしたいと思ってくれないと、嬉しくない。
「縛ってほしい」と願って、それをしてもらっても、全然嬉しくない。
もちろん、もうお互いわかっているから「お願いさせて、叶えるお遊び」はあるけど、それだってそれを那智さんが望んでそうさせているから、嬉しいし意味がある。
例えば(こんな例えで伝わるかな)、私の妄想や性癖が「赤、青、黄色」だったとして、那智さんが「黄色、緑」だとする。
黄色はそのまま、緑は青と黄色と混ぜて、なんて那智さんの色を揃える。
それが嬉しいから、赤は使われなくてもかまわない、そのうち「オレンジ」なんてのを所望されて、赤と黄色を混ぜる日が来るかもしれないけど、それまで無理矢理使わないでいい。
那智さんが望んで、那智さんがしたいことをしてくれることじゃないと喜べない。
だから、耳年増になって、色を増やしたくないと思うのだ。(まあ、色が増えちゃう私もどうかと思うけど 笑)
必要なら、那智さんが色を増やしたり、調合したりするだろう、それがいい。
「フィスト」って、いうのがあるのよね。
私も詳しいことは知らないけど、握り拳をおまんこやお尻に入れること(入れてどうする??)。
これは私的には「うげ〜〜〜〜〜」なんだけど、物事には100%なんてそうそうないので、その「うげ〜〜〜〜」でも、私の中の100人中「一人の小指」くらいは、「あれ?」と呼応してしまう。
それは、その行為そのものというよりも「異質な私」への憧れ。
それでも「うげ〜〜〜〜〜」には変わりないのだけど、人は人、私たちは私たちって思えない私は「そんなことまでしている人がいる、でも、那智さんがしていな いということは、私たちの深度はその程度なの?」なんて、まったく無意味で那智さんに怒られてしまうような悲しい感情を持ってしまうことも確かなんだ。
那智さんも、しようと思ってはいなかった。
体に良くなさそうということと、おまんこの締まりが悪くなっては困る(最近とても締まるらしいし♪)という理由。
だけど、されている方は気持ち良いらしいと知って、「それもありかな〜」と思い始めたそうだ。
私としては「うげ〜〜〜〜〜」だから、素直にそう伝えるけど、「でも、俺の手が全部中に入っているのを想像してみ、悪くないだろ?」なんて言ってくる。
そうすると100人中の1人の小指だったのが、2人くらいが手を挙げてしまうのだ。
那智さんがしたいと思ったことで始まって、私の回路が繋がってしまうのだ。
新たな色が加えられるのか(それはさしずめ茶色かな〜?)と、心が右往左往してしまっていると。
「でも、締まりが悪くなるんだったら、120%しない」と断言。
この断言が、とても嬉しいの。
そんなこと当たり前のことかもしれないけど、「自分は自分」と思いにくい私には、この断言は安心なの。
私は「那智さん仕様」が嬉しい、それがいいと思えるように訓練してもらって、そして徐々にそうなっているはずだ。
(本当は「りん子オリジナル」が正解なのでしょうけど、しょうがない私たちはこれが幸せなんだ。)
だから、少しずつ、他者を客観視できて、そういう媒体を目にしても「自立」していられるような気がしている。(別に、目にしなくてもいいのだけどね)
でも、そう思えてきている私が、嬉しい。
人は、必ず何かに影響されるけど、それですべてを決めるものではない、そんな当たり前のことを訓練中。
だから、私は「那智さん仕様」を突き進む。
次回、那智さんらしさ炸裂の「プチ露出(私的には全然プチじゃない!!)そんなところに那智さん色出さなくても〜」をお送りしますね。
私が、Mだと自覚して相手を探しはじめて間もないころ、ある「ノンフィクション」に出会った。
小説やエロ本などではないその「フィクション」には、作り物ではない迫力があって、私を魅了した。(もちろんそれだって、この目で見た訳ではないから「作り物」と言ってしまえば、そううなんだけど)
そこで、私が憧れていた「痛いこと」「恥ずかしい」ことの先に起こる感情や感覚があることを知る。
そのころの私には「SM(痛いや恥ずかしい、拘束など)」をして、無我夢中になりたいと思うまでしか、想像ができていなかった。
当然その先に、その結果として生まれるものがあるはずなんだけど、そこまで思いが至らなかった。
漠然と憧れているのだから、当たり前と言えば、当たり前。
だから、その「フィクション」は私には、とても影響を与えた。
作り物でない迫力に、まるで私までその感情を味わっているような、もしくは、必ず味わえる約束のようなものを感じてしまった。
もともと、自分に自信のない私、他者に影響されやすいのは、容易に想像できる。
それから、何人かのS男性と会い、何十人(何百人?)の自称S男性とツーショットダイヤルで話すたびに、あそこに出てきた感覚を味わわせてくれる人は誰なんだろうという標準が一部でできてしまっていた。(一部ね、それがすべての基準じゃない)
それから、何年も経っている、那智さんとも知り合った。
それでも、まだ私の心のどこかで、その影響が残っていることは否定できない。
だから、それ以来あまり、そういう情報には触れないように心掛けてきた。(それに、悲しくなちゃうし)
耳年増になって、それらに「まるで、自分が味わえる」ようなシンパシーを感じてしまいたくなかったのだ。
「人は人、自分は自分、私たちは私たち」って、言えない自立していない私。
「那智さんのしてくれることは、何でも私の喜びだ」というようなことを、何度か書いている。
もちろん、何でもとは言っても、人として生きている中での許される範囲のこと。
それでも、そんな言い方は、多少「陶酔」の入った言葉。
わかっている。
どちらかというと、こういう感じだ。
那智さんがしたいと思ってくれないと、嬉しくない。
「縛ってほしい」と願って、それをしてもらっても、全然嬉しくない。
もちろん、もうお互いわかっているから「お願いさせて、叶えるお遊び」はあるけど、それだってそれを那智さんが望んでそうさせているから、嬉しいし意味がある。
例えば(こんな例えで伝わるかな)、私の妄想や性癖が「赤、青、黄色」だったとして、那智さんが「黄色、緑」だとする。
黄色はそのまま、緑は青と黄色と混ぜて、なんて那智さんの色を揃える。
それが嬉しいから、赤は使われなくてもかまわない、そのうち「オレンジ」なんてのを所望されて、赤と黄色を混ぜる日が来るかもしれないけど、それまで無理矢理使わないでいい。
那智さんが望んで、那智さんがしたいことをしてくれることじゃないと喜べない。
だから、耳年増になって、色を増やしたくないと思うのだ。(まあ、色が増えちゃう私もどうかと思うけど 笑)
必要なら、那智さんが色を増やしたり、調合したりするだろう、それがいい。
「フィスト」って、いうのがあるのよね。
私も詳しいことは知らないけど、握り拳をおまんこやお尻に入れること(入れてどうする??)。
これは私的には「うげ〜〜〜〜〜」なんだけど、物事には100%なんてそうそうないので、その「うげ〜〜〜〜」でも、私の中の100人中「一人の小指」くらいは、「あれ?」と呼応してしまう。
それは、その行為そのものというよりも「異質な私」への憧れ。
それでも「うげ〜〜〜〜〜」には変わりないのだけど、人は人、私たちは私たちって思えない私は「そんなことまでしている人がいる、でも、那智さんがしていな いということは、私たちの深度はその程度なの?」なんて、まったく無意味で那智さんに怒られてしまうような悲しい感情を持ってしまうことも確かなんだ。
那智さんも、しようと思ってはいなかった。
体に良くなさそうということと、おまんこの締まりが悪くなっては困る(最近とても締まるらしいし♪)という理由。
だけど、されている方は気持ち良いらしいと知って、「それもありかな〜」と思い始めたそうだ。
私としては「うげ〜〜〜〜〜」だから、素直にそう伝えるけど、「でも、俺の手が全部中に入っているのを想像してみ、悪くないだろ?」なんて言ってくる。
そうすると100人中の1人の小指だったのが、2人くらいが手を挙げてしまうのだ。
那智さんがしたいと思ったことで始まって、私の回路が繋がってしまうのだ。
新たな色が加えられるのか(それはさしずめ茶色かな〜?)と、心が右往左往してしまっていると。
「でも、締まりが悪くなるんだったら、120%しない」と断言。
この断言が、とても嬉しいの。
そんなこと当たり前のことかもしれないけど、「自分は自分」と思いにくい私には、この断言は安心なの。
私は「那智さん仕様」が嬉しい、それがいいと思えるように訓練してもらって、そして徐々にそうなっているはずだ。
(本当は「りん子オリジナル」が正解なのでしょうけど、しょうがない私たちはこれが幸せなんだ。)
だから、少しずつ、他者を客観視できて、そういう媒体を目にしても「自立」していられるような気がしている。(別に、目にしなくてもいいのだけどね)
でも、そう思えてきている私が、嬉しい。
人は、必ず何かに影響されるけど、それですべてを決めるものではない、そんな当たり前のことを訓練中。
だから、私は「那智さん仕様」を突き進む。
次回、那智さんらしさ炸裂の「プチ露出(私的には全然プチじゃない!!)そんなところに那智さん色出さなくても〜」をお送りしますね。
みっともない私1
非日常的な日常
この日は「縄とわんこセット」を持参するリクエストだった(道具はなんとなく半分ずつ持っているので)のだけど、諸事情で持って行くことができなかった。
家を出る時にそのことは伝えてあるから、那智さんもそのつもりでしょう。
残念だな〜ひさしぶりに「わんこ」になれるはずだったのに。
わんこになるのは、いろんな自分を許せてしまえるとても便利なアイテム。
だから、わんこは好きなんだ。
でも、仕方がない今日は私の方の事情でダメだったのだから、また今度那智さんがその気になるのを待とう。
待ち合わせの場所で待つ。
少し遅刻するかもとメールがあったから、予定の時間を2、3分過ぎたくらいで辺りを気にし始める。
この前のデートの時には背後からお尻を触られて「きゃあ」となってしまったから、今日は警戒しなくては。
那智さんはいたずらっ子のように、待っている私を驚かすから気を抜けない。
それでも、時々ふっと警戒するのを忘れてしまって、前回のように驚かされてしまうのだ。
また私がそういう時に、そこまでしなくてもってくらいの大きなリアクションをしてしまうから、那智さんも楽しくて続けるのでしょうけど、こればかりは慣れないので、警戒するしかない。
本当に、毎度毎度ヒヤヒヤしながら待っているのだ。
しばらくキョロキョロしながら辺りを伺っていたら、数メートル離れた喫煙所で那智さんがこちらを見ながらタバコを吸っている。
一瞬固まって、目だけ大きく見開いて、驚きを表す。
「一体、いつからそこにいたのですか?」
「どうして、声をかけてくれなかったの?」
とにかくささっと近づいて、質問したい気持ちを抑えてまずは「おはようございます」。
どうか、キョロキョロしている私の姿が不細工に映っていませんように。
ほんと、悪趣味な人。
そんなふうに、那智さんは私を驚かしたりするのが大好き、まるでいたずらっこ。
待ち合わせの場所から、いつものホテルに歩き始めたら、まるで今日のお天気の話題のようにこんなことを言い出して、私の目を点にさせる。
「今日は、あの坂をジーンズを脱いで歩くんだよ。」
うわあ、本当に?
いくら驚かすのが好きだからって、いくらなんでもいきなり凄いことを。
少し前のデートの時、私は「T字帯」を着けてくるように言われた。
以前、那智さんと知り合って半年過ぎた頃に、私は子宮口に「筋腫の一種」といわれるでき物(結局なんだかわからずじまい)ができて、手術して取ったのだ。
その時の入院の時に使った「T字帯」の残り。
まあ、ふんどしみたいなものね。(ああ、恥ずかしい)
私たちの間では「ふんどし」と呼ばれているのだけど、すごい久々の登場。
ホテルで遊ばれて、最後の方に「本当は、ホテルまでのあの坂をスカートを脱がせてふんどしで歩かせようと思っていたんだ、だけど、思ったより人が多かったから、やめた。今度しようね。」と言われたのだ。
その時は、その姿を想像して、いくら那智さんでもそうは言っても、なかなか実行できるもんじゃないだろうと、まだ、想像の域を出ていなかったことだった。
私の認識が甘かった、那智さんは「やる」と言ったら必ずやる人。
タイミングやモチベーションが合えば、やる、数日後でも数年でも。
私たちがよく利用するホテルは、待ち合わせ場所から歩いて7、8分の所にある。
車や人通りのある道路から、右に曲がって緩やかな坂を上って、50Mほどでホテルの入り口。
そのあたりは、ホテルが多い場所だから、曲がってからの人通りはそれほど多くはない、それでも、普通の道路、ビルの非常階段とか、エレベーターの中ではなく、一般道路。
角を曲がるまでは、すぐコンビニや飲食店もあって、本当に普通の道路。
その角を曲がったところ、白昼堂々私を下着姿にしようとしている。
「あの坂を、ジーンズを脱いで歩くんだよ。」
「え?」と言ったっきり、言葉が出ない。
那智さんの目を見て、驚きの表情を浮かべながら、ただただ首を横に振る。
もう、ぶんぶんと振る。
あまりの唐突で大胆な提案に、私の心はジェットコースターに乗っているみたいだ。
その角までの数分間、私の頭は真っ白になってしまいそうなのを必死に引き戻し、なんとか回避できないものか、回らない頭を回転させてみる。
今日はジーンスに、コート。
このコートは、まっすぐ立って、お尻が少し見えるくらいの長さだ。
ジーンズを脱げば、明らかに下着だけとわかってしまう。
なぜ、ロングコートを着てこなかったのだろう、なぜ「わんこ」を持ってこなかたのだろう(きっとわんこがあったら、この展開にはならなかったはず)、後悔先に立たず。
「ダメ」も「無理」も「いや」もどれも言ってはいけない、勢いで言ってしまったとしてもそれを発した時点で確実に実行が決まってしまう。
一生懸命画策するけど、ダメ、黙って首を振り、おとなしくうつむくしかなす術がない。
確かに「露出に憧れている」とは言ったけど、一般道路を下着を見せて歩くなんて考えもしなかったし、やっぱり妄想の中のお話。
まさか、本当にそんなことになるとは。
ああ、どうしよう、那智さんは絶対にする、このままおとなしくしていれば、万が一気が変わるかもしれないけど、確率は低いだろう。(おとなしいとつまらないから、もしくは、哀れんで)
それでも、まだ信じられない。
私は、本当に下着だけになるの?
パンツだけで、街を歩くの?
コートを着ているから、全部見えるわけではないけど、それでも本当にそんなことが、できてしまうの?
那智さんも私も。
それを、避けたい、状況が悪化しないようにしたい、でも、那智さんがしよと思ってくれることは嬉しいし幸せ、それが酷ければ酷いほど「那智さんのもの」って思えるから、嬉しい。
もしかしたら、私は、この酷いことを取り下げられたら、寂しいと思ってしまうかもしれない。
だからといって、わざと大騒ぎするほど、望んでいるわけでもない。
私は、私がどうしたいのか、わからなくて、なんの手だても打てないまま、あの坂に一歩一歩確実に近づいていた。
この日は「縄とわんこセット」を持参するリクエストだった(道具はなんとなく半分ずつ持っているので)のだけど、諸事情で持って行くことができなかった。
家を出る時にそのことは伝えてあるから、那智さんもそのつもりでしょう。
残念だな〜ひさしぶりに「わんこ」になれるはずだったのに。
わんこになるのは、いろんな自分を許せてしまえるとても便利なアイテム。
だから、わんこは好きなんだ。
でも、仕方がない今日は私の方の事情でダメだったのだから、また今度那智さんがその気になるのを待とう。
待ち合わせの場所で待つ。
少し遅刻するかもとメールがあったから、予定の時間を2、3分過ぎたくらいで辺りを気にし始める。
この前のデートの時には背後からお尻を触られて「きゃあ」となってしまったから、今日は警戒しなくては。
那智さんはいたずらっ子のように、待っている私を驚かすから気を抜けない。
それでも、時々ふっと警戒するのを忘れてしまって、前回のように驚かされてしまうのだ。
また私がそういう時に、そこまでしなくてもってくらいの大きなリアクションをしてしまうから、那智さんも楽しくて続けるのでしょうけど、こればかりは慣れないので、警戒するしかない。
本当に、毎度毎度ヒヤヒヤしながら待っているのだ。
しばらくキョロキョロしながら辺りを伺っていたら、数メートル離れた喫煙所で那智さんがこちらを見ながらタバコを吸っている。
一瞬固まって、目だけ大きく見開いて、驚きを表す。
「一体、いつからそこにいたのですか?」
「どうして、声をかけてくれなかったの?」
とにかくささっと近づいて、質問したい気持ちを抑えてまずは「おはようございます」。
どうか、キョロキョロしている私の姿が不細工に映っていませんように。
ほんと、悪趣味な人。
そんなふうに、那智さんは私を驚かしたりするのが大好き、まるでいたずらっこ。
待ち合わせの場所から、いつものホテルに歩き始めたら、まるで今日のお天気の話題のようにこんなことを言い出して、私の目を点にさせる。
「今日は、あの坂をジーンズを脱いで歩くんだよ。」
うわあ、本当に?
いくら驚かすのが好きだからって、いくらなんでもいきなり凄いことを。
少し前のデートの時、私は「T字帯」を着けてくるように言われた。
以前、那智さんと知り合って半年過ぎた頃に、私は子宮口に「筋腫の一種」といわれるでき物(結局なんだかわからずじまい)ができて、手術して取ったのだ。
その時の入院の時に使った「T字帯」の残り。
まあ、ふんどしみたいなものね。(ああ、恥ずかしい)
私たちの間では「ふんどし」と呼ばれているのだけど、すごい久々の登場。
ホテルで遊ばれて、最後の方に「本当は、ホテルまでのあの坂をスカートを脱がせてふんどしで歩かせようと思っていたんだ、だけど、思ったより人が多かったから、やめた。今度しようね。」と言われたのだ。
その時は、その姿を想像して、いくら那智さんでもそうは言っても、なかなか実行できるもんじゃないだろうと、まだ、想像の域を出ていなかったことだった。
私の認識が甘かった、那智さんは「やる」と言ったら必ずやる人。
タイミングやモチベーションが合えば、やる、数日後でも数年でも。
私たちがよく利用するホテルは、待ち合わせ場所から歩いて7、8分の所にある。
車や人通りのある道路から、右に曲がって緩やかな坂を上って、50Mほどでホテルの入り口。
そのあたりは、ホテルが多い場所だから、曲がってからの人通りはそれほど多くはない、それでも、普通の道路、ビルの非常階段とか、エレベーターの中ではなく、一般道路。
角を曲がるまでは、すぐコンビニや飲食店もあって、本当に普通の道路。
その角を曲がったところ、白昼堂々私を下着姿にしようとしている。
「あの坂を、ジーンズを脱いで歩くんだよ。」
「え?」と言ったっきり、言葉が出ない。
那智さんの目を見て、驚きの表情を浮かべながら、ただただ首を横に振る。
もう、ぶんぶんと振る。
あまりの唐突で大胆な提案に、私の心はジェットコースターに乗っているみたいだ。
その角までの数分間、私の頭は真っ白になってしまいそうなのを必死に引き戻し、なんとか回避できないものか、回らない頭を回転させてみる。
今日はジーンスに、コート。
このコートは、まっすぐ立って、お尻が少し見えるくらいの長さだ。
ジーンズを脱げば、明らかに下着だけとわかってしまう。
なぜ、ロングコートを着てこなかったのだろう、なぜ「わんこ」を持ってこなかたのだろう(きっとわんこがあったら、この展開にはならなかったはず)、後悔先に立たず。
「ダメ」も「無理」も「いや」もどれも言ってはいけない、勢いで言ってしまったとしてもそれを発した時点で確実に実行が決まってしまう。
一生懸命画策するけど、ダメ、黙って首を振り、おとなしくうつむくしかなす術がない。
確かに「露出に憧れている」とは言ったけど、一般道路を下着を見せて歩くなんて考えもしなかったし、やっぱり妄想の中のお話。
まさか、本当にそんなことになるとは。
ああ、どうしよう、那智さんは絶対にする、このままおとなしくしていれば、万が一気が変わるかもしれないけど、確率は低いだろう。(おとなしいとつまらないから、もしくは、哀れんで)
それでも、まだ信じられない。
私は、本当に下着だけになるの?
パンツだけで、街を歩くの?
コートを着ているから、全部見えるわけではないけど、それでも本当にそんなことが、できてしまうの?
那智さんも私も。
それを、避けたい、状況が悪化しないようにしたい、でも、那智さんがしよと思ってくれることは嬉しいし幸せ、それが酷ければ酷いほど「那智さんのもの」って思えるから、嬉しい。
もしかしたら、私は、この酷いことを取り下げられたら、寂しいと思ってしまうかもしれない。
だからといって、わざと大騒ぎするほど、望んでいるわけでもない。
私は、私がどうしたいのか、わからなくて、なんの手だても打てないまま、あの坂に一歩一歩確実に近づいていた。